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6 お祖母様

 つらつらと考えているうちいつの間にか眠っていたようで、ふと目を開けると部屋の中が明るくなっていた。


 起き出してカーテンを開けてみると、眼下に湖が広がっていた。

 湖の向こう岸は森で、さらに奥には雪を被った山々が連なっていた。

 領主館は高台に位置しているので、領都の街が湖畔に沿って広がっているのも見渡せる。

 窓を少しだけ開くと、冷んやりした空気とともに街の騒めきも微かに流れ込んできた。


 想像していた何倍も美しい景色だけれど、私の心は弾まなかった。

 昨夜聞いたバート様の声を思い出して目頭が熱くなった。だけど、私に泣く資格なんかない。

 あの時は声を出すこともできなかったけれど、謝罪する機会をもらえるだろうか。


 窓を閉じて、ベッドのそばに用意されていたドレスに着替えかけたところにベラがやって来た。


「ああ、いけません。私にお任せいただかないと」


 ベラが慌てた様子で近寄ってくるのに、思わず頬が緩んだ。

 昨夜はベラが色々してくれていたので自分で着替えてしまったら、大仰に嘆かれたことを思い出した。


「そうだったわね。お願いするわ」


 寝巻を脱がせてくれたベラが、私の腕を見て顔を歪めた。

 フレデリカに屋敷から引きずり出された時に強く掴まれたところが痣になっているのだ。


 痣なんて私には日常茶飯事だけど、普段は自分で着替えをするから誰かに見せることはなかった。


「大丈夫よ。もうほとんど痛くないし、すぐに消えるわ」


「申し訳ありません」


 肩を落としたベラに、私は笑ってみせた。


「ベラが謝ることではないわ。ほら、早くしてくれないとまた自分で着替えてしまうわよ」


「それは駄目です」


 ベラはフレデリカのお気に入りだけあって手際が良い。


「本当は髪は緩めに纏めて、化粧も薄くしたいところなのですが、それではドレスと釣り合いが取れないんですよね」


 そんなことを呟きつつ、身支度を整えてくれた。


 鏡を覗くと、フレデリカによく似た女が映っていた。

 バート様に謝ることができるとしても、この姿で会わなければならないなんて、さらに彼を怒らせてしまいそうだ。




 朝食も客間でいただいた。


 食器を下げにきてくれたメイドにバート様のことを尋ねると、早朝に王都へ向け出立されてしまったということだった。

 謝罪どころか一目姿を見ることもできなかったことにまた気持ちが沈んだ。


 きっと本物のフレデリカに会いに行ったのだ。近いうちにフレデリカを連れて戻ってくるのかもしれない。


 朝食の後には、ベラが本格的に荷解きをはじめた。ラトクリフ家のメイドも応援に来てくれた。


 当然のことながら、荷物の中身はすべてフレデリカのものだ。

 染み一つないドレス、壊れていない髪飾り、私には使い方もよくわからない化粧品などなど。

 だけど、もっとも私を惹きつけたのは、フレデリカに言われて感想文を書いた五冊の本と、マリーヌ校の教科書だった。


 私と一緒に教科書をこちらに送ってしまっては卒業試験の勉強ができない。フレデリカはどうするつもりなのだろう。

 まさか、卒業試験まで私に受けさせようと思っているのだろうか。


 何にせよ、私がセシリアだと気づかれた以上は次期公爵夫人教育は受けられないし、バート様に部屋を出るなと言われている。

 これらはどれもすでに読んだものだけど、ここにいる間の心の慰みにできそうだ。


 ただ、ラトクリフ領主館の使用人たちと接していて、気になることがあった。

 態度がごく親切で、あくまで次期公爵の婚約者に対するものと感じられるのだ。


 バート様は私がフレデリカではなくセシリアだと使用人たちに話していかなかったのだろうか。

 彼らを混乱させないよう本物のフレデリカを連れて来たらこっそり入れ替えるつもり、だったとしたら、あの言葉は使用人の見ている前で口にしなかったはず。


 あの時、馬車を迎えてくれた使用人たちも普段は温厚なバート様の常にない言動に驚いていたのだと思う。

 私はそれほどバート様を怒らせてしまったのだ。

 だとしたら、セシリアとして扱われないのはここに迎えるのはあくまでフレデリカだということを私に示すためか、私自身で名乗れということか。バート様の考えはやはりわからない。




 荷物はすっかり収まるべきところに収まった。

 実家の自室とあまりに異なる整った空間は何だか落ち着かない。


 その時、扉がノックされてジェフが客間にやって来た。


「大奥様がお会いになるそうです。お部屋にご案内いたします」


 私は戸惑いながら応えた。


「私は次期公爵から許可なく部屋を出ないよう言われておりますので」


「しかし、大奥様のお呼びでございますから」


 少しだけ悩んで、首を振った。


「私は前公爵にお会いしていただける身ではありません」


 ジェフは困惑した様子で去っていき、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 ところがしばらくして、再び客間の扉がノックされた。

