マンガ本にブックカバー
日没前、広めの歩道、少女が二人夕日を背に受けて歩く。
「逢魔が時、妖が人界に出ずるを阻むは、境界の守たる、半人半妖の守護者」
どこか陶然とした表情で、夕子がつぶやく。
「何それ」
答はわかり切っていたが、私は尋ねる。そうでもしないと、夕子は私が隣にいることすら忘れかねない。
「境界の守」
相変わらず心ここにあらずと言った顔をして、夕子は手にしたマンガの題名をつぶやく。
それがどんな感じのマンガかは、夕子を見ているとある程度は予想ができる。夕子の表情にそれが映るからだ。
「聞いたことのないタイトルだね。どこの雑誌?」
「知らない。古本屋で見つけた」
夕子の声がようやく、意思を伴ったものになる。
言われてみると、紙が少し黄ばんだ感じがする。体裁も私の知っているマンガ本とは違っているようだし、あまり有名なものではないのかもしれない。
「よくそんなの探してくるよね。探すの、大変じゃないの?」
私も夕子の影響で多少はマンガを読むようになったが、自分で買うことは少なく、その上見知らぬ雑誌のものを探そうなどとは絶対に思わない。どうやってお気に入りを見つけるのか、いまだにわからない。
「勘、もしくは縁。大変だと思ったことはない。むしろ」
夕子はそこで言葉を切り、私に目を向ける。
「あなたの方がよほど大変でしょう? たった0.1秒のためにあんなに走って」
私の部活のことを言っている。私は返事に詰まったのを装って、夕子の目を盗み見る。
「好き、だから」
しかしいつまでもはそうして見てはいられなくて、私は適当なことを言ってごまかす。
「好きと言うなら、私も同じ」
すでに夕子は再びマンガ本に目を落としている。
昼休み、2年4組の教室、皆が思い思いの場所で弁当箱を開ける。
「ねえ夕子、今日、ちょっと席代わってくれない?」
私が4組の教室に入ると同時に、夕子の前の席の幸代が夕子に声をかける。しかし机の上に弁当箱を出してマンガを読みだした夕子に、その声は届いていない。
「夕子ってば」
隣の席の恵が呆れたような声をかけて、ようやく夕子は自分に用があることに気づく。何事もなかったように夕子は席を移り、私はさらにその前の空いている席に座る。
「呼ばれていることくらいは、気づいてあげようよ」
夕子が他人と会話をしているところを、私はほとんど見たことがない。夕子はむしろ避けているのだが、それは意識的でさえないので、嫌味ととられることはないらしい。
夕子はそれに答えず、黙々と弁当を食べる。夕子と席を代わった幸代たちの話し声が、はっきりここまで届く。
「他人と話すのは苦手。苦手と言うか、怖い」
しばらく経ってから、夕子がポツリとこぼす。声に引かれて私は夕子を見たが、夕子はその目を弁当箱に落としたままだ。
「何を考えているかわからないし、何をするかわからない」
夕子の表情は見えない。せめて、目を見たい。私が声をかければ顔を上げてくれるかもしれないが、それは待つ。
「だから、ついていけない」
夕子を相手に急いではいけない。そうしなければ夕子は心を開いてくれないことを、私は学んでいる。
「何を考えているかなんて、こんなに聞こえてくるじゃない」
「うん、でも」
ようやく顔を上げた夕子の悲しみに揺れる目が、私の悲しみをも呼び起こす。律儀なのだ。自分がきちんと相手に合わせなければならないと思い込んでいる。
「ついていなかくても、そのうち何とかなるんだけどね」
互いに歩み寄ればいい。そのために私は少しずつ私のことを夕子に教えていったし、夕子のことを教えてももらった。陸上部のこと、好きなマンガ、苦手な科目、嫌いな先生。
「だって私のことは、わかるでしょう?」
言い切ってしまうことにまだ不安はあるが、そういうことにしておく。
「そうね」
夕子の目の揺れは、まだ収まっていない。
「残り、食べようか」
やはり黙々と弁当を食べてから、私は夕子からマンガを一冊借りる約束をする。
雨音が包む、社会科準備室、書棚の脇の席に少女が一人たたずむ。
「終わったよ、帰ろう」
まだ少し私の呼吸は荒いままだが、夕子がそれを意に介することはない。あるいは気づいてさえいないかもしれない。
「階段の足音が止んだから、もう終わりなのはわかってた」
ブックカバーを掛けたマンガ本に栞を挟んで、夕子が席を立つ。知らない人が見たら中身がマンガ本とはわからないかもしれないが、夕子の表情にその中身が映る。コメディを読んでいるときなど、突然クスクス笑い出すときさえある。
