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蠱惑の森

作者: 坂井瑞穂

 −−すべては好転し、最良の結末をわたしはしたためる

 きょうは朝からそよ風がなんとも心地よいこと−−


 ぼくはミハイ=イェルノビッチ、南ドイツのケンプテン独立市からほど近い急峻なアルゴイアルペンの村ホーエンクレエガウにて七代続く穀物商の後継りだ。村には廃墟となった古城があるだけ、商店街広場はいつもそこそこ賑わっていて、日に六便のバスが往来するけれど、城跡といくつかの教会のほかに目立った呼び物もない。ところがぼくの親父が事業を継いだ頃から全てが好転、何から何まで陽の目をみるようになったというのだ。

 まず地域の牧場と沃野の大半を管理下に置くと乳製品も安定価格で出荷できるようになった。そして交通網の発達に呼応するかのように国境を越えたオスト)チロルからも新鮮な乳清が入ってくるようになったのだ。

 ぼくが生まれるまえからこの地方の食品流通の権益を握っていたプスカシュ家の一人娘ミハイリアと婚約が交わされたとき、ぼくはまだ十二歳になっていなかった。

 牧畜と乳清管理はスペインから出稼ぎに来て牧場長までのぼりつめたヘスーさんがやっていたけれど、彼が高齢のため帰郷すると決まってぼくは上の学校へ進むのを諦め仕事の手ほどきを受けることにした。

 ヘスーさんが退職してぼくがその部署の正式な担当となると、家ではミハイリアを花嫁として迎え入れた。もう何もかもが順調に推移しているように思われた。ぼくはいま十九歳だけれど妻とのあいだに四人のこどもがいる。

 でも気がかりなのは末子のチェルカが生まれてからというものミハイリアの様子が少しおかしい。もともと外出を好まないところはあったけれど、体調がすぐれないのか全くの出不精になってしまっている。遊び盛りのこどもたちと散歩でもして気晴らしをすればいいとぼくが言っても聞く耳をもってくれない。

 それならばとぼくが上の三人を仕事の空いた時間などにまとめて面倒をみることにした。いまでは彼らの夕ごはんの仕度もぼくの役割だ。長女のルジアは、ママのお料理もおいしいけどパパのは大鍋でいっぱいつくるからそのほうが嬉しい、と言ってくれる。ぼくは仕事場から形の崩れた馬鈴薯や出荷しなかった乳製品を持ち帰っては花祭り用の大鍋で煮込むからこどもたちは皆ご機嫌なのだ。

 べつに良い夫、優しい父親を演じたくてやっているわけではないけれど、ミハイリアの気苦労を赤ん坊のチェルカだけにとどめて、幾分でも負担を軽くできたらと思っている。

 きょうもぼくは五歳のルジア、三歳のフランチェスコ、二歳のヤシンタを連れ、少し遠出をしてみることにした。近頃猟師も通わなくなった山へのびる一本道を、大人の脚で一時間も行くと美しい山上の湖に出くわす。シュピーゲルゼー)という周囲五五〇メートルの小さな湖で、地層から溶け出る成分の関係で魚も全く棲息していないから釣り人の訪れもない。

 実はこの湖、ぼく自身の思い出の場所でもあるのだ。まだ仕事に馴染めず、この湖の畔に立ってぼくが悔し涙を流しているのを親方のヘスーさんに見つかってしまって、彼がそのことを即興詩に綴ってはスペイン調の小譚詩として歌いあげていったのだ。以来うちの会社ではこの湖は<トレーネ)フォンテン>との別名で呼ばれている。

 ぼくだってそう年がら年中泣いていたわけではないし、皆んなから泣き虫だって揶揄われたこともあったけれどこのロマンティックな呼び名を結構気に入っている。

"よし、高いだろ。良い眺めだろう。"

 村を遥か下に見下ろせる大きな岩のところでぼくは代わる代わるこどもたちを抱き上げて眺望を堪能させた。

"ほら、壁絵のある大きなのが村役場、二つの尖塔はイグナチウスとセバスティアンの教会だ。パコの家はどこにあるかな。二つの教会の間あたりだな。ママとチェルカは見えるか。ヤシンタ、どうだ。牛の角みたいな建物は毎日買い物に行っているパン屋さんだぞ。"

 この岩を乗っ越すとシュピーゲル湖はもう近い。でも驚いたのは上の二人はともかく赤ん坊に毛が生えた程度と思っていたヤシンタが急峻な崖道を手づかみで攀じ登っては、泣き言ひとつ吐くことなく姉と兄のあとを追いかけていくのである。やはりこの子もぼくの娘だ、改めてそう実感した。

 湖の畔に下る道の岐点に一本の白樺の大木が目印のように聳えている。

"大きい木だろう、白樺ビルケ)の木だよ。"

"パパ、この木は女のひとなの。"

 ルジアがふと聞き返してきた。

"ママから聞いたのか。"

 この白樺の大木は淫蕩な酒場の女主人が姿を変えられたものと、たしかに村では伝わっている。ぼくはミハイリアのやつが口を滑らせてこどもたちに話してしまったんじゃないかと肝を冷やしたが、どうやらそこまで知らされてはいない様子だ。

 シュピーゲル湖はアルプスの圏谷に刻まれた氷食湖のひとつではあっても、面積が小さく水深も浅いため夏至に近いいまの季節ともなると日中の高い陽光を浴びて湖面の水が温かくなる。おかげでぼくのこどもたちも時間を忘れて水遊びを楽しむことができるというわけだ。

 西側の山稜に太陽が傾きかけて、そろそろ水から上がって帰り仕度をはじめようとしたそのときだった。湖の対岸の深い森の奥のほうから微かな声を聞き留めた。

"ミハイ、あたしだよ。覚えているかい、ミハイ。"

 妙に懐かしい、聞き覚えのある声だった。しかしあたりを見回しても人の姿も気配もなく、あるのはこどもたちのはしゃぐ歓声だけである。

"ミハイ、明日の晩にひとりで出直して来てくれないかね。こどもたちはママとお留守番だ。お前さんもよく知っているところ、<蠱惑の森>と呼ばれる暗い森にあたしは住んでいる。そこへは<蒼い情念の谷>を越えて進むしかない。子連れじゃ到底辿り着けない。お前さんでもたっぷり三時間はかかるだろうからね。"

 最初は耳鳴りと間違うほどの微かな声だったのがしだいに鮮明な言葉となって聞こえてきた。

 湖を境にここから上は道がない。鬱蒼たる深い森は俗に<蠱惑の森>、<魔女の森>などと呼ばれ村人たちに忌み嫌われており、好きこのんで奥のほうへ入っていく酔狂な者などいない。それに複雑なドリーネ地形と磁針をも狂わせる溶岩地質のせいで、一度迷ったら帰還さえままならぬと恐れられている一帯なのだ。

 けれども勇敢を気取っていたぼくはこれまでこの森を何度も行き来している。猟具を持って山を流離えば黒岩羊も穴猪も仕留められたし、狼だって生け捕りにした。ただ息子のフランチェスコが森の生きものを殺さないでと涙ながらに願いでてからは、その後一度もその森へ入っていない。


 こどもたちの夕飯の後片付けをおえて寝室にはいるとミハイリアはちょうどチェルカを寝かしつけたところだった。

"ねえミハイ、きょう修道会のマグダレナ教母がたずねてみえたわ。ルジアをうちの学校にいれてはどうかって。"

"おいおい、あの子がお祈りするのが好きだからって、気のはやい話だな。ルジアを修道女にでもするつもりか。"

"村の人たちが話すことといったら大抵そのようなものよ。あなたが自分の息子に英才教育をほどこして立派な後継者に育てようとしている、とか。"

"なんだって、ぼくにはそんなつもりは全然ないよ。パコはとても頭がいい。この間図書館に連れていったら、お星さまの本だといってラテン語で書かれた天文宇宙の図鑑を見ているんだ。ぼく自身が家業を継ぐため進学しなかったからあの子にはしっかり学ばせてやりたい。歴史のあるハイデルベルクかボローニャの大学でね。"

"あなたこそ気がはやいのね。"

"それにきょうはヤシンタにも驚かされっばなしだった。"

 ぼくは昼間、彼女が上手に岩を乗っ越して湖までの道のりを姉と兄に遅れをとらずについていったことを伝えた。

"この調子なら来年はチェルカも連れて行けそうだ。"

