13 私だけが
翌日、ウォートン家を訪ねたが、テニスンとは出会さなかった。
応接間でいつのものように向かいに座ったウォートン嬢の淑やかな笑顔は、ひどく醜いものに見えた。
少なくとも私がテニスンとすれ違った日は、あの男とそういうことをした直後に私の前に現れていたわけだ。つくづく肝の太い女だと思う。
ああ、セシーに会いたい。
さっさと帰りたいところだがこちらばかり気分を悪くしているのも業腹で、少し考えてから口を開いた。
「最近、学業のほうはいかがですか?」
「学業ですか?」
ウォートン嬢が一瞬だけ意外そうな表情をしたのは、私のほうから話題を出したことか、話題が学業だったことか。
「中間試験まではまだ一月ほどありますが、今度は首位を取れそうですか?」
「そうですね、このところは色々と忙しいので……」
「具体的には何が忙しいのです?」
「もちろん結婚準備ですわ。ドレスを決めたり、嫁入り道具を選んだり」
「そんなことに時間を割くくらいなら、勉強をなさってください。あなたはまだ学生なのですから」
「そんなことだなんて、花嫁にとってどんなウェディングドレスを着るかは何より重要な問題ですわ」
「それを否定するつもりはありませんが、こちらとしてはマリーヌで首席の才女と婚約したはずが卒業時には下から数えたほうが早いなどという事態になって、結婚式の参列者方に嘲笑を浴びないかということのほうがよほど気になるのです」
ほんのわずか、ウォートン嬢の笑顔が歪んだ。確かに顔を見ていると心の内がわかりやすい人間だ。
どうせ見るならセシーの顔が見たいのだが。
「そのような事態には絶対になりませんのでご安心ください」
「くれぐれもお願いします。そう言えば、祖母が送った本はもう読まれましたか?」
「ええ。もうすぐ読み終わりそうです。あの本を読むことも忙しい結婚準備の一環ですわ」
「でしたら、是非、感想などを書いて祖母に送ってください。きっと喜びます」
「わかりました」
あれをこんな短期間ですべて読めるはずがない。どうするつもりなのやら。
私はいつもだいたい同じだったウォートン家を訪ねる時間を、日によって変えてみることにした。不貞の証拠を掴むためだ。
といっても、ウォートン嬢に会うという名目があるので、私がウォートン家を訪えるのはマリーヌ校の下校時間から日暮れ前までの間だ。
テニスンに会うのは必ずあの男が帰る時だった。
向こうも目的がウォートン嬢なら、ウォートン家を訪ねる時間帯は私とそう変わらないはずで、早めに向かえばあの男も滞在中という可能性が高くなる。
しかし、いざとなるとなかなかテニスンに出会さなかった。
おそらく他にも通う場所があるに違いないテニスンがウォートン家を訪ねる頻度は私よりずっと少ないのだろうが、私たちが顔を合わせないようウォートン嬢が上手く恋人を逃がしていることも考えられる。
そんな中、ウォートン嬢から本をすべて読み終えて感想文をお祖母様に送ったと報告された。
飛ばし読みでもして適当な感想文を書いたのかと思っていたが、しばらくしてお祖母様から「感想文がとても興味深いものだったので早くこれを書いた本人に会いたい」というような手紙が届いた。
温室で聞いた、ウォートン嬢が恋愛小説しか読まないという話は事実ではないようだと結論づけるしかなかった。
それから間もないある日のこと、いつものようにウォートン家の応接間に通された私は、いつも以上に待たされていた。
もしやテニスンが来ているのではと思ったものの、他人の屋敷を勝手に彷徨いて不貞の現場を探し回るわけにもいかない。
もっとも怪しいのはウォートン嬢の私室だろうから、とりあえずメイドでも捕まえて「婚約者の部屋を見てみたい」とでも言い、反応を窺うか。
そう考えてソファから立ち上がり、応接間の扉に近づいた。
すると、外から話し声が聞こえた。
一方はテニスンに間違いなさそうだった。となると、小さくてよく聞き取れないが女性らしいもう一方はおそらくウォートン嬢だ。
