3-5
ティールは化け物だ。
弓の才に愛され、弓にすべてを捧げたものだけが到達しうる極地。彼はその頂に居る。
ティールが170m先の的をあてた時、リュイは自分の身体が微かに震えていることに気づいた。
それは恐れの現れでもあり、相手への称賛でもあり、そして、ある種の感動の体現ですらあった。
悔しいが、今のリュイではティールの足元にも及ばないだろう。
ことさら、この遠的においては。
リュイは確かに天性のセンスと動体視力で、動く的を射抜くことにかけては、神がかった技術を持ち合わせている。
だが、遠的をそれほど得意としない彼にとって、この大会の的は遠すぎるのだ。
リュイは今更になって、自分がティールの戦場で戦わされていることに気づいた。
そして、それはあの老獪な里長の手のうえで、踊らされているということでもあるのだ。
リュイの矢は次の的にはあたらない。彼はそう確信していた。
無数の時を弓に捧げてきたリュイだからこそわかる、一寸先に潜む絶望。
一方、ティールは次の距離でも、確実に当てるだろう。
もはや、その距離に限界などないようにすら思えた。
リュイは仲間たちに後押され、挑戦者の位置についた。
彼らは何か激励のような事を言ってくれていた気がしたが、今のリュイの心には届かなかった。
全身から嫌な汗が染み出ているのがわかる。
勝てない。
これでは勝てない。どうする。
勝たなくてはいけないのに。勝てない。どうすればいい。
考えろ。考えろ。考えろ。
思考の途切れ。
「リュイ。俺は。」
ハルの言葉がリュイを現実へと引き戻す。
最後までは言わなかったが、リュイにはわかっている。
どんなに絶望的な状態あっても、ハルはリュイのことを信じてくれているのだ。
リュイがここで負けてしまえば、ようやく掴んだ帝国への道筋は絶たれてしまう。
いや、絶たれないにしても、かなりの遠回りを強いられるのは確実だろう。
こんなところでハルの足を引っ張ってしまうのは、リュイの兄貴分としての矜持が許さなかった。
たが、どうすれば。
後ろに背負う仲間たちを見ながら、思案する。
考えろ。考えろ。力が及ばないのであれば知恵を巡らせ。考えろ。考えることを辞めるな。
可能性を探せ。どんなことでもいい。なんだっていい。すべてを賭して、この一矢で未来を掴み取れ。
そしてーーー
仲間たちを見ていたリュイの虚ろな視線がシルヴィに至った時、突如、彼は天啓を得た。
いや、悪魔の囁きといってもいいだろう。
たった一つの負けない方法。
「シルヴィ、オレは今、お前が居てくれることに感謝してる」
「ハァ?なに急に・・・気持ち悪いんだけど・・・」
大袈裟ではない。ここに、シルヴィが居てくれなければ、リュイは挫けてしまっていただろう。
全てが彼女のおかげだ。
「おいおいおい、オレとお前の仲じゃねえか。冷たいのはなしだぜぇ」
希望にたどり着いたリュイの声に、軽口が言えるほどの力が宿る。
今、声をかける必要はなかったかもしれない。だが、それがリュイの愛する妹分へのせめてもの気持ちだ。
そして、前へ向き直ると、矢を番え、静かに的に向かって弓を引くーーー。
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リュイが的に向けて静かに弓を引き、放った。
シルヴィにとってリュイは兄のような存在だった。
年が少し離れているため、彼には幼い頃から自分の恥ずかしい思い出をたんくさん見られてきたのが原因だろう。
そんな彼に対して、甘ったるい感情など一切ない。
その為、急にさっきのような事を言われても、本気で気持ち悪い。
実際、なにやら首筋に冬の木枯らしのような<寒気>すら感じる始末である。
リュイの手から離れた矢は的へ向かって、綺麗に放物線を描いている。芸術的な軌道・・・・・
・・・・をその場の誰もが幻視した。シルヴィにだって、そう見えた。
しかし、その幻想は突如消失し、代わりに<彼女の背後でドスッっという矢の穿つ音が聞こえた>。
「えっ?」
