14 執事のリスト
今度こそセシー承諾のもと口づけを交わし、「バート様」と呼んでもらえた。
また「セシー」とは呼べなかったが、他でもない彼女に口を塞がれたからだ。
当然のこと、内心浮き足立って執務室に戻った私に、レイが声をかけてきた。
「証拠を掴めたのか?」
私は言葉に詰まった。
ウォートン家の廊下でセシーがテニスンに無理矢理押さえつけられているのを目にした瞬間から今まで、不貞の証拠を掴まなければならないことをすっかり失念していた。
レイが嘆息した。
「なら、セシリアに会ったんだな。それで悦ぶのは仕方ないとして、先におまえの本心を誰かに知られるのはあまりよろしくないのではないか? よくよく気をつけろよ」
私が心中で浮かれていることに気づけるのは家族や屋敷の者を除けばレイだけだと思うが、反論するのはやめておいた。
ウォートン家でのセシーの扱いを考えると、私とセシーが不貞関係にあるなどということにされた場合、あちらから婚約者の変更を言い出すことなどありえない。
私とウォートン嬢の婚約はそのままで、セシーが私とは二度と会えないよう修道院にでも入れられたら最悪だ。
私の咄嗟の行動でテニスンに本心を気づかれた可能性はかなり高いだろう。
ただ、ウォートン嬢とテニスンの関係を考えると、あの男が私の本心をウォートン伯爵に伝えるかはわからない。
逆に、セシーにしたことをウォートン嬢に告げるとあの男に言ったところで脅しにもならないのは間違いない。
どちらにせよ、あの時の私に他の選択肢などなかった。後悔しているとすれば、もっと早くに扉を開けてテニスンを殴り飛ばさなかったことをだ。
それはともかく、今の私がテニスンより気になっているのは、別の人間のことだった。
「すでに知られたかもしれない」
レイが眉を顰めた。
「誰に?」
「ウォートン家の執事だ。ただ、敵か味方かはまだ判断がつきかねる」
言いながら、一枚の紙片を開いてレイの机の上に置いた。
それを見てレイが首を傾げる。
「何のリストだ?」
「わからない。帰り際、執事がこっそり渡してきた」
馬車に乗ろうとしていたところを追ってきた執事が、近すぎる距離に立った一瞬のうちに私の上衣のポケットに滑り込ませたもの。
馬車が動き出してから確認すると、平民らしき四人の名前と店や村の名前などが走り書きで記されていた。
「この場所に行って、彼らに会えということか」
「おそらく」
「で、おまえは行くつもりなんだな?」
「当然だ」
「ああ、もう、好きに行ってこい。どうせこの件に決着がつかなければ、おまえは落ち着かないだろうからな」
「恩に着る」
「後で返せよ」
二日後、私はリストの最初に書かれていた食料品店に向かった。
聞ける話が聞けないと困るので、私はラトクリフ家の侍従を装い、本物の侍従であるデリックに前に出てもらうことにして、馬車は使わず騎馬にした。
目的の場所にあったのは店舗ではなく事務所と倉庫だった。
事前に調べたところによると、主にレストランなどに食材を卸しているようだが、数軒の貴族の屋敷にも出入りしているらしく、そこそこ大きな構えだった。
扉を入って最初に見かけた男にデリックがラトクリフ家の使いを名乗ると、私を見てギョッとした顔をしつつもすぐに若主人を呼んでくれた。
出てきた私と同年代に見える若主人は、最初は恭しく対応したものの、メラニーという人物にウォートン家について聞きたいと言った途端、表情を変えた。
「そのような用件でしたらお断りいたします。もう母をあの家に関わらせるつもりは一切ありませんから。どうかお引き取りください」
しばらく粘ってみたが、若主人の態度は頑なだった。
また出直そうと事務所を出て、馬を繋いでいた建物横の街路樹まで行くと、裏手からこちらを覗くように見ている女性に気がついた。
彼女はやや強張った表情で会釈をした。
デリックとともに女性のほうへゆっくり歩み寄っていった。彼女は右手で杖をついていた。
デリックが尋ねた。
「メラニーさんというのはあなたですか?」
「はい。息子が失礼いたしました。ラトクリフ様の使いという方が私を訪ねて来ていると嫁が知らせてくれました。裏に自宅がありますので、よろしかったらどうぞ」