「よくこんな隠れ場所を知ってるよね。初めて聞いたときはびっくりした」
ここはしばらく前に夕子が指定した待ち合わせ場所。私が部活の間、部活をやっていない夕子はここで待っている。
「探したから」
今の夕子の声は少し弾んでいて、ほんの少し口数が多い。こういう時に合わせて、私は夕子に私の話をする。
「でもここ、うるさくなかった? 階段が近いし、駆け上がる足音が響くでしょう」
「それは気にしてない」
マンガ本をカバンにしまった夕子と並んで準備室を離れる。好きに出入りしていいらしい。
「段を飛ばしちゃいけなくて、一段ずつ昇るから大変。ずっとやってると、そのうち踏み外すかもしれないとか思って怖くなる」
そうして足が止まると顧問の先生に怒られる。無心になれてこそ実力が出し切れると、何度聞かされたかわからない。
「ただ歩いていてもどこかにぶつかるかもしれないのに、それは怖い」
普段ただ下りる階段で、夕子は手すりに手を添えた。思わず私は笑いを漏らしたが、夕子は気づいていない。
「やっぱり私は雨が嫌い。階段で変な走り方なんかしないで、思い切りトラックを走りたい」
こんな感じで少しずつ、今日は私が雨が嫌いなことを教える。
「私も雨は嫌い。登下校のマンガを読む時間がなくなる」
「雨降ってなくてもそれはやめたほうがいいよ。だから歩いていてぶつかるんでしょう?」
それきり夕子は口を閉じてしまった。怒ったのか拗ねたのか、表情は傘に隠れて見えない。
軽くからかうような口調で言ったことだが、私は半ば本気だった。私が見る夕子の姿の大半はマンガ本に目を落としているもので、こうして並んでいても目が合うようなことは少ない。
「ねえ夕子」
「何?」
声をかけても、大抵はそっけない返事が返ってくるだけ。自分から何かを言うときでなければ、夕子が私を見ることはない。
「何でもない」
それでも少しでも夕子がマンガから離れる雨の道が、私は好きになりかけている。
風がなぐ夕刻、夕子の家、少女が二人日差しを避けて座る。
「それを貸そうと思ったのに、ここで読み終えそう」
試験勉強のはずが小休止にとマンガを読み始めて止まらずに今に至る、私たちのいつもの光景だ。
「時間かけすぎた。勉強しないと」
私はわざわざ音を立ててマンガ本を閉じ、夕子にも再開を促す。しかし夕子は応じない。
「勉強は集中できるときにやる。それ以外は無駄」
夕子はマンガ本から目を上げさえしない。それでそれなりの成績を収めているのだから、夕子の言うことにも説得力はある。
私も読みかけのマンガ本を再び開く。読み終えるまで、それほどの時間はかからなかった。
「それなら今日は、これを貸してあげる」
見計らったように夕子が自分の持っていたマンガ本を差し出した。私を待っていてくれたのかと動揺して、返事が一拍遅れる。
「好みに合うかわからないけど、あなたに読んでほしい」
日差しの加減か夕子の顔が赤らんで見え、その目もやや潤んでいる。パラパラとめくって見たところ、恋愛もののようだ。
「ありがとう」
マンガ本をカバンに入れ、私は潤んだ夕子の目から逃れる。
今、二人きりのここで、恋愛マンガを渡して読ませようとすることに、意味など何もない。夕子は貸してくれるのは常に自分が気に入ったマンガだけで、そこには分野と呼べるような共通点がまったく見当たらない。
「飲み物をとってくるから、少し待っていて」
夕子が部屋を出ている間が、動揺を鎮めるいい機会だった。戻ってきた夕子の目を、私は見ることができている。
「夕子って、こだわりとかないの?」
冷たい緑茶をのどに流しながら、私は尋ねる。何についてのこだわりなのか、尋ねている私にもあいまいな問いだ。いつも違う飲み物についても、好みの分野がわからないマンガについても、聞いてみたい。
「ある」
「どんなの?」
夕子のはっきりした返事が思いがけず、私は畳みかけるように尋ねてしまう。直後にそれに気づき、私は前に傾きかけた体を反らせる。
「とにかくマンガが好き。マンガに浸るのが好き」
脱力する私に、夕子は目を細めて小さく笑う。
街灯がところどころ点灯した、歩道のない路地、少女が二人並んで帰る。
「こんな暗くなってもマンガ見てると危ないって、何度言ったら聞いてくれるかな」
