8-1
小刻みに揺れる薄暗い小部屋。
その中で、ぼろ着を身に着けたゴロツキのような風体の男たちが、木の壁やところ狭し置かれた木箱へ背に預け、休息を取っている。
そんな場所でただひとり、見るからに高級な藍色ローブにまとう男は、時折手を止めては羊皮紙にインクを垂らす作業を繰り返していた。
その男の片手に握られた麻の袋からは黄金色の金貨が見え隠れしており、それは布張りの壁の隙間から差し込んだ日の光を受けて時折怪しく輝く。
この世界にはヴェーナと呼ばれる行商人たちがいる。
静脈を意味する古の言葉を冠する彼らはモンスターの牙を恐れず、馬車で暮らすように移動し、その名の通り広大な土地に様々な恩恵をもたらしてきた。
彼らを突き動かすものはただ一つ。
それは金だ。この世界の行商は尋常でないほど儲かるのだ。
この男もそのヴェーナの一人だ。
はるか北に位置する小さな村の商家で五男として生を受けた彼は物心つく前から、自分が家業を継げぬであろうことを悟っていた。
だからこそ、故郷を訪れる馴染みの行商人へ齢14で弟子入りし、経験と人脈を培うことに力を尽くしたのだった。
それから7年の歳月を経て、独立した彼の前にはサクセスストーリーが用意されていた……なんて旨い話はあるわけがなく。
手始めに目をつけた異常増殖したボアの毛皮の買い取りは依頼を正しく理解しなかったハンターによって無残に切り裂かれ、再起を掛けた長耳族の里では門前払いを受ける始末だ。
それから先も、ヴァチノの街中で見つけた金になりそうな歌手の勧誘は好漢気取った男に邪魔されるわ、何故かシールへ関所の締付けが厳しくなり立ち往生させられるわ、で散々の結果と言っても良いだろう。
おまけに、厄介な<拾いもの>のおかげでウァチガノからも逃げ出す羽目になってしてしまった。
だが、これはもしかしたらチャンスなのかもしれない。
男は自分の前の床で毛布に包まり幸せそうに眠っているひとりの女へと、欲にまみれた目を向けて静かに嗤う。
この女は男とっての起死回生の商材だった。
一歩間違えば男の首を締める鎖へと変わるであろうその女は金になるのだ。
そんな男の気を知ってか知らずか、女はくせっ毛の茶髪へと手あてながら、寝言を言うのだった。
「むにゃむにゃ…もう食べられないですよぅー…アステルちゃん…」
ーーーー
アカネはあの瞬間、とても晴れやかな気持ちだったことを今でも覚えている。
原始人たちがなにやらいい雰囲気で『ここから始めよう、一歩ずつ』などと格好付けていたけれど、そんなことはアカネの知ったことではない。
彼らにメルからの言葉を伝えた時点で、この苛立たしい任務は終わったのだ。
あとはレイコを連れてアオイと共に馬車で悠々と帝国へと帰るだけ。
同じ道を通ればさすがのレイコも色々なところに首を突っ込むこともないだろう。
だから、アカネはそれはもう清々しい気持ちで任務の終了を宣言した。
「これで任務は終わりですわね!」
しかし、妹のアオイからは意外な言葉が返ってきたのだ。
「アカネ…勘違いしてる…」
「なんですの、アオイ?」
いったいこの愚かにも愚かしい愚妹は何を言っているのだろうか。
「メル様から…任務受けたときの言葉…よく思い出して…」
「『アステルと地図のことをハルたちに伝えてくるように』、でしょう?」
アカネはちょっと自信のあるメルのものまねを披露した。
「その後の…言葉も…」
「えーっと何でしたっけ、確か、『キミたちに手伝ってほしいんだ』、ですわ」
「繋げて…」
「『アステルと地図のことをハルたちに伝えてくるように。キミたちに手伝ってほしいんだ』ですわね。ほら、任務完了じゃないですの」
「切るところが…違う…。あとそのモノマネ…全然似てない……」
「えっ」
「『アステルと地図のことをハルたちに伝えて。…〈来る〉ようにキミたちに手伝ってほしいんだ』」
アオイのモノマネの方が似ていたのが、地味に悔しい。
いや、それよもだ。
今アオイはとんでもないことを言ったのだ。
「はぁ?!」
「あら、アタシもこの少年たちの旅に着いていくように言われてたわよ」
今まで傍観していたレイコまでそんなことを言ってきた。
「えっー!!なんということですのー!?」
アカネの悲痛な叫びをあざ笑うかのように木枯らしが吹き付けてくる。
命令が言葉足らずで難解なのは主の悪い癖だったが、まさかこんな落とし穴を仕掛けてくるとは思いもしなかった。
自分で勘違いしただけのことを棚に上げて、アカネは大きな溜息をついた。
「はぁ……」
つまり、アカネは………。
原始人並の知能しか持たない旧人類たちと、頭のおかしな賢者、そして生意気な妹を連れてこの旅路を共にするということなのだから。
「まぁ、えっと、なんていうか。よろしくねアカネ」
「厄介ごと持ち込んだのはそっちなんだから、お互い様よね」
「そういえば、ロゼは元気にしてっか〜?」
