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7 初めての穏やかな日々

 ラトクリフ領主館での暮らしは、驚くほど穏やかだった。


 最初の約束どおり、私は図書室でその時々に一番読みたい本を選んで読み、バート様のお祖母様に感想をお話しした。

 その度、お祖母様は本の内容に関連したお話をしてくださった。

 ただ本を読んで知識を得るだけと違い、私が疑問に感じたことを尋ねれば応えていただけるし、お互いの意見を交換することもできる。

 人に教わる、師を持つというのはこういうことなのかと日々、実感した。


 私にはもうひとりの先生もできた。

 私の礼儀作法があまりに拙かったため、お祖母様がご自身のメイドであるキティを講師役と兼任する形で私につけてくださったのだ。


 私は礼儀作法に関してもフレデリカの部屋にあった本で覚えた。

 そのため基本的な動きは頭に入っているものの実践する機会はほとんどなく、いざやろうとしても体がついていかないのだ。

 お祖母様はそれも見抜かれていて、「キティに合格をもらえるまで繰り返し練習しなさい」と言いつけられた。


 お祖母様からは食事やお茶の時間にも様々なお話をお聞きした。

 これまでの人生で経験してきたこと、家族のこと、領都のことなどなど。

 幼い頃のバート様のお話を聞けるのはありがたくもあり、申し訳なくもあった。


 エルウェズ語は夕食後に教わっている。

『真の王冠』をお祖母様が少しずつ読んでくださり、続けて同じ部分を私が読む。

 騎士様が登場するたび、私の胸はジクジクと痛んだ。

 お祖母様は発音の細かな違いまでビシビシ指摘してくださるし、時おり、エルウェズに関するお話も聞かせてくださる。


 嬉しいのは、お祖母様も私との暮らしを楽しんでくださっている様子が窺えること。

 だけど同時に、フレデリカだと嘘を吐いていることが苦しくもあった。


 本物のフレデリカを連れてすぐに戻ってくるのではと思っていたバート様はなかなか現れなかった。

 それでもこの状況がいつまでも続くはずがない。

 私がフレデリカの振りをしてお祖母様のそばにいると知ったら、バート様はあの夜よりさらに冷たい声を私に向けるのだろうか。


 穏やかな日々にも整った部屋にも少しずつ馴染んで気を抜いてしまう自分を戒めようと、あの時のバート様の冷たい声を思い出そうとしても、蘇るのはもっと以前に聞いた温かい声。それに笑顔や逞しい腕、そして熱い口づけだった。


 せめてもと、毎朝、鏡に映るフレデリカによく似た顔を確認して、今の暮らしも優しいバート様もすべて私のものではないのだと自分に言い聞かせた。




「私からは何も言わないつもりだったのだけど、やはり我慢できないから言うわ。あなたにはもっと似合うドレスがあるのではないかしら?」


 お祖母様がそう仰ったのは、私がラトクリフ領主館で暮らしはじめて一週間たった日、居間でのお茶の時間だった。


「そういうドレスを好んで着ているならいいのだけど、何となくあなたは着せられているように見えるのよね。髪型や化粧もドレスに無理に合わせてる感じで」


 お祖母様はやはり鋭い方だ。

 私はフレデリカのドレスを着たいなんて一度も思ったことがない。

 昔も今も、染みや皺があってもなくても、他に選択肢がないから仕方なく着ている。


 おそらく、私の心の内はお祖母様に筒抜けなのだろう。

 お祖母様は良いことを思いついたという表情で仰った。


「仕立て屋を呼んで作ってしまいましょうか。もちろん代金はバート持ちで」


 私は急いで首を振った。

 ドレスを作ってもらうなんてとんでもない。


「そんな必要はありません」


「だったら、私と一緒に街のドレス屋に行く? 王都ほど数はないけれど、良い店もあるのよ。今ならクリスマスマーケットも開かれているから、帰りに寄りましょう。そちらも王都より規模は小さいけれど」


