善良な魔女
この頃、烏たちが噂する――大魔女の娘、末の魔女は薬草士にご執心、と。
今日森を出て来るときも、彼らはガァガァと飽きずに囁きあっていた。噂好きの彼らのことだ、きっと来月には「東の貴族は禿げを鬘で隠している」だなんて別のことを面白おかしく話しているに違いない。
『あの薬草士はあの子を傷つけるかもしれないね』
『また行くのかい、やめておきなってば』
『聞かないよ、彼女はあいつに首ったけ』
やかましいわ。相手にするだけ無駄なこと、と返事の変わりに魔女が手を払い魔法で木を揺らすと、がらがら声で勝手に驚いて、あっという間に散っていった。目指すは森の外の、小さな店。
「おじさん、またそんな物騒なもの吸ってるんだ」
夕刻の頃、店の軒先にある欄干にもたれ、ぼんやりと煙りを揺らす男の背に魔女は声をかけた。顔だけこちらを振り返った彼は笑んで、魔女の白い顔にふっと煙りを吹く。
「物騒とは大げさなことをいうんだな」
苦い香りと煙たさに顔をしかめた魔女は、ほんの少しだけ背伸びをして、煙草を燻らせる彼の隣で頬杖をついた。
「煙草は寿命を縮める麻薬なのよ」
「そうだったか? そりゃ大変だ」
言葉とは裏腹に、煙草を咥えた彼の横顔にはちっとも懸念なんて見えない。
変なの。
冷んやりとした欄干に腕を預けて、魔女はそんな彼の横顔を眺めた。魔女の知っている昔の彼と、目元はちっとも変わっていないのに、いつの間にか勝手に大人びてこうして煙草を吹かしているのだ。何だか変な心地がする。
彼と初めて出会ったのはいつ、だったろうか。魔女にとっては昨日とそう変わりない、ほんの少しだけ前のこと。まだ彼を少年と呼べるような頃だ。
一人前に家出をして森を迷っていた彼と、魔女は遭遇した。帰らないと意地になる彼を怯えさせて、家に帰したのは他でもない、この魔女だった。怪我をしていた彼に秘密の薬草を用い、手土産程度に小さな魔法も見せてやった――魔力なしに自分の魔法を見せたのは、これが初めてであったから、よく記憶している。とはいえ、二回目が訪れたその時にもし、彼の右目の下――縦に二つ並んだ黒子が無かったら、きっと思い出しやしなかっただろう。すれ違ってそれで終わり。しかし、偶々目に止まったのである。彼が得意げに扱っている薬草を見て、あの少年だと確信したのは、数か月前のことだ。
「どうせ遠くない未来に死ぬくせに、わざわざ生き急ぐなんて、ばっかみたい」
「ご心配どうも」
「心配なんかしちゃいないわ、全くお気楽ね」
皮肉ですら、今のこの男には簡単にあしらわれてしまう。あぁ言えば、こう言う。魔女の言葉に、いちいち突っかかってきたあの少年は、何処へ行ってしまったのだろう。
今では魔女の方がうんと年下に見え、彼はとっくに少年と呼ばれる頃を過ぎていた。もっとも、彼はそんな昔の事はすっかり忘れてしまっているようだったが。
「ねぇおじさん、それっておいしいものなの?」
魔女が尋ねると、彼は涼やかな目を一瞬だけちらりとこちらに向けたが、すぐにどこか遠くへとやってしまう。
「んー、どうだかね。おいしいと思ったことはないかもしれん」
「じゃあ何で吸うのよ」
「落ち着くから」
考える間もないほどあっさりと返ってきた答えに、魔女は彼の横顔を仰ぐのをやめて、彼の見つめる先を眺めてみる。いつも飽きずに彼はここでこうしているが、何か特別なものが彼には見えるのだろうか。魔法を使えば簡単にその目を借りて見ることもできる、でもそんな気にはなれなかった。借りたところで、見えるのは同じ景色だ。ますます分からなくなるに決まっている。今でも十二分に分からない、彼の考えていること。
「分っかんないなぁ……」
「はは、お子様には分からんだろうな」
彼は軽く笑って、やっと魔女の方を向いた。揶揄うような意地の悪い大人ぶった笑顔。ムッとした魔女は欄干から身を起こし、一段登って彼を見下げる。
「ねぇ、私おじさんのことずっと前から知ってるよ。おじさんがまだ、こーんな子供の頃から」
頭一つ分小さくなった彼の頭に触れると、彼は短くなった煙草を煙草入れに閉まって魔女を見上げた。
「何馬鹿なこと言ってんだ。おっさんを揶揄っても何も出てきやせんぞ」
「嘘じゃないわよ、知ってるわ」
彼と前に一度会っていることを思い出した自分とは対照的に、自分のことを忘れていると知った時から、それとなく思い出しやしないか、偶にこうして揶揄ってみてはいる。しかし、彼が思い出すような気配は少しも無く。再会から今までずっと、彼にとって魔女は単なる”お嬢さん”だ。彼が自分を「魔女なんだ」と驚いてくれたのは昔だけ。
……生憎魔力なしは魔女と比べると、少々記憶力が悪いのかもしれないわ。