その原始人たちか口々に何か言っていたが、アカネの脳はそれを理解することを拒絶したのだった。
そんなことがあってから、半月近くの月日が流れた。
アカネたちは今、深々と生い茂った森の中を歩いている。
数時間に出発した長耳族の里はすでに緑に紛れて見えなくなってしまった。
「休憩…したい…」
アオイの小さな弱音が森の静寂に響く。
森を歩きなれていないアカネも妹と同じ気持ちで内心疲弊していた。
帝国領からハルたちの村までは馬車で楽だったが、ここに至るまで森に阻まれてしまった為、泣く泣くビィタ村で売り払い、徒歩での移動となってしまったのだ。
「おいおいおい、まだ5日以上は森歩きだぜぇ?それにしても、長耳族があんなに友好的になってたなんてびっくりだな!」
そんな二人をよそに先頭を行くリュイが脳天気に笑う。
「リュイの活躍のおかげだね。歓迎してもらえたのは本当に嬉しいよ」
ハルも嬉しそうに微笑んでいる。
ビィタ村を出たときの彼は、アカネの目から見ても明らかに落胆していたが、今はもう立ち直っているようだ。
あのブランという戦士のものだという廃墟同然の家の前で、泣き崩れていた彼がここまで明るくなるのだから、長耳族の変化というものはそれほどの事なのだろう。
「置いてきてしまったティールの事を伝えることが出来なかったのは申し訳なかったけど・・・」
「ティールの件はあいつの自業自得もあるわよ。あのバカは元気にしてるかしら」
そう言うシルヴィはそんなハルを想い、いつも陰ながら支えていた。
彼女の気持ちは、恋愛の機微に疎いと自他ともに認めるアカネですら気づいているのだから、もはや周知の事実なのだろう。
まぁ、原始人同士がどうくっつこうがアカネには全く関係がないわけだが。
「人類と亜人族の共生関係・・・。これは興味深い。ああ、もっとゆっくり分析していたかったのですよ!」
レイコはというと、相変わらずマイペースで事あるごとに顔を突っ込んで熱中していた。
「理論の時点で放棄されたあの計画が実行されていたなんて、人類の罪深さには恐れ入りますのです・・・うふふふ」
こんな調子で謎の言葉を呟いては笑う、相変わらず怪しい人物だ。
「水も…人も…綺麗なところだった…」
いつの間にか、そんな彼らにすっかり溶け込んでいるアオイも満足げに笑顔を浮かべ、親し気にシルヴィから相槌を打たれている。
「そうよね、アオイ!あのお風呂最高だったわよね〜」
まったくこの妹はいつもそうだ。無口な癖にアカネが入り込めない場所でも、まるで形を持たぬ水のように入り込み、すぐに順応して馴染んでしまう。
アカネはそんな妹が少し羨ましかった。
双子の姉妹として同じ環境で育ってきたのにも関わらず、なぜこれ程の差が出てしまうのだろうか。
幼い頃からいつも一緒で、アカネの後ろを付いてくるだけだけだった妹はいつの間にか、自分とは違う存在になってしまっていた。
それが苛立たしく、つい喧嘩をしてしまうようになって、もう何年も経つ。
最初の切欠はアオイだけ共通の友人からプレゼントをもらったことだっただろうか。それとも初めての恋人がアオイを絶賛した時からだっただろうか。
いずれにせよ、シールでの失態の件もあるので、このままではいけないと頭では理解はしていたが、心はそれを邪魔をする。
「・・・っ!」
考え事をしていたことが災いしたのか、地面から突き出した根に足を取られて転倒しそうになってしまい、後ろに態勢を崩した。
アカネはなんとか踏みとどまったが、ちょうど後にいたアオイはアカネの体が当たった拍子に後ろに押され、尻もちをついて転んでしまう。
「痛い…なにするの…」
「わざとじゃありませんわ」
そのまま、上半身だけ捻り、地面に座っている妹を見下ろす形になってしまう。
こんなとき、謝る言葉のひとつやふたつを絞り出せるであれば、アカネの人生はどんなに生き無い易かっただろうか。
しかし、そんな事は自分には無理だ。特に妹に対してはどうしても意地を張ってしまう。
「さっさと立ちなさい。みっともない」
結局、こんな風に突き放した言葉を投げ捨てることしかできないのだ。
「アカネの…せいなのに…」
「ほらほら、二人とも喧嘩しないでー。もうちょっとしたら休憩にするからさ」
「うー…アカネが悪いのに…」
見かねたハルが仲裁に入った。彼はこの道中で何度もなく繰り返される双子の喧嘩に巻き込まれ、すっかり仲裁役が板についてしまっている。
「ふんっ」
ハルに手を差し伸べられて立ち上がろうとしているアオイの姿が何となく気に入らなかったので、アカネは前を向き直って歩き始めた。
このハルもハルだ。これまでの道中でのモンスターとの戦いでわかったことではあるが、この中で一番弱い癖になぜ彼が仕切っているのだろうか。
自分は言うまでもないが、リュイやシルヴィたちは彼に従う道理がどこにあるのだろう。
