年下の男
勢いだけで家を飛び出したところまでは良かった。
一人でだって何とかなる、そんな考えは甘っちょろいだなんて本当は頭で分かってはいたが、口うるさい親の注意に従うのに飽いてしまった彼には、関係なかった。……要は幼かったのである。
日も暮れ視界も悪くなりつつある森の中で、少年は必然的に行くあてもなくなり、途方に暮れていた。そんな折、彼の前に現れたのは、自分より少し年上に見える少女であった。
「こんなところであんたみたいな子供が何してるの?」
「ほっとけよ。俺はこれからここで一人、生きていくんだ」
強がってふい、と顔を背けた少年であったが、実のところはすっかり疲弊して、ほとんど歩く気力すら残ってはいなかった。適当な木の下を見つけて休もうと決め、腰を据えたその矢先であったから、素知らぬ顔をして座ってはいるものの、歩き慣れていない少年の足は、隠しきれない痣や切り傷だらけだ。そんな彼を見て少女は呆れたように、大げさな溜息を吐く。
「これだから魔力なしは……」
彼女が口にした耳慣れしない単語を怪訝に思いながらも、彼女を無視することに決めた少年は何も言わず、目を閉じた。しかし、放っておいて欲しいという少年の切なる願いは、残念ながら彼女には届かなかったようである。
「あんたには無理よ。腹を空かせて野たれ死んでるのが眼に浮かぶもの」
「分かんないだろ! やってみないと!」
「分かるわ、それくらい」
馬鹿にされたと思った少年は、指摘された通りの空腹による苛立ちも相まって立ち上がり、大きな声を出した。しかし、一方の彼女はと言うと、怯みもせずに少年を見下げている。彼女の方が、少年よりも頭一個分は確実に背が高い。悔しいが、微塵も格好なんて付いていないのだろう。
「嘘つき。それに、お前だって子供のくせにここに一人でいるじゃないか」
苦し紛れの反論に、彼女は意外そうに目を大きくした。
「あら、私はあんたと違ってもう立派なレディよ、失礼しちゃうわね。それにここに昔から住んでるの。だから分かるわ」
その仕草は、背伸びをして大人の真似をするようで、少年の目には少々ぎこちなく映る。何だこいつだって、俺と何ら変わりないじゃないか。それで調子付いた少年は、ちょっと怖がらせてやろうと揶揄うように笑って見せた。
「こんなところにいるのは魔女くらいだって」
「だから何?」
少年の予想に反して、狼狽えるどころか、然も当たり前のように答えた彼女に違和感を覚えて、逆に彼の方が不安にさせられる。少年はこくり、と息を飲んだ。
「……もしかしてお前、魔女?」
自分で言っておきながら、馬鹿げている質問だとは思ったが、無きにしも非ず、だ。母や父からは魔女に関わるなと口を酸っぱくして言われていたのだから、子供心にも本当にいるのだろうと信じていた。表情をちっとも変えない彼女から目を離さずに、その返答を待つ。孔雀石の色をした彼女の瞳が、そんな少年を面白がるように細められた。合わせて水を口にしたばかりのように瑞々しい唇が弧を描く。
「かもしれないわね。どうする? あんたを呪い殺しちゃうかも」
優位にあると知った彼女は腕を組み、少年に負けじと生意気な口を聞いた。
脅かすような言い方ではあったが、それ以上は何もしようとはしない彼女に、初めはびくつき、様子を伺っていた少年も、だんだんと警戒を薄めていく。魔女はひとを傷つける魔法を平気で使うと聞いていたのもあって、自分より演技が一枚上手なだけなのかもしれない。そう考えるに至った少年は、揶揄われたと憤慨するより前に、内心ほっとした。
「魔女って言うくらいなら魔法が使えるんだろ、何か使ってみせろよ」
ふと思いついた強がりを試しに使ってみると、彼女はあからさまに眉根を寄せた。