"そうね、ほんとうに手がかからないの、この子。四人のなかでいちばん聞き分けがいいわ。"

"そうだ、シュピーゲル湖の向こうの森で声を聞いた。たしかに森の声だった。"

 ミハイリアはしずかな顔をして応える。

"来るべきときが来たのかもしれないわね、あなたには。でもたしかに<あのひと>の声だったの。"

"間違いない。それにぼくが<あのひと>の声を聞き間違うなんてことがあるものか。だけど来るべきとき、って何のこと。"

"法則よ。消し去ったり棄てたりしてはいけないもの、またはそうすべきではないもの。"

"じゃあ君は、いつそれがわかったの。"

"初めて牧場にあなたを訪ねたときよ。"

"政略結婚の是非やオペラや映画の話をした、あの日かい。"

"ええ、そうよ。"

"驚いた。こどもたちにも驚かされっぱなしだったけど、君にもだ。"

 マクシミリアン通り二十六番地、いまはミハイリアの親戚が住んでいるあの家にかつて住んでいたラングナー家のひとたちのことを話すと、ミハイリアは哀しい顔をする。自分たちプスカシュ家が村にやってきたことで彼女たちが出ていくことになったとうしろめたく思っているのだ。ほんとうはそうではないのだけれども。

 ぼくはラングナー家のヘルミーネおばさんとは物心ついたときから仲良しだった。ぼくの母さんは、既によその家の子になった二人の兄さんたち、ヤドランコとドラゴリュプへの思いを引きずっていたから、何となくではあるけれど近寄りがたい溝のようなものができてしまっていた。

 ヘルミーネおばさんは夫のヘルマンさんが亡くなって寂しいから話し相手になってほしいとぼくに言った。

"いいよ。"

 当然ぼくは応じた。

 家に通されるとおばさんはぼくに、矢が刺さったままの林檎の実を渡してくれた。

"これはねえ、本当に起こった<史実>というものを、物語としての<逸話>に置き換えてしまいたい者が使うものなのだよ。"

 そう言いながらほかにも矢が刺さった林檎をぼくに見せた。同じ方向から射られ三本が平行に刺さったものや、三本が別方向から刺さったもの、おばさんはそれらをまるで谷間で測量士が水準器を設置するように机に置いた。

"ミハイ、これらの意味がすべて理解できたら、全部あげるからね。林檎は矢を抜いてからお食べ。"

"オオっと、空の矢はあたしに返してもらおうじゃないか、林檎に命中させたのはあたしなんだからね。坊や、次はお前さんの頭の上に置いた林檎を射抜いてやろうか。"

"イリーゼ、おやめったら、怖がっているじゃないの。この子は気立てが優しい子なんだよ。"

 イリーゼさんは突然現れてすぐにどこかへ消えてしまった。

 ヘルミーネおばさんにはアンネ、イリーゼ、ウルスラと三人の娘がいた。姉と妹は写真でしか知らないけれどお姫様のような可憐さを持ち合わせている印象を受けた。

 イリーゼさんはむしろ逆で、すばしこくて躍動的だった。でもお転婆なのがたたって結婚相手が見つからないっておばさんは不満をこぼしていた。本人も焦りはじめていたのかお酒の量が増えていたみたいだった。

 ミハイリアはそんなラングナー家の母娘が自分たちのせいでよその土地へ出ていくことになったと勘違いしている。

"君の、君の家族のせいじゃないよ。わかるだろ。"

"同じことよ。私が、私たちが追い出したも同然だわ。ラングナー家は高貴な魔女の家系と知っていたわ。それも幾多の迫害や困窮を乗り越えて生き延びてきたというのに。もう私はどうやってお詫びしたらいいの。それに、夢を見たのよ、私。あのひとたちが険しい岩だらけの山のほうへ向っていくのを。苔桃プライゼルの木の一本も生えない荒れた高層湿原よ。すぐにわかったわ。あのひとたちは魔界へ流れて行ったのだと。"

"君の思い過ごしだよ。彼女たちは魔界へ行ったんじゃない。だいたい君の家族にマクシミリアン通りの家を譲ったのだって、イリーゼさんの結婚が決まって、彼女のお婿さんが義母のヘルミーネさんを近くに住まわせたいということで、一緒に東チロルへと引っ越したのだからね。国際列車の急行が停まるエステルライヒ側の最初の町、フロイテだよ。

 ぼくも知っているけれどあの頃ヘルミーネおばさん、イリーゼさんの結婚をほんとうに喜んでいた。だからお嫁入りする娘と存分に語り尽くしたいとガルミシュの峠を歩いて越えて行ったんだ。ぼくは彼女たちを追いかけて途中まで行っているからよくわかっている。君が思い悩むことなどありはしないんだ。"

 ぼくは半ば泣き顔になったミハイリアの肩にそっと手をやって、記憶のままにガルミシュの峠に向かった彼女たちを追いかけたあの日のことを話した。

"よく覚えているんだ、あの日のことは。もういてもたってもいられなくて、全力で追いかけた。(シャイデン)(ファルを登ったところの、(アッパー)いほうの(ブリュッケの手前で追いついたけれど、ぼくは一目見て状況がわかった。前の日の嵐で橋が流されて峠へ向かう道が通れなくなっていたんだ。

 そのときぼくは、何かできないか思い立ったことをすべてやってみた。流木や瓦礫、建物の残骸、手当たり次第に並べて、ヘルミーネおばさんに教わったやりかたで呪文を唱えてみた。そしたらできたんだよ。"

"じゃあ、あなたは橋が流されて渡れないでいる魔法使いの母娘のために、魔法で仮の橋を架けたっていうの。もう、なんて人なの。"

"いや、ぼくがやったのは魔法ではない。物質の超蠕動ってやつで、理論的に説明できるものだ。おばさんも言っていたけれど、魔法だと思われているものの、それらのほとんどは超常現象ですらないんだって。

 ぼくだってお祈りすることで頭の上の雲を断ち切るくらいはできる。効果が現れるのは十分くらいの些細なものだけれどね。でもそんなことやったって何の意味もないし、あとで身体中激痛が走るからあまりやりたくはないな。"

"ヘルミーネさんはあなたを弟子にしたかったようね。話を聞いていてよくわかるわ。ほんとうに可愛がってくれたのね。"

"でもぼくにできたくらいのことが果たして魔法といえるのだろうか、ほんというといつも疑問だった。なぜなら大昔から聖書に登場するモーゼや、多くの芸術家たち、ラファエロ=サンツィオやニーノ=ロッタもやっていたのだからね。"

"でも私がこの村に引っ越して来る前、マジャールの故郷でもあなたの噂は流れていたわ。まだ小さなミハイというこどもが六千平方パーチの荒野を開墾してしまったって。大人でも一週間はかかる急峻な岩だらけの土地をたったひと晩で均してしまったってね。"

"あれだってヘルミーネおばさん借りた笛のおかげさ。動物たちの心を安らかにさせるように念じるのがコツなんだって言われた。マチスの絵に描かれた少年のようにやるんだよ、っていうからぼくは、それはマチスじゃなくてモネだよって答えた。いや違う、マネだった。

 ぼくは笛を持って、ヒューム湖に群れで棲息している水牛に呼びかけてみた。もう何度も荒れ地を耕そうとして、そのたびに打ち捨てられた耕具類がいっぱい転がっていたからね。

−−牛さん牛さん、きょうはなんとか頑張ってぼくを助けてください--

 そう念じて笛を吹いた。すべてはその結果なのさ。"

"だんだんあなたまで魔法使いに見えてきそうだわ。"

"だから魔法マジック)じゃないって。理論(ロジックだよ理論。さっきの高いほうの橋、仮の橋を架けた話に戻るけど、あれもロックフィルダムを組み立てる要領なんだってあとでわかった。わからないのは緩衝材がぼくの体温だってことなんだけれど。

 ぼくはおばさんたちの役にたてたのがいちばん嬉しかった。ぼくはそのあと疲れきってそのばで眠ってしまったのだけれど、気がついたらヘルミーネおばさんの置き手紙ポケットに入っていた。<一〇四つの接吻とともに>の書き置きだったんだ。