さすがのアカネもこれを口にするのは憚られたので、辛うじて心に押し込めることに成功した。
この旅にも多少は慣れてきたものの、彼らを理解し、自分の心を制御できるようになるまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。
ビィタ村と長耳族の里ではハルのお目当ての情報が得られることはなく、次は遥か遠くの東の国を目指すのだという。
これからの長い道のりを考えると、アカネは頭が痛くなってくるのだった。
ーーー
森が支配していた深緑の景色が黄褐色へと変貌してもう何日経つだろう。
アオイは熱を持った赤い岩の上に座り、猛烈な喉の乾きを感じていた。
「喉…乾いた…」
見渡す限りの砂、岩、そして砂。
まだ季節は春だというのに、容赦のない太陽に照らされた砂からの熱で汗が吹き出し、服がべたついてしまっている。
今、アオイたちは大きな岩の影で休憩を取っているところだった。影のおかげでだいぶましとは言え、この暑さは身体に堪える。
次の目的地、カンパニア王国は聞くところによると砂漠地帯にあるらしい。
多少は覚悟し、直前に寄った村で水と食料を多めに購入したが、どうやら考えが甘かったようだ。
「もう水筒は空よ…」
シルヴィも熱に参っているらしく、額に汗を浮かべ、空になった水筒を逆さにして振り回している。
昨日の時点で早くも水が底をついてしまったのだ。
「僕、ラクダのコブには水が詰まってるって聞いたことがあるよ…」
水や食料の他に、ラクダを買うことが出来たが、アオイたちの馬車を売った金でも全員分とはいかず、結局荷物を持たせるために使っていた。
その哀れなラクダはハルの病んだ目をみて身の危険を感じたらしく、ゆっくりと後ずさっていく。
「ハルくん、ラクダのコブには水分保有効率が高い脂肪が詰め込まれているというだけで、期待してるようにはならないと思うのですよ」
レイコの忠告がなければ実行しかねない勢いだったハルは大きく溜息をついた。
「はぁ…。どうしよう、さすがにこのままじゃ誰か動けなくなっちゃうよ」
「もう、しょんべんも出ねぇよ!」
「汚い話はしないでくださいまし」
姉のアカネは苛ついた様子でリュイに批難の目を向けている。
「ねぇ、アオイ。水出せないの」
ハルがラクダに向けていた目つきで今度はアオイを見てきた。
ハルは何も、アオイから水を抜こうなどと考えているわけではなく、能力で水を出せということなのだろう。
だが、能力を飲水として使うなど試そうとしたこともなかった。
「出せるけど…でも…飲んだことない…」
「いいから、やってみようぜぇ!オレもう死にそうだ!」
そう言ってリュイは自分の水筒の蓋をあけてアオイへと差し出してきたので、アオイは指先から流水を出し、その水筒を満たしてあげた。
「そもそも、それ飲めるのかしらね」
シルヴィは、ゴクゴクと音を立てて水筒からアオイの水を飲むリュイを訝しげに眺めている。
「ぷはーっ、生き返るぜ!でも、飲んだ気がしねぇな…なんつーか水なのに水の味がしねぇわ」
「成分分析をしましたが、アオイちゃんの能力によって精製される水は超純水のようですね」
「なにそれ?もしかして、身体に悪いとか?!」
ハルがリュイを心配して、レイコに食いついていた。
「いえ、とても綺麗な水ということですので、長期かつ大量に飲まなければまず問題ないでしょう。アオイちゃんは空気中の水分だけを凝縮させる能力があるようですね。その体温上昇は凝縮熱のせい?人類は面白い進化をしたものなのですよ」
レイコは全てを見透かすような目でまじまじとアオイを見つめてきた。
「あんまり見られると…恥ずかしい…」
「ぼ、僕にもアオイ水ちょうだい!」
「あたしにも!ね?アオイ水!いいでしょ?」
「いいけど…アオイ水って…何か違う気がする…」
次々と目の前に掲げられる水筒へと水を注いでいくが、その呼び方ではまるでアオイを飲まれているようでちょっと恥ずかしい。
「レイコは…要る…?」
「ええ、是非。超純水であれば面倒なフィルター処理が必要がありませんので、口にそのままお願いしますのですよ」
そう言って口を大きくあけたレイコを見ていると、親鳥にでもなった気分だ。
驚くことに、彼女は食事を必要としないらしい。少しの水と日の光があれば活動できると本人は言っていたし、現にこの旅の間にずっとそうしていた。
どういう仕組みなのかはわからないが、賢者という異名も伊達ではないということなのだろう。
アオイは自分のコップにも水を注ぎながら、残るアカネへと顔を向けた。
「あとは…アカネ…?」
「必要ありませんわ」
力のこもった声で拒絶されてしまった。
その目には剣呑な光が宿っているし、どうにも虫の居所が悪いらしい。
いや、今に限った話ではない。ここ最近ずっとこの調子で不機嫌なのだ。
一体何がそれほど不満なのだろうか。ハルたちにも非協力的な態度を貫いていて、妹として恥ずかしくなってくる。
