最初で最後の老聖女の告白
山の頂に、小さな廃墟がある。
かつては栄えた都市があったらしいが、今は打ち捨てられ、ただ一人の老女が住んでいる。
聖女エステル。
彼女は起床し、身を清め今まさに朽ち果てんとする聖堂に向かう。
ひとしきり祈りを捧げると、廃墟の隅に作られた割と新しい小屋に帰って来る。
祈りの後の朝食は、固パンをとりあえず口に含み、細かい家事をこなす。
エステルはぶどう蔓で出来た籠を背負い、頂から中腹まで降りて来る。
山菜を摘むのだ。
肥えた目で、神に感謝しながらそれらを摘む。
そして帰りしな、花を摘んで帰る。
60年以上続けて来た日課だった。
昼にまた固パンを食べ、色とりどりの自家製ピクルスをつまんでいると、扉が叩かれる。
「エステル婆さん、おるかー?」
エステルはいそいそと出て行って、扉を開ける。
山じじいのマシューがそこにいた。背はそれほど高くないが、がっちりした体躯の、まだまだ腕っ節の強そうな老人。
「はい、ここにおります」
「いるなら返事してくれよ。返事がねーから、死んだかと思った」
「ふふふ」
マシューは我が家のようにエステルの家へ上がり込む。
「猪のベーコンを持って来たんだ。ご馳走だぞ」
「美味しそうね」
「まだ固パンあるか?交換と行こうや」
「はい」
エステルは、朽ち果てた都市の旧食堂で見つけたいい竈で、いつもパンを焼いているのだ。
この周辺の土地は小麦が育ちにくいので、雑穀を混ぜて焼き上げる。
しかしそれが、案外他にはない味わいで美味しい。
マシューはエステルの焼くパンを、しょっちゅう欲しがった。
「エステル婆さん、最近体の調子はどうだ?」
昼食を取りがてらマシューが尋ねる。
「はい。山菜採りと神の御心のおかげで、元気にやってます」
「もう山を下りてもいいんじゃないか?お務めは立派に果たしただろう」
「いいえ。死ぬまで、というのが神との契約ですので」
エステルは聖女に選ばれた20歳の頃から、この山の頂に住み続けていた。
山間の地域で信仰されて来た、この神の住まう山の聖堂。選出された聖女は、死ぬまでそこに住み、国の安寧を祈らなくてはならない。
天空の聖堂と評されるこの聖堂は、この国の信仰の対象となっていた。だから小さな村から聖女に選ばれるのは、とてつもない栄誉だったのだ。聖女を出した村は、向こう100年国の保護で安泰だと言う。エステルは、そんな自分に誇りを持っていた。聖女になるまでに、ふもとの修道院で誰よりも研鑽を積んだのだから。
だが、マシューの方はそんな細かい事情など知らない。
「都会にいる俺の養子のトビーが、もう山小屋を引き払ってこっちに住もう、って誘ってくれてるんだが」
「そうなんですか」
「でもよ、俺はエステル婆さんをどうしても放って行けねーんだ」
「……」
「足腰の立つ今が最後のチャンスだと思って、もし良ければ婆さんも一緒にどうかな?と声をかけてみたんだけど」
「……」
「もう、ふもとの奴らは昔ほどの信仰心はねーよ。人口減の挙句に、修道院が廃れて聖女のなり手がいないから、聖女制度は廃止だとか言うしよ。俺は婆さんの今後が心配で……」
エステルはもじもじと手を揉んだ。
「マシューは、山を出てしまうのですか?」
マシューは悩まし気に腕を組む。
「俺も、そろそろ山に住み続けるのはキツイかな?って思ってる」
「そうですか」
「エステル婆さんには散々世話になったからな。両親が死んでから、何くれとなく世話してくれた恩がある。村が限界集落になって、不便な山住まいの俺には嫁も来なかったけど、あんたの声掛けのおかげで孤児院からトビーを迎えることも出来たしな。ここらで恩返しせにゃ、俺の気が収まらん」
「……あの」
エステルはひと呼吸した。
「私も、あなたを弟のように可愛がって来ました」
「……」
「10も下の、ひとりぼっちの男の子。私が山に来てから、この山のことを色々教えてもらって」
「あん時の聖女様はすぐ疲れた疲れたってのたまう、面倒臭い女だったな」
「初めて会ったマシューはお猿さんみたいでした。でも、成長して立派なゴリラみたいな感じになりましたね」
「褒めてないなそれ」
「ふふ。でも、私も今は立派な老猿です。私が今こうして山にいられるのも、あなたのおかげですね」
「……エステル婆さん?」
「私、あなたが好きです」
マシューはぽかんと口を開けた。
「はあ?」
「……そろそろ言おうかなと思いまして」
マシューは静かに天を仰いだ。
「……そういうことはもっと早く言ってくれ。あんたはここに来た時はそりゃー綺麗なお嬢さんで」
「でも、その時はあなたはまだ子どもでしたから」
「なら、あんたが30の時にでも……」
「30歳女性が20歳男性にそんなことを言えるものではありません」
「うーん、あんたが40の時なら」
「私、40歳の時はあなたが好きではありませんでした」
「……面倒くせーなぁ」
「それが人生っていうものです」
エステルがくすくすと笑うと、マシューもつられて笑った。
「で?80になった今、俺を好いてると」
「はい。ようやくその気持ちを認められるようになりました」
「……そんなに言えないことかね」
「お世話になっていますから、拒絶されたら立ち直れません」
「それはこっちだって同じだがね……」
「でも、とにかくこの気持ちを、死ぬまでにマシューに伝えておきたいなって思ったの」
「……そっか」
マシューはエステルを愛おしそうに見つめる。
「じゃ、街に降りるのはナシだ。しばらく山にいてやるよ」
「ありがとう、マシュー」
「死んだらいい葬式を上げてやるからな」
「あら、いいの?私が見られないものですが」
「おう、任せとけ」
マシューはいつものように、勝手に色とりどりのピクルスの瓶を開け、自身の弁当に詰めて行く。
「また明日来るよ。ようやく乳腺炎だった牛から乳が出るようになってね」
「あらそう、助かるわ」
「チーズ、作れるかい?」
「あなたが運んだ分だけ作るわ」
「じゃあ、はりきって持って来ないとなぁ」
マシューは手を振りながら、再び山を下りて行った。
エステルはその背中を静かに見送る。
小屋を閉めると、彼女はいつものように昼寝に入った。
そして、久方ぶりに夢を見る。
30歳の自分と20歳のマシューが花咲き乱れる山の中、手を繋ぎ歩き出し、川を渡ろうとする夢を──
「……いけない!」
エステルは目を覚ました。
そして、窓から空を眺める。
「まだ死ねないわ。まだ……」
そしてひとり、首を横に振ってからくすくすと笑った。