 鞘の滝の下にある水車小屋のコーラーさんが見つけてくれたのだけれど、もしかしたらぼくはそのまま眠り続けていたかもしれなかったって。

−−小さなこどもがテレパシーを使いやがって。身の程知らずが--

 そう言って叱られた。だからミハイリア、君が思い悩むことはなにひとつないんだよ。君が見た夢は、断章の、しかもその一部に過ぎなかったのだからね。

 いずれにしても彼女たちはフロイテに移り住んで新しい生活をはじめた。その一年後くらいにぼくはヘスーさんを手伝って東チロルをよく廻るようになった。ヘルミーネおばさんの新しい家にも行っている。牛乳の配達はぼくの仕事になっていたし、この地域はぼくが担当することになったと告げたらとても喜んでくれた。"

"イリーゼさんも近所に住んでいたの。"

"城塞シュロスブルク)と呼ばれていた出城の一角、フロイテ駅の真ん前だよ。旦那さんはペーテルさんといって、昔話の本を出したりしているグリム家の六人兄弟の三番目、ほかの兄弟たちのように童話やお伽話は書いてはいなかったけれども、水理学とか水文学の専門家で山の中の氷食湖のメカニズムなどの研究もしていたようだね。ほかにも天体や宇宙にも詳しくて、ぼくたちのフランチェスコが喜んで見入りそうな写真本も編纂していたらしい。

 それにとても気さくなおにいさんで、自宅の庭に赤や黄色や紫のキノコをいっぱい栽培してて、それをチゴイネル風の炒め物やスウプにして近隣のひとたちにご馳走していた。

 ぼくはケンプテンの繁華街で一度だけ顔を合わせたことがある。向こうはぼくのことを知っていたかどうか分からなかったけれど、蟻んこのモニュメントがある時計店の裏の小さい広場でのことだ。あの様子だと故障した時計を修理に出しに来ていたんだね。

 そのときぼくの胸がいつになく激しい鼓動を打ったんだ。はじめは何が起こったのか全然わからなかったけれど、すぐにカラクリが理解できた。鍵をかけていない田舎家にジプシイが勝手に入り込むことがあるだろう。それと同じ要領で、ぼく本人が気付きもしない間に、ぼくの胸から体幹、脳や神経に至るまで、イリーゼさんが自身の意識ごと入り込んでいたんだ。そして新婚ほやほやのペーテルさんに呼応しちゃったってわけ。

 だっておかしいじゃない。ホモセクシュアルじゃあるまいし、ぼくがペーテルさんに胸がキュン、だなんて。でもイリーゼさんはほんとうに悪戯が好きだった。それでいてどうにも憎めないというか、不思議だね。"


−−如月の梅桃(ユスラウメ)は八月まで花をつけ

 夏至の檀特(カンナ)は十一月まで咲き誇った

 幸せなひとときは永遠なる祝福を呼びおこし

 心の底からわたしは若返ってゆきそう−−


"ヘルミーネおばさんはフロイテへ越してからもぼくを歓迎してくれた。このときはまだ彼女が口にした言葉の真意をすべて理解できたわけではなかったけれども、イリーゼさんの結婚を喜んでいるのが伝わってきた。


−−イリーゼは上級学校への進学を望んでいたのよ。けれど事情く叶わなかった。ペーテルさんは博識もあるし、とても良い縁だと思うの。楽しい家庭を築くことができそうね−−


 もっともぼくは配達の仕事の途中だったりで長話はあまりしていないんだ。

おばさんはイリーゼさんが嫁いだグリム家の屋敷にも訪ねていってほしいと言っていた。"

"行かなかったの、あなた。"

"<城塞>と呼ばれたグリム家の屋敷は十一世紀からある本物の要塞トブルジャの建物さ。博物館のような家のなかには騎馬戦士が着たような甲冑や刑具や拷問具がいっぱいあったというから、そんなところで、あのイリーゼさんが待ち構えていると思うと、考えただけで萎縮してしまう。

 あのひとも結婚してからはだいぶしとやかになったと聞いてはいたけれど、ぼくなんかが訪ねていったら忽ちにして格好の餌食にされてしまうよ。"

 ミハイリアは笑いを堪えてぼくの話を聞いている。

"イリーゼさんとペーテルさん夫婦にはこどもはいないの。"

"いるよ、女の子がふたり。上の子は名をスベトラーナといってその名のとおりノルディックスキーの選手になった。家中にメダルやトロフィーが飾ってあったというから母親に似たんだろうね。妹のほうはカーチャ、こちらは父親似で文章を書くのが得意で職工になったそうだ。

 でもぼくは追跡者ではないからそれ以上のことは知らない。"

"ねえミハイ、あなたの話、少しおかしいわ。イリーゼさんたちって晩婚だったのよね。だったら娘さんたちもうちのこどもたちと年格好はたいして変わらないはずよ。あなた、どこまで行って見てきたの。"

"そうだ、ほんとうにおかしい。でもぼくはそこまでしか知らないんだ。追跡者などではないからね。"

"さっきから気になっていたんだけれど、魔女ってひと口では言っても具体的にはどんな暮らしをしているの。例えばラングナー家の場合は。"

"ヘルミーネおばさんは若い頃は占いがよく当たるので有名だったらしい。ぼくは通りがかりに手相を観てもらって、そのとき随分と奇抜な運勢が出ていたということで再度詳しく調べてもらったんだ。

 たしか、私たちと入れ替わりにこの家にやって来る家族にぼくのお嫁さんがいるって言っていたかな。そのときぼくはまだ小さくて何のことだかわからなかったけれど占いは当たっていたのだね。"

"でもあなたのように仲良くなれたり好意的なひとたちばかりではないでしょう。薄気味悪く見られたりして。"

"全くその通りだ。偏見は至るところにある。この百年のあいだに英国あたりでジェラード=ガードナーが活躍したりして迫害されなくなったといわれているけれど実際は四百年前とあまり変わっていないんじゃないかな。

 ローマ教皇庁が率先して壊滅にのりだした、とか、あんなの史実でもなんでもない空想の産物だったのだからね。大半は暴徒化した民衆の仕業なんだよ。それでいて犠牲者は六万人以上といわれている。

 邪悪な魔女なんてそのなかにどのくらいいたと思うかい。多くはごく普通の家族や恋人や友人だったのだ、とぼくは思っている。やっぱり怖いのは人の心なんだね。浅い思慮の判別が妄想と敵愾心を増幅させてしまうのだからね。公権力による<浄化>とみなされているのはほんの一部なんだそうだ。

 だからまだ小さなヤシンタにも、私のママは魔女よ、なんて冗談でも言ってはいけないと口を酸っぱくして諭しているんだ。あの子には大切な母親を失うような目にあわせたくないからね。"

"こどもたちの動作を見ていて感じるけれど、眼に映るものが不思議に見えてくるような素振りなの。私自身少し前までそうだったし。"

"ぼくだってそうだよ。周りのおとなたちの行動が片っ端から理不尽で不条理なものに見えてきたり、単純な所作で済ませられるものを、何がため回りくどく行うのか不思議でたまらなかった。そしてだんだんと見えてくるんだ。"

"何が、未来とか、予測できるの。"

"おいおいおい、ぼくはクロワゼットやマニングみたいな予知能力者ではないんだぜ。"

"でもあなたは魔法を信じるのでしょう。"

"まあね、でも巷で話題になるのはほとんどは魔法ではなくて、科学の理論で説明がつく、そう言ったろう。"

 ミハイリアが、自分の見た夢のために苦しみの深淵に引き込まれていたのが、何の魔法も模倣も要せずにその辛苦から解放できたのはとりあえずの落着といえた。

"私がこの村に越してきてしばらく経った頃だったと思うけれど、私のパパったらはじめたばかりのコーヒーショップをママに任せきりでいつもどこかへ消えてしまうの。そして戻ってくるなりご機嫌な顔であなたの話ばかり、天才だって感心しきりだったわ。そしてパパに言われたの。ミハイ=イェルノビッチをお婿さんにするんだ、これは厳命だってね。"


−−名前の似たもの同士が夫婦となるのは良縁の証なのだ

 ラースローとラスローネ、ヘルマンとヘルミーネ

 ヨージェフとヨジェフネー、おまえたちもまたしかり--


"思い出したわ。大人でも四、五日はかかる急峻な牧草用地の開墾を夜明け前までに成し遂げたミハイという名の子がそうなんだって、はじめてわかったの。

 噂だけは故郷のエゲルでも聞いていたけれど。"

"だからそれはさっきも説明したように、ヘルミーネおばさんの笛のおかげなんだって。"