「何か…怒ってる…?」
「別に…。能力で放熱しているので問題ないだけですわ」
言われてみれば、彼女の顔は涼し気で汗ひとつかいていなかった。
「ずっりぃ!そんな便利なチカラあんのかよぉ」
「ずるいもなにも、わたしくは新人類。そして、あなたは熱を操ることも、水を生み出すこともできない無能な旧人類。それだけのことですわ」
「ひええ・・・そんな言い方ないぜぇ・・・」
水を飲み終えたリュイがアカネに不平を言うが、彼女は冷たく突き放すと、それ以降の問答には無視を決め込むことにしたようだ。
「まぁまぁ、リュイ。この暑さで皆気が立っているんだよ」
見かねたハルがフォローを入れてくれている。
アカネは自分より劣っている者を理解しようとはしない。彼女の性格はその能力を体現したように、火そのものなのだ。
その気高き炎は、強い意思を持って燃え広がり、否応なしに周囲を焼き尽くしてしまう。
学校でも、軍でも、そして今の親衛隊でも、抜きに出て優秀な彼女は無意識に触れる人すべての心に劣等感という火傷を負わせてきただろう。
そして、それは妹のアオイですら例外ではなかった。
今でこそ、二人は『帝国の双璧』などと肩を並べているかのように謳われているが、能力の強さで言えばアカネとアオイでは比較にもならない。
もちろん、大量の水のあるところであれば同程度の力を発揮できるとアオイも自負しているが、アカネは戦う場所を選ばず、その恐るべき火力は雷将にも匹敵してしまうほどなのだ。
それに比べると、アオイの能力は汎用性が低いと言わざるを得ないため、二人で任務をこなすことがあればアオイは自らサポートに徹してきた。
だが、果たしてこのままでいいのだろうか?
あのシールでの失態は、アカネをサポートすることができなかったアオイの責任に他ならないと自分でも理解している。
いくら不仲を言い訳にしても、連携の取れていない二人ではいずれ致命的な綻びが生じるだろう。それこそ、お互いの命に関わるほどの。
ずっと一緒にいるだけでよかった子供の頃から続くこの関係は、もう終わりにしたほうがいいのではないか?
胸に燻るこの小さな火種は、時間という名の水をかけても消えることはなく、そして、火元に返っていくこともなかった。
この戸惑いをアカネに打ち明けることはこの先もないだろう。
双子の姉妹であっても、所詮は一番近いだけの他人でしかないのだから。
「アオイ?大丈夫?」
いつの間にかすっかり考えこんでしまったようで、シルヴィが心配そうにアオイの顔を覗き込んできた。
「あ…大丈夫…」
「あと少しで目的地だし、もうちょっと頑張ろうか」
ハルも気遣うように優しく微笑んでくれた。
その言葉が休憩の終わりを告げる合図となり、誰からともなく褐色の世界を歩き続ける旅路は再開される。
アオイの前を歩くアカネとの距離はほんの1メートルほど。
お互いに手を差し伸べれば繋がれるほどのわずかな距離が、今ではとてつもなく遠く感じた。
ーーーー
カンパニア王国。赤黒い地肌が剥き出しになった荒々しい山脈の麓、緑色ひとつ水色ひとつない砂漠に囲まれたその国の起源は、オアシスに作られた小さな集落だと言われている。しかし、長い年月を経てそのオアシスは枯渇し、肥大して行き場のない国だけが残ったのだという。
それ以来、自然の厳しさに鍛えられたこの国は優秀な戦士を生み出し、灼熱の大地から取れる鉄鉱石の恩恵もあり、いつしか周辺諸国随一の軍事国家として名を馳せる事になった。
国交のある各国から生命の源である水を得る代わりに、傭兵を貸し出し、鉄を差し出す。そんな歪なライフラインに支えられ、この国は辛うじて機能していた。それでも民は、祖国と家族を守るためにその過酷な地で営みを続けたのである。
砂を粘土に加工して作られた背の低い家屋の窓には、砂を帯びた風を防ぐための麻で織られた色とりどりの布を垂らされ、遠目で見ればその砂に紛れた街並みは砂漠に咲いた花の群生にも見えるだろう。数々の命に彩られたその花は旅人の目にも美しく映るに違いない。
そんな景色の中を一人の男が歩いていた。齢は20といったところだろう。身に着けている褐色の鎧では隠しきれないほどの頑強な肉体。背中にはその躯体の身の丈ほども有りそうな大振りな剣が背負われていた。
短く切りそろえた茶髪の頭には耳の上あたりに剃り込みが入れられており、可愛げのある幼さを残した顔には少し不釣り合いな印象を受ける。
「ブルーノ師長、お疲れ様です」
すれ違う兜で顔を隠した褐色の鎧を着た男たちが、ブルーノと呼ばれたその男に頭を下げていく。
ブルーノはこのカンパニア王国の騎士団に12名いる師長の一角を担っている。今は団長に呼ばれた為、朝の訓練を早めに切り上げて兵舎へ戻っている最中だった。
「挨拶はいい。そんな暇があったら訓練を続けろ」
