5 旅の終わりに待っていたのは
フレデリカがラトクリフ領に向かう当日、私は文字どおり姉に叩き起こされた。
フレデリカが出発するのは日の出頃とは聞いていたけれど、姉の横でデボラが手にするランプの灯が届かないところは真っ暗で、まだ早朝と言うにも早すぎる時間のようだった。
「もう出発なさるのですか?」
「そうよ。さっさと支度なさい」
フレデリカにベッドから引きずり下ろされると同時に、メイドたちに寝巻を脱がされた。
何度か経験したことのある状況だからこそ、これまででもっとも戸惑っているうちにドレスを着つけられる。
「まさか私にラトクリフ領へ行けと仰るのですか?」
「おまえ、羨ましいって言ってたでしょ」
「ですが、ラトクリフ次期公爵の婚約者はフレデリカお姉様ではありませんか」
「ええ。次期公爵夫人になるのは、私。だからこれからおまえがヒューバート様に何をもらったとしても、すべて私のもの。それを決して忘れず、優しい姉のためにヒューバート様にできるだけたくさんお強請りするのよ」
「そんな、まだラトクリフ次期公爵を騙すのですか?」
「別にいいじゃない。私を愛しているくせにまったく気づかないヒューバート様が悪いのよ」
反論する前に、耳を引っ張られた。
「だけど、万が一気づかれたらこう言うのよ。『私がどうしても次期公爵夫人になりたくて、フレデリカに無理矢理替わらせました』って。ほら、わかったらさっさとして。お父様とお母様が起きてしまうわ」
そうして、メイドたちによってドレス、髪、化粧と念入りに整えられ、最後に外套とブーツを身につけると、すぐさまフレデリカに手首を掴まれて屋敷の玄関から外へと連れて行かれた。
そこにすでに用意されていた馬車の中へと押し込まれて、仕方なく座席に腰を下ろす。
私に続いてメイドの中でもフレデリカの一番のお気に入りだったはずのベラが乗り込むと外から扉が閉められ、彼女が私の斜向かいに座った直後に馬車が動き出した。
窓から外を見ると、わずかに明るみはじめたばかりの中に数人が立っているのはわかったが、ランプを持つデボラの他は誰なのか判別できなかった。
夜明け前で馬車の中は冷えきっていた。
おそらく今回のために急遽購入したのであろうドレスは厚手のものだった。
その上に外套を纏い、さらに馬車の中にあった数枚の膝掛けをベラと分けあったが、それでもまだ寒かった。
きっとベラはもっと寒いはずだ。
少し考えてから、ベラに提案した。
「もっとくっついて、膝掛けは重ねて二人で使ったらどうかしら?」
「セシリアお嬢様は私とそうなさってよろしいのですか?」
「ええ、もちろん」
「では、失礼いたします」
ベラが私の隣に移ってきた。身を寄せ合い、それぞれで使っていた膝掛けを重ねて二人の身体に掛け直す。
やはり先ほどまでより暖かくなったように感じられて、ベラと顔を合わせて笑った。
御者のことも少し心配になったが、私たちよりも防寒対策はしっかりしているはずだとベラに言われ、納得した。
人心地のついた私が次に気になったのは、もちろんバート様のことだった。
「ラトクリフ次期公爵は今は王都にいらっしゃるの?」
確かフレデリカが、バート様はクリスマス休暇には領地に行くと言っていた。
クリスマス休暇はあと半月ほど先。それまではお仕事なのだろう。
「いえ、一足先にご領地にいらっしゃって、フレデリカお嬢様を出迎えてくださるご予定です。またすぐに王都に戻られるようですが」
「そう。私たちはいつラトクリフ領に着くの?」
「今夜です」
私の中が、急速に温かいもので満たされていった。
もう会えないかもしれないと諦めていたバート様に、今夜には会えるのだ。
今度こそ、私はセシリアだと打ち明けてみようか。
先日はセシリアにもあれほど優しくしてくださったのだ。きっと怒らずに事情を聞いてくれるに違いない。
それとも、やはり気づかれるまではフレデリカの振りをしていたほうがいいだろうか。
そんなことを考えながら指先で自分の唇に触れているうちに、窓の外はだいぶ明るくなっていた。
たまたま前を通った、営業をはじめたばかりのパン屋でベラが買ってきてくれた焼き立てのパンを三人で分け合った。
それを食べている間に馬車は城門を潜り、王都の外に出た。
その先に続いていたのはバート様と出会ったのとは違う街道だけれども、同じように両側には森が広がっていた。
簡素でも食事をとり、日が昇って徐々に気温も上がってきたことで、気分はさらに明るくなっていった。
フレデリカがいないので私は気兼ねなくベラに話しかけることができたし、ベラのほうも気負わず応えてくれた。
ラトクリフ領に到着してからのフレデリカの予定を尋ねたが、姉もバート様からあまり詳しい説明をされなかったそうだ。
「そもそも、あちらに行くというお話も一週間ほど前に突然出たものでしたし」
私だけが聞かされていなかったわけではないのだ。
「それなら、フレデリカお姉様は私を代わりに行かせることをいつ決めたのかしら?」
「おそらく、昨夜ではないでしょうか。私たちも聞かされたのは今朝起きてからでした」
確かに、もっと前に思いついていたならフレデリカはせっかくの新しいドレスや外套、それにお気に入りのベラをみすみす私に貸したりはしなかったはず。
それらを適当なものと交換する時間的余裕がなかったのだろう。
