06
クローディアが破壊したキッチンの窓以外、研究所内は特別に変わったところはない。
あとであれは片付けておかなくては、とため息を吐きつつ、先を歩くジブリール王子に続く。
真剣なまなざしのまま彼は、研究スペースにたどり着くと、巨大装置が置いてあるガラス窓の前で立ち止まる。
装置はいまだに稼働を続けていた。
様子を伺いつつ、クローディアは彼の隣にそっと立つ。
昼間にもこうやって二人、同じ場所に並んだが、漂う空気は正反対のもの。少し息がつまりそうだ。
「数か月前、この研究所内で窃盗が置きました」
張り詰めた雰囲気の中で王子が発した言葉は、予想通り剣呑な単語が含まれている。
無言で先を促すと、ジブリールは眉間にしわを寄せ、当時を振り返るように苦い口調で続けた。
「盗まれたものはあの研究装置…正確には設計図です。発覚した時には既に他国へ売り渡されていました」
「だから王子は私に詳しく調べてもいい、と言ったのですね」
すでに国外に持ち出されている可能性のある機密など、もう機密でも何でもない。
異国の魔女がいまさらどう調べたところで、すでに負った傷が広がるはずがないと判断されたのだろう。
クローディアの言葉をジブリールは頷くことで肯定し、ガラス窓にそっと手を置いた。
「犯人は研究員でした。法外な金を積まれたのだと本人の口から聞きました」
「逮捕されたのですか?」
「ええ。ですがそれを依頼した者の正体はいまだ判明していないのです。匿名でやり取りをしていたようで」
ありそうな話だ、とクローディアはあごに手を当てた。
設計図を渡してもらって、あとは尻尾を切り火の粉がかかる前にとんずらされてしまったのだろう。
研究者に同情はしないが、捨て駒である。しかし一時の気の迷いに全てを無くしてしまうとは、愚かだ。
顔も見たことのない研究者を想い顔を歪めると、察したらしいジブリールが苦く笑う。
「…件の研究者は、私と懇意にしていた者でした」
次いで発せられた言葉に、クローディアははっと王子の顔を見た。
彼は己を嘲るような表情で口元に笑みを浮かべている。その表情が痛々しく、思わず言葉に詰まる。
「雇ったのは父でしたがね。ですが私が心を許していたことで、チェックが甘くなっていたのは事実です」
「それは、王子のせいではありません。貴方は信頼をしただけ。それは尊いことです」
そっとフォローするが、ジブリールはゆっくりと首を横に振るだけだった。
自らの過失を悔いるものに、どれほど優しい言葉をかけても心は救えない。自らを許せるものは自らだけだ。
王子としての責任や、見る目が無いというレッテルも彼には付きまとうだろう。
改めてそれを実感し、クローディアは彼の横顔を見つめながら口を閉ざす。
しばし無言のまま時を過ごした。
ごうん、ごうん、とガラス窓向こうの機械が唸り声をあげる姿をしばし見ている。
やがてつと顔を上げ、口を開いたのはジブリールであった。
「私には上に兄が三人おります。全員母親が違いますが」
「…ええ、カマル王国は一夫多妻制でしたね」
唐突に話題が変わったが、クローディアは盗難事件と何か関係があるのだろうと判断して、相槌を打つ。
カマルに足を踏み入れる際、調べた王子の顔の印象が、それぞれ異なっていたことを思い出した。
ジブリール王子は母親似である。どちらかと言うと野性味のある父君、サイード王の面影は薄い。
「この国は長子に家督が譲られることになっていますから、何事も無ければ王は長兄になります」
「存じております」
「ですが長兄の母は…貴族や王族の血を引いていない方なのです。父とは大学で出会って恋愛結婚だったとか」
それは初耳だった。
カマル王国は、恋愛に関しては身分を重んじないと言う話を聞いたことがある。しかし王家が実践しているとは革新的だ。
とはいっても、ジブリール王子の憂鬱げな表情を見るに、一枚岩ではいかないのだろう。
庶民の血が王家に入ることを望まぬ者もいる。それを考えれば王子の言いたいことは理解できた。
