娼婦に堕ちて六年、元悪役令嬢は星の数ほど女を抱いた男と出会った
※注意
本作はプロローグ短編です。
二人が出会うまでで話が終わっているため、ご不快な思いをさせてしまうかもしれません。
ご注意くださいませ。
ヴィスタリア王国の王都ランブル。涼しげな夜風が吹く、春の日の深夜。
町中を流れる小川にかけられたアーチ状の小さな石橋にて。ひどく痩せ細った女性が、幽鬼を思わせる暗い表情で水面をぼんやりと眺めていた。
女性の名はソフィア。五年前までは公爵令嬢という地位にいたものである。
かつては傾国の美姫と呼ばれたソフィアだが、その面影はいまや見る影もない。眩いばかりであった金髪は色艶を失った。自信に満ち溢れていた目は輝きを失った。透き通るような白さを誇っていた美肌も失った。ぼろのワンピースのしたにある体の純潔も失った。
そうして残されたのは、底辺娼婦と呼ぶに相応しい器量のみ。娼婦として過ごした五年の月日は、ソフィアから彼女を飾る多くのものを奪い去ってしまっていた。容姿を始め、自信や知識といった内面に関するものまで、およそすべて。薄汚れた容姿と、最低限の接客ができる程度の思考力だけしか、いまのソフィアにはもはや残されていない。
か細いろうそくに灯された火ほどの頼りない意志も、先ほど燃え尽きてしまった。最底辺の娼館から逃げ出してくるだけの気力。ほかの娼婦と雑魚寝を強要される狭い部屋から、救いを求めて嗚咽をこぼしながら走るだけの体力。それらはこの石橋に辿り着くと同時にかき消えてしまっていた。
いまのソフィアは考えることをやめたただの生き人形だ。人間としてたしかに生きてはいる。だがそれだけ。うつろな目に映した水面と、そこに反射する月明かりの光を理解するだけの頭はない。廃人に至る寸前の状態であった。
「俺はユウちゃん、ドンペリ大好き元ホスト。抱いた女は星の数、女は大体抱きたい規格外なナイスガイ。異世界転生して幾星霜、打てども打てどもかれない超精巣」
そこへ鼻歌を陽気に口ずさみながらやってきた、一人の青年。彼曰く、「新宿のホストは大体こんな感じ」という髪形が特徴的な二十四歳の冒険者である。駆け出しの冒険者がするような軽装に身を包み、腰元には刃こぼれが目立つ安物の剣を一振り帯剣。服装同様、顔立ちもまた非常に軽薄そうなつくりをしている。
「おっ、可愛い女の子発見。へい彼女、今夜は俺とパコってみない? パコってミッドナイ! フゥ!」
石橋の手すりに片肘をつき、ソフィアの目線に割っている青年。彼のウィンク魔法が小さな流れ星を生み出した。そのつぶてはソフィアの頬に当たるや、ぱっと弾け、淡い粒子となってはらはら消えていく。
「「……」」
沈黙が訪れる。ソフィアは依然としてうつろなままだ。青年は一文字に結んだ口の両の口角をあげつつ、目をぱちくりとさせている。両者の間に言葉はない。そうして静寂の時がゆるやかに流れていく。
どれぐらいそうしていただろうか。青年が体勢を変えずにこくりこくりと舟を漕ぎ始めたころ。色を失っていたソフィアの目にふいに知性の光が灯った。
「あ、あの……」
「ん? ああ、おはよ。え? こんなところで寝ると風邪ひいちゃうって? それなら大丈夫。もう恋の病にかかってるから――なんつって!」
青年のウィンク魔法が再び発動された。先と同じように、流れ星のつぶてがソフィアの頬に当たって弾け、淡い粒子となる。
己の胸元を通り、石畳の地面へとゆっくり落ちていく粒子をソフィアは黙って見送る。粒子は地面に当たると同時に、またぱっと弾け、やがて完全に消えてしまった。
なにこれ……。ソフィアの頭に思考力がふわり舞い戻った瞬間であった。
「いっけね、自己紹介がまだだったか。俺の名前はユウイチ。気軽にユウちゃんって呼んでくれていいよ。みんなからもそう呼ばれてるし」
