終曲
白い靄が辺りを包んでいる。
何も見えない、白い世界。
彼はそこに立っていた。行く当てもなく、あるべき場所もなく、少年はそこに佇んでいるだけだった。
――りん……………………。
鈴の音が聴こえた。
遥か遠くから聞こえたのかもしれない。すぐ近くの耳元で聞こえたのかもしれない。ただ、その音が聴こえたということだけがはっきりしている、不思議な感覚。
彼は背後を振り返る。
「すごいね、君は。本当に、すごい」
少年の声が言った。若くて、幼くて、純粋な声。溌剌とした印象は、好意的な雰囲気を放っている。
「何をやっているの」
今度は女の声が聞こえた。
「全く、何をやってもダメね。あなたたちは。本当に、ダメだわ。この出来損ないたち」
女性の声だ。艶があって、品があって、大人びた声。しかしそこに含んでいる言葉は侮蔑的で、明らかな中傷を帯びている。
「まあ、君の言うこともわかるが」
男の声が聞こえた。
「それが罷り通ると、本気で考えているわけではないだろう。それは一つの形、理想と言うのに近いものだ」
男性の声だ。三十代といったところか、大人びて、成熟して、少しばかり熟しすぎたような、若者の声。相手を思いながらも自分の意思を曲げない、そんな強い雰囲気を持った声だ。
「いやだ」
子どもの声が聞こえた。
「いやだいやだいやだいやだ。僕は嫌だからね。そんなことをすぐるらいだったら、死んだほうがましだ」
幼い、本当に幼い子どもの声。セリフも内容も軽薄な、子どもの言葉。態度まで目に映るようだ。
「だーかーらー」
男子の声が聞こえた。
「何度言ったらわかるんだ。私はそんなことをする気は毛頭ないと言っているだろう。そんなに言うのなら、君がやればいいことだろ」
成熟しきってない、青年の声だ。若い、というよりは青い雰囲気が漂う、ちょうど伸び盛りの頃合いだ。
――これは……。
幾つもの声が聴こえる。
幾つもの声が響き渡る。
幾つもの声が木霊する。
幾つもの声がそこにある。
声は途切れず、響き続けて、流れ続ける。無数の声に、同じ声はなく、統一感もない。無限の声が、辺りに満ちて、溢れていく。
「なに勝手に人ん中見てんだ?」
一つの声が、彼の耳に届く。
頭に直接響いてくるような、不思議な感覚。声が反響するこの空間の中で、その音は妙にクリアに聴こえた。
彼は振り向いた。
――ぞわっ!
気配が、あった。
何か大きな塊。空気のように見えなくて、だが質量のある感触。
彼の目にそれが映った。
巨大な仮面だった。
大きさは彼を優に超える。全体的に黒く、しかし実態はないのか向こうが透けて見える。それが勢いよく彼に向かってきて、そして彼の向こう側へと通り過ぎていく。
彼は思わず腕を顔の前に翳して、目を閉じた。
――これが、例の研究材料?