状況が理解できない。とっさに、後ろを振り返る。
矢はシルヴィの後の地面に突き刺さっていた。
彼女が先程感じた<寒気>の正体は、この矢の風圧だったのだ。
矢が意図せず後ろに飛んでいく。これはいわゆる、弓を始めたばかりの初心者に起こりがちな、ミスショットの現象だ。
だからこそ、シルヴィには理解できなかった。
(なんで・・・なんでなの・・・リュイに限って、こんな誤射なんて・・・・・・・・・・)
ーーーすると、すぐ近くで布のようなものが擦れる音が聴こえ、それから少し遅れて胸元の寒さを感じた。
一体、何が起こっているというのだろう。
自分の胸元を確認してみるとーーー
シルヴィの着ている長耳族の衣装にある肩の結び目が、ほどけて、彼女の健康的な肌が肩から胸まで露出していくのだ。
そして、あわやその形の良い山頂までかいま見えそうになっていた。
が、腐ってもシルヴィだ。
とっさに両手を胸に回し、致命傷は避けた。
要するに、リュイの放った<ミスショット>の矢がシルヴィの服の結び目を直撃し、彼女を<剥いた>のだ。
「あ・・・あああああんた、今なにを・・・」
「あー、悪ぃ悪ぃ。はぁー、オレとしたことが打ち損じだ。まったく世話ねぇぜぇ」
リュイがわざとらしく、何事もなかったように言う。
そんな彼を見たシルヴィは確信する。こいつは<狙ってこの現象を引き起こした>のだと。
「そんなん、ぜ~ったい嘘でしょ!!殺す!もう殺す!」
シルヴィは顔を真っ赤に染め、挑戦者席から逃げ出したリュイを追い掛け回す。
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ティールはリュイの引き起こした一部始終を観客席から見ていた。
もちろん、リュイは失格だ。
彼の持ち点は前の的までの距離となった。
自分の勝利は、ほぼ確実だ。
しかしーーー、
集中しろ。集中しろ。集中しろ。
そう、心をかき乱され、集中しろと念じている時点で全く集中できてない。
心を水にするのだ。
そして、幾拍かの無音の世界の果てに、ようやく平常心が戻ってきた。
ティールは万全の精神状態で挑戦者席へ移動する。
これしきのことで、切り替えることもできず、心を乱され続けるのであればそれは二流の狩人だ。
リュイはおそらく自分の動揺を誘い、射ち損じを狙う作戦なのだろう。
ずいぶんと甘く見られたものだ。
ティールには一流の狩人としての自負がある。
次は180m。これを射抜けば、ティールの勝ちが確定する。
ティールは先ほどと同じ動作で、目をつむり、空間を支配する。
シミュレートされた必中の軌跡は、彼を勝利へといざなう栄光の道筋だ。
心の無にし、矢を引き絞る。
そして、試合の決着をつける矢がリュイの手を離れる瞬間---
「おいおい、シルヴィ!ちゃんと服結べよ~!<い・ろ・い・ろ>なもんが見えちまうぜぇ!」
ーーー遠くのほうで、逃げ回るリュイがシルヴィを揶揄する<ものすごく楽し気な>声を発する。
そう、長耳族の果てしなく良い聴力が仇となったのだ。
その一声はティールの妄想を掻き立て、彼の脳裏に、ある記憶をよみがえらせた。
昨日、目にしてしまった魅惑的なシルヴィの裸体が、彼の心の静かな水面に津波を引き起こしたのだ。
そうして、ティールの射る矢は<遥か上方の明後日の方向へ>と飛んでいくのであった。
ティールはその場で全身の力が抜け、両手両膝を地につけてしまう。
<してやられた。>
これでは、引き分けだ。
この場合は、ティールへの里長権の移譲は発生しない。
3年も掛けた彼の野望は、リュイの計略によって潰えたのだった。
だが、なにより、こんなことで平常心を乱した自分の不甲斐なさが許せなかった。
リュイが恨めしいという気持ちが無いといえばウソになる。
が、<どんな手を使ってでも、全力を尽くすのが、我らの流儀であり、礼儀だ。>
この勝負、引き分けであっても、ティールの完敗だろう。
リュイ・・・なんと恐ろしい男だろうか。
その手段を選ばぬえげつないやり口に、不覚にも尊敬の念すら覚えてしまう。




