08
これはかなり物騒な場面だ。
開け放たれた窓から見える光景に、クローディアは「あらら」と呟き小首をかしげる。
「『ホウキ』をお披露目に来たら…ずいぶんな事になってますね」
「クローディア殿!!」
長いまつげに縁取られた目を見開き、名前を呼んだのはジブリールだった。
王子がいるのは月光に照らされた、広い部屋の中。
窓際の、テーブルのわきで、『ホウキ』とともに宙に浮くクローディアを見上げている。
薄暗い部屋には彼のほかに、もう一人男がいた。
スーツを着込んだ神経質そうな男…その手には銃が握られていた。
しかもその銃口が向いている先にジブリールがおり、クローディアは眉を跳ね上げる。
「おやおや、弁護士殿。自国の王子に対してあまりに無礼ですな」
「くっ…!」
冷ややかな声を出せば、ニック弁護士はこちらを睨み上げた。
恐ろしい顔つきだが、額にかいた汗がニックの臆病さを表している。
にわかに銃口がこちらを向いたが、クローディアは顔色一つ変えない。ただジブリールが体を強張らせた。
「なるほど、貴方もジブリール王子の失脚を狙う人だったと言うわけか」
「黙れ、魔女め!貴様にわかってたまるかっ!!」
口角に泡を飛ばさんばかりの弁護士は、わかりやすい殺意を燃やしていた。
「こんなに、こんなに金があるんだ!俺にもおこぼれがあっていいだろう!」
あまりにも在り来たりで、だからこそわかる動機。人は簡単に欲望へ堕ちる。
その様が何だか悲しくなって、クローディアはため息をつく。
その動作と冷たいまなざしに、さらに怒りをあおられたのだろう。
ニックはついに引き金を引こうとした。
―――しかし、素早く動いた腕が、武器を握る腕を捻り上げる。
「そこまでだ、ニック」
それは酷く寂し気な顔をした、ジブリール王子であった。
クローディアとニックが会話をしている間にじりじりと距離を詰め、ニックの動きを封じたのである。
一見優男に見える王子であるが、武術の心得はあるのだろう。
腕を捻り上げられたニックは痛みに顔を歪め、あっという間に銃を取り落とす。
ぐう、とうめき声が上がるが、ジブリールは力を緩めるようなことはしない。
「おとなしくしろ、ニック。もう終わりなんだ」
小さく王子が告げたと同時に、部屋のドアが開き、外から見覚えのある護衛たちが駆け寄ってきた。
タイミングを見計らったかのような登場に、クローディアはおや、と首を傾げた。
「私の登場はお邪魔でしたか?」
「…いいえ、助かりました。ありがとうございます」
近づいてきた護衛にニックを引き渡し、ジブリール王子はほのかに微笑む。
引きずられていくように連行されている弁護士は、冷めやらぬ怒りでこちらを睨んでいた。
まるで放置された子供のような目で、王子は彼を見た。
罪を悔い、自ら名乗り出てほしかったのだろう…ジブリールの考えはわかりやすい。
ふ、と吐息を吐くとクローディアは、彼に向かって身を乗り出した。
「…王子、空を飛びませんか?」
「…え」
乗ってきた『ホウキ』のハンドルをとんとん、と指で叩くと、ジブリールは目を丸くする。
「大丈夫、二人乗りです。この成果を貴方に見せたかったのです」
「あ…こちらがクローディア殿の研究?完成したのですか!?」
驚きに驚きを重ね、王子はクローディアのまたがる『ホウキ』を凝視した。
バー型のハンドルがついた、小さく流線型のそれは一見するとバイクに似ている。
だがタイヤが無く、機械の隙間から淡く青い光が漏れている様は神秘的だ。
何よりこれは空を駆ける。
魔法とガソリンを合わせた技術がそれを可能にしているのだ。
長年クローディアが夢見てきた研究の、一つの答えだった。
「さあ王子、お手を。大丈夫、落ちませんよ」
窓の近くに『ホウキ』を寄せ、ジブリールに向けて手を伸ばす。
美貌の王子は目を瞬かせ、そして顔中を好奇心でいっぱいにした。
彼は背後に残っていた護衛の一人に、ちらりと視線で確認を取る。
苦笑した護衛が頷いた瞬間、笑みを深めてクローディアの手を握った。
「さあ、しっかり掴まってください。少し風が強いですよ」
ジブリールが『ホウキ』にまたがったのを確認したあと、クローディアはアクセルをひねった。
エンジンを唸らせながら、二人は月の夜を駆けだす。ひょう、と冷たい夜風が頬を撫でた。
「ああ、すごい。本当に空を飛んでいる…」
きらめく街並みを眼下に見て、ジブリールがほう、と息を吐く。
空から見下ろすカマル王国は、まるで宝石箱をひっくり返したような眩さだった。
既に深夜に近い時間帯であるのに、眠らぬ街。
大小さまざまな明かりが灯り、車のライトが道路を流れる。