少々ムキになってみても彼も一段上にやって来たものだから、直ぐに魔女の背を追い越してしまった。一つ瞬きをするようなほんの僅かな間。気づけば、彼が少年から魔女の見た目の年くらいの娘がいてもおかしくない大人になってしまっていたように。
「……だって私、魔女だもの」
ぽつりと呟いた後で色々考えてしまった魔女は、妙に虚しくなって俯き、自分の小さな靴と彼の大きな革靴を比べ見た。しばらくの間何も言わず黙っていた彼は、不意に煙草の香りの残る息を吐く。
「そういうことはあまり言わないほうがいい。二人でいるときはいくらでも聞いてやるが」
冗談は取り合わない、そういうことだろうか。もしそうであるならば、自分を否定されたような気がして、あまりいい気はしなかった。ふて腐れる代わりに魔女は小さな声で尋ねる。
「何故?」
「魔女狩りにあって、裁判にかけられたいのか?」
そんな言葉が彼の口から出てくるとはまさか思わず、魔女は目を丸くした。
魔女狩り。この辺りの土地を治めている貴族がその名の下に、不思議な術を使うと申告のあった女性たちを魔女として、狩る。不満が自分たちに向かないよう、そして人心が離れていかないよう、どうやら一つ敵を作っておくことにしたらしい。
狩られた後に行われる魔女裁判とは名ばかりで、縛り上げ拷問し……殺しているということ。殺戮と何ら変わらない。この魔女もかねてから噂くらいは聞いていた。
きっと皆んな喉までおかしいと出かかっているに違いないのに、結局誰一人として反対しようとはしなかった。恐らくこのところの不況のせいか、それらがエスカレートし、魔女と関わったと疑われた者まで、処罰されるようになったと云うからだろう。しかし、実のところ殺された者たちは、一人だって魔女ではないと、魔女ははなから知ってもいた。
大魔女とその娘たちの八人しか、本物の魔女はいないのだから。今日まで自分も含め、姉の魔女たちは一人として欠けず、生きている。
「まさか本気で、彼女たちが魔女だと信じているの?」
「さぁ……俺には何とも」
いつになく神妙な面持ちをする魔女を見て、少し迷った末に彼はそう返事をした。
「そもそも、おじさんは魔女はいると思う?」
「どうだかな。いるともいないとも言い切るのは難しい話だろ」
「そんな理論は聞いちゃいないわ。おじさんの直感よ」
魔女は問い詰めるように真っ直ぐ見つめたが、彼はふいと視線を背ける。それは、まるで答えから逃げるようで、ちくりと魔女の小さな胸は痛む。冗談めかして、自分が魔女だと彼に言ったことは何度かあった。でも、思えば魔女がいるかどうかと、面と向かって彼に尋ねてみたのはこれが初めてである。何も思い出してくれないまま、無かったことになることは、魔女にしてみれば複雑だ。……ずっと聞けなかっただけなのかもしれない。だから、こんな反応をされるなんて魔女は露ほども知らなかった。
心外なことに思えて仕方がないのは、何故。
彼の答えが返ってくるまでの間、彼を見上げて止めない魔女の心はひどく漠漠としていた。薬草に魔法をかけて、彼の傷を癒すことはできても、彼の名を知らない魔女は、彼の本心なんて到底計り知れっこない。
「世の中に不思議な力があることくらいは信じてるさ」
「例えば?」
「所謂奇跡っていうやつだな。あとは人の縁とか」
再び遠くを見つめたまま、彼はそう言った。拍子抜けするほど曖昧な返答に、魔女は呆然と彼の背を見やる。風になびく彼の短い黒い髪、夕の日を受け透けた黒曜石のような黒い瞳――魔女の好む色。
彼も所詮、他の魔力なしと同じ……なのかしら。
永遠を生きる魔女たちは、限られた時を生きる魔力なしからはずっと無視され続けてきた。……気づいてもらえ無かった。何処かで交差したところで、魔女はいつだって置き去り。彼らの中には残れない。仮に残れたとしても、それは束の間のことだろう。
彼と過ごすうち、何処かで彼は他の魔力なしとは違うと期待していただけに、がっかりしてしまった気持ちが魔女にはあった。彼が悪いとは思わない。思えない。本当に思い出せないだけか、夢を見ていたことにしたいのか……そんなことを考えてしまう、諦めの悪い自分を厭って魔女は、烏たちと同じように、未練がましい考えを頭を振って追い払う。
思い出したとして、どうするというの。
自分と彼の過ごす時間は違いすぎる。彼が魔女と同じようにここまで生きた時間は、魔女のことなんて薄れさせてしまうほどのものだったのだろう。訪ねていく自分を追い返しもせず、歓迎もしない彼だけど、一緒にいる間は、魔女も知らないような色々な話をしてくれたこと。それは、彼が過去のことを思い出そうが思い出さまいが、変わりないではないか。
