18 声を聞くこと、口を塞ぐこと
セシリア視点です。
「お祖母様は彼女がセシリアだとわかっていたのですか?」
吠えるように尋ねたバート様に対し、お祖母様は悠然と応えられた。
「だって、事前にバートに聞いていたフレデリカ嬢と、実際に会った彼女の印象があまりに違うのだもの。もしかしたら彼女はフレデリカ嬢ではなくセシリア嬢なのではと考えるのが自然でしょう」
「それなら、どうして私に教えてくださらなかったんですか?」
「それは当然、相手の顔をよく確かめもせずに暴言を吐いたあなたへの意趣返しよ」
バート様は言葉に詰まった様子で短く呻いた。
「私が初めて会った時のセシリアは必死に泣くのを堪えているような顔をして、それはもう気の毒だったわ」
お祖母様の仰っていることは少し大袈裟な感じがしたけれど、バート様は顔を歪めて真っ直ぐ私を見つめてからガバリと頭を下げた。
「すまなかった。まったくお祖母様の仰るとおりだ。あの時、馬車の中にいるのはウォートン嬢だとばかり思い込んでいて、まさか、セシーにあんなことを言ってしまうなんて。本当に申し訳ない」
バート様の口から当然のように「セシー」が出てくるのを場違いにも嬉しく思う一方、なぜか婚約者であるフレデリカは「ウォートン嬢」なのが不思議だった。
でも、あの夜のバート様が馬車の中にいるのはフレデリカだと本当に信じていたのは何となくわかった。
「どうかお顔を上げてください。悪いのは姉の振りをして馬車に乗っていた私です。申し訳ありませんでした」
顔を上げたバート様に今度は私が頭を下げ、次にはお祖母様に向かった。
「お祖母様の仰るとおり、私はフレデリカではなくセシリア・ウォートンです。嘘を吐いて申し訳ありませんでした」
お祖母様にも頭を下げると、ポンポンと優しく肩を叩かれた。
「いいのよ。セシリアを私にきちんと紹介すべきはバートだったのだから」
思い返せば、私はラトクリフ領主館に来て自らフレデリカだと名乗ったにも関わらず、一度もそう呼ばれたことがなかった。
お祖母様はいつも「あなた」だったし、使用人たちは「お嬢様」だった。
使用人たちがどこまで承知していたのかはわからないけれど、お祖母様は私が本当はセシリアだと気づきながらもあれほど優しくしてくださっていたのだ。
バート様は「そのとおりです」と肩を落とし、それからふと思いついた様子で私に尋ねた。
「それにしても、なぜ君がここに来たんだ?」
「それは……」
この場でどう応えれば良いのだろう。フレデリカに強引に馬車に乗せられたなんて、言ってしまって良いのだろうか。
悩むうち、実家を出る前にフレデリカに言われた言葉が口をついて出てきた。
「その、私が、どうしてもバート様の……、ラトクリフ次期公爵夫人になりたくて、無理矢……」
最後まで言うことはできなかった。私の目の前に立ったバート様に両肩を掴まれていた。
「それは、セシーの本心なのか?」
私とほぼ同じ高さからこちらを見つめているバート様の目には真剣な色が浮かんでいた。
「セシーは私の妻になりたくてここに来て、今も変わらずそう思ってくれているのか?」
改めて自分の口にした言葉の意味を突きつけられて、羞恥で顔が熱くなった。
だけど、それが本心かどうかと訊かれれば、応えは決まっていた。
私がコクリと頷くと、バート様は泣きそうな顔で笑って、私を強く抱きしめた。
「ありがとう、セシー。私はこんな不甲斐ない人間なのに」
なぜお礼を言われるのかわからず目を瞬かせていると、私を腕の中に閉じ込めたままバート様がお祖母様を振り返った。
「お祖母様、先ほど仰っていたことに偽りはありませんね?」
私はお祖母様が見ている前でバート様に抱きしめられていることにようやく思い至った。