"だけど私は急にあなたに会ってみたくなったの。牧場で牛や羊と戯れるあなたは、まるでイコンのマリアさまのように穏やかな表情をしているのに、ひとたび観候(ヴェステレス)尖峰(ホルン)に影が射すと哀歌の謡い手のように悲しげに見えてくるの。"

"ぼくは君とはじめて会ったとき、ミハイリア=プスカシュは生まれついての詩人なんだ、そう感じたよ。"

"ちょっと待って、ルジアが立ってる。扉の向こう、私たちのことが気になるのね。おりこうさんなんだもの。一昨日もあの子に言われてしまったわ、パパを虐めないでね、って。"

"そうなのか、ぼくはこれでもこどもたちの前では明るく振舞っているつもりなんだけれど、ルジアの眼には薄弱で頼りない父親として焼き付いているのだね。

君がぼくに歌ってくれた賛辞の詩を、あの子がすべて否定冠詞をつけて歌いなおしたのではないかって、もうほんとう気が滅入りそうだよ。"

"違うわ、みんなパパが大好きなの。パシーコもヤシンタも、チェルカだって掴まり立ちができる頃にはきっと後から追いかけていくのよね。"


−−あっぱれだ、デヤンの息子がやりやがった

 デヤン=イェルノビッチの息子がまたまたやりやがった

 <勇敢な巨人の谷>に橋を架け、木馬道に狭軌鉄道を

 敷設するように提案したんだ。これでわれわれも来週には

 新鮮なチーズケーキがいただけるってもんだ。

 まさに勇敢な巨人ならぬ子鹿だよ、ミハイ=イェルノビッチは−−


 深夜ミハイリアがチェルカとともに眠りについてしまうと、ぼくは急いで山靴に履き替えて山上のシュピーゲル湖を目指した。シュピーゲル湖は魚も棲息できないほどの透明度と清らかな水面の印象、そして覗き込むひとの顔を寸分の狂いなく映し出すことから(シュピーゲル)の湖の名で呼ばれているのだけれども、<映し出す>とは本来は別の意味を示している。つまり覗き込んだひとの深層心理を湖底に映し出すということなのだ。

 ミハイリアが口にした、来るべきときが来た、の言葉にもどことなくひっかかるところはあったし、眼を凝らして、注意深く湖底を観察していると懐かしい光景が現れた。

 ぼくが一二歳になって、故郷に帰るヘスーさんから牧場の管理を引き継ぐ、その頃の情景がそのまま蘇っている。たしかミハイリアが初めて訪ねてきた日のことだった。

 ぼくは最初、自分自身を<令嬢>だなんて言っている彼女にあまり良い先入観をもってはいなかった。けれどそこに現れたのはエゲル近郊の<美女の谷>の生まれだというのが嘘でない、輝かしい紅毛の、気品に溢れた少女であった。

"こんにちは、はじめまして。あなたがミハイ=イェルノビッチね。もうお家のひとから聞いていると思うけれど、私があなたの婚約者ミハイリア=プスカシュよ。よろしく。"

 このときぼくは眼の前に現れたのが童話の本からとびだしてきたようなかわいらしい女の子だったので、返す言葉さえ失いそうになっていた。

"率直に聞くわね。あなたはどう思っているのかしら。この地域にのこっている、時代遅れにさえ感じられる許婚制度を。"

"それならぼくはわりと肯定的に捉えているほうかな。だってはじめから人生の大半をともに過ごす伴侶が決定されていれば生活設計もしやすいだろうし、無駄も省けると思うんだ。それに恋煩いに悩まされずに済むわけだから良いことずくめじゃないか。これでもぼくは運命には忠実に、そして従順に生きているつもりだからね。"

"随分と楽観しているのね。それにその若さで落ち着きすぎているのが気になるわ。昨今では同業組合ツンフトの結束は有名無実化しているのよ。これから先、私たちの家の興隆次第であなたがテルーエルのディエゴ=マルシーリャのようになってしまうことも考えられるわ。"

"驚いた。君、八百年前のアラゴン王国の悲恋物語を知っているの。"

 ぼくは思わず立ち尽くすしかなかった。

"クラーゲンフルトのオペレッタに叔父が連れていってくれたの。私はかわいそうでほとんど舞台に眼を向けていられなかったのだけれど。先週末のことよ。"

"そうなんだ。ミハイリアさんて--"

"ミハイリアでいいわ。私たち、婚約者なんだから。"

"君って感受性が強いんだね。でもぼくだって負けていないよ。先週末といえばフィラーハの街で親方のヘスーさんを待っている間に映画を観てた。<クレアモントホテル>っていうエリザベス=テイラーの傑作さ。エリザベスっていったってハリウッド女優のリズのことじゃないよ。

 ポスターには、人生の終焉を迎えた老齢のサラと青年ラドビックの友情物語と書いてあったけれど、正直ぼくはショックを受けてしまった。なんて彼は恰好いいんだろうってね。ぼくなんか大好きなクラウディアおばあちゃんが亡くなったとき、ただ泣いているだけだったもの。"

 喋り過ぎたぼくの手から本の栞が滑り落ちた。それを拾おうと床に屈むと、ミハイリアは興味深げにぼくの本を覗き込んだ。

"何を読んでいるの。"

"オスカー=ワイルドだよ。"

"へえ、あなたって英語を読めるのね。私は苦手なんだけれど、たしか<幸福の王子>はワイルドの原作だったわよね。私は王子様が全然幸せに思われなくて、読んでいて辛くなるばかりだったけれど。あなたがその歳で外国語を苦もなく習得できるのなら、私だって努力次第でやれるってことよね。もう一度英語の勉強をやり直してみようかしら。"

 ミハイリアはぼくが栞がわりにワイルドの詩集に挟んでいた紙切れに書き留めてあった二、三行の文章を不思議そうに見入って、

"これ、私にいただけないかしら。書いてあることはわからないけれど、あとで調べてみることにするわ。"

 言いながら、細い指で折り畳んだ。

 その刹那ぼくは彼女にそれを持って行かれることに些かの抵抗をおぼえ、恥ずかしくも感じていたのだが、英語学習に取り組もうとするミハイリアの熱意を鑑みると、このまま手渡しておくほうがいい、そう考えることにした。

 湖底に映し出された白いハンカチーフには鮮やかに刺繍された緋色の文字が浮かんで見える。

 いまのぼくにはあの紙切れに何を覚え書きしたのか、記憶は残っていないけれど、ミハイリアが刺繍を施したあの断章こそが、きっとそうなのだろう。


 −−一五分ごとにジンメルの塔は私の胸を昂ぶらせ

 信じられないほど臆病だった私が、市場の雑踏を彷徨いたがっている

 人混みの向こう、荷車からミルクの壺をおろすあなたを見つけた

 でもあなたは眼を合わせると、少し微笑んで行ってしまう。

 仕方ないわね、私たち、婚約はしていても

 決して恋人同士ではないのだから

 また会いたくなったら、この広場へやってくるわ

 恋しいミハイ、純真で清廉な私の子鹿さん−−


 いつにもまして気もそぞろな朝を迎え、ぼくは二度深呼吸をして姿勢を整えた。蠱惑の森へ入るのは三年ぶりくらいだろうか、すくなくともぼくたちの心優しいフランチェスコが森の動物を殺さないでと泣きついてきてからは一度たりと訪れていない。

"きょうは夕方、牧場の見回りが済んだらそのまま森へと向かうから。"

 チェルカを抱いたミハイリアを呼び止めてぼくはその旨を伝えると、彼女は何やら綾織サルガ)のような布の包みをぼくに手渡してくれた。

"あのひとに会ったら、これを渡してほしいの。"

 布包みの中身はなにかわからなかったが、随分と突起物の多い複雑な形にみてとれた。だがミハイリアの顔色を窺うと、まるでぼくが別世界に引き込まれてしまうかのような物憂げな表情をしている。魔女の手にひとたび落ちたならば、この子たちは皆父無し児になってしまうとでもいうように。

"大丈夫だよ、ぼくなら心配いらない。よく知っでいるひとだし、暫く会っていないからといって性根まで変わり果ててはいないだろう。

 それに夕べも言ったでしょ。邪悪な魔女なんていやしない、ってね。"

 東の空が縹色を帯びて、朝の息吹を醸すのが感じられた。いつもならお寝坊なフランチェスコとヤシンタがなにごとかママにおねだりをはじめている様子で、ぼくもすっかり早朝の静寂に浸る気分が吹き飛んでしまった。