 ドレス屋もクリスマスマーケットも私にはずっと縁のないものだったから興味は大いにあるけれど、再び首を振った。


「客間からは出てしまいましたが、領主館の外には出ません」


 お祖母様はやれやれと嘆息なさってから立ち上がった。


「それなら、もうあれしかないわね。キティ、ベラ、ついてきて。あなたは部屋に戻って本でも読んでいなさい」


 そう言うとお祖母様はふたりを連れて居間を出て行かれてしまったので、私は大人しく客間に戻って本を読むことにした。




 しばらくして、お祖母様も客間に来られた。その後ろにいるキティとベラの両手にはドレスがあった。


「私の娘たちが結婚前に着ていたものよ。ちょっと古いかもしれないけれど、あなたにはそのドレスより似合うと思うわ」


 状態だけなら、どれも私が実家で着ていたドレスよりずっときれいで、それほど古いものには見えなかった。

 色は華やかでも落ち着いたデザインだったり、可愛らしい感じだったりと、フレデリカのドレスよりもずっと私の好みだ。


「ですが、大切なドレスを私がお借りするなんて……」


「ベラ、私はあなたが右手に持っているドレスが一番似合うのではないかと思うのだけど、どうかしら?」


「まったく同感でございます」


「はい、決まりね。明日はこのドレスを着てちょうだい」


 お祖母様はにっこり笑って話を締めてしまった。




 翌朝、私にドレスを着せるベラは嬉々として見えた。


「ようやくお嬢様を私の思い描いていたとおりの姿にできます」


 お祖母様に指定されたドレスは、ちょうど客間の窓から見える湖に映る空のようなきれいな色をしていた。


 すべての身支度が整ってから鏡の前に立つと、やはりフレデリカによく似てはいるけれど別人のセシリアが映っていた。

 ドレスはもちろん、領主館に来て最初の朝にベラが言っていた、緩く結った髪と薄い化粧のおかげでもある。

 何だか、久しぶりに自分の顔を見た気分だった。


「よくお似合いです」


 ベラがそう言ってくれたけれど、私自身、いつも着ていたフレデリカのドレスよりずっとしっくり来るように思えた。


 食堂でお会いしたお祖母様も、私を見て満足そうなお顔をなさった。


「思っていた以上に似合っているわね。サイズもそれほど問題なさそうだし。髪型と化粧もそのほうがあなたらしいわよ」


 私はお祖母様に丁寧にお礼を述べてから席についた。


 バート様にもこの姿を見てほしい。無意識のうちにそんなことを考えた自分に自嘲した。

 私が図々しくもバート様の叔母様のドレスを着ているのを見て、彼が褒めてくれるはずがないのに。

 だけど、私は何て愚かなのだろう。ここに到着した夜のことを忘れたわけではないのに、今でもこの心はバート様を求めているのだから。




 それからは毎朝、前日のうちにお祖母様に決められたドレスをベラに着せてもらった。


 私の礼儀作法はキティに及第点をもらえるくらいには上達し、エルウェズ語の発音も徐々に身につきはじめた。


 バート様がいつ領地に帰ってくるのか気になりながらも尋ねられないでいるうちにクリスマス二日前になった。

 その日の昼食を終えて居間に移動してしばらく、お祖母様が唐突に仰った。


「もうすぐバートが帰ってくるわよ」


「もうすぐ、ですか……」


 あと数日でお祖母様との穏やかな生活も終わってしまうのだ。

 しっかり覚悟しておこう、と思いかけたところで、お祖母様が首を傾げながら仰った。


「そろそろ街からの坂道を上っている頃かしら」


「客間に戻ります。ドレスも着替えないと」


 慌てて立ち上がった私の腕を、お祖母様が柔らかく掴んだ。


「大丈夫よ、このままで」


 お祖母様の手を振り払うわけにはいかず、かと言ってソファに座り直す気にもなれず、私はお祖母様を見つめた。


 その時、扉がノックされてジェフが姿を見せた。


「間もなく若様がご到着になります」


「わかったわ」


 お祖母様も立ち上がった。


「とりあえず私が迎えに出るから、あなたはここを動かず待っていなさい」


 そう言い置いてお祖母様は居間を出ていった。


 バート様おひとりなのだろうか。フレデリカは一緒に来なかったのだろうか。

 表の様子がよくわからなくて緊張ばかりが高まっていった。

 今すぐ逃げ出したい気持ちと、またあの夜のような冷たい声を聞くことになってもバート様の姿を一目見たい気持ちが私の中でせめぎ合い、後者が大きくなった。


 やがて、こちらに人々の近づいてくる気配がして、扉が開いた。


「私が保証するわ」


 そんな言葉とともにお祖母様が居間に戻ってこられ、すぐ後ろにバート様の姿も見えた。


「お祖母様なら彼女に騙されることなく、本性を見抜いてくださ……」


 バート様は居間に一歩踏み込んだところで室内に私がいたことに気づくと、ピタリと動きを止めた。

 その目が大きく見開かれる。


「どうして君がここにいるんだ?」


 バート様の声に含まれているのは怒りではなく動揺に聞こえた。

 何か理由があって、領主館にいるのがセシリアだと今初めて気がついた振りをしているのかとも思ったけれど、私にはバート様が本当に驚いているようにしか見えなかった。


 私が応えあぐねているうちに、私のそばまで来ていたお祖母様がバート様を振り向いた。


「私が強引に客間から引っ張り出したのよ」


 バート様の足も再び動き出し、お祖母様と私の近くまで歩いてきた。


「違います。私が訊きたいのはなぜ彼女がラトクリフ領にいるのかということです」


 焦っている様子で早口になったバート様に、お祖母様が大仰なほどお顔を顰めた。


「自分で次期公爵夫人教育のためと言って招いたのをもう忘れたの?」


「ええ、確かに招きました、フレデリカ・ウォートン嬢を。ですが、ここにいるのはセシー……、セシリアです」


「セシリア嬢? バートが本当に結婚したいという?」


「そうです。そのセシリアです」


 目の前で交わされているおふたりの会話の意味を私が理解するより先に、お祖母様がさらりと仰った。


「やっぱりそうだったのね」


 バート様の目がまた見開かれた。

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