こういうことは人目に触れない場所でこっそりするものだと思っていたけれど、おふたりが気にしていないようだから構わないのだろうか。私はバート様の婚約者でも何でもないのに。
「ないわよ。私はここにいるセシリアをラトクリフ次期公爵夫人として認めます」
「でしたら、ご協力をお願いいたします」
「やっと人任せは止めるのね。だけど、もうクリスマス休暇になってしまったのだから、あちらに連絡するのは年が明けてからになさいよ」
「そうですね。でも、とりあえず王太子殿下には急ぎ手紙を出します。それから、エルウェズにも早めに知らせないと」
「エルウェズのほうは私が書くわ。バートは何よりまず、セシリアにきちんと説明してあげなさい」
お祖母様にそう言われて私を見下ろしたバート様も、私がおふたりの会話についていけていなかったことに気づいてくれたようだった。
お祖母様は居間を出て行かれ、私はバート様と並んでソファに腰を下ろした。
私の両手をバート様の両手が包むようにして重ねられる。
「セシーには、このままうちに留まってもらう。そして年が明けたらすぐに、私の婚約者をウォートン嬢からセシーに変更するよう、ウォートン伯爵に要求する」
「そんなこと、父は承知しないのではないでしょうか」
それに、誰よりもフレデリカが。
「君の両親が半月もの間、娘の入れ替わりに気づいていないと思うか?」
「思いません。私が家を出た当日には気づいたはずです」
「つまり、ウォートン伯爵は私の婚約者として教育を受けているのがセシーだとわかっていながら黙っているということだ。そして、こちらはセシーを次期公爵夫人に相応しいと認めたのだから、要求は正当なものだろう? もしウォートン伯爵が拒むなら、ラトクリフ家は婚約を破棄したうえで慰謝料を請求することもできる」
バート様の言ったことは理解できたけれど、現実感はなかった。
婚約者をフレデリカから私に変えてしまって、バート様は本当に構わないのだろうか。
そう考えていると、バート様が大きな溜息を吐いた。
「まったく、どうしてあの時、私は一目顔を確かめようとしなかったんだ。そうしてさえいれば、今頃はとっくにセシーを婚約者にできていたのに」
「ですが、あの時の私は姉の姿をしていましたから、バート様は気づかれなかったかもしれません」
今の私はお祖母様にお借りしたドレスを着て髪型や化粧もそれに合わせているから、フレデリカとはまったく違う雰囲気になっているだろうけれど。
「私がセシーとウォートン嬢を見間違えるはずがない、と思うが」
「でも、以前に姉の振りをしてお会いした時は、私だと気づきませんでしたよね?」
王都でラトクリフ家のお屋敷に連れて行ってくれたのは、やはりセシリアのほうだったという気がする。
「セシーがウォートン嬢の振りをしていたことがあったのか? それはいつだ?」
かなり応えにくいし、バート様が今度こそ怒り出すかもしれないけれど、ここまで話してしまったのだから仕方ない。
「ええと、バート様が何か誤解だとか言って謝られた時と、テニスン子爵子息から助けてくださった時、です」
バート様が私をマジマジと見つめた。
「あれは、そういうことだったのか」
やはり違和感くらいはあったようだ。
そう思って謝ろうとすると、バート様のほうが先に「すまない」と口にした。
「どちらの時も一目でセシーだとわかったから、ウォートン嬢の振りをしているなど考えもしなかった」
「一目で私だとわかった……?」
「ああ。そこに思い至っていれば、あの夜も一応確かめようと考えただろうに」
がっくりと項垂れてしまったバート様を前に、私は急にソワソワした気持ちになっていた。
「バート様は、相手が私だとわかっていて、あんなことをなさったのですか?」
「あんなこと?」
低い位置から見上げるようにバート様に問われて、私はまた顔が赤くなるのを感じた。