「お父様とお母様は何もご存知なかったのよね」
「事前にご存知だったらさすがにお止めになったはずです」
「今頃、驚いているでしょうね」
これまでのフレデリカと私の入れ替わりは両親はまったく知らないままのようだが、今回ばかりは気づかないはずがない。
ふたりはフレデリカを叱るのだろうか。それとも、優しい姉だと褒めるのだろうか。
何度か休憩を挟みながら、旅は順調に進んでいった。
周囲の景色は森が切れると畑や果樹園、その中に位置する村や町になり、しばらくするとまた森になるの繰り返しだった。
昼には大きな町の食堂で食事をとった。
そこから街道は山地に向かう形で少しずつ標高を上げていき、逆に気温は再び下降をはじめた。
日が落ちると一気に寒さが増して、私はベラと抱き合うようにしてそれを凌いだ。
お尻や背中などに痛みも感じていたが、もうすぐバート様に会えるのだと思えばまったく辛くはなかった。
やがて、馬車はラトクリフ領都に入った。
残念ながら、すっかり夜になってしまって街の景観や湖を見ることはできなかった。
それでも、私の胸は否応なく高鳴っていた。
そうして、馬車が最後の坂道を上りきると、私たちはとうとうラトクリフ領主館に到着した。
館前に灯された明かりの中、十人ほどが出迎えてくれているのが見えた。
その中心にいる、ひときわ体の大きな方がきっとバート様だ。
馬車が停まり外から扉が開けられると、一層冷たい空気が流れ込んできた。
それを塞ぐように馬車の入口に人影が立った。
馬車の中に明かりはなく、外の明かりも届かないので表情は窺えないが、シルエットでバート様だとわかった。
また彼に会えた悦びと大きな安堵に浸れたのは束の間だった。
「ウォートン嬢」
私を呼んだ低い声は間違いなくバート様のものなのに、先ほど流れ込んできた冷気よりも馬車の中の温度を下げたように感じられた。
「私があなたを歓迎するとでも思っていたなら大間違いだ。他の誰を騙せたとしても、私はあなたの正体を知っている。今後、これまでと同じ真似は決してさせない」
暗闇の中、いくら目を凝らしてもバート様の表情は見えなかったけれど、その鋭い視線が私に向けられているのだけは感じられた。
「私の許可なく客間から出ないように」
最後にそう言うと、バート様はくるりと踵を返した。
彼の姿が領主館の中に消えてしまっても、私は立ち上がることができなかった。
「セシリアお嬢様」
ベラが私の耳元で囁くように呼びかけ、凍えた背中を撫でてくれてはじめて、私は自分が震えていたことに気がついた。
だけどそれが寒さのせいなのか、怖ろしさのせいなのか、絶望からなのかはわからなかった。
「大丈夫ですよ。きっとラトクリフ次期公爵は何か誤解をなさっていらっしゃるのです。追いかけて、きちんとお話しすれば……」
口を開いても声が出てこなくて、首を左右に振った。弾みで両頬を涙が滑り落ちていく。
バート様は誤解などしていない。私が彼を騙していたことは紛れもない事実だ。
馬車の外から声がかけられたのは、しばらくたってからだった。
「お待たせして大変申し訳ございませんでした。私は大奥様の執事を務めるジェフと申します。お部屋にご案内いたします」
ジェフの手を借りて馬車を降りた。
途端、地に足がつかない感じで少し振らついてしまい、先に降りていたベラに支えられた。
「ごめんなさい」
「いいえ。よろしければこのままお掴まりください」
ベラの言葉に甘えて、私は彼女の腕に縋って館の中へと足を踏み入れた。
ジェフに案内された客間は館の二階にあった。広くて清潔感のある部屋で、程よく温められていた。
室内にはベッドにクローゼット、鏡台、引き出し付きの棚、一人掛けソファ、小さめの円卓と椅子二脚などが並んでいた。
時間が遅いのでバート様のお祖母様にご挨拶するのは翌朝にと言い置いてジェフは去っていった。
次には馬車から降ろされた荷物が運び込まれた。
客間でいただいた食事は温かいものだったし、湯も使わせていただけた。
その間にベラがすぐに必要なものだけ荷解きしてくれて、私はフレデリカの寝巻を着てベッドに入った。
ベッドも温かくて敷布の肌触りも心地良かった。今朝は早い時間に叩き起こされたし、一日中馬車で揺られて全身に疲労を感じていた。
けれど、私はとても眠れそうになかった。
バート様はやって来たのがセシリアでも受け入れてくれるなんて、どうしてそんな愚かな期待を一時でも抱いたのだろうか。
彼が待っているのはフレデリカだとわかっていたのに。
三日前に会った時、バート様の目にセシリアが映っていると思ったのはきっと私の勘違いだったのだ。
本物のフレデリカは私よりたくさんバート様に会っているのだから、彼の腕の中で寝たことくらいあっただろう。
それに、バート様に「セシー」と呼ばれたような気がしたのも、フレデリカの愛称を呼んだのを都合良く聞き間違えたのかもしれない。
バート様があの日の私をフレデリカとして見ていたのならば、ドレスを汚し屋敷から締め出したのはセシリアだと思われてしまった可能性もある。
あるいはフレデリカがバート様に「セシリアがバート様の妻になりたがっている」とでも話していたのだろうか。
ああ、だけど、それも事実だ。私はバート様に自分を選んでほしかったと思っていたのだから。