訓練中なのに手を止め、挨拶をしてくる団員達に視線も向けず、冷徹に命令を下したのち、ブルーノは先を急ぐ。
「下手に出てれば調子にのりやがって、若造が・・・」
「やめなよ。聞かれたらまずいって・・・」
後ろからそんな小声の悪態が聞こえたので、ブルーノは後ろを振り返ると、10人ほどの団員達はバツが悪そうに下を向いていた。
「文句があるなら、堂々と決闘を申し込んでこい。規則を忘れたのか?お前らに強さがあれば俺を師長から引きずり落とすことだって夢ではないぞ」
軍事国家であるカンパニア、その中核をなすカンパニア兵団では個人の強さが他の何よりも重視されている。
師長だけなく、その上の副団長や団長でさえも戦闘の実績、もしくは決闘で決めることが規則とされていた。命よりも重い、団員の規則にそう定められているのだ。
「ああ、それと。ダニエルとゾーア。おまえらは罰として今夜は懲罰房入りだ。訓練中の私語は厳禁だ。規則に従え」
先ほど声の聞こえた二人に厳罰を与え、ブルーノは静まり返ったその場を後にした。
師長の中でも特に規則を重んじるブルーノにとっては、このような光景は別段珍しくもないが、最近は露骨な反発が増えているような気がする。
全く、こいつらは規則を舐め過ぎなのだ。集団としてのヒトは無秩序の中では生きることは出来ない。いざとなった時、最後に頼れるものは、己を律することのできる規則であることを知らないのだろう。
それもこれも……あの男が<元凶>なのだ。
ブルーノは忌々しく思いながら、団長の待つ、兵舎の戸を潜った。
赤い絨毯の敷かれた屋内には円卓が置かれており、その最奥の一際大きな椅子に壮年の男が座っていた。
「おうおう、ブルーノくん。今日も気合入ってんなぁ。少しは肩の力抜けよ?」
カンパニア兵団、団長ジゼル。40前という若さでこの騎士団を取りまとめる銀髪の男は人懐っこい紫の瞳を携えて、柔和な笑顔でブルーノを迎えた。ブルーノと同じ褐色の鎧の上に黒のマントを羽織っている。
「団長、お呼びですか」
「ああ、ちょっとな。それよりそんな辛気くせぇ面してないで、おまえも一杯どうだ?ヴァチガノの使者が持ってきたとっておきがあるぜ?」
そう言って立ち上がり、ブルーノに背を向け、戸棚の中から酒を出そうとしている。その背中のマントには剣と鶴橋が交差しているマークが金糸で刺繍されていた。この騎士団の紋章だ。
この人は、その重みを本当に分かっているのだろうか。
ブルーノの痛くなる頭を抑えながら、丁重に断った。
「遠慮しておきます。規則なので」
「そりゃ残念。一人で寂しくやるかねぇ」
団長の彼がこの様だから、団員の秩序が乱れるのも無理はない。
「団長、勤務中ですよ。それより呼び出しの要件は何でしょうか?」
「相変わらずつれないねぇ。そんなんだと下のモンに陰口叩かれるぞ」
ジゼルはそう言うと上機嫌でグラスを片手に、葡萄酒を注ぎ始めた。
「副団長に聞いたんですね…」
「いいや?まぁ、そんぐらいは予想はできるさ」
団長は少し遠くを見るような眼で苦笑して、ひとくち酒をあおる。
見透かされているようで居心地が悪くなったので、ブルーノから再度本題を切り出すことにした。
「……それで要件は?」
「あぁ、そうだったな。おまえも知ってるだろう?今朝の地震」
「はい」
「また、<出るぞ>。留守の副団長の代わりにおまえが対応出来るようにしておけ」
「全く迷惑な話ですね。地震の度に狂暴種モンスターが暴れ出すなんて。五年前とまるで同じです」
「本当にねぇ。今はそれどころじゃねぇってのによ。前にヴァチガノ、後ろにヴァジリスクってな」
ヴァジリスクと呼ばれる大型のモンスターの驚異とは別に、今このカンパニア王国は未曾有とも言えるほどの危機に直面していた。
その発端はヴァチガノから交渉の為に遣わされた使者団だった。
「我が国の鉄鋼採掘権の全権移譲及び、軍事決定権の譲渡。引き換えには水の提供の無期限保証…ですか。ほとんど属国になれと言っているようなものですね」
「ああ、質が悪いことに、これまでウチが水の国交を結んでいた近隣諸国にまで手を回してやがった。選択の余地はほとんどないと言って良いねぇ」
半年ほど前、ヴァチガノの首都ヴァチノが吸血鬼に襲撃され、人類の趨勢を左右するほどの事態に発展しているとブルーノも風の噂で聞いている。
どうやら、情勢から察するにカンパニア王国はまんまと弱みを握られ、その戦いに巻き込まれてしまったという事らしい。
つまり、有り体に言ってしまえば、カンパニア王国の民に吸血鬼と戦って死ぬか干からびて死ぬか選べという交渉とは名ばかりの脅迫なのだろう。
そして、更に悪いことは重なると相場は決まっている。
「それだけではありませんね」
「あ?ああ、例の言い伝えか」
「はい、団員の中にも恐れて士気が下がっている者もおります」
「無理もねぇよ。ヴァチガノの公認の土地神信仰だ。ワシも婆ちゃんに何度も叩き込まれたさ」