 今度やって来られた背筋のピンと伸びた気品ある女性がどなたなのかは考えるまでもなく、私は慌てて座っていたソファから立ち上がった。


「私の招きに応じず部屋に呼びつけるとは、どういう了見なのかしら?」


 私は血の気が引くのを感じながら頭を下げた。


「申し訳ありません。決してそのようなつもりでは……」


 もはや領主館から追い出されることも覚悟した私の耳に、フフと笑う声が聞こえた。


「冗談よ。顔を上げてちょうだい」


 恐る恐る姿勢を戻すと、女性は穏やかに笑っていらっしゃった。


「ヒューバートの祖母のクリスティーナよ。よく来たわね」


「初めまして。フレデリカ・ウォートンにございます。どうぞよろしくお願いいたします」


 私は精一杯の淑女の礼をした。


 バート様のお祖母様が椅子に腰を下ろされ、促されて私も向かいに座った。

 そのまま私を観察するように見つめていらっしゃるお祖母様にすべてを見透かされているような気がして、きちんとセシリアだと名乗ればよかったと後悔した。


 やがて、お祖母様がゆっくりと口を開かれた。


「まったくバートも困ったものね。あんな子だとは思わなかったわ」


「いえ、次期公爵は何も悪くありません。悪いのは私で……」


 やはり事情をすべては知っておられないらしいお祖母様を前にどう話せばいいのかわからず、私は言葉を詰まらせた。


 少しの間の後、お祖母様がからりと仰った。


「まあ、さっさと王都に戻ってしまったバートのことなど気にせず、私たちは私たちで勝手にやりましょう。まずは、そうそう、バートにも伝えたけれど、あなたの送ってくれた感想文はとても興味深かったわ」


 私は目を瞬いた。


「感想文、ですか?」


「私の送った本を読んで書いてくれたでしょう」


 お祖母様が横に差し出した手に、後ろに立っていたジェフが紙の束を渡した。

 円卓の上に置かれたそれは、間違いなくフレデリカに言われて私が書いた、五冊の本についての感想文だった。本は今回の荷物にも入っていた。

 フレデリカに酷評されたものがなぜお祖母様のもとにあるのだろう。


「それを読んでくださったのですか?」


「ええ。あなたの考え方は少し変わっていて、感想文というよりは新たな本を読んでいる気分だったけれど、文章が平易でわかりやすいからあっという間に読み終えてしまったわ。私が期待していた以上に、あなたはあの五冊から様々なことを受け取ってくれたようね」