「わ、私はソフィアです」
「うぇ〜い?」
気後れして萎縮するソフィアに対し、青年――ユウイチがグータッチを求める。
ユウイチが胸元まで掲げた右手の握り拳。その行動の意味を理解できないソフィアは戸惑ってしまう。ユウイチと握り拳を交互に見る彼女の目には若干、怯えの色も見て取ることができる。
ソフィアの戸惑い察したユウイチ。彼はソフィアの右手を優しく手に取り、両手で包みこむようにして握り拳を作らせる。そうして先に己がしたように胸元まで掲げさせてから、コツンと、改めて作った己の握り拳とグータッチの挨拶を交わしてみせた。
「うぇ〜い?」
「えっと、うぇ、うぇ〜い……?」
「うぇ〜い!」
これも何なの……。理解不能な行為を目の当たりにし、ソフィアの頭に思考力が加速的に戻っていく。すると頭の中のもやが晴れていくような、頭がぐんぐんと冴えていくような、心地良いような悪いような不思議な感覚に襲われた。
改めてソフィアは目の前にいるユウイチの全身をまじまじと見やる。それが不躾であることはわかっていても、やはり注視せずにはいられない。この人は一体何なのだろうか、と。
「んで、ソフィアはこんなとこでなにしてたの?」
「――えっ?」
不意を突かれ、ソフィアがはっとしたように顔を上げる。逆に質問されるとは思ってもいなかったからだ。日常会話に要する感覚はまだ完全には取り戻せていないようである。
「だっておかしいでしょ? こんな夜更けに女の子が一人で出歩くなんてさ。ここらへんあんまり治安よくないから危ないと思うよ?」
「それは……」
「ま、なんかワケありって感じか」
どう答えればいいのか、口ごもるソフィア。
そんなソフィアを見かねたユウイチは石橋の手すりに両肘をつき、水面を眺め始める。同じように、先にソフィアが眺めていたことは彼も見知っていた。
「俺でよければ聞こっか?」
「えっと……」
「ソフィアがなにを抱えているのかはわかんねぇけどさ、きっと話せば楽になるって。誰かに話せば、誰かに話を聞いてもらうだけでも心は楽になる。そういうもんじゃない?」
そう言ってユウイチはソフィアに微笑みかける。どこか浮ついたような雰囲気を一変させ、そっと寄り添うに優しく。
また水面へと視線を戻したユウイチの横顔は、ソフィアの目には深い哀愁を漂わせているように見えた。生温い夜風が吹き、立ち並ぶ二人の頬を撫でていく。
ソフィアは己の心が揺れているのを自覚した。ユウイチの言葉に、歩み寄ってくれた彼の心によって揺らされたのだとも。
そしてまた、ソフィアは心と呼べるものがいまだ己のうちに残っていることに驚く。とうの昔に壊れ、捨て去ってしまったはず。そう思っていた、そう思いこまずにはいられなかったものが心だ。胸のうちがわをじんわりと温かくさせられる懐かしい感覚。それはとてもではないが言葉では言い表せられそうになかった。
「じゃあ、その、聞いてもらっても、いいですか……?」
「もちろん聞くとも。何時間でも、たとえ何日かかろうともね」
「さすがに何日もはかかりませんよ」
いたずらっぽく笑ってみせたユウイチに、ソフィアが笑みを返す。
何年ぶりに笑っただろうか。ついそんなことを考えてしまいながらソフィアは石橋の手すりに手をのせる。石材のひんやりとした冷たさが、取り戻した体温の熱を下げてくれるように感じつつ、また戻した視線の先。真っ黒であったはずの水面に、月明かりがきらきらと反射して見えた。
「いまからずっと昔、私はとある公爵家で生を授かりました――」
遡ることいまより二十三年前。ソフィアはローズダット公爵家で産声をあげた。
ヴィスタリア王国において、ローズダット公爵家は名門中の名門だ。建国初期から続くその歴史は古く、けっして浅く軽々しいものではない。