声が聞こえて、彼は目を開いた。
靄の中に人影が見える。その場所だけ靄が晴れていて、人の姿がはっきりと見える。どこかの部屋のようだ。どこなのかは、よくわからない。
目の前に格子が嵌められていて、どうやら彼はその中にいるらしい。檻のように、狭い場所。その檻の外に数人の白衣の姿が目に映る。
その内の一人、眼鏡をかけた男が興味ありげに檻の中を覗きこむ。
男の後ろに立った女が口を開く。
「はい」
男は手にしたカルテを眺めて、またこちらへと視線を戻す。
「先天性多重人格障害」
後ろの女性は頷いて、自分のカルテに目を通す。
「時間によって、これの人格は変化します。一日に十の性格変動が見られることもしばしばで、男性、女性、年齢なども一様ではありません」
男は振り向いて女を見る。
「先天性、ってことは、生まれつき?」
「そうです」
男は再びこちらを見る。
目を離すのは一瞬だけで、頻りにこちらばかりを見ている。じろじろ見られているようで、あまり気分がよくない。
無数の視線が、彼に向けられる。自分は檻の中にいる。それを外から観察する複数の白衣の人間。
まるで自分が動物園に飼われた動物のような感じがする。出たいけれど出られない。見られたくないのに見られる。
自由を奪われた、自分。
「素晴らしい」
男の輝いた目が凝視してくる。
あまりにも顔が近かったので、男の唾が飛んできた。不快感はあるが、唾が当たる感触がない。
男は背後で立っている他の白衣たちのほうを向いて両手を広げる。
「素晴らしい、実験体だ。これで、もしかしたら…………」
男は再びこちらを見た。その瞳には、歓喜と狂気が入り混じったような、濁った光が宿っている。
男は再び白衣たちのほうを向いて、彼らに向かって発した。
「最強のMASKSが作れるかもしれない」
嬉々とした声だった。
他の白衣たちも、その声に賛同するような素振りを見せる。檻の外の楽しそうな雰囲気に反して、檻に閉じ込められた彼は嫌な空気を吸ったように気分が悪い。
途端に、景色が遠のいた。
その瞬間、檻の中にいたのは自分ではなく、別の誰かだということに気が付いた。小さな、子どもだった。身につけているものは薄い布が上と下に一枚ずつ、その子どもは檻の中で膝を抱えて座っている。
――あれは……。
彼は一歩を踏み出そうとしたが、景色はさらに遠ざかって行く。
――やあ、君が『守護神』かい?
声が聞こえて、彼は振り向いた。
二人の男の姿が見える。年は二十後半か三十前半といった頃、二人とも白衣を着ているが真新しく、着慣れていないのが見ていてわかる。
「あなたは?」
一人が口を開く。
年相応、あるいは少しだけ年のいった雰囲気があり、顎の周りに薄っすらと無精髭が生えている。
もう一人はどちらかというと若い印象がある。髭はなく、まだ一度も剃ったことがないようにも見える。童顔、とまではいかないが、目の前と比較してしまうと若い雰囲気が漂う。
その男が口元を緩める。
「そうですね。まずは自己紹介が必要だ。私の名前は榊原樹。仮面の名は『詐欺師』だ」
若い男はすっと右手を差し出した。
向かいに立つ男は、目の前の男の右手を少しだけ驚いた様子で見て、自分も自己紹介を始める。
「若草、宗助と言います。MASKS時代は、守護神と呼ばれていました」
二人は互いに手を握る。
手を差し出したほうの男は喜色満面で、もう一人のほうはまだ緊張した様子が残っている。
――あれは、もしかして?