「つまり、母君の身分が低いから第一王子には後ろ盾がないと?王となるには足場が不安定なのですね」
これもまたよくある話だとクローディアは推察する。
ジブリールは唇から重苦しく息を吐き、「ええ」と頷いた。
「次兄を王にしろという声も上がっているほどです。彼は民衆からも人気がある」
「…」
「そして、上の兄、そして私にもそう言った声はあるのですよ」
物語でしか聞かないような修羅場に眉毛を跳ね上げる。
そこまでいけば、もはや王位争いを混迷させる一方だろう。
顔を歪めたクローディアを気遣ってか、ジブリールはこちらを見つめて、安心させるように笑みから苦いものを消した。
「私たち兄弟の間では長兄が王位を継ぐことで決定しています。これでも仲はいいのです」
「…それなら、ようございますが」
「ですが周りはそれを許してくれません。血や身分と言うものはそんなに重要なのですかね」
周りの誰を思ったのか、少しだけ嫌味っぽい口調のジブリールに、クローディアは瞬いた。
この温厚そうな王子がそう言った口調を使うとは、よほどのことだ。
驚きとともに、彼らの周りがどんな空気であるのかを察する。
「…身分、と言うのなら私の母が一番高いのです。それがまたこの争いを激化させる」
王子が再びガラス窓の向こうに視線を移し、美しいかんばせから表情を消した。
無表情の美貌は恐ろしい圧があり、クローディアは黙って頷き、続きを促す。
「恐らく、先日の窃盗事件の本当の目的は、私を失脚させることだったのだと思います」
「そう思われる根拠は?」
なるほど、ここで先日の事件と繋がるのか。と考えながら、クローディアは問う。
一見突飛と思われる意見だが、王子の見た王家の問題と引っかかるところがあるのだろう。
ジブリールは無表情のまま一つ頷き、答えた。
「まずは私と懇意にしていた研究者が取引相手に選ばれたこと、そしてその情報が何処からか流出したこと」
「…」
「最後に…クローディア殿が手に入れたディスクが関係あります」
表情のない顔に、薄っすら笑みを浮かべ、ジブリールはクローディアに視線を転じた。
その動作と形相に、今度こそぞくりとした寒気が背筋に伝う。
…恐ろしいほどの美貌の持ち主、だからではない。
自分が何かを持っていると言い当てられたことも含め、所作や威圧感にやはり王の血を引いていると実感させられたのだ。
クローディアは観念したようにため息をつき、ふところを探った。
取り出すのはもちろん、あの火災現場で拾った透明なディスクである。
蛍光灯の光を浴びて透き通った光を放つそれを王子に手渡し、クローディアは言った。
「これは合成サファイアで作った記録媒体ですね」
「…お気づきでしたか」
「以前、科学雑誌で読んだことが。まさか現実のものとなっているとは思いませんでした」
サファイアは硬度が高く、熱変化にも強い。
合成サファイアで作ったディスクにレーザーで情報を書き込み、保存する。そう言った技術があるらしいことは、知っていた。
カマル王国では合成サファイアを製造している。
その可能性に思い当たったのは、研究室のキッチンに見慣れぬ宝石のついたティーカップとティーポットを見つけたときである。
普通のサファイアとは違うと感じたのはもちろんだが、研究室に本物の宝石を置いておくわけが無いのだ。
「これはまだ試作段階のものです。実用化には至りません」
受け取ったディスクをためつすがめつ見つめて、ジブリールは納得したように息を吐く。安心したらしかった。
このディスクに記されているものがよほど重要なものなのか、とクローディアはことさら興味がわく。
もちろんその技術に対しても、だ。
「このディスクを再生するには専用の機材が必要です。まだ研究の段階で数が少ない」
「なるほど…」
「その一つが、この研究所に置かれています」
そう言って王子はガラス窓に背を向けると、部屋の中を移動した。
研究室の片隅に置かれた戸棚の前に立ち、無言で扉を開ける。中には様々な機材やケーブルが詰め込まれていた。
ジブリールは迷わずに、中央に置かれたノートパソコンのようなものを取り出す。