そんなローズダット公爵家に生まれたソフィアは、幼いころから英才教育を施されてきた。家格を損なわないように、同家に相応しい淑女となるべく、厳しく育てられたのだ。一日のほぼすべてを勉学や習い事に費やす毎日。貴族に必要とされる教養を身につけるため、休む暇はほんの少したりとも許されなかった。そこに己の意思を介入させられる余地もなかった。ソフィアはただただ両親に命じられるがままに生きていたといえよう。
そうして日々を過ごし、やがて迎えた八歳のある日。ソフィアは両親から、己が第二王子と婚約する旨を伝えられる。
しかしながら、同時に述べられた両親からの祝福の言葉に感情はなく、二人の表情に喜びといった感情はまったく見受けられなかった。兄弟や使用人一同を含んだ全員が、等しく寒々しい目を向けてきたのだ。
その日、己がただの道具にすぎないことをソフィアは思い知らさせられた。己は政略結婚の駒にすぎず、誰からも愛情を向けられていないのだ、と。
その後、沈んだ気持ちでのぞんだ第二王子との顔合わせの日。第二王子――ミハエルとの出会いはソフィアにとって特別なものとなった。
『幸せになろうね』
会話の中、同い年のミハエルが発した何気ない一言。美少年と呼ぶに相応しい容姿でもなく、第二王子という地位でもなく、ほかのなにものでもなく。その一言にのみ、ソフィアは胸を熱くさせられた。この人はきっと、己を道具としてではなく一人の人間として見てくれるだろう。そう思ったら、目に見える景色までもが鮮やかに色づいたようにすら感じられたのだ。
すると自然と毎日が楽しいものになった。難しい授業に頭を悩まされても苦にならない。厳しい稽古で体を酷使しても辛くない。まるで背中に羽が生えたかのような錯覚を覚えてしまうほど、身も心も軽くなった気がした。ミハエルに相応しい伴侶となるためならなんだって頑張れる気になったし、事実、頑張ってくることができた。
ところがある日、そんな幸せな日々に転機が訪れる。
当時十七歳、ミハエルと二人揃って入学した王立学園で三年生への進級を迎えた日。始業式を終え、教室へと向かう廊下で一人の少女――サクラと、ソフィアの肩がぶつかったのがすべての始まりだ。終わりの始まりであった。
八歳から十七歳に至るまでの九年間。交流の頻度はけっして多くはなかったものの、ソフィアとミハエルはたしかに愛を育みあってきた。
あの日のミハエルの言葉にたしかに嘘はなかった。幸せになるため少しずつ、少しずつ歩み寄って埋めてきた二人の距離。手を繋ぎ、互いに頬を染めあい、同じ未来を夢見た日々はたしかに存在していたのだ。
だが、その九年間にも及ぶ歳月は崩れ去った。培ってきたはずの信頼関係はあっけなく崩れ去った。どちらもサクラのせいで瞬く間に崩れ去ってしまったのである。
まず始まりはサクラと肩がぶつかった際、ソフィアが彼女にした注意。淑女たるもの廊下を走らないように、と。優しく丁寧に注意したはずだ。それにも関わらず、結果サクラは目尻に涙を浮かばせて怯えてみせたのであった。
次に偶然、そこへ居合わせたミハエルがサクラを庇った。彼女は転入してきたばかりなのだから優しくしてあげるように、と。もちろんソフィアとしては優しく丁寧に注意したはずだ。それにも関わらず、結果ミハエルはサクラの肩をもつばかりなのであった。
あとはもうトントン拍子に、ガラガラと音を立てて崩れていくばかり。
一つ、肩がぶつかったときと同じようなことが何度も起こった。なぜか最終的にソフィアが悪者になっており、ミハエルから逆に叱責されてしまう。そんな流れの出来事が幾度となく繰り返された。
二つ、サクラとミハエルの関係がみるみるうちに変わっていった。知人から友人へ。友人から親しい仲へ。親しい仲から恋人よろしい男女の関係へ。気づいたときには、ミハエルの隣にはサクラがいる光景が当たり前のものとなった。