それでいいと思わ無くちゃ。
ひとは自分の死をひどく恐れることを、魔女はよくよく知っていた。もしも、魔女がいると信じたままの彼なら、魔女裁判を恐れてもう自分とは会ってはくれなかったかもしれない。彼が自分の目の前からいなくなろうものなら、暇を潰すための相手がいなくなってしまう。身内以外に初めてできた、気兼ねしない話し相手がいなくなるのは惜しいし、その方が、思い出してもらえないことよりもっと辛い。このまま彼の中に生きることができるのなら、お嬢さんでいれればいい。
――だから、私は貴方に名を訊けない。
「でも、それじゃぁ信じてないのと一緒じゃない。夢がないのね」
お嬢さんと呼んでくれる、いつもの彼の笑顔を引き出そうと少しだけ茶化してみせると、思い通り彼は笑ってくれた。
「この国は大人になると漏れなく夢を取り上げなさるのさ」
どうしてそんなことをするの。それくらいは聞いてもみたかったが、自分には到底理解できないことに違いないと勝手に決めつけて、その質問は密かに飲み込んだ。昔からひとのすることなんて、自分には分からないことが多い。かといって、分かろうともしてこなかった。魔女たちは何百年も自由に生きている。家族の中での決まりごとなんてものも、両手で数えられるほどしかない。大魔女は、大方娘たちがしたいようにさせてくれていた。そんな魔女たちが、彼らの世界でいうところの夢、なのかもしれない。
魔力なしの世はなんて窮屈な世界なんだろう。
「……つまらない国だわ」
「全くだな」
魔女の口をついて出た言葉に、意外にも彼は同意の念を示した。しかし、それも一瞬だけですぐに煙に巻いてしまう。
「これもここだけの話だ」
「どういうこと?」
「どこで誰が聞いてるとも知れんからさ。俺の立場が危うくなる……勿論お嬢さんも」
彼が登った同じ段上に立つ魔女は、急にとんと彼を段から押し出した。後ずさるように彼が素直に下へ降りたから、また魔女の方が目線がほんの少しだけ高くなる。彼は呑気に魔女を見上げ、瞬きをする。せめてあの時と同じように精一杯のお姉さんを演じようと、魔女は胸を張って手を当てた。
「その時は、私が匿ってあげるわ」
「随分頼もしいんだな」
しかし、彼はゆるりと表情を緩めただけだった。まるで見栄を張る子供に、話を合わせるような言い方をするものだから、魔女はまた意地になってしまう。
「当たり前よ。だって……」
その先を言いかけた魔女は、彼の表情が曇りかけたのに気づいて、止めた。彼を困らせるのはあまり楽しい遊びではないし、本当のところ、大魔女から、無闇に魔女であるとひとに教えてはいけないと言われているのだ。
こんなことをしていると知れたら、大目玉だろうな。
辺りに烏がいないことを確認してほっと胸を撫で下ろした魔女は、一段を飛び降り、冷静になれと深呼吸する。やっぱり何でもないわ。そう取り繕うとした魔女の言葉は先に口を開いた彼のせいで、結局形になることはなかった。
「お前みたいなお嬢さんたちは、みんな魔女だよ。時々とんでもない魔法を使いやがる」
不意に頭に降ってきた温もりと重みに、魔女が顔を上げると彼と視線がぶつかる。意外にもその目は先ほどまでの揶揄うようなものではない、いたって真面目なものだった。ぽんぽんと二回落とされた掌はさっさと帰って行ったが、感じたぬくもりだけは、そのままそこに忘れられたかのように残っていた。
「な、何やらしいこと考えてんのよ」
「あ?」
気恥ずかしくなって、ついそんなことを口走った魔女の目には、一瞬きょとんとした彼の顔が映る。しかし、すぐに呆れたような……ほら、また大人ぶったような顔をするんだ。
きっとどんなに立派に魔法を使ってみせたって、どうせ子供騙しだとか何とか言って冷やかすんだわ。
「んなこと考えてないわ。流石の俺もお前みたいな、ませた年の女の子に溺れるほどお子ちゃまじゃないんでね」
ぺちんと弾かれた額を抑え、涙目になりながらも魔女はきっ、と恨めしげに彼を仰ぎ見る。痛みのせいなのか、嬉しさのせいなのか。それとも、悲しいせいなのかさえも判別つかない、変な気分だった。
あたしの半分も生きていないくせに、あなたっていつもあたしを子供扱いするのね。
心の中でひっそり、面白くないわと魔女はぼやく。
「良いわ、今に見てなさい。あとで後悔しても知らないんだから」
「ん、気長に楽しみにしといてやるよ」
当の彼は少しも悪びれた様子もなく、口の端をあげて余裕そうに魔女の睨みを受け止める。諦めてそっぽを向いた魔女は、彼を真似て欄干にもたれかかっては、気付かれないように溜息を零した。
子供騙しみたいな嘘――口元だけに寄せた彼の微笑みに、騙されてなんかやらないんだからと。