少々的外れなことと自覚しながら、それでも私は言わずにはいられない。そもそも明るい暗いの問題ではなく、マンガを読みながら歩くことそのものが危ない。
「うん」
その姿勢を変えず、夕子は生返事を返す。いくらか緊張したような硬さが、夕子に見える。
「それ、何かドラマの原作?」
間を開けたくなくて、私はとにかく適当に問いかける。今はどうにかして夕子の目を上げさせたい。
「医療もの」
返事の短さと硬さから、緊迫した場面を読んでいると想像できる。こういうときが一番危険だと、私の勘がささやく。
「何時にどこのチャンネルでやってるドラマなの?」
続けざまの私の問いに、夕子の目が泳ぐ。あとはその目が私を、あるいは前をしっかり向いてくれればいい。
「もう今はやってない。最近だったはずだけど、いつ頃だったか」
正面から車のエンジン音が聞こえる。その音に目を向けた私の視界に、首をかしげながら道路の中央に寄って行く夕子が入る。
ここの道幅は狭く、車がすれ違うのにも苦労することを知らない住人はいない。人と車がすれ違うにしても注意しなければならないと、子供の頃から繰り返し言われている。街道ではないので通るのは地元の人間と決まっており、車の側もそれをわかって通っている。
車がクラクションを鳴らす。
「ちょっと!」
それでも歩調の怪しい夕子の手を、私は思い切り引く。勢い余って私たちは二人ともブロック塀にぶつかる。車の方はそんな私たちの直前で停止し、それからゆっくりとすれ違う。
これで、二度めだ。
「ありがとう」
呆けたように夕子が礼の言葉を口にする。すべての表情が消えた顔で曇りのない目だけが私を向き、私はそれをただ覗き込む。無事でよかったと思うまで、どれくらいそのままでいただろうか。
思い出すまでもない。私は夕子のこの目に惚れたのだった。作り物めいたとさえ言えそうな、純粋で綺麗な目。それを追って、私はここにいる。
「だから危ないって言ったじゃない」
塀にもたれかけていた体を起こして、同じように塀にもたれた夕子の手を引いて、私は諭す。
「大丈夫」
一歩よろけてから、夕子は道の端に立つ。ようやく自分の意思が戻ったようで、その声にも力が戻っている。
「あなたが見ていてくれるから」
笑みを浮かべた夕子の目に、いたずらっぽさが見える。私が引き込まれるように惚れたあの目とは、どこか少し違っている。
「三度目はなしだからね。もしものことがあると思うと、それだけで私の寿命が縮む」
それだけ、あの目を探す時間が減ってしまう。今、私が一番嫌なことだ。
つないだ手を離さないまま、私たちは家路に向かう。ときどき夕子が話しながら私に向ける目は、やはりあの目とは少し違っている。
日没前、広めの歩道、少女が二人夕日に背を向けて歩く。
「この間借りたマンガ、返すよ」
私はカバンからマンガ本を取り出し、夕子に渡す。私に目もむけずマンガ本を受け取った夕子は、早速その本を開く。
「だからマンガ見ながらは危ないって、また言わないとダメなのかな」
あれ以来夕子は帰りながらマンガ本を読むのをやめていたが、手に取ったとたん自制は消えてしまったらしい。
「大丈夫」
呆れるような私の声に、夕子は本を開いたまま顔を上げる。
「あなたが見ていてくれるから」
笑みを浮かべた夕子が私に向ける目はうっとりしていて、もうマンガの中身が表情に映ってしまっている。
私は夕子に見せるようにため息をひとつつく。夕子の表情が曇って、それから再びマンガ本に目を落とす。
「美夏」
路地に入ってすぐ、夕子が私の名前を呼ぶ。これまで名前を呼ばれた記憶はない。不意のことに、私は弾かれたように夕子に向き直る。マンガ本は栞を挟んで閉じられている。
「私はマンガに浸るのが好き。その時間を、あなたがくれていた」
夕子はマンガ本をカバンにしまい、私の目をまっすぐに見つめる。夕子の顔から表情が消えていく。私はその夕子の純粋で綺麗な目に、ただ引き込まれる。
「どう言ったらいいのか、でもどうしても伝えなければいけないと思った」
しどろもどろな夕子は明らかにはにかんでいて、それで私はようやく我に返る。
「ありがとう」
夕子は私の手を取って、私の半歩後ろに下がる。私がその手を引く形になる。
「ん、いいよ」
多分、今夕子の顔を覗いてはいけない。つないだ手から、何となくそう感じられる。
多分、今私の顔も夕子に見られていいものではない。つないだ手を離さないまま、私たちは家路に向かう。