「嫌よ。魔法は見せびらかせるためのものじゃないもの」
「じゃ、やっぱりお前は魔女じゃないんだ」
「どうしてそうなるのよ」
「魔女じゃないから魔法が使えないんだ。適当にごまかしたってばればれ」
勝った! そう思って勢いづいた少年に、初めは勿体振るようにしていた彼女も、流石に気分を害したようで、色白の眉間に不機嫌そうな皺を刻んでいた。不思議と疲れも怖さも忘れて、目の前の彼女の相手をするのに必死になっている。それが可笑しかったが、少年は気が紛れて丁度いいくらいに思っていた。
「本当にやかましいわ、あんたって。分かった、眼をつぶってなさい」
「眼をつぶってる間に逃げるつもりだろ? そういうわけにはいかないぜ」
「親切で言ってあげたのに、じゃあいいわ。見てなさい」
観念したように見えた彼女が、いきなり突き飛ばしてくるものだから、少年は呆気にとられて転がったまま、あんぐりと口を開けた。彼女は何かぶつぶつと呟きながら草の上を撫でている。すると、短い草の中から毒々しい色で、見てくれも不格好な草が姿を現した。
「わっ、何だよその不気味な草は!」
やっと自分の身に危険が迫っていると認識した少年は、戦慄く足を必死に立てようとしたが、いとも簡単に彼女に取り押さえられてしまう。見かけによらず、すごい力だ。細い腕のどこからそんな力が出るのか、つい感心してしまうほどの。
「動かないでよ! 魔法が使えないでしょう」
身をよじって暴れる少年に彼女が苛立ちに似た声を発した。不気味な草を向けられ、動くなと言われる方が無理な相談である。しかし、結局は彼女との圧倒的な力量差に負けて、膝にできた痣にその不気味な草は着地していた。
「いっつ……何すんだよ! いてぇだ……あれ、痛くない」
恐怖とも怒りともつかない感情に悲鳴を上げかけたが、ぴりっとした痛みが一瞬しただけで、後は何事もなかったかのように、普通に息をしている自分に気づく。それだけではなく、痣も綺麗さっぱりなくなっているではないか。綺麗になった膝と彼女――魔女の顔を交互に見比べて、少年は今起こったことを整理する。落ち着きを取り戻した頃やっと、素直な疑問が口からこぼれ出た。
「どうやったんだ?」
「あんたのお望み通り魔法を使ってやったのよ。これで分かったでしょ」
「でも、でも」
自慢して見せるでもなく、何でもないことのように言う魔女に、まだ信じきれていない彼は、彼女の手にした不気味な草を奪い取って他の傷口に当ててみる。滲みはするが、魔女がしてくれたように、傷跡が消えて無くなることはない。
本当に本当の魔法だ。少年は興奮気味に、魔女を見上げた。
「何よ。もっと派手なものが良かった? 手の一本でもちぎれた方が……」
「いや、違う! そういうことじゃねぇよ。純粋に驚いただけで……魔女なんだ」
魔女はそうとも違うとも答えずに、ふん、と鼻を鳴らすと、親切なことに他の傷にも、少年には聞き取れない呪文と薬草を使い、目の前で消していく。全て終わる頃には、少年の足は家を飛び出した時のように軽くなっていた。
「魔女は……魔女狩りでいなくなったって聞いてたんだ」
お礼も言うのも忘れ、そんなことを呟いた少年に、魔女のパールホワイト色の眉がぴくりと動く。
「そうだったわね。でも、残念だけどあたしみたいにまだ生きてる魔女もいるのよ」
薬草を地に返した魔女が一度触れれば、役目を終えて撓っていた薬草が息を吹き返し、また小さな花を咲かせる。その光景は今、この状況を夢だと思いたくなるぐらいには、不思議な光景だった。何度か眼をこすってみたが、自力で根を張っている薬草がそこにあるばかりである。