メラニーに招かれるまま、彼女の家に向かった。やはり平民としてはそこそこ大きな家だろう。
案内された部屋でメラニーと長卓を挟んで向かい合う形で椅子に腰を下ろした。
「ある人に紹介され、ウォートン家について聞きたくてあなたを訪ねてきました」
デリックがそう切り出すと、メラニーは頷いた。
「ラトクリフ様は、フレデリカお嬢様のご婚約者でございますよね?」
「知っていましたか」
「はい。息子は良い顔をしませんが、ウォートン家に関することにはどうしても耳をそば立ててしまいます。私はフレデリカお嬢様とセシリアお嬢様の乳母をしておりましたので」
「ああ、乳母だったのですね」
「フレデリカお嬢様はラトクリフ様に見初められたという話が私の耳にまで届いて、何となく様子もわかりましたが、セシリアお嬢様はどうなさっているのでしょうか? 何かご存知ですか?」
デリックがちらと視線を私に向けたので、目で頷いた。
「セシリアお嬢様は健やかそうなご様子でした。しかし、どうもウォートン家においては姉妹の扱いに大きな差があるようだと我が主は気にかけております。もしあなたに何か知っていることがあれば教えていただけませんか?」
「やはり、あのままなのですね」
メラニーは痛みを堪えるような表情で目を閉じて一つ息を吐き出すと、再び口を開いた。
「私は四人目の子を身籠っていた時に縁あってウォートン家から乳母のお話をいただきました。残念ながら、その時の子は生まれてすぐに亡くなってしまいましたが、だからこそ、間もなくウォートン家に生まれた双子のお嬢様を大切にお世話しようと心に誓いました。おふたりは私から見ればどちらもとても可愛いらしいお嬢様方でしたが、明らかな違いもありました」
「それは、どのような?」
「まずお乳を飲む量からはじまって、よく動く、よく泣く。それから、言葉を喋って、歩き出してとか、とにかく、より手がかかって、でも何に関しても成長が早いのがフレデリカお嬢様で、それに比べるとセシリアお嬢様はゆっくりでした。ですが、子どもなんてそんな風に差があるのが当たり前ですし、それで優劣などつくものではありません」
「だが、ウォートン伯爵夫妻はつけた?」
「最初はそれほど明確なものではありませんでした。フレデリカお嬢様に意識が向く時間のほうが少し長いくらいのもので。ですが、おふたりがもう少し大きくなると、覚えた言葉をどんどん使ってにこにこ笑いながら甘えてくるフレデリカお嬢様を構う時間が増えていって、セシリアお嬢様は大人しくそれを見ている感じでした」
幼いセシーのそんな姿は私にも容易に思い描ける気がした。
「さらに成長すると、フレデリカお嬢様はご両親の関心の多くが自分に向いていることに気づいたようでした。やがてそれが当然なのだと思うようになり、少しでもセシリアお嬢様に向かうことを嫌がるようになっていき、ご両親だけでなく使用人にまで同じことを求めるようにまでなりました」
「セシリアお嬢様のほうは?」
「セシリアお嬢様はむしろご両親やフレデリカお嬢様に遠慮しているように見えました。それでご両親は手のかからない子だと思っていたのが愛想のない可愛くない子になり、そのうちどこかおかしいのではないかと仰ったりもしました」
何とも理不尽な話に私は思わず顔を歪めた。
「そうして、おふたりのために雇われたはずの子守メイドもいつしかフレデリカお嬢様専属になってしまい、自然、私がひとりでセシリアお嬢様のお世話をしていました。でも、フレデリカお嬢様にはそれも受け入れられなかったようで、セシリアお嬢様と私が一緒にいる時に私のところによくいらっしゃっていたのですが、ある時、私が足場の悪い場所で転んでこのとおり足を悪くしてしまって、辞めさせていただくことになりました。それが、ちょうど10年ほど前のことになります」
メラニーは話しながら何度も目元を拭った。
「私はもうおふたりのために何もしてさしあげられません。どうかおふたりのことをよろしくお願いします」
彼女もまた、私たちに深く頭を下げた。
