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16 情けない

 瞬く間に私が領地に向かうまであと二日となった。

 とんぼ返りする予定なので休みは三日もらっただけだが、出発前日は王太子殿下の執務室に詰めて仕事をある程度片付けねばならない。

 必然的に、この日が私が王都で婚約者を訪ねる最後の機会だった。つまり、もしセシーに会えなければ二度と会えないかもしれないのだ。

 セシーのためと自分で決断したこととはいえ、気持ちが重くなるのはどうしようもなかった。


 ウォートン家に行くため王宮を出ると、私の心を反映したかのように冷たい風が吹いていた。

 迎えに来ていた我が家の馬車に乗り込み、セシーに会えることを期待しないよう己に言い聞かせながら、窓の外を見るともなしに眺めていた。


 やがて馬車は大通りからウォートン家の屋敷の前に続く通りへと折れた。

 その通りの端を寒そうに身を縮めて歩いていた女性と馬車がすれ違った。私は咄嗟に「停めろ」と声を上げていた。


 馬が完全に足を止めるまでの時間ももどかしく、自ら扉を開けて通りに飛び出すと同時に外套の鈕に手をかけた。


「そんな薄着で何をしているんだ?」


 振り返ったセシーが、目を丸くした。

 彼女のドレスがウォートン家の応接間で初めて口づけた時と同じものなのに、あの時にはなかったはずの大きな染みがついていることにも気づいたが、とりあえずそれは横に置いて、セシーの身体に外套を巻きつけた。


 呆然と私を見つめるばかりのセシーを強引に馬車に乗せた。

 冷えて強張っている身体を外套の上から摩っていると、セシーがポツリと言った。


「ありがとうございます」


「ちょうど君の家に行くところだったんだ。気づいて良かった」


 最後の機会だったことももちろんだが、何よりこんな寒空の下にいた彼女を見逃さなかったことにホッとする。


「あの、私、しばらくは帰りたくなくて、ご迷惑でなければどこか適当な場所で降ろしていただけませんか」


 セシーがそう言うのに、私はまったく驚くことができなかった。

 彼女がこんな薄着で歩いていたのも、ドレスが汚れているのも、ウォートン嬢の仕業に違いない。

 あるいは、今回の癇癪の理由は突然のラトクリフ領行きかもしれない。やはり強引すぎただろうか。

 だが私が尋ねてみても、セシーは「ドレスは不注意で汚した」としか話してくれなかった。




 私はセシーをもっとも適当だと考えた場所で、すなわちラトクリフの屋敷で降ろした。


 我が家の使用人たちは私が突然女性を連れて帰ったことに驚きつつも、それぞれ居間の暖炉に火を入れたり、毛布を運んできたり、ミルクを温めたりしてくれた。

 私は王太子殿下への連絡をデリックに命じてから、ミルクの入ったカップを手にセシーのいる居間に戻った。


 カップをセシーに手渡し、彼女と同じく暖炉の前のラグに直接腰を下ろしてその身体に腕を回す。

 もはやそこまでする必要はなく、ただ私がセシーに触れていたいだけだと自覚していた。

 しかし、セシーもまるで甘えるように私に寄りかかってミルクを飲んだ。

 こんな時だが、やはり可愛い。


 しかし、セシーはこんな時でも自分のことより私のことを気にした。


「そう言えば、バート様、お仕事は?」


「王太子殿下に戻るのが遅くなると連絡したから大丈夫だ」


「私のために申し訳ありません。もう失礼しますから、どうか王宮に……」


 私はセシーを胸に抱き寄せた。


「今は何も心配せず、ここにいればいい」


 互いに別の場所に戻らねばならないことをこの一時だけは忘れてほしくて、セシーの頭をそっと撫でた。

 このまま彼女をここに留めておけるなら、どんなに良かったか。


「はい」


 セシーが私の服を掴み、また甘えるように身を寄せてきた。


 しばらくそうしているうちに、私にかかるセシーの重みがやや増したのを感じた。

 少しだけ躊躇い、だが彼女は私を「バート様」と呼んでくれているのだからと、思いきってようやく口にした。


「セシー?」


 しかし、彼女からの反応はなかった。どうやら眠ってしまったらしい。


 セシーを起こさないよう抱き上げ、ソファに寝かせた。安心しきった寝顔に、泣きたいような気持ちになった。

 しかし、その直後、セシーのドレスの袖が少し捲れているのに気づいた。そこからわずかに赤い色が覗いていた。

 さらに袖をずらしてみると、白く細い腕にくっきりと大きな鬱血痕があった。まだ新しいもののようだ。


 私の身体のどことも定かでない場所が痛んだ。

 初めて会った時にセシーが私の痣を見て痛まないかと尋ねたのは、彼女にとって痣による痛みが日常的なものだからなのだろう。しかし、彼女は自分自身のことは私に何も言ってくれない。