 ミハイリアは相変わらず腫れぼったい顔で身体を重たそうにしている。こどもたち四人をまとめて面倒みるのは辛くないか気になったが、久しぶりにこどもたちを実家に連れて行ってくるという。実家といってもバス発着所前のカフェに両親がいるわけだから、ほんの七百メートルのお散歩でいいのだ。

"ねえミハイ、もしかしたら--

もしかしたらイリーゼさん、あなたにお別れを言うつもりなんじゃないかしら。"

 突然何を言い出すと思ったら、ミハイリアはもうこどもたちとともに薔薇の蔓がのびた石段を下りていった。

 

 夕刻、陽が山蔭に没しようとするまさに逢魔が時、ぼくはシュピーゲル湖の畔に立って漆黒の闇の到来を待った。昨夜半、ここで見た湖底の映像、ミハイリアがはじめて牧場にやってきたときの記憶が思いのほか鮮明に映し出されたので、再びなにか見ることはできないかと期待しながら覗き込むと、懐かしい光景はすぐに現れた。

 ホーエンクレエガウ村の目抜き通り、マクシミリアン通り二六番の館、いまはミハイリアの遠縁が住まう家の前を、木苺の実でいっぱいの葛籠を抱えた三つか四つのぼくがそこにいた。小さなぼくはすぐにヘルミーネおばさんに抱っこをされて家のなかに入っていく。そこにはイリーゼさんがいた。

−−イリーゼさんたら、朝からお酒を飲んでる。けどなんて鮮明な映像なんだ--

 ぼく自身があきれてしまうほどの記憶の再生だった。


"お母さん、またボヘミアンの坊やを連れてきたの。"

"ボヘミアンなんて人聞きの悪い、イェルノビッチさんの商店は七代続いているのよ。"

"だからって、その子の先祖がボヘミアだかトラキアだかワラキアだかから来てはじめたんでしょう。移住者には変わらないわ。"

"イリーゼ、ご覧よ。この子の灰赤紫色の瞳、なんて高貴で幻惑的なのかしら。手首も頬骨も細々しくて、壊れそうなくらい華奢なのよ。将来きっと惚れ惚れする美丈夫になるわね。"

"その昔、男勝りのサッフォーが跪かせたというテーバエの男たちが敗走先で子孫を遺したって聞いたけどきっとその一味よ。いまに鰓が張った穢男ディアブロに変わるわ。"

"私はそうはならない気がするの。ほんとうに天使のように清らかで、もう何から何まで。"

"お母さん、男の子を産んだことがないからって、そう惚気けたりしないでよ。天国のお父さんがお腹を抱えて笑っているわ。そんなにお気に入りなら<生長の実>を食べさせて、あたしの亭主になってもらおうかしら。それともお母さんがやってみる。尤もお母さんじゃ<生長の実>があたしの三倍は必要になるわね。"


−−郵便馬車は午前一時、三階建てにPOCZTAの明かり

 出発時刻が近づけば人も集まる 飲めや歌えや

 寒さが骨身に染みるときにゃ一気に飲み干せジブロフカ

 寒さが骨身に染みるときにゃ一気に飲み干せズブロッカ−−


"イリーゼ、もういい加減お酒はやめなさい。昼過ぎにはグリムさんのご子息がやってくるのだからね。"

"おっと、そうだった。でもね、お母さん、これだけは言えるわ。ローテンブルクのヌッシュ市長は三.七リットルのワインを飲み干して名を上げたっていうけど、あたしだったらその倍はイケるっていうこと。

 あたしの未来の夫に、乾杯!!"

"呆れた、ねえミハイ、怖いおねえさんだねえ。"

"ミハイ、こっちにおいで。あたしが誰かわかるかい。"

"イ リ ゼ−−−"

"よし、おりこうだ。こっちに来ないのなら、追いかけていって捕まえるわよ。"


 はじめて自分自身の幼少期を客観的に見られた気がした。チビだったぼくはイリーゼさんを怖がって全く近寄ろうとしていない。母性愛に満ちたヘルミーネおばさんから離れられないでいるんだ。

 いまのぼくならどうするだろう。両手を広げたイリーゼさんの胸に、一心不乱に飛び込んでしまうことだろう。次の一瞬で闇の底に投げられるのがわかっていたとしても。


 鬱蒼たる原生林をぼくはひたすら進んだ。月明かりも高山松の樹冠と八方に伸びた枝葉のせいで足もとまで照らされることはない。けれども不思議なくらいぼくの脚取りは着実で、森を深く踏み分けるに従い胸が高まっていくのが感じられた。

 ミハイリアが言い出せないでいる病気のこと、その意味するものがはいっているであろう綾織の包み、これをイリーゼさんに渡してしまえば目的のひとつは遂げられることであろう。だがしかし既に異界の住人となった彼女に確かめておきたいことがぼく自身にもいくつかあるのだ。

 ついさっきシュピーゲル湖で見た記憶の映像ではイリーゼさんは婚期を逃しそうになって大酒飲みになっていた。けれども昨日耳にしたイリーゼさんの声は、ぼくがよく知っでいる高貴な魔女の一族ラングナー家のヘルミーネおばさんとおなじく、洗練された気品に溢れた妙齢の女性の声だった。

 だから湖の畔でこどもたちを水浴びさせていたぼくが、あのひとの声に耳をとめたのも、急に懐かしさがこみあげて森へと向かいたくなったのもごく普通の流れなのだ。

 ほぼ天頂に達した鈍色の月が、遮るもののない枯れ草の広場にほの明るい光を差し込むのを認めると、以前来たときにはなかった一軒の建物に出くわした。

 ぼくを待ち構えて息を潜めているのだろう。こちらから声をかけた。

"イリーゼさん、いるんでしょう。つまらない芝居はやめようよ。ちゃんとおみやげを持ってきたのだから。"

 気がつくと彼女はぼくの真後ろで笑みを浮かべて立っていた。驚いたのは彼女の、その容姿が記憶のなかの根底にあった、若く美しいものであったこと、ぼくが解せない表情を見せてしまったせいかイリーゼさんは、おはいり、と家のなかへと促した。

"イリーゼさん、ほんとうに久しぶり。昔と全然変わっていない。単刀直入に聞くけど、いつ転生したの。"

"その説明をするためには少しばかり前置きがいるわねえ。"

"ははぁ、わかったよ。あなたは恰もここに住まっているふうを装ってはいるけれど、実はそうじゃない。ぼくがここに着いた少し前にあなたも来たばかりなんだ。

 ブラウスに撥ねた粘土の滴が乾ききっていないのが証拠だよ。それにあなたは気付かなかったみたいだけれどこれを落としたでしょう。きょうの、七月五日発行のフロイテ始発の往復切符を。"

 魔女に転生した筈の彼女を前にして、自分でも驚くほど弁がたち、主導権を握れている手応えを感じ、ぼくは幾分有頂天になっていた。

"ミハイ、お前さんは寝床でアーサー=コナン=ドイルの推理小説でも読んでいたのかい。お気に入りはやっぱりホームズかい、それともチャレンジャー教授、ヂェラール准将もいるわね。ドイルの綴りっぷりはスコッチウイスキーの香りがしてあたしも好きだよ。"

"はぐらかさないでよ、イリーゼさん。"

"落ち着かなくちゃならないのはミハイ、お前さんなんだよ。その切符をよく見るんだね。ひとつ見落としているんだよ。"

 彼女がぼくに指で示した切符の日付に眼をやると、そこには5/Jul/1979と記されている。思わずぼくは声を詰まらせ、血の気が引いていく感触を得た。

"よくご覧よ、旧西ドイツ国鉄のロゴマークを見ても気がつかないとは、お前さんも何かに取り憑かれているんじゃないか。

 あたしはずっとここにいて、お前さんを待っていたんだ。そのように思わせる芝居をやるにはやった。それこそが魔法の基本だってことを教えてやりたかったからね。

 でもお前さん、ここへはほかに何か目的があって来たんじゃないのかい。"

 ぼくはさっそく綾織の包みを出した。

これ、ミハイリアから、あなたに渡してって頼まれた。ぼくには開けないよう言っていたけれど。"

"おお、珍しい、骨貝じゃないか。新婚旅行で行ったザンジバルの海でたくさん転がっていたのを思い出したよ。"