ごくごく薄く軽そうなそれは、クローディアでも片手で持てそうで、「へえ」と感嘆の声をもらした。
「このような薄型機で再生が可能なのですね」
「ええ、持ち運べる大きさでないと流通しませんからね。最終的にはもっとコンパクトにしたいのです」
展望を語りながら王子は再生機を電源に繋ぎ、ディスクをセットする。
通常のパーソナルコンピューターとは異なるシンプルな操作画面だ。思わず身を乗り出し、まじまじと観察する。
キーボード部分は普通のパソコンと変わりない。多少小さく使いづらそうだった。
かたかたとそれを操作していたジブリールは、ふとこちらに顔を向ける。
美しく真剣なまなざしに、クローディアもジブリールを見た。
「クローディア殿、これから私が見せるものは、どうぞご内密に」
「…ええ」
ここまでくれば乗り掛かった舟、毒を食らわば皿までである。
何が出てこようと驚くものかの意味を込めて頷くと、ジブリールは少し嬉しそうに微笑んだ。
彼の細長く綺麗な指が、何かを決意するようにキーボードを叩く。
「え?…これは?」
ぱっと現れた画像に、クローディアは目を見開いた。
どうやら正式な書類のようだった。
てっきり先日起きたという窃盗事件に関する証拠だと大まかな予想を立てていたが、違う。
まず目についたのは、世界的に有名な遺伝子工学研究所の名前。
そのすぐ下の欄に記入されているのは、カマル王家の人間の名前が三つ。
―――サイード王とジブリール王子…そしてローザと言う女性の名。
これはジブリールの、数年前に鬼籍に入った実母である方のものだった。
ここでクローディアは、この書類が何であるか理解し、額に汗を浮かべる。
「DNA鑑定?貴方がたが親子だと証明する書類、ですか?」
「ええ。私の母が依頼したものです」
「何故?」
問いながらその書類…DNA鑑定書に目を通す。
記入してある親子肯定率は99パーセント以上で、親子と認定されるとあったので、ひとまずほっと胸をなでおろした。
しかしそばで冷たく、まるで氷のような王子の声が聞こえ、再び背筋に寒気が走る。
「おわかりでしょう。母には疑う理由があったのですよ」
つまり王の子を身ごもった時期、別の男と関係があった。
淡々と告げられた裏切りの内容に、クローディアは息をのんでジブリールを凝視した。
王子の顔は、またあの感情のない恐ろしい美しさをたたえたものになっている。
だが先ほどよりも、奇妙な寂しさを感じたのは己の心情のせいか。
「確かに親子関係は肯定されていますが、この書類を母が依頼したという事実だけで私を責める理由になる」
「それは、ええ…」
「書類はディスクのみに保管されていますが、これが盗み出されたのです…窃盗があった日と同じ夜に」
ここまで説明されれば、誰かがジブリールを陥れようとしていると言われても納得できた。
間違いない。
しかしそうなると、一つ疑問が出てくる。
「何故このディスクが火災現場に?」
王子はちらりとクローディアを見、そして再び画面を見る。
その動作があの穏やかだったジブリールと結びつかず、寸の間胸が痛んだ。
しかしその次に王子が言った言葉は、その胸の痛みさえ凍らせる。
「火災を起こし、発見させようとしたのでしょう。どうしてもそのディスクを調べさせる状況を作りたかったんです」
「…」
そこまでするのか。
相手はなりふりを構っていない。
クローディアは呼吸を止め、目を閉じた。
事は予想以上に重大である。
改めてそれを実感し、息を吐く。
強硬手段だ。だが確かに油田火災ほど大きな事故があれば、そこにあるものは全て、丹念に調べられる。
王家にディスクを送り付けると、もみ消される可能性がある。王の目に入るかもわからない。
だから他人…鑑識の専門家の目に嫌でも止まるような事態を起こしたのだ。
そうすればジブリールに不義の子の嫌疑がかかり、先日の窃盗事件もあり失脚する。
―――だがその計画の中に予想外の因子、クローディアが入ってしまったのだ。
厄介なことになったと、観念して目を開けた。