三つ、サクラに対するソフィアの心もまた、どんどん醜く変わり果てていった。親切心からの注意は、己よりも劣るものとしての侮辱へ。日常の挨拶は、取り巻きの令嬢を従えての陰湿なイジメへ。サクラのせいで奪われたミハエルと過ごす時間は、どうすれば彼女を貶められるのかと歯噛みする時間へ。清くあるべきと磨きあげてきた心は嫉妬と憎悪に塗れてどす黒く変色していったのだ。
最後に、ソフィアは悪役令嬢として断罪された。卒業パーティーの場で、ソフィアは己の唯一にして最愛であるミハエルから婚約破棄を言い渡されたのだ。そのとき己が立っているはずのミハエルの隣にはサクラが立っていた。
そうして気づいたときにはもう、なにもかもが終わってしまっていたのだ。たった一年間でもって、あの九年間は無きものにされてしまったのである。
ソフィアがその事実に気づかされたのは暗い牢屋に投獄されてから。その事実を受け入れざるをえなかったのは娼婦に堕とされて純潔を失ったときであった。
なお悪役令嬢なる造語について、ソフィアは牢屋に面会に来てくれたサクラから投げかけられている。
もっともその意味をソフィアが知る由はない。なにせ眠っていたところに投げかけられた言葉だ。サクラからただ一言かけられた、「お勤めご苦労様、悪役令嬢さん」という労いの言葉はソフィアの耳に届いてはいない。
「――ミハエル様に婚約を破棄されてからの六年間、私は娼婦として過ごしてきたわ。サクラ様を貶めた罪に対して私に課せられた罰は娼婦を勤めること。娼婦としての売上を罪の清算に充てているの」
「ふむふむ」
「毎日毎日、誰かの性欲のはけ口にされてきたわ。きれいなうちは高級娼館で、醜くなるにつれて中級から下級の娼館で、いまでは最底辺の娼館で。何百、何千という男たちに抱かれ、ずっと罪を償い続けてきたの」
「何百、何千……!?」
「ああ、一つ訂正しなければいけないことがあるわ。本当はもう娼婦を続ける必要はないの。いつだったかは忘れてしまったけど、しばらく前には刑期を終えていたみたい。でももう私には行き場所がないから、娼婦という職業にみっともなくすがりつくしかないのよね」
「ふむふむ」
「これで話はおしまい。聞いてくれてありがとう、ユウイチさん」
すべてを言い終え、ソフィアは空を見上げる。
先ほどまで夜空に輝いていたはずの月はいまはもう見えない。厚い雲で隠された向こう側から、雲の切れ間を縫うようにしてわずかな光を届けるのみ。ソフィアの心を明るく照らすまでには至らない。
誰かに話せば心が楽になる。たしかにその通りだったと、ソフィアは顔をうつむかせつつ思う。
ただ一方で、ユウイチの言った「楽になる」とは少し違うようにも、ソフィアには思えてならなかった。なぜなら、己の心はいまだ後ろ向きなままだからだ。前向きになれる気はまったくしない。この、すっきりした諦念を抱いているという空っぽな状態をどう受けとめていいのか、いまのソフィアにはわからなかった。
「ん〜、オッケ。それじゃなにはともあれ、お勤めお疲れ様でぇぃす! うぇ〜い!」
「……はい?」
「いやだから、お勤めお疲れ様でぇぃすってば。ほら、ね? うぇ〜い!」
今度は半ば強引に、ユウイチによってソフィアは握り拳を掲げさせられ、彼とグータッチさせられた。握り拳をゆるゆると力なくおろしていくソフィア。ユウイチはいままでと変わらぬ笑みでもって嬉しそうにはしゃいでいる。
この人、本当に何なの……。理解不能な人物を目の当たりにし、ソフィアの思考力が急速に衰えていく。真剣に語った己が馬鹿らしくすら思えてしまう次第である。
「なにしけた面してんだよ、ソフィア。ほら、笑って笑って。罪はちゃんと清算し終えて刑期は満了してるんだからさ」