 イリーゼさんは骨貝そのものよりも、包んでいた綾織の布に刺繍された緋色の文字に眼を移していた。その文の断章を見てぼくは再び喫驚の声をあげるところであった。彼女は刺繍された文字を指で押さえながら、その英語文を読んでいく。

"なになに、

--男は人生を早く知りすぎ、女は遅く知りすぎる--

--男は愛する女の最初の男であろうと願い、女は愛する男の最後の女であることを願う--

--噂をされるより悪いのは、噂をされぬこと--

 健気なものだねえ。ミハイリアはお前さんに遅れをとりたくなくて懸命に学んだってことだ。年下の許婚者がここまで機塾していると認めて、もう迷いなどなかったのだろうね。全く、かわいい恋女房だよ、ミハイリアは。"

  ぼくはただ唖然として成り行きを見ているしかなかった。

"まだわからないのかい。お前さんが持っていたワイルドの詩集から落ちた紙切れ、そこに走り書きしてあった英語文をミハイリアは初め理解できなかったのさ。そして文意を理解するに至ったとき、綾織に緋色の文字で刺繍して大切に握りしめていたんだよ。それがここにあるということは--"

"もう何も隠さずに言うよ、イリーゼさん。ミハイリアはぼくに心配をかけないようにって自分の病気のことも告げてくれないんだ。"

"ミハイ、よくお聞き。お前さんはミハイリアとそのことをよく話し合っていないんだろう。さっきから聞いていると至るところで話が分断して、全くつじつまが合っていない。あたしにはミハイリアの病気も殊更に危機的とは思われないんだ。

 仮に魔法のお願いを期待しようものなら、状況を正しく把握していなければ好結果には繋がらない。逆にお前さんの早合点で済んだのなら、それはそれで好結果といえる。

 面白いなんて言ったらお前さんに失礼だけど、こどもの頃からあれほどまでに無駄なくことを運んできたミハイ=イェルノビッチが、愛妻のこととなると盲目になって冷静を失うなんてね。

 あたしゃ初めてお前さんの少年らしい素顔を見られたようで少し安心したよ。"

 ぼくは完全に動転して、返す言葉さえ捜せないでいた。イリーゼさんはますます饒舌となって続ける。

"そうそう、魔法の原理を説明していなかったね。基本的にはここの空間には時間というものがない。随意時間軸といってね、各自が別々の時間基軸を選べるのさ。

 例えばあたしがお前さんの五倍速で走るとするだろう。お前さんは二百メートル、トラックを半周する。あたしがニ周半走ってゴール地点で出会えるって寸法だ。尤もこの出会いは実は三度目で、走っている間に既に二度すれ違っている。

そして速度が一定ならばその地点は等間隔で三分割されるんだ。わかるかい。

 ただペースが乱高下したりなんかして結果が違ってくるものだし、まあ、意図的にその間隔を、だね、感覚というべきかな、長く短く感じさせるのが魔法の基本ともいえるのだけれどね。"

 昨夜ミハイリアが疑問を呈した、ぼくが近未来をも覗いたかのような観念的な発言をしたこと、その謎が少しだけ解けたように思われた。

"イリーゼさんは生まれついての魔女なんでしょう。"

"だからってなんだい。あたしゃ全然優秀じゃないし、要領も悪い。お転婆がたたって姉や妹に先を越されて、危うく婚期を逃すところだった。

 覚えているかい。お前さんが竹籠いっぱいに木苺を摘んで来たことがあったろう。あたしの母さんは大喜びで感心しきりだった。"

 ちょうどここに来るとき、湖で見た映像がまさにそうだった。

"お前さんは木苺の花言葉をいくつ知っているかい。"

"謙遜、愛情、後悔、羨み、嫉妬、尊敬、同情、まだある、幸福な家庭、先見の明--"

"そのとおりだよ。だけどこれほど多義にわたる花言葉をもつ植物ってのも意外と少ないものなのさ。

 まだ三つか四つのこどもだったお前さんが、意識することもなく理に適ったことをやってしまう。母さんにはそれが神憑りのように思えたんだろうね。

 ほんとうを言うと、あたしはそんなお前さんをやっかんでいたんだ。そして間髪いれずに美女の谷からミハイリア=プスカシュの登場だろう。お前さんたちの婚礼の儀は<クライネ><クローネ>なんかの地元紙でも派手な記事になっていた。


−−われわれもこの若い新郎新婦を祝福しに行こう

 そして幸せのおすそ分けを貰ってこようじゃないか−−


 ペーテルが言ったよ。あたしは当然断った。お互いに晩婚だったし、世間の苦労が身についちまって初々しい若夫婦を真正面に見られなかったんだね。

 今じゃ母さんもペーテルも遠いところへ行ってしまって、あたしゃ下手をすればあと百年以上ここで修行なのさ。

 ペーテルは実にお人好しの、あたしにはもったいないくらいの亭主だったよ。そそっかしいところがあって、時計の針を巻き戻して壊してしまうんだ。娘たちのお気に入りの鳩時計までやっちまって、製造元の黒森(シュバルツヴァルト)まで行って修繕を頼んだこともあった。ドイツトウヒを模った重りの分銅を大きいものと交換して、娘たちもご機嫌だったし、今思えばあの頃がいちばんたのしかったね。

 あまりに落ち着かない暮らしをしたせいで娘たちともはぐれてしまった。二人とも達者でいるのはわかっているから、それはいいんだけど。

 あたしからみればなんでも手際よく熟してしまうお前さんやミハイリアのほうが大魔女なんだよ。最初からスペードのAやクイーンやジョーカーを持っている、勝ちの決まったゲームみたいなものなのさ。"

"そんな、イリーゼさん。カードゲームに譬えたりしなくたって。"

"ほんとうにその通りだよ。だから昨日は湖のところを凝視していて驚いた。あの子鹿イェルノビッチ)がいつの間にか親になってぞろぞろとこどもたちを連れて来ているじゃないかってね。だから我を忘れて、声をかけてしまったのさ。

 魔女の囁きは悪手といってね、この森に限らずあまり褒められたものではないんだ。"

"ところでイリーゼさん、あの件はどうなっているの。ぼくがヘルミーネおばさんと約束した、魔女の杖や箒をくれるって話は。"

"そうだった、そうだった。母さんからも頼まれて全部纏めておいたんだけど、どこにしまったんだったっけ。"

 イリーゼさんが慌ただしく家中を探し回って、焦るばかりで全く出てくる様子がないのを見届けると、ぼくは彼女に魔女のアイテムは必要ない旨を伝えた。本心をいえばミハイリアやこどもたちが興味をおぼえて、使ってみたいと言いだすのが正直迷惑なのだ。

"いいのかい、確かにみんなひとまとめにしてあったんだ。"

"そりゃぼくだって小さいときは、眼にするものすべてが珍しく思えて、全部欲しいなんて言ってしまったけれど、むしろいまは必要ないんじゃないかと思っている。ミハイリアやこどもたちが魔法に興味を示さなければいいとさえ思うんだ。"

"もったいない話じゃないか。お前さんの恋女房は立派な紅毛色をしているし、気がついていないだけで魔女の素質が十二分にあると、あたしは思うんだけどねえ。それにしても箒も杖もいったいどこへ消えちまったんだろう。"

"うちには男の子がひとりいるし、もとを糺せばぼくだって男ばかりの三人兄弟だから、どう見積もったって生来の魔女の家系じゃないよ。"

"随分と冷めたことを言うんだねえ。あたしの母さんが教えた呪文を早速試したりして、天才の名をほしいままにしてきたお前さんも、いまになって魔法を封印するっていうのかい。

 まあ、波風たてずにやっていきたいというのならそれもよし、ときたもんだ。"

 時間は経過していないとイリーゼさんは言ったけれど、ぼくは自分たちが住む村に夜明けが近づいているのを直感していた。

"そろそろぼくは帰ろうかな。ここからだと相当な<時間>を要するし。"

"もう帰るのかい。まあいいさ、あたしはずっとここにいるんだからね。気が向いたらいつでも訪ねてくればいい。チビっ子たちを連れて来たっていいんだよ。

 それとミハイリアの病気のことは夫婦で落ち着いて話し合うことだ。お願いするのはそのあとだっていいんだからね。"