 全部読んでくださったうえ、お祖母様の評価は不可ではないようで、私の胸に喜びが広がった。


「ありがとうございます。どれも本当に面白い本でしたから」


「もしここに書ききれなかったことがあれば、聞かせてもらえるかしら?」


 そう言われて頭の中に浮かんだことを話した。初めはおずおずと。

 でもお祖母様が先を促すように相槌を打ってくださるので、徐々に緊張が解れて思いつくままあれこれと口にしてしまった。

 お祖母様は私の疑問に応えてくださったり、ご自分のお考えを聞かせてくださったりした。そのお話もとても楽しい。

 こんな風に誰かと本の話をするなんて、初めてバート様と会った時以来だった。


「あなたはずいぶん本が好きなようね。よかったら後で図書室を覗いてみるといいわ」


「図書室があるのですか?」


「小さなものだけれど、自由に使ってちょうだい」


 思わず「はい」と応えそうになって、呑み込んだ。


「私はこの部屋を出ることはできません」


「あなたもなかなか頑固ね」


 お祖母様は嘆息してからすっと立ち上がり、私を見下ろした。


「息子不在の今、ラトクリフ公爵代理を担っているのはバートだけれど、この領主館を預かっているのは私です。ここにいる間はあなたにも私に従ってもらいます」


 お祖母様の声には前公爵に相応しい威厳があった。自然、私は背筋を伸ばし、今度こそ「はい」と頷いていた。


「とりあえず、特別な理由のない限り食事は必ず私と一緒に食堂でとること。お茶の時間も付き合いなさい。それから、図書室の本を読んで私に感想を話すこと。いいわね?」


 その言葉から感じられたのは言うとおりにしないなら痛みを与えるというような脅しではなく、私への温かい思いやりだ。

 それを本当に私が受け取ってしまっていいのかと迷う気持ちもあったけれど、お祖母様ともっとお話ししてみたいという己の欲求に抗えなかった。


「はい、どうもありがとうございます」


 私は深く頭を下げた。




 そうして、私はさっそくお祖母様と一緒に食堂で昼食をいただいた。


 実家では両親やフレデリカと食事をともにしていても私は蚊帳の外の存在だった。

 でも、お祖母様は私に好きなものを聞いたり、ラトクリフ領の名物料理のことを話したりしてくださった。


 私が一度「前公爵」とお呼びしたら、「ティナかお祖母様にしてちょうだい」と仰ったのでお祖母様と呼ばせていただくことにした。




 食事を終えると、お祖母様自ら図書室に案内してくださった。

 父の書斎の倍ほどの広さの部屋にいくつも本棚が並んでいて、私は感嘆の声をあげた。


「それほど本が好きなのに、王立図書館には行ったことないの? マリーヌの図書室だってここなんかよりずっと大きいでしょう」


 もちろんどちらも本で読んだ知識としてしか知らない私は曖昧に誤魔化すしかなかった。


「でも、ここも素晴らしいです」


「そう。では、一冊目をゆっくり選んでちょうだい」


「いえ、もう決まっています」


 私は背伸びして、目の前の棚の最上段端にあった本を手に取った。

 表紙を見ると、植物誌に関する本のようだ。


「どうしてそれを選んだの?」


「この本から順番に読んでいくのがいいと思いました」


 お祖母様のお顔に怪訝そうな表情が浮かんだ。


「順番に全部読んでいくってこと?」


「読んだことのある本は除くつもりですが。いけませんでしたか?」


「別に構わないけれど、やっぱりあなたは変わっているわね。普通は今一番読みたい一冊を探すものではないかしら」


 私は今まで父の書斎やフレデリカの本棚に並んでいる本を端から読んできた。

 フレデリカに見つかれば打たれるのがわかっていたから、どの本を読もうか考えている時間も惜しかったのだ。

 私がこの図書室を利用できる期間も限られているだろうけれど。


「一番読みたい一冊……」


 私は自分の手の中にある本をしばらく見つめてから、もとの棚に戻した。


「あなたが今知りたいことは何?」


 お祖母様に尋ねられて頭に浮かんだのは、バート様の顔だった。

 バート様は今頃どのあたりにいるのだろう。昨日の私たちと同じ町で昼食をとったりしたのだろうか。

 彼のことがすべてわかる本があればいいのに。


「ラトクリフ領のことを知りたいです」


「それなら、向こうの棚ね」


 お祖母様は二つ隣の棚の前へ移動すると、そこから三冊の本を抜いた。


「私のお薦めはこのあたりかしら。これがラトクリフ領の歴史書で、これは地誌。もう一冊は十五年ほど前にタズルナのあちこちを回った方の旅行記なのだけれど、ラトクリフ領についても詳しく書かれているわ」


 私は三冊の表紙をじっくりと見比べた。


「あの、三冊ともお借りしてよろしいですか」


「ええ、どうぞ。感想を話す約束を忘れないでね」


「はい」


「それから、公の図書館ほど細かくはないけれど、ここも本の内容ごとに分類して並べてあるわ。次回から本を選ぶ時の参考にして」


 お祖母様にこの棚は小説、この棚は政治というように説明していただきながら、部屋の中の本棚を一通り見て回った。

 確かにおおよその位置がわかっていれば、一人で来ても自分の読みたい本を探せそうだ。


 最後にお祖母様が示された棚には外国語の本が並んでいた。


「ほとんどはエルウェズ語のものよ」


「そう言えば、お祖母様のお母様はエルウェズのご出身なのですよね。お祖母様もエルウェズ語が話せるのですか?」


「ええ、子どもの頃に一時期エルウェズで暮らしたことがあるし、あちらに親戚もたくさんいるから。バートも話せるわよ。あなたは?」


「簡単な読み書きはできますが、話すことはできません」


 フレデリカがマリーヌ校でエルウェズ語の授業を受けていたので、その教科書で学ぶことはできたのだが、発音まではわからなかった。


「あなたにやる気があるなら私が教えるわよ」


「いいのですか?」


「もちろん。となると、教本が必要ね」


 お祖母様は棚に並ぶエルウェズ語の本の背表紙をしばらく眺めてから、一冊を手に取られた。


「これは子どもでも読める物語だからそれほど難しくないと思うわ。あら、もしかして知っていた?」


 表紙を見て私が息を呑んだことに、お祖母様も気づかれたようだ。


「はい、大好きなお話です。エルウェズ語版もあったのですね」


 その本の表紙にはエルウェズ語で『真の王冠』とあった。


「もともと『真の王冠』はエルウェズで書かれたのよ。この本は私の母が結婚前に父に贈ったものなの。ついでに言うと、エルウェズ語からタズルナ語に訳したのは母方の祖父」


「そうだったのですか」


「内容をわかっているならちょうどいいわね。教本はこれに決まり」


 私は「よろしくお願いします」と言いながら、バート様はどちらの言語で『真の王冠』を読んだのだろうとぼんやり考えた。

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