「団長も信じているんですか?」
「さぁな。どっちにしろ、今はそれどころじゃないねぇ。ワシは元老院の爺さん達とヴァチガノの対策練ってくるからよ。そっちは頼んだぜ?」
「了解しました」
ジゼルは酒を飲み干すと、ブルーノに空のグラスを押し付けて出ていってしまった。
グラスを片しておく義理もないので、そのまま円卓へと置いておくことにする。
丁度その時のことだった。
ブルーノは地面が揺れているように感じた。
錯覚でない証拠に先程手を放したグラスが硬質の机の上でカタカタ踊る音を奏でている。
「また…地震か…」
ブルーノの独り言の直後、連絡班の団員が飛び込んできた。
「失礼します!また近隣にヴァジリスクが現れました!」
「団長は不在だ。おれが指揮を執ろう。数とデカさは?」
「一匹です!ですが、恐らく15mはあるとのことです」
「わかった。第三、第四、それと第十二師団を集合させろ」
「はっ」
15m級というとヴァジリスクの中でも大きな個体だが一師団もあれば事足りるだろう。
しかし、ブルーノは余裕をもって兵力を割くことに決めていた。
奴らは原則的に単独で行動するとは言え、例外というものは必ずしも存在する。
現に5年前、ヴァジリスクの群れに襲撃され、ブルーノは親友とも呼べる無二の友を失っているのだ。
同じ轍は二度と踏むまいと心に決め、団員に続いて団長室を後にしたのだった。
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ハルは焦りを感じていた。
これまで立ち寄ったビィタ村と長耳族の里では、ブランの安否に繋がる情報は何一つ得られなかったからだ。
アステルからもたらされた地図に示された残りのポイントはカンパニア国、境界都市シール、フィニス帝国の3つ。
しかし、可能性の観点から言えばその3国の比重は同じではない。
ハルたちはシールで指名手配されているようなので、いくらブランとてその手を掻い潜り、4ヶ月近くも留まり続けている可能性は低く、既に国外へと逃れていると考えるのが普通だ。
かと言って、彼がハルたちを追って帝国への侵入したという線も、アカネたちからも彼の情報が示されなかったことからも無いと見ていいだろう。
残るはひとつ。
ブランがかつて王国騎士団長を任されていたというカンパニア国だ。
状況からして、今向かっているこの国こそが彼の生存の唯一の可能性といっても過言ではなく、その事実が重くハルにのしかかっていた。
ヴィタ村でブランの家跡を目にした時に、胃の底からこみ上げるような寒気を感じたのを今でもよく覚えている。
主を失い荒れ果てた家屋の姿こそが、暗に彼の死を物語っているように感じたのだ。
そして、その気持ちは今もまだハルの腹の中で暴れまわっている。
絶望的な現実とは裏腹に、やっと諦める事が出来たと思っていたブランの生存への期待は、ハルの中でどんどん膨れ上がってしまっており、
それはまるでこの4ヶ月溜め込んでいた感情が独り歩きしているようだった。絶望の中に抱かれた希望を表すように。
だからこそ、尚更アステルの意図がわからない。
自らブランの死を宣告しておきながら、地図で再び希望を仄めかすことでハルを絶望へと追い込み、果たして彼女になんの得があるのだろうか。
あの時、ハルを見下ろしていた紫色の瞳の奥にどんな感情が隠されていたのか。
物理的にも精神的にも、遠くの人になってしまったアステルの気持ちを全く理解できないでいた。
ハルが足元の褐色の地面を見つめながら、そんなことを考えている時のことだった。
ゴゴゴゴゴッ
地響きと共に足へ震動を感じた。
「なに?!地震??」
ハルはあたりを見回すが、砂丘は何も言わず、静かに風に削られていくだけだった。
「わかっんねぇ。とりあえず、あの山登ってみようぜぇ」
お祭りごと好きのリュイは、目を輝かせて先の小山を指さし、一目散に駆け上っていってしまった。
残されたハルたちも彼を追うように山頂を目指すことにした。
『うおおおおっー!!』
急ぐハルたちの耳にはいつしか斎の声のような、人が織り直す怒声が聞こえてきた。次第に大きなるそれを感じながら、山を登り切ると青と黄のコントラストのパノラマが目の前に広がる。
「こいつはすげぇぜぇ」
そこにはーーー、
大型のトカゲ型のモンスターと対峙する褐色の甲冑を身にまとう男達がいたのだ。
その人数はゆうに100は超えているだろう。
「あのサイズ…凶悪種だわ…」
ハルのあとからやってきたシルヴィは驚きの混じった声をあげている。
相対するトカゲ型のモンスターは人の10倍はあろうかと思われる巨体をしており、剣と盾を手に群がる男たちを尻尾でなぎ倒していた。
景色に同化するような赤褐色の肌は岩のように粗だっており、その口から見える凶悪な牙は人間など紙くずのように切り裂くだろう。