逸る気持ちを抑えて静かに扉を開いた私の目に、少し離れた壁際に立つテニスンの後ろ姿が見えた。
さらに扉を開き、身を乗り出す。
テニスンが壁に押しつけるようにして口づけている相手の顔が見えた瞬間、私の頭に血が昇った。
「何をしているんだ」
「残念、邪魔が入ったか」
テニスンは悪びれる様子もなくそう言って一歩退がった。
確かに先ほどの行為が愛し合う婚約者同士のものなら私はただの厄介な邪魔者にすぎない。
だが、今にも泣き出しそうな顔で震えているセシーを見れば絶対に合意などなかったのは明らかで、私は迷うことなくふたりの間に割り込むと彼女の身体に腕を回した。
セシーの婚約者が誰で、今日の彼女が誰のために普通の令嬢らしい格好をしているのかなど、どうでもいいことだ。
テニスンを追い払い、セシーを応接間のソファに座らせた。
ほんのわずか頭の中に戻った冷静な部分で、前回セシーに会った時の自分自身の行いを思い出し、隣に座ることと触れることの許可を得てから改めて彼女の細い肩をそっと抱き寄せた。
途端、セシーは「ごめんなさい」と言って泣き出し、ドレスの袖で唇を強く擦りはじめた。
私が止めてもまた同じことをしようとする。
その悲痛な姿からはテニスンに口づけられたことが嫌で嫌で堪らないという気持ちが伝わってきた。
同時に、私が口づけた時のセシーはまったく異なる様子だったはずだと思い、仄暗い悦びを覚えた。
こんな時に訊くべきことではない。いや、こんな時でなければ訊けない。
「私なら、いいのか?」
私を真っ直ぐに見つめたセシーがはっきりと頷くのを確認してから、ゆっくりと唇を重ねた。
傷ついているセシーをこれ以上怯えさせないよう気遣えていたのは初めのうちだけだった。
セシーに別の男が触れたのだと思うと我慢できず、彼女がその感触をすべて忘れてしまうようにと願いながら柔らかい唇に繰り返し舌を這わせた。
腕の中にあるセシーの身体からは徐々に力が抜けていき、私にその身を任せきっているのが感じられた。
それを良いことに、セシーの唇のわずかな隙間から舌を滑り込ませ、彼女の内側をも味わった。
ようようセシーの唇を解放したものの、まだまだ足りなくて、彼女の身体を放すことはできなかった。
とろりとして見えたセシーの目が、何かに気づいたように昏い色を帯びた。
「ラトクリフ次期公爵」
セシーにそう呼ばれて、線を引かれている気分になった。
私たちは婚約者ではないのだと。たった今まで交わしていた口づけはなかったことにしようと。
だから抗い、彼女に請うた。
「君にそんな風に呼ばれたくない」
「ヒューバート様」
「君には違う呼び方を教えたはずだ」
「……バート様」
セシーはどこか諦めたように私の愛称を口にした。それでも、私は大きな満足感を覚えた。
これで私も、堂々と「セシー」と呼べる。
ところが、私が彼女の愛称を声に出して呼ぶことはできなかった。
セシーがその可愛いらしい口で私の口を塞いでしまったから。
初めての彼女からの口づけに、私が舞い上がらないわけがなかった。
「さっきのは消毒でこれからが本番、だな?」
すぐに逃げようとしたセシーを捕らえ、普段なら絶対に思いつきもしないだろう文句を口にすると、再び私から彼女に口づけを落とした。
セシーに見送られ、後ろ髪を強く引かれながら玄関を出て、馬車に乗り込もうとしたところで声をかけられた。
振り向くと、追ってきたのはいつも私を最初に出迎えるウォートン家の執事だった。
執事は少々近づきすぎではないかという距離まで歩み寄ってきて足を止めた。
「お呼びとめして申し訳ございません」
そこまで言って、ようやく執事は私との距離が近すぎることに気づいたような様子で後ろに退がった。
「どうしても一度、当家の使用人を代表してご挨拶させていただきたいと思っておりました。私ども一同、お嬢様のお幸せを心より祈っております。どうかお嬢様のことをよろしくお願いいたします」
執事は深々と下げた頭をしばらく上げようとしなかった。