「あたしたちの仲間を酷いめに合わせた上に殺した、あんたたち魔力なしを生き残った魔女たちは恨んでるわ。あたしみたいな善良な魔女だったから良かったものの、そうじゃなければ今頃あんたは火で焼かれてるかも」
物騒な発言とは裏腹に、慈しむように花を見つめる魔女の横顔は今まで以上に大人びて見えた。
噂くらいにしか聞いていなかった魔女裁判であるが、どんな残忍なことが行われているかくらいは、幼い彼でも知っていた。危険を孕む可能性のある者を前もって排除することは、自己防衛のためのいい方法であって、何らおかしなことではないと思っていた。事実、そうして少年は周りから教育されていたのだ。しかし、こうした不思議な――素敵な力を持っているというだけで、異端者と決めつけて制裁を加えるとは、どんなに浅ましい行いか気づいた少年は、思わず身震いした。ひどく、居た堪れない気持ちになる。
「ごめんなさい、俺」
急に素直になった少年に対し、魔女は気を良くして得意げな表情になる。少女の見た目に見合った無垢な可愛らしい笑顔だった。彼女がそれ以上怒らなかったことに安堵しつつ、別の意味で少年はどきどきしていた。
そんなことを彼女に知られてはまずいと、さり気なく視線を足元に落とす。
「いいわ、別にあんたがしたんじゃないことくらいは知ってる」
「疑って悪かったな。それに怪我……治してくれてありがと」
ずいぶん溜めて置いた割には、何の変哲もない謝辞。どういたしまして。と言った魔女の笑みに少しばかり気恥ずかしくなって、彼は無意識に土を蹴る。しまったと我に返った時には、もうばっちり魔女の白いワンピースに泥が点々としていた。
「止めてよ、土がかかったじゃない」
スカートに散った泥に顰めっ面になりながら払う彼女に、少年は思わず笑っていた。笑いどころの掴めない魔女はきょとんとしている。少年の方も、特に何がおかしい訳でも無かったが、ただころころと表情のよく変わる彼女は見ていて飽きないと思った。
「ごめん」
謝るより先に笑い出した少年に魔女は頬を膨らまていせたが、とがった視線も気に留めず、腹を抱えて笑う少年と眼があった途端、魔女も少年に釣られたように吹き出した。お互いの表情が辛うじて解るほどの暗い森の中に、二人分の楽しそうな笑い声が響く。
「俺、お前のことは……魔女のことは秘密にするよ。絶対誰にも言わない。魔女は怖いけど、お前みたいないいやつもいるんだったら、殺されて欲しくないし」
お互いがひとしきり笑った後で、少年が今しがた立てたばかりの誓いを告げると、魔女はそうねと頷いた。
「気軽に魔女のことを言うもんじゃないわ。たとえ相手が魔女だとしても」
「何故?」
魔女はみんな恐ろしいものだと思っていた。上手くやっていく方法などないから、裁くより仕方ないのだと。しかし、みな彼女のような者たちばかりなら。そう思い始めていたところで釘を刺され、少年は首をかしげた。
「人のことを快く思っていない魔女から、丸焼きにされたいの? 忘れた? あんたたちは私たちを傷つけたの。ここにいるのは、私みたいな善良な魔女とは限らないからよ」
脅すような文言。暗にもう、ここへ来るなとも取れる言い草。また会えるか、なんて聞けるような雰囲気では無かった。魔女は再び育った不気味な薬草を手折って少年に押し付けた。
「あんたには私みたいな力は無いだろうけど、癒すくらいはできるわ」
じゃあね。
もう用も興味も無いと挨拶もそこそこに、闇に浮くパールホワイトのふわふわとカールした髪を翻して、臆せず暗い森の中に踏み入っていく彼女の後ろ姿。名前も聞かなかったことを後悔しながら、もう視界から居なくなってしまった彼女を――夢で無かったことを確かめるよう、少年は自分の手元に残った薬草を見つめた。