大規模なキャラバン隊すら壊滅させる力を持つと言われる凶悪種はモンスターの中でも稀有な存在で、ハルも噂でしか聞いたことがなかった。
そんな化物を相手に、男たちは攻防の連携を取りつつ、互角に立ち回っているようにみえる。
そのよく訓練された動きから、並大抵の集団ではないことはわかった。
「凶悪種?ああ、ただの大きなトカゲではありませんか。あんな雑魚、あたくしの炎で丸焼きですわよ」
「いやいやいや、まずいでしょ?!人の目もあるからね??」
アカネが腰に両手を当てて自慢げに言っているので、思わずハルは突っ込まずにはいられなかった。
「では、あの方たちごと焼却しましょう」
「証拠隠滅なら…任せて…」
「うわああ!やめてやめて!もっと穏便に行こうよ!お願いだよぉ!」
ハルは今にも実行しようと身を乗り出しているアオイとアカネの後ろ襟を掴んで必死に懇願した。
まったくこの二人はこういうときだけ団結しやがって。
普段は仲が悪そうにしているが、そういう素振りだけなのではないかとハルは疑っていた。
もう人の焼ける臭いはゴリゴリなのだから、勘弁してほしい。
あの地下の研究所で嗅いだ形容し難い匂いを思い出し、思わず吐き気がこみ上げてきたが、ふとその記憶を追想するように鼻を掠める不快な臭いに、ハルは首を傾げる。
そういえば、先程からなにやら辺りが生臭いような気がする。
「ハルくん、そんな呑気な事を言ってる場合なんでしょうか?」
リュイたちに混じって最前列でトカゲと人の戦いを観戦していたレイコがハルを振り返ってそう言ってきた。
「なに?レイコ?どういうこと?」
//ここちょっとシリアスの統一をするか後で考える。コントいらなくね?
「ああ、そういうコントが旧世代にありましたね。まさか、この時代にまで継承されているとは興味深いです」
「えっ、なんだって?」
「それでは、僭越ながらアタシが…コホン」
レイコは改まって咳払いをしたのち、ハルのうしろを指さしてこう言った。
「ハルくん~! うしろ、うしろ~!」
「えっ?」
ハルが思わず後ろを振り返るとそこにはーーー、
「ガゥッ」
口を大きくあけ、今にもハルの頭に齧り付かんとする大きな爬虫類の姿があった。
前方で男たちと戦っている化物より一回りほど小ぶりではあるが、口だけでもハルの上半身を丸呑みにしてしまえるぐらいの大きさだ。
「う、うああああ!!」
ハルは咄嗟に両手で頭をかかえながら、辛うじて地面に伏せることに成功する。
ガチンッ
頭のすぐ上で、恐ろしい程に鋭い歯が空を切り、ガッチリと合わさる音が聞こえた。
その音を理解するよりも速く、ここでじっとしていたら食われると本能的に判断したハルは一目散にトカゲとは逆方向に逃げ出す。
「おいおいおい、なにごとなんだぜぇ?」「ちょっと、なによ!脅かさないで…って?」
ハルの前で男たちの戦況を伺っていたリュイとシルヴィが悲鳴を聞きつけて振り返っていた。
その間をすり抜けるようにハル、そして、トカゲが横切っていく。
「食われる!食われるよぅ!」
「やべぇ…ハルのやつがトカゲのエサになりかけてやがる!」
リュイは背嚢から矢を引き出し、はやくも狙いを付けるモーションへと移行している。
「ハルー!ハルゥー!」
シルヴィはハルを追うトカゲの後ろを槍を片手に駆けてくれているようだが、出だしが遅れた分、だいぶ距離が離されてしまっている。
「あらあら、そういう遊びではなかったのですね」
場違いにもおっとりとした声をレイコは、口に手を当てながらハルの姿を目で追っているだけだった。その横で、アカネも三白眼でハルを睨んでいる。
「やれやれですわ。世話が焼けることですの」
「そんなこと言わずに…助けなきゃ…」
走りながらいくらか落ち着いたハルは、アオイの右手を持ち上げる動作が視界の端を掠めたところで、このトカゲよりも彼女の方が問題だということに気づいた。
ここで大規模な能力を使えば、あの男たちに気づかれ、最悪の場合、吸血鬼の一味として敵とみなされるだろう。
だから、ハルは我が身の安全より先に、アオイたちに釘を刺すことにした。
「アオイ、アカネ!僕のことはいいから、絶対に目立つマネはしないで!」
「はぁ?もとより助ける気はありませんわよ。アオイ、彼はトカゲのオヤツになりたいそうですし、その手を引っ込めなさい」
「そこまで…言うなら…」
アオイたち、というか主にアオイを抑えることができたことを確認すると、ハルはショートソードを鞘から抜き放ち、背後に迫るトカゲへと向き直った。
このまま逃げるだけではいずれ、前方でオオトカゲと戦いを繰り広げている男たちと重なり乱戦は必至だ。
だから、ここでハルが食い止めるのだ。
鼓動は激しく跳ね、膝は笑ってしまっている。
4ヶ月以上ものブランクのせいか、この程度の動きだけでも身体の節々から悲鳴が聞こえた。