石油による繁栄をそのまま現しているかのようだった。
「…カマル王国は素晴らしい街ですね。下に星空があるようです」
「しかしそのぶん、欲望がある。醜い、隠しようのない欲望が…」
ぽつり、と呟かれた言葉は、ともすれば風に紛れて消えていきそうである。
王位継承問題、身内の裏切り、近しいものの裏切り…ジブリールには色々思うことがあるだろう。
クローディアはジブリールの葛藤がわからない。
わからないなりに想像すれば―――きっと彼は今孤独なのではないだろうか、と思う。
「王子、砂漠の方へ行きましょう」
静かにそう誘えば、ジブリールは「ええ」と頷いた。
『ホウキ』はエンジンを唸らせながら、ゆったりとした速度で郊外へ向かう。
青い光を放つそれを見つめていた王子は、ふとクローディアに尋ねた。
「随分悩んでおられたようですが、どうやって完成させたのですか?」
「合成サファイアを使ったのです。サファイアディスクを他の研究所から頂いたのですよ」
プログラムを出来るところまで簡略化させ、硬度の高いサファイアを組み込んだのである。
熱にも傷にも強い合成サファイアは、この『ホウキ』にぴったりだった。
放たれる淡い青の光は、サファイアがきらめいているためである。
「この数日間で完成させるとは…」
「この国にサファイアディスクの技術があったお陰ですよ。あれでヒントを貰えた」
カマル王国の発展と技術に感謝である。
さらりと告げると、ジブリールが背後で息をのむ気配を感じた。
やがて二人の間にしばしの沈黙が訪れる。
ゆったりとした衣服をはためかせる風の冷たさに、クローディアは目を細めた。
丸く太った月が空を駆ける自分たちを見下ろしている。
待ち望んでいた満月だ。
世界をふんわりと包む柔らかい月光。それを受けて輝く砂漠。
「クローディア殿、私にとって貴女は夢でした」
幻想的な世界にいて、まるで絞り出すような声を出したのはジブリールだ。
「御著書を拝読したときから、魔法に惹かれていました。貴女の理論は、私を別の世界へ連れて行ってくれた」
「ああ…やはり読んでいたのですね」
先ほど覗いた部屋の中に置かれたテーブルの上に、見覚えのある表紙があった。
自費出版で数冊しか存在しないはずだが、まさかジブリールの目に留まっていたとは考えてもいなかった。
「王家で、争いの多い現実の中生きている私に、夢を見せてくれたのです」
「…」
「その貴女に、一度会って見たかったのです。貴方の夢を叶えたいと思った。でも、貴女を私の問題に巻き込んでしまった」
「…私は、気にしませんよ。ジブリール王子のおかげでこれが完成したのですしね」
別にクローディアは、巻き込まれたとは思っていない。
自ら首を突っ込んだのだ。
彼の抱える問題が最初からわかっていたとしても、これは恩を売るチャンスだと、油田火災を消しただろう。
それを伝えると、ジブリールは密やかに笑った。
「貴女の役にたてたなら、良かった」
寂しげなその声に、クローディアは少しだけ息を吐き、空を仰ぐ。
相変わらず美しい月が、二人を見下ろしている。
柔らかな光だが、クローディアの心までを和ませてはくれなかった。
冷たい夜風が吹き付ける。
やがて、空気が湿っぽくなっていたことに気が付いたのだろうジブリールが、やや明るい調子で尋ねた。
「…クローディア殿。このバイクは何処まで飛ぶのですか?」
「バイクではなくて、ホウキですよ。魔女にはホウキがつきものですから」
「なるほど…ではこのホウキは…あの月まで飛ぶのでしょうか?」
月を見上げながら再度問うジブリールに、クローディアは苦笑する。
「流石にそこまでは行けませんよ。宇宙には酸素がありませんし、エネルギーが持ちません」
そう告げると、ジブリールは「そうですよね」と残念そうに笑って月を見上げた。
クローディアもそれに倣い、世界に名高いカマルの満月に視線を転じる。
煌々と輝き続けるまあるい、幻想的な光。
夜の闇を淡い藍色に変えて、砂の粒さえも光の粒子に変えてしまう神秘。
―――ああ、あの月に行けたなら、確かに面白そうだ。
「いずれ貴方を月へお連れしましょう、ジブリール王子」
「…え?」
ぼんやりと空を仰いでいた彼の顔が、ふとこちらを見た。
ハンドルを握ったままクローディアは振り向き、目を見開いているジブリールに、ほのかに微笑む。
「貴方のおかげで私は夢の一歩を踏み出せました。ならば…今度はともに夢へと行きませんか?」
なんて自分らしくない!
詩的過ぎる台詞に笑い出しそうになる。
ぽかんとしている王子に今一度微笑みかけ、クローディアはホウキで空を駆けていく。
自分たちならきっと月に行ける。
そう感じていた。