リストのふたり目アデルと三人目リタは富裕な平民の屋敷でともにメイドとして働いていたので、一度に会うことができた。
しかし、ふたりはなかなか話し出そうとしなかった。
理由は私の顔ではなく、「ラトクリフ」がウォートン嬢の婚約者であることのようだった。
「我が主はウォートン家での姉妹の扱いの違いに気づいて、この婚約を続けることに疑問を抱いています。ですから、あなたたちが見たあの家の様子を教えていただきたいのです」
デリックのその言葉でようやく彼女たちの口から語られたのは、メラニーがいなくなってしばらくたった頃からウォートン嬢がマリーヌに入学する少し前までのウォートン家の様子だった。
ウォートン家の使用人たちは、二つの不文律を徹底して守っていた。
フレデリカお嬢様の言葉には逆らわないこと。フレデリカお嬢様の前ではセシリアお嬢様と一切関わらないこと。
女性が複数寄って一度話しはじめれば止まらなくなるのは令嬢もメイドも変わらないらしい。
「フレデリカお嬢様は気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こされるので、私たちはとにかく気を使いました。クビにならないよう心を殺してフレデリカお嬢様にお仕えするんです」
「でも、本当は皆、セシリアお嬢様にお仕えしたいと思っていて、フレデリカお嬢様がいらっしゃらない時などは、交代でセシリアお嬢様のところに行きました」
「といっても、フレデリカお嬢様に気づかれないようセシリアお嬢様のお部屋の掃除をしたり、フレデリカお嬢様の食べ残したお菓子を持って行ったりというくらいですが」
「セシリアお嬢様は、お菓子はほとんど私たちに分けてしまうんですよ。それに、私たちの誕生日とか故郷とか一度聞いたら忘れないし。フレデリカお嬢様には聞かれたこともなかったのに」
「お部屋の掃除も自分ですると仰るんですが、セシリアお嬢様のお部屋はものが溢れていておひとりではちょっと難しいので」
ウォートン嬢のお下がりドレスを着ていたセシーの部屋がもので溢れているというのは想像と真逆で怪訝に思ったが、メイドたちはすぐに種明かしをしてくれた。
「フレデリカお嬢様が要らなくなったものを置いていくせいです。小さくなったドレスとか、壊れた髪飾りや人形とか」
「それなのに『お気に入りを貸してあげる』と仰って。あくまで自分のものだから捨てたりするなってことです。私たちがこっそり処分したりしてましたけど」
「しかも、フレデリカお嬢様は旦那様や奥様には『お気に入りを獲られたから新しいのを買って』なんて仰るんですよ。旦那様と奥様はセシリアお嬢様が小さいドレスを着ていても何も仰らないんですから」
「だけど、フレデリカお嬢様はセシリアお嬢様のこと愚図だって馬鹿にしていましたけど、全然そんなことありません。フレデリカお嬢様は旦那様や奥様に賢いって褒められたくて、本を読んだ振りをするのが上手でした。でも、セシリアお嬢様は本当に読んでいました」
「フレデリカお嬢様がいない時には、そのお部屋に入って読んでいたくらいです。あまりに集中して読まれるので、私たちが声をかけてもなかなか気づいてもらえなくて、帰ってきたフレデリカお嬢様に気づかれて打たれることも何度もあって」
「打たれる?」
私が思わず言葉を挟んでしまうと、アデルとリタはビクッと身を縮めた。
「日頃からフレデリカお嬢様はセシリアお嬢様に手を上げていたのですか?」
デリックが私の気持ちを代弁してくれて、メイドたちも再び口を開いた。
「癇癪を起こすとセシリアお嬢様に当たっていました。セシリアお嬢様が読んでいた本を取り上げてそれで打ったり、旦那様や奥様の前だとおふたりに見えないところを抓ったり」
「セシリアお嬢様が黙ってそうされていらっしゃるのは、私たち使用人のためだと思います。二つの決まりごとも、そもそもはセシリアお嬢様の強い望みだからという話です」
「私たちはその状況が耐えられなくて、結局ウォートン家を辞めてしまいましたけど。新しい仕事が見つかったのはとても幸運でした」
アデルとリタは自嘲気味に笑った。