シールで折れてしまった剣の代わりにアルヒ村で新調したショートソードはまだ手に馴染んでおらず、心なしか頼りないように思えた。
だが、不思議と恐怖の感情はない。
何度も繰り返された悪夢が、ハルの心を良くも悪くも変えてしまっていたのだ。
リュイの放った矢がトカゲの背中へ突き刺ささる瞬間を狙い、ハルはすれ違うように身を屈め、トカゲの前脚を斬りつけてやった。
ガキンッ
ハルはトカゲと交差した瞬間、腕にまるで岩でも打ち付けたような手応えを覚えた。
打ち出した右腕は未だに震えいる始末なので、トカゲはほぼ無傷だろう。
しかし、トカゲは突如視界から消えたハルを探しながら狼狽えており、足を止めさせるのには成功した。
「喰らいなさい!」
トカゲの背後を追っていたシルヴィの刺突がその横腹へ深々と突き刺さる。
「ギィィ!」
シルヴィは走ってきた勢いを殺さずトカゲの背に飛び乗ると、体重移動を利用して勢い良く槍を引き抜き、華麗に地面へと着地した。
さすがのトカゲも悲鳴にも似た鳴き声をあげのたうち回り、傷口からは緑の血を噴出させている。
「まだまだぁ!」
ハルはトカゲがシルヴィに気を取られている隙をついて、今度は眼を狙うべく剣を上段に構える。
だが、ハルは失念していたのだ。
このモンスターの武器は牙や爪だけではないということを。
次の瞬間、がら空きだったハルの腹部を鈍器で殴られたような衝撃が襲った。
「うぐっ…」
痛みで意識が遠のきそうになる。気づくといつの間にか、ハルは宙へと吹き飛ばされていた。
そして、数秒の浮遊感を味わいながら、地面へと叩きつけられてしまう。
幸い、柔らかい砂がクッションとなったおかげでたいした怪我はないようだ。
ハルは急いで立ち上がろうとするが、頭を揺らされたせいか、うまく足に力が入らない。
「ハル!逃げて!」
シルヴィがハルへと走ってくる。
武器も捨て、結んでいた髪が解けるのも構わず、必死の形相で駆けてくる彼女の少し前に緑の物体が見えた。
どうやら、トカゲが口を大きく開けてこちらへ突撃してきているようだ。
ハルは地面に仰向けのまま、このままではトカゲのエサになってしまうなっと他人事のように考えていた。
こんなとき、今まではいつもブランが助けてくれた。
ブランの村の近くでボアに襲われた時、大聖堂でクレアに成す術もなく絶望しかけた時、道中でモンスターに襲われた時のことも含めれば両手では足りないだろう。
だが、ハルの前にヒーローはもう現れない。彼はシールの地下遺跡でハルを庇い、<居なくなってしまった>のだから。
ヒーローが危機的な状況に都合良く現れるだなんて、そんなおとぎ話のような優しい話なんてあるわけがないのだ。
自分の死を前にして、ハルの頭の中は悔恨に溢れてしまっていた。
もし、ハルがアステルに出会わなければ。
もし、アステルと共に旅をすることを夢見なければ。
もし、ボアに勝つだけの実力があれば。
もし、ブランに弟子入りを申し出なければ。
もし、ヴァチガノで雷将を倒すチャンスを活かせるだけの力がハルにあれば。
もし、シールの地下遺跡で風将を刺激する言葉を口走らなければ。
もし、あの時ハルが床を鳴らさず、アカネの奇襲が成功していれば。
ブランは<ハルのせいで死ぬことはなかったのだ。>
なんだ、本当は分かっているじゃないか。
死の直前の脳が導き出した答えでようやく、ハルは気付くことができた。
ハルは『また』大切な人を失ってしまったのだ。自分の過ちのせいで。その弱さのせいで。
心の奥底で叫ぶ自分の声に蓋をして、気づかないふりをしていただけだったのだろう。
なぜ『また』と思ったかはハル自身よくわからないが、なぜだか涙が溢れ、幼い子供が泣きじゃくる声が聞こえたような気がした。
そんな身体の反応とは裏腹に、ハルは自分のあまりの愚かさに笑いたくなる気分だった。
もしかしたら、その涙を伴った自嘲は顔に出てしまっているかもしれない。
泣き笑いの顔でトカゲに喰われるなんて、死に様としてはなんと情けなく、自分にお似合いな事だろうか。
そう理解すると同時に全身の力が抜けていくのを感じた。
しかし、暫く待っても一向にハルの死が訪れる気配はなかった。
それもそのはず、突如現れた砂の塊のようなものがハルとトカゲの間に割り込んできたのだ。
ハルがそれを人だと理解するよりも速く、その男は銀の煌きを放ち、いとも簡単にトカゲの首を跳ね落とす。
その瞬間、ハルは自分の心臓が跳ね上がるのがわかった。何故なら、その洗練された一連の動作は、ハルのよく知っている動きだったからだ。
男はクレイモアを片手に、ゆっくりと振り返った。顔は逆光でわからなかったが、ハルの脳裏では『ある男』の顔が重なって見えている。見間違うはずなど、あるわけが無い。
そして、ハルは短い響きよりも遥かに多くの気持ちを込めて、その男の名を呼んだ。
「ブラン…?」
かゆい
うま
・・・日記はここで終わっている(完)