そのとき、彼の背後で別の声が聞こえた。
「そう」
彼は驚いて振り返る。
人の姿が、そこにあった。背丈は彼よりもずっと高い。体つきからして男性だと思われる。顔に白い白い仮面を被っているので、表情まで読み取ることはできない。
「私と、彼だ」
直後、周囲の景色が変化する。
幾つもの光景、彼の知らない風景、写真のような背景は流れるように変動して、やがて一つの景色で止まった。
「つまらない仕事だな」
二人の男が画面の前に座っている。
画面には幾つもの数値と、それに呼応するように波形が映し出されている。画面の隣にはモニターが備え付けてあって、その中に一人の人間の姿が映し出されている。年は十代の前半、まだほんの子どもだ。子どもは目隠しをされて、体を巨大な機材に固定されて、耳にはヘッドホンを付けられている。
右のほうに座った男が振り返る。
「なあ、宗助」
後ろではもう一人の男が立っている。
椅子はまだ何個か室内に置かれていたが、男は立ったまま、座ろうとしない。右手には何かのカルテが抱えられている。
「まあ、面白い仕事だとは思わないよ」
男が口を開く。
「ここにつれてこられて、私たちがやらされたことを、そっくりそのまま、子どもたちに繰り返さなければならないなんて」
座っているほうの男は言葉の続きを待ったが、立っている男はそれ以上を語ろうとはしなかった。
長い沈黙が訪れかけていたところに、座っている男のほうが口を開いた。
「じゃあ、止めるかい?」
立っている男はモニターから目を離して、目の前の男を見た。
「簡単なことだ。このボタン一つを押せば実験は中止。この子は訓練から解放される」
言いながら、座っている男は目の前の装置を指差した。機械には幾つかのボタンとつまみがある。
立っている男は目を伏せて、すぐに首を振った。
「無意味だ」
男は口を開く。
「そんなこと、やったところで意味なんかない。私たちがこの子への訓練をやめにしても、代わりの誰かがそれを続ける。この子がここから解放されることは、ない」
「その通り」
座っている男が軽い調子で頷く。
「僕らがやらなくても、誰かがやる。僕らが止めれば、誰かがやらされる。そんなものさ。僕らなんて、初めから期待されていないのさ。研究班は研究班で、独自に存在している。MASKS出身の僕らは、余っているからこちらに回されたに過ぎない」
立っている男は頷く。
「それに、私たちが仕事を放棄すれば、組織は私たちを切るだろう。平気でね。口封じに何をされるかわからない。記憶を抹消されるか、存在を抹消されるか、この子のように実験体にされるか」
座っている男が、押さえたように低く笑い声を漏らす。
「僕らはいい実験体になるだろうね。なんせ、元MASKSだ。バラしてみたら、色々と新しい発見があるかもしれない」
立っている男は嘆息する。
「榊原、笑い事じゃないぞ」
注意されて、座っている男はまだ緩む表情を残して、向き直る。
「じゃあ、悲しむところなのか?」
「…………」
立っている男は、答えなかった。
言葉を失ったように、そこから先が出てこない。
座っている男は続ける。
「それとも怒るところか?自分たちの不幸を?それとも、この子の不幸を?他の実験室で今も実験体として扱われている子どもたちをか?あるいは、完成品として各地域に派遣されているMASKSに対してかい?」
緊張感のない表情で、男は立っている男を見上げる。
「…………」
それでも、立っている男は答えない。
座っている男は急に真面目な顔を作って、正面へと戻る。
「笑っていないと、やっていけないだろ」
その言葉が応えたのか、立っている男はようやく口を開いた。
「割り切れ、と?」
画面を見つめていた男が振り返った。
「君は割り切れないのかい?」
座っている男がちらっと後ろへと振り返る。
立っている男からは、前の男の半分くらいの顔しか見えない。
「私は…………」
男は口を開く。
「……私は、救いたい。フラストに怯える世界もだけど、何より兵器にされる子どもたちも。彼らは心に傷を負ってここにつれてこられて、そして徹底的に壊される。そんな子どもたちの姿は見たくないし、作りたくない」
言った言葉は、男の本心だったかもしれない。
それだけの雰囲気が、ある。
座っている男は回転椅子をくるりと半分だけ回して、後ろに立つ男を正面から見上げる。
男はにかりと笑う。
「だから、俺たちは残ったんじゃないか」
立っている男は驚いたように目を開く。
直後に、座っている男は口調を和らげる。
「絶対叶えよう。私たちの手で」
言って、男は右手を差し出した。
立っている男は驚いて、しかしすぐに表情を和らげる。
疲労感を滲ませた、笑みだった。
「ああ、そうだな」
二人は右の手同士を合わせる。
――君は、どうする?
途端に、前の景色が靄に隠れて消える。
彼は後ろへと振り返る。そこには、仮面の男が立っている。
「君は、どうする?」
彼は、答えなかった。
返す言葉が見つからず、その場で俯く。
――りん……………………。
どこかで鈴の音が聴こえた。