それでバート様にも伝わってしまったらしい。
バート様はガバリと姿勢を戻すと、私の手を握る力を強めてきっぱりと言った。
「当たり前だろう。あんなことウォートン嬢と、いや、セシー以外の誰ともしようとは思わない。私がこうして触れたいのはセシーだけだ」
「私、だけ……?」
「そうだ。……というか、それならセシーはウォートン嬢の代わりに仕方なく私と会っていたのか? 私とあんなことをしたのも、セシーの本意ではなかった?」
目に見えてバート様の顔色が変わったので、私は慌てて首を振った。
「いくら見た目を姉に似せても、姉のように振る舞うのは私にはとても無理です。特にバート様の前だと素のセシリアが出てきてしまって、だから……」
上手くすべてを言葉にできなくても、バート様はちゃんと私の言いたいことを理解してくれたのだろう。
私を見つめ返すその顔には、蕩けるような笑みが浮かんでいた。
それを目の当たりにして、これまでバート様が様々な表情を見せてくれたのも、優しく触れて、抱きしめて、口づけてくれたのも、フレデリカではなくセシリアだったのだと私もようやく理解できた。
「あの、それなら、誤解というのは何のことだったんですか?」
「あれは、再会した時、ウォートン嬢が一緒にいたから咄嗟に初対面を装ったことだ。何だ、結局セシーには伝わっていなかったのか」
「ごめんなさい」
あの時、正直に何のことかと尋ねていれば良かった。
「いや、私はセシーを前にすると舞い上がるあまりろくに名前も呼べず、そのくせ君の声を聞くより口を塞ぐことばかり熱心にしていたのだから、伝わっていなくて当然だな」
バート様が苦笑し、それからスッと表情が改まった。
「セシー、セシリア。すっかり最初の計画が狂ってしまったが、本当は君に再会したらこう言うつもりだった。『私と結婚してほしい』。それから、今はもう一つ。『君を愛している』」
私は思わず息を呑んだ。返事をしなければと思って口を開いても何も言葉が出てこなかった。
ただコクコクと何度も頷いた後、ようやく「私もバート様を愛しています」と伝えると、またバート様に抱き寄せられた。
「ずいぶん遠回りをしてしまったが、ようやくここに辿り着けた。だが、私たちはまだ始まったばかりだ。これからは、たくさん話もしていこう」
その声も見上げた顔も、喜びを噛みしめているように感じられた。
「話も?」
ついそこを突いてしまってまた顔が熱くなったが、バート様は嬉しそうに目を細めた。
「できれば口を塞ぐほうもたくさんしたい」
「……私も、です」
バート様の顔がゆっくり近づいてきて、でも最後にはどちらからともなく唇を重ねた。
たちまち胸が熱くなり、それが滴となって堪える間もなく目から溢れ落ちた。
すぐに気づいたバート様が、どこか不安そうに私の顔を覗き込んだ。
「セシー、もし無理をしているなら………」
「違います。嬉しくて。王都で最後に会った時はなかったし、もう二度とこうしてもらえることはないって思っていたから」
そう言いながらも、涙は次々溢れてきた。
それを拭おうとするように私の頬に伸びてきたバート様の手が途中で止まり、引き返して彼自身の口を覆った。
「すまない」
ややくぐもった声が、もう何度目がわからない謝罪を口にした。心なしか、目が気まずそうに泳いでいる。
「君が王都の屋敷に来た時にも、した。その、君が眠っている間に」
「そうだったのですか?」
「本当にすまなかった」
「いえ、こんなことを言うのは可笑しいかもしれませんが、ちょっとホッとしました。でも、目を覚ましていた時にもしてほしかった、です」
途中で、私はとても恥ずかしいことを言っているのではと思ったけれど、紛れもない本音だった。
バート様が安堵した顔で今度こそ私の涙を拭いてくれて、私たちはもう一度口づけを交わした。