 甘えるように寄りかかって、腕の中で眠って、口づけを許してはくれても、セシーにとっての私は婚約者のテニスンよりは多少ましという程度なのかもしれない。

 表面的にはセシーにこんな仕打ちをする姉を妻にしようとしている男なのだから信用されないのも当然だと頭では理解できても、彼女に頼ってもらえない自分が情けなかった。


 前回会った時のことを思い出し、彼女の心身の傷がほんのわずかでも癒えるようにと願いながら、セシーの腕にそっと口づけた。

 そこには下心などない、はずだった。


 だが、ドレスの袖を元に戻してセシーの身体に毛布をかけ、そのあどけない寝顔を見つめているうちに、もっと彼女に触れたいという気持ちが湧いてきてしまった。

 頭を振ってそんな欲望は払い飛ばし、領地経営に関する厄介な書類を持ってきて読もうとしたが、無駄だった。

 セシーに会えるのはこれが最後かもしれないという思いが追い討ちをかける。


 一度だけと決意して、セシーの唇に自分のそれを重ねた。

 案の定、すぐに決意は崩れ、もう一度、あと一度と繰り返す。


 だが、何度目かの後でセシーの目蓋が小さく動いたのに気づき、私は慌てて書類に目を落とした。

 視界の端でセシーが目を開くのが見え、何気ない表情を装って声をかけた。


「目が覚めたか?」


 セシーは飛び起きた。


「寝てしまって、ごめんなさい」


 こちらこそ情けない男で申し訳なくなるが、セシーは寝起きでも可愛かった。


「気にするな。だいたい、私の腕の中で君が寝るのは初めてではないだろう」


 セシーはハッとした顔になり、それから逡巡している様子もあったが、やはり最後まで何も言ってはくれなかった。




 三日後、ラトクリフ領主館で出迎えてくださったお祖母様は、馬車から降りた私に怪訝そうな目を向けた。


「バートひとり? フレデリカ嬢も今日来るのよね?」


 王都からラトクリフ領都までは、山道に入る手前の宿場町で一泊して二日かけるのが通常の行程だが、急ぎの場合などは早朝に出発して夜に到着という丸一日の行程になる。

 今回、ウォートン家には後者の行程だけを伝え、私自身は前者の行程を取った。

 つまり、私のほうが王都を一日早く出たが、到着は同日の私が昼過ぎ、ウォートン嬢は夜の予定になる。

 ちなみに、私も王都に戻る時は後者の行程の予定だ。


「今日中には到着すると思います。ウォートン嬢と一緒に旅をする気にはとてもなれませんでしたから、私は一足先に参りました」


「何を言っているのよ。これから夫婦になるのに」


「そのつもりもありません。ですから、お祖母様も彼女の教育は結構です。お会いになる必要もありませんから、客間に閉じ込めておいて、もし逃げ出したらすぐに知らせてください」


 ウォートン嬢が領主館から逃げ出してくれれば、婚約者交代の立派な理由になるだろう。


「バート、どういうことなのか、きちんと説明してちょうだい」


 お祖母様は厳しい顔で私を見つめた。

 ラトクリフ公爵位を担っていただけあって、こういう時のお祖母様には有無を言わさぬ迫力がある。

 私が子どもだった頃はもちろん、頭一つ分より高い位置から見下ろすようになっても、それは変わらない。


「もちろんです」


 そのためもあって、ウォートン嬢より早くやって来たのだ。


 しかし、居間でウォートン嬢がセシーにしていた仕打ちやテニスンとの不貞について話しても、私を見るお祖母様の目は厳しいままだった。


「セシリア嬢というのが、バートが本当に婚約したいと望んでいた令嬢よね? 自業自得で叶わなかったのに、まだ心残りがあるのね」


 自業自得というのは、縁談を両親に任せきりにしたことだろう。お祖母様にも伝わっていたのだ。

 そう言われるのは仕方ないとしても、ウォートン嬢がラトクリフ次期公爵夫人に相応しくないことはどうにか納得してもらおうと再び口を開きかけたが、お祖母様のほうが早かった。


「そのくせ、今度は婚約者が気に入らないから私に預けるとは、失敗から何も学んでいないのかしら? しかも、相手がどんな人だろうと女性に無茶な旅をさせたうえに軟禁なんて、あなたはいつからそんな姑息なことを考える情けない人間になったの?」


「ですが……」


「言い訳は結構。私はあなたの指図は受けません。どうするかは、フレデリカ嬢に会ってから決めます」


「ええ、そうしてください。きっとお祖母様ならすぐに彼女の本性に気づいてくださるはずです」


 お祖母様は深く嘆息した。




 ウォートン家の馬車がラトクリフ領主館に到着したのは、お祖母様と私が夕食をとった後だった。

 さすがに時間が遅いのでお祖母様がウォートン嬢に会うのは翌朝ということにして、私と執事のジェフら十人ほどの使用人とで玄関前まで迎えに出た。


 頭の中には三日前に見たセシーの腕やドレスがあった。

 馬車の中にあれをやった女が乗っているのだと思うと怒りを抑えることができなくなり、ジェフが開いた扉の代わりに馬車の出口を塞ぐように立った。


「ウォートン嬢」


 馬車の中が暗くて、見たくもない顔を見ずに済むのは良かったと思いながら、人の気配のするほうを睨みつけた。

 私の横で、ジェフがギョッとするのがわかった。


「私があなたを歓迎するとでも思っていたなら大間違いだ。他の誰を騙せたとしても、私はあなたの正体を知っている。今後、これまでと同じ真似は決してさせない。私の許可なく客間から出ないように」


 ウォートン嬢の声も聞きたくなくて、言いたいことだけ言い終えると私はさっさと館の中に戻った。


 そして翌早朝、私はセシーのいる王都に向けて出立した。

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