「そんなこと言われたって……」
罪を清算し終えた自覚はソフィアにはない。またそのようなことを彼女は一度足りとも考えたことがなかった。はたして笑うことは許されるのかと戸惑ってもしまう。
「それにまだ二十三歳だろ? 仮に八十歳まで生きるとして、一日に換算して早朝に起きたとするでしょ? そしたらまだ四分の一ぐらいしか経ってないじゃん。まだお昼過ぎだっつーの。余裕余裕。ソフィアの人生、まだまだこれからだって」
「そんな計算、初めて聞いたんだけど」
ユウイチ式の人生換算では、ソフィアの人生はまだまだ始まったばかりだ。午後は海水浴、夕方はBBQ、夜は花火まで楽しむことが可能である。午前中の失敗を引きずって気を落とす必要はまったくない。それが刑期を勤め終えているのであればなおさらのことであった。
「でもまだまだこれからって言ったって、じゃあこんな私にこれからどう生きろって言うの? だって私は最底辺の娼婦なのよ? 何百、何千人の男から性欲のはけ口にされてきた私なんかが幸せになんかなれると思う?」
「普通に思うでしょ。むしろ逆になんで幸せになれないって思ってるのか、俺には不思議で仕方ないんだけど。え、なんで?」
「そ、それはだから、私は娼婦だから……」
「ていうか、さっきから何なの? 経験人数でマウント取ってこようとしてるけどさ。え、なに、マジ俺に勝てると思ってんの? 無理無理、絶対勝負になんないよ? だって絶対俺のほうがたくさん女の子を抱いてるから」
「……は?」
たっぷりと間を置いてから、ソフィアが素っ頓狂な声をあげる。
「ぶっちゃけ俺くらいのレベルになると、もうさ、言葉で抱いてるんだよね。わかる? 愛のささやきで女の子を優しく包みこんできたってわけ」
「ごめんなさい、まったく理解できないわ。あなたは一体なにを言ってるのかしら?」
「だから俺が抱いた女は星の数。マジ何百、何千どころじゃすまない数だから。もうね、全っ然勝負になんないから、マジで」
突然、謎の対抗心を発揮してきたユウイチ。唖然とした表情のソフィアに対し、腕を組んだ彼の表情は得意げそのもの。己の勝利を確信してやまない、男としての威厳に満ち溢れたものであった。その威厳がはたして正当なものであるかどうかは別にして。
「ていうかそもそもの話、ぶっちゃけ経験人数なんてどうでもよくない? エッチしたこと有るか無いか、要は二択の話でしかないんだからさぁ」
「そ、それはちょっと極論すぎではなくて……?」
「そんなことよりも、ソフィア。ソフィアはいまここにいる。それが答えなんじゃねぇの?」
「それが答えって――」
続けようとしてソフィアは言葉に詰まってしまう。ユウイチの指摘はもっともだからだ。
なぜソフィアは娼館から逃げ出してきたのか。わずかに残された意志の力を逃走に費やし、なぜ嗚咽をこぼしながら逃げ出してきたのか。
それは救いを求めたからだ。最底辺の娼婦が辿るであろう暗い未来に絶望を覚えたからだ。人並でいいから明るい未来を手にしたい。そんな願いをソフィアが知らず知らずのうちに抱いていたからにほかならない。
「んじゃソフィア。とりあえず俺と来る?」
「――えっ?」
「いや実はさ、いまアドサーを立ち上げようとしてるんだよね」
「アドサー?」
「うん」
アドサーとはアドベンチャーサークルの略称である。ユウイチの母国語である日本語に訳せば冒険者サークル。早い話がクランのことだ。また補足しておくと、冒険者ギルドにおけるクランのことをアドサーと呼んでいるものはユウイチしかいない。
「ソフィアは頭良いんだから会計係やればいいじゃん」
「やればいいじゃんって、あなたねぇ……」
「うし。そうと決まれば善は急げだ。ソフィアの働いている娼館に身請け金をビシッと叩きつけに行こうぜ」