 ぼくは魔女の館をあとに速足で家路を辿ったが、かなり長い間イリーゼさんの軽やかな声が耳に届いていた。


−−あたしの居場所は秘密になどしなくていいからね。

 誰に言っても構わない、でも放埒な女だなんて噂は広めないでおくれ。

 気をしっかりと持って、一歩ずつ進むんだ。

 それじゃ、達者で。純潔な子鹿さん−−


 ぼくは漆黒の森に少しずつ足跡を刻みながら、脳裡にさまざまな葛藤と交錯が渦巻いていく感触をおぼえていた。

 この広いババリアの山と谷の美しい風景を、当たり前に接することで育ってきたぼくが、いつ頃だったか、ぼくにとって財産ともいえる日常の風景が、世界中の人びとの心を捉えていると認識したのだ。それはぼく自身が世界中のひとと共通した価値観を持つことができた証なのだともいっていい。

 ババリアの景色に感動した人たちは口を揃えて言う。荒々しく殺伐としたヴァリスやドーフィネの巨峰群と違い、このあたりの山なみは穏やかで優しい印象を受けるのだという。世界中の旅人を惹きつけてやまないのは、その箱庭のごとき山岳景観なのだというのもよく耳にする言葉である。

 ぼくが住む村、ホーエンクレエガウにもそのような遠来の友たちはやってくるし、袋小路になっている穀物商広場の旅籠屋は三軒ともうちの親戚だから、ぼくだって旅行者の道案内を頼まれることもある。

 ほんとうに世界中でよく知られているのだな、そんな折ぼくはちょっぴり自慢げに振舞ってしまったりする。

 世界中に知れ渡ったといえば、ぼくの村から三つ谷を越えたラムザウにあるセバスティアン教会はジグソーパズルになって親しまれているらしいのだ。

 たとえラムザウに辿り着くことができなくてもジグゾーのピースをひとつ握りしめていさえすれば、そのぶんの満足が得られるなんて、滑稽だけれど嬉しいことと思う。

 小学校の授業で、アルプスの山々を広く知らしめたのは十八世紀スイスのアルブレヒト=フォン=ハラーだと聞いたことがある。彼は医師で詩人という肩書を持っていたが、前後して画家たちもこぞってアルプスの風景画を世に送り出した。

 ぼくはガスパル=ウォルフもセガンティーニも好きだし、ナポレオン一世を描いたルイ=ダビットの仕事ぶりも立派だと思うけれど、ことババリアの自然と風景の美しさを的確に表したのはヘルマン=ヘッセではないだろうか。

 ヘッセは詩や小説に山村の絶景をを織り込むのを得意としていたらしく、ぼくも小さい頃ヘルミーネおばさんがヘッセの詩を朗読して聞かせてくれたからよく知っている。その当時ぼくは、亡くなった夫となまえが同じだからおばさんは気に入っているのだろう、くらいにしか思わなかったが、ヘッセの文学が世界的な規模で読者に愛されているのはさらなる理由があるからとのことだった。  

 おばさんはそれを<人生航路の指針>と呼んでいた。ひとはそれぞれ、その成長過程において大切なものを手放していくのだという。けれどもそれら、失ったもの、七つのうち四つくらいは、のちの努力や奉仕、善徳の積み重ねを示すことで取り戻せると、ヘッセの作品のなかに暗示がみられるそうなのだ。

 いつ頃からだろうか、ぼくにはひとつ気になることがあった。運命には忠実に、そして従順に、聞こえはいいけれど、ぼくはあまりに恵まれすぎて努力を怠ってきたのではないかと思いはじめたのだ。惰眠を貪り、すべては風任せ。

 イリーゼさんの夫ペーテルさんは誤って時計を巻き戻してしまうほど研究に没頭していたのだろう。しかしぼくにはそのように夢中にさせてくれるものがあっただろうか。最近になって幼い息子のフランチェスコが天文宇宙に関心をみせたのに触発されて、位相学や形象学の本を読んでみるとこれが結構おもしろい。

 とはいえペーテルさんの水準には到底及ばないのが現状だろう。

 もう夜明けは近いとみえ、ぼくがシュピーゲル湖の畔に着くと、仄かに柔らかみを増した満天の星空が湖面に映え、何かを蘇らせそうな気配をみせたので、来るときと同じように湖底を覗き込んでみたけれど、もはやぼくの潜在意識はすべて流れ出てしまったのであろう。映像が浮かぶことはなく、月明かりの射し込む鏡のような湖面に映るのはぼくの顔だけである。

 蠱惑の森へと向かうときは、それこそ身構えていたし、魔力のせいで白髪の老人に姿を変えられるくらいは覚悟したものだけれど、水面に映るぼくは、思いのほか幼く感じられて、それで苦笑いをしてしまった。

 なぜだろう、イリーゼさんと会った魔女の館がとてつもなく遠い果ての地へ追いやられていくように思われる。

 さよなら、イリーゼさん。そう言おうとしたぼくの唇に不可思議な何かが衝突し、風もなく、星空も輝いているというのにシュピーゲル湖の水面がいきなり波立ったかと思うやいなや、瞬く間に水かさを増し、そこに佇んでいたぼくの膝を濡らし、溢れんばかりの勢いで村へ下る小道のほうへと流れだした。

 いけない、慌ててぼくはそこを離れ、家族の待つ村へと急いだ。


 家に着くとミハイリアが庭にいた。暑苦しくて眠れないでいたのだろう。薄暗い日の出前の涼風を浴びていたようで、出しっぱなし玩具類が彼女の焦燥を物語っていた。

"お帰りなさい、<あのひと>には会えたの。"

 ぼくが頷くとミハイリアはいたずらっぽく笑ってつけ加えた。

"よかったじゃないの、初恋のひとと再会できたのだものね。ミハイ、私はあなたに謝らなくてはいけないわ。ごめんなさい、病気のこと黙っていて。あなたに心配をかけたくなかったのよ。脊椎湾曲症、くる病なの、私。あと十五年ほどで完全に曲がりきってしまうそうよ。"

"ミハイリア、君がせむしになってしまうというの。"

"ええ、そうよ。いろいろと原因はあるみたいだけれど、私が小さかった頃は新生児を母親のお乳だけで育てるのはごく普通だったというし、いちばん成長する大切な時期に、私ったら外出を嫌がって家の中ばかりで過ごしてきたでしょう。

 それに偏食もひどくてキノコをほとんど食べていないから栄養不足で、その報いでもあるのよね。"

−−なんということだ。イリーゼさんはすべて知っていた−−

 真実を告げられ、急に流れ落ちた涙をぼくはおさえることができなくなった。

"ミハイ、泣かないで。お願いよ。またパパを泣かしたってルジアにお説教されるじゃないの。

 別に命にかかわる病ではないのだし、いまでは車椅子もベッドも便利なものがあるわ。私はあまり悲観していないのよ。だって不自由になったらずっとあなたが一緒にいてくれる、そんな気がするんだもの。"

"そうだね、その通りだよ。その頃にはこどもたちもみな大きくなっているだろうし、ぼくだって今みたいに動き回ることなく指図するだけになっているだろうし、ふたりだけで長い時間を過ごすことできるよ、きっと。"

"ねえ、イリーゼさんと何をお話したの。"

"君の病気のこと、あの<骨貝>を見てすべてわかったみたい。動揺したぼくのほうが完全に勇気づけられる結果になった。

 蠱惑の森って、相当な道程があってね。行くだけで精一杯、あまり長居していないんだ。話も少しだけ、ほんとうは魔法のこととか、随意時間軸の基本原理についてよく聞いておきたかったのだけれど、それはそれで自分で調べろってことなのかなあ。

 帰り道でいろいろと考えてみた。だって毎日を無為に過ごしていたらいつまでたってもペーテルさんに及ばないし、いずれはフランチェスコに出し抜けを喰らう。本職が医者の詩人とか、ナポレオンを描いた画家とか、人生航路の指針を書き綴ったひとたちは、何かがきっと違っていたんだと思う。"

"なあに、それって。"

"いや、個人的なこと。いまのぼくには曖昧で抽象的すぎてあまりよくわからないけれどね。"

"そうね、焦らなくてもわかってくるのね。私も、あなたも。

 実は、あなたが森へ行っている間に、ヘルミーネさんが訪ねてきたのよ。"

"なんだって。"

"背中から黄金色の光を発していたし、一目見てこの世のひとではないとわかったわ。でもこどもたちも、決して怖がったりしないで良い子にしていたし、神様のような存在だって気づいたのね。