「ちょっと待ちなさい。そもそも身請け金はあるの――」
娼館の場所を知らないにも関わらず、さっさと歩いていくユウイチ。その背に疑問を投げかけようとして、ソフィアははっと息をのむ。
第一声で断らなかったのはなぜか。いつの間に己は、見ず知らずの冒険者にすぎないユウイチの提案に乗り気になっていたのか。後ろ向きであったはずの心は、いつの間に前向きになっていたのか。
ほんの小さな予感がした。なにかが動きはじめるような、なにかが変わっていくような予感を覚えてしまったことを、ソフィアは自ずと理解した。
立ちどまっていた足を一歩踏み出し、ソフィアはユウイチを小走りに追いかけて彼の横に並んで歩く。胸に手をあてると、にわかに高鳴りはじめた鼓動の脈打つ音が伝わってくる。少々の運動が原因のものではない、明るい未来を予感しての高鳴りがはっきりと伝わってきた。
「あるある。超でかいドラゴンを狩って用意した聖剣購入用の一億ルピーがな」
「ドラゴンですって? あんなの伝説上の生き物じゃない、存在しないものを狩れるわけないでしょ。わかりきった嘘をつくのはやめなさい」
「いや、嘘じゃないんだけど……」
「それより馬鹿じゃないの? 聖剣が売り物になってるはずないでしょうが」
「あ、やっぱりそう思う? でもワンチャンある気がするんだよね。裏路地にあるめちゃくちゃそれっぽい感じの武器屋だし。あるある。マジワンチャンあるって」
「ワンチャンの意味はわからないけど断言してもいいわ。それ絶対に偽物よ」
こんな風に気楽に話す日が来るとはソフィアは夢にも思っていなかった。むしろそもそも誰かと軽口を叩き合うのはこれが初めてかもしれない。そんなことを考えながら彼女はユウイチと二人並んで歩く。
「あ、そうだ。一つ言い忘れてたことあったわ」
「なにかしら?」
「サークル内ってメンバー同士の恋愛厳禁なんだ。だからソフィア、悪いけど俺の女になるのは諦めてな?」
「は?」
「悪い、本当ごめん! 多分もう惚れちゃってるだろうから本当ごめんなんだけど――って、待て待て。いいか、落ち着け。一旦落ち着こう。やめろよ? 振りじゃなくてマジでやめろよ? それでぶん殴るのだけは絶対にやめ――んひぎっ!」
雲の晴れた夜空から満面の月明かりが降り注ぐ。それでもまだ夜は明けていないため、周囲は依然として薄暗いままだ。
だが不思議とソフィアには明るく感じられた。むしろ十分なほどである。誰かを殴る鈍器として使うのにちょうどいい大きさの石を見つけるのに苦労しないのだから。
なお、未婚の淑女が親族以外の異性と連れたって二人きりで町中を歩くこと、それが意味することをソフィアは忘れたままだ。少なくとも婚約破棄される前の彼女ならその意味合いから絶対に避けていた行動であろう。私の隣にミハエル様以外は立たせない、と。
最後に、この出会いはソフィアにとって二つの始まりだ。一つは罪を清算し終えたことで許された、新たな人生の始まり。もう一つは女は大体抱きたい規格外なナイスガイ相手に織り成す、新たな恋の始まりである。
公爵令嬢から悪役令嬢へ、そして最底辺の娼婦にまで堕ちたソフィア。とまっていた彼女の時がいま再び動きはじめた。
お読みいただきありがとうございました!
あとポイントください!(正気を疑うようなとんでもない大声)
【08月05日22時追記】
なお連載化は作者の力量不足により不可能でございます。
大変申し訳ございません!(地べたに頭を擦りつけながらの大声)
【08月07日9時追記】
続きをとの声、また応援に応えたかったのでエピローグ短編を投稿しました。
よろしければお読みください!(九十度にお辞儀しながらの大声)
【08月17日18時追記】
下部にリンクをご用意いたしました!(劇的な大声)