 ひとりずつ頭を撫でてもらって逆毛を直して、それがご挨拶だったみたい。

 たぶんあなたが知っているよりもずっと若い姿でしょう。三姉妹が小さかった頃のお母さん、って感じかしら。

 その少し前にひどい嵐がきて、私のパパが、こどもたちが濡れるといけないからと家まで送ってきてくれたの。

−−この大嵐では葡萄園にかなりの落氷被害が出るだろう。出荷できなくなった葡萄を貴腐ワインの原料にまわせないかという依頼もありそうだ。

 本来貴腐ワインは少量生産だからこそ価値があるものだが、被害に遭った葡萄を安値で引き取るのもわが家の役割だからなあ−−

 なんて愚痴を零しながらも、こどもたちの相手をしててご機嫌だったの。

 慌ただしく雨雲が消えていくと、そのあとに夕陽が輝きだして、その頃よね、ヘルミーネさんがやってきたの。約束したものをお届けに来ました、ってね。"

 ミハイリアが指差した方向に眼を移すと見覚えのある杖と箒が立てかけてある。そうだ、あのとき傷心したぼくに垂訓を宣い、勇気づけてくれたイリーゼさんが、その土壇場で魔法のアイテムをどこにしまったのかを忘れるというハプニングに見舞われたのだった。娘の失態を補うべく母親が冥府から出てきてまで示しをつけてくれたのだ。これはぼくの想像だが、さすがのイリーゼさんも魔法の世界ではまだ駆け出しということなのだろう。だとすればあのときの彼女の台詞とつじつまが合う。

"ミハイリア、ぼくは全てわかったよ。こどもたちがひとりだちして、手がかからなくなったからってそれで終わりではないんだ。ヘルミーネおばさんははそのことを伝えに来てくれたんだ。

 イリーゼさんの結婚を心から喜んでいたおばさんがあのとき口にした言葉の真意を、ぼくはいま全て理解することができた。"

"ええ、ほんとうに素敵なお母さんね。神々しくて高貴な魔女だわ。"

"ほら、この杖、木瘤のところに鉛か鉄が入っているようだ。すごく重い。一〇〇キロ、いやー五〇キロはあるんじゃない。"

"こんなものを振り回すの。大変なのね、魔女って。"

"箒も重いよ、四〇キロくらいかな。持ってみるかい。"

"何でできているの、金属みたいだけれど。"

"触った感じだと含モリブデン不銹鋼のようだね。おそらくは反物質の原理かなにかで飛ぶのだろうし、自重があったほうが安定するからね。

 ダグラスやシュミットが接近してきたって風圧に煽られることもないだろうし、ブレゲエの初期型よりもずっと乗り心地がいいと思うよ。"

"乗って飛んでみるの。"

"いや、やめておこう。いまのぼくたちでは着地の操作が上手くできないだろうからね。真っ逆さまに墜落して怪我でもしたらそれこそこどもたちのいい笑い者だよ。ぼくはこれがいい。"

 懐かしい横笛を見つけると、手にとって吹いてみた。

"この笛を吹いて水牛に農耕の作業をさせたのね。たしかモローの絵のように、あら、ルノワールだったかしら。"

"だからそれはマネの絵だって。来週にでも非番の日を見つけてザルツブルク北方のハルシュタットへ行ってくる。モーツァルトが幼年時代道迷いをして、帰れなくなったところだというんだ。

 ヴォルフガング少年はそこの泉でとても不思議な音楽と出会った。両面すくなの幽霊が奏でるアンサンブル、背中合わせのひとりが竪琴を弾き、もうひとりが横笛を吹いていたそうだ。

 彼はそこで聞いた曲を<フルートとハープの協奏曲>“としてのちに発表しているけれど、数多いモーツァルト作品のなかでも至高の絶品と呼ばれるKニ九九がそれにあたる。

 ぼくは原曲がどのようなものであったのか前々から興味があってね、一度聞いてみたかったんだ。手がかりくらいはあるけれど、聞きとめることができたら真っ先に君とこどもたちに聞かせよう。"

"じゃあ、私は--"

 そう言いかけたミハイリアの寝癖のついた赤髪に、先端の折れた黒い尖んがり帽子を冠せてやった。

"よく似合うよ。ルジアが起きてきたら、ママかわいい、って喜ぶんじゃない。"

 魔女の帽子があまりにお似合いなので少し癪にさわったけれど、ミハイリアは上目遣いに、暫くぼくを見つめたきりでいた。

"それなら、この外套も私がいただこうかしら。いまは暑くて着られなくても、これなら背骨が曲がってしまっても目立たなくできそうね。"


 夏至の早起きな太陽はいよいよ高みをまして、大地に眩光を降り注いでは草を濡らした朝露を消滅させている。午前五時の太陽は夜啼鳥(ナハティガル)峰の山頂よりも遥か上空だ。さっきの時報は十五分刻みが四度鳴ったあと正刻音が五回響いたから鐘の音は合計九回鳴っている、筈なのだ。

"あれっ、鐘の音ひとつ、少なくなかったかい。"

"私はちゃんと九つ、聞きとめたわ。ねえミハイ、魔法のアイテムってほかにどんなものがあるの。ヘルミーネさんがね、ここの世界までやって来るのは簡単ではないけれど、約束のものは定期的に必ず届けますって言っていたのよ。"

"それなら、<ジプシィが壊した古代戦車の車軸>とか、楽器なんかかなりの種類があったかな。マンドローネ、マンドリュート、ビグエラ、弦楽器が多かったね。

 ぼくがいちばん欲しかったのは<レーツェルの青いサフラン>だよ。なんでも四百年に一度しか花を咲かせないらしい。"

"あなたにとってイリーゼさんはどんな存在だったの。"

"どんなって、筆舌に尽くしがたくなる質問だね。"

"好きだったんでしょう。"

"好き、だとか、恋愛感情とか、あのひとはぼくが三つのときもうすでに結婚適齢期をむかえていたんだぜ。どう考えたってバランスが悪すぎるよ。"

"でもイリーゼさんはあなたを軽視できないほどに感情を揺さぶられていたようだわ。"

"だからそれは、魔法の流れにぼくがのってしまって--"

"私だってあなたのことは、小さい頃から知っていた。けれど普通に考えて、いくら親どうしが決めた婚約だからって、十二歳の男の子に全幅の信頼を置けるものかしらって、不思議に思っていたのよ。

 天才とか超早熟とか、一言では言い表せないほどの運命をあなたは背負っていたはずよ。だからって傍目には何の悩み事もないように映っていた。きっと魔法の作用であなたはずっと庇護されていたのね。"

"何が言いたいの。"

"イリーゼさんはあなたにとって特別な存在なのよ。"

"そりゃあ、颯爽としていて、格好よくて憧れたことはあったけれど。面倒見がよくて頼りがいのある姉さんみたいな感じかな。"

"ねえ、大人になったからって、失わずに済むものまで手放す必要ってあるのかしら。私は、大切なものは胸のうちに抱いたままでも良くないかって思うの。

 だってあなたが取捨選択ばかり上手にやっていたら、私はこどもたちになんて説明すればいいわけ。あなたたちのパパは冷酷で情操に欠けるニヒリストですって言えばいいの。

 私はひとりっ子育ちで友人も少ないわ。頼もしいお姉さんだったら、私だって欲しい。あなたに独り占めさせたくないのよ。相談にのってほしいことだってたくさんあるんだから、泣き虫な夫をどうやって慰めたらいいでしょう、とか。"

"厭だよ、そんなこと。それに、あの場所に君が行けるとでも思っているのかい。"

"もしかしたら、箒と杖が--"

"だめだよ、闇雲に行動を起こしたら。"


−−親愛なる魔女の皆様!! 迫害と抑圧の時代は過去のものとなり

 もはやあなたがたは不遇を囲うことはありません。

 しかしながら成長を続ける人類は

 嘗てのように魔法を頼りにはしないのであります。

 こののちは、森にて安息をとられるのがよろしいかと。

 はたまた森から抜け出てめだとうものなら

 それこそすべては台無しなのです−−


 Alles lieber Hexen!!

 Es ist vergangenheit der Jahren

 das Verfolgund und Untergluckung,

 jetzt ihr wurde nicht missgeschick betroffen.

 Doch der gewachsende Menschen

 macht ohne Zauber wie das Einst kann.

 Hiernach das ist besser ihr Ruhe in Wald haben.

 Jedoch Sie komme auf dem Wald ins Augen fallen,

 Alles ist verdorben,beschmutzt.

 

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