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第四楽章 砕かれた仮面

「殺す」

 一条(いちじょう)の被った髑髏(どくろ)の仮面、その左の眼窩(がんか)がカーディナルレッドから真紅へと、その輝きを増す。

 上半身だけの影の前に、ローブを纏った死神が現れる。影が気付いたときには、死神は手にした鎌を振り下ろしていた。

 影の右腕が(ひじ)から切断されて、胴体にも斜めの線が入る。

「うわっ、ちくしょー」

 影の体がすーっと闇に消えて、奇妙な仮面だけがその場に残った。

 一条は鎌を構えて、辺りを見回す。辺りには幾つもの影が見える。そのどれもが、顔に奇妙な仮面を被っている。

「素晴らしい」

 白い仮面の人影が一条に拍手を送る。

「これだけの数を前にして動じることもない。その純粋な殺意は、とても美しい」

 他の仮面たちも、同じように口を開く。

「五つくらいは、やられちゃったかしら。よくやるわ」

 緑の仮面を被った人影が女の声を放つ。成熟した女性特有の、(つや)のある響き。

「だが、倒されたのは今まであまり使わなかった仮面ばかり」

 茶色い仮面を被った人影が低い声を響かせる。厳格そうな雰囲気が漂う、中年ほどの重低音の声だ。

「なあなあ、そろそろ僕がやってもいいかな?なあ、いいかな?」

 青い仮面を被った人影が男の声を放つ。まだまだ若い雰囲気のある、青年くらいの声。

 一条は冷めた目で仮面の集団を見据(みす)える。温かみのない冷たい瞳、(いて)てつくくらいの殺気だった目。仮面を被った人影は、ざっと見ただけで五十近い。

「これも、あなたのお得意の幻覚ですか?」

 一条は誰にも目を合わせることなく、口を開いた。

 途端に、笑い声が上がった。

「何言ってんだよ、お譲ちゃん」

 答えたのは、青い仮面の青年だった。

「全部、僕の仮面だ」

 青い仮面はおかしそうに笑う。

 その態度に、一条の瞳がいっそう鋭くなる。

 一条の隣に、若草(わかくさ)が立った。

「一条くん、榊原(さかきばら)の仮面の名前を知っているかい?」

 一条は若草を一瞥(いちべつ)して、すぐに正面に戻る。

「はい。確か『詐欺師(さぎし)』だと」

 若草は黙って首肯する。

 それから、ゆっくりと口を開く。

榊原(かれ)は複数の仮面を持っている」

 一条は驚いたように若草を見た。

「そんなこと……!」

 まじまじと若草を見つめながら、一条は口を開く。

「ありえません。複数の仮面を持つなど、普通は……」

「そう。普通はありえない」

 一条は正面に顔を戻した。

 答えたのは、白い仮面の男だった。

「けれど、私は普通じゃないんだな」

 白い仮面は自分の体に手を当てる。その作り物の笑顔が、場違いなくらい合っている。

「多重人格」

 若草が口を開く。

「榊原は、心の中に幾つもの人格を持っている」

 一条は驚いたように若草を見る。

 多重人格、一つの体の内に複数の心を持った人間。一つ一つの性格は全く異なる人格を示し、性別、年齢も一様ではない。

 あまりにも人格が異なり、また幾つかの例には個々に異なる人物の名前を語るときもあるから、古くは何人もの魂がその身に()りついたのではないかという説もあるが、実際にはその人間の心が一様の人格を形成できない、一種の病いだとするのが有力である。

「でも、体は一つしかない。だから、一度に使える仮面も一つだけ」

 白い仮面は、仮面の奥で嬉しそうに笑う。

「よく覚えているね。その通り。どんなに多くの仮面を心の内に持っていても、一つの体が持っていられる仮面は一つだけ。――今までは、ね」

 幾ら複数の仮面を操れたとしても、MASKS(マスクス)の能力を解放できるのは一つの体。故に、一度に使える仮面は必ず一つ。

 ――しかし。

 茶色い仮面をした男が続いて口を開く。

「しかし、今はディストラクションのおかげで、心と体の境界がなくなった。つまり、体との(しがらみ)がない」

 その言葉を受けて、青い仮面が答える。

「心が体に縛られない。だから僕は一度に幾つもの仮面を解放できるようになったのさ」

 青い仮面が楽しそうに笑う。

 ディストラクション、心と体の境界を破壊する。榊原がフルセルフに与えたディストラクションはその言葉通り、心と体の境界を破壊する。それによって、フルセルフは心の領域を体の世界に解放することができる。

 しかし、榊原が自身に施したディストラクションは、そんな軽いものではない。心と体の区別を破壊する。

 本来、MASKSの仮面は本人の体から解放されるため、榊原のように複数の仮面を持っているものでも、使える仮面は一つだけ。榊原は、だから体という区別を破壊した。つまり、今の榊原に体はない。完全に心だけの存在になったのだ。

 故に、仮面は()り所を必要としない。心そのものから仮面を形成することができる。だから、榊原は一度に複数の仮面を操ることができる。いや、操るという表現は適切ではない。個々の仮面がそれぞれに意志を持って動くことができる。

 つまり、一条が相手にしているのは、榊原(いつき)という大勢の仮面。

 緑色の仮面を被った女が一条に訊ねる。

「それでもあなたは、私と戦う気かしら?」

 一条は即答する。

「無論です」

 髑髏の仮面、左の眼窩の色が深みを増す。

 直後、白い仮面の背後に、黒い影が立つ。巨大な鎌を手にした死神の化身、死神は鎌を白い仮面の榊原に向かって振り下ろす。

 ――ヒュン!

 鎌は(くう)を切った。

 直前までいた白い仮面は、そこから姿を消していた。

「……」

 一条の仮面の左の眼窩に新しい点が浮かび上がり、一条は空を見上げた。ビル三階分の高さがある石段、その上に幾つもの仮面たちの姿があった。その中に、白い仮面がぽおっと浮かび上がる。

「素晴らしい」

 白い仮面は感嘆(かんたん)の声を上げる。

「君の殺意は、やはり素晴らしい。純粋で、純心で、()()まされた殺意を、もっと私に注いでくれ」

 白い仮面は両手を広げる。

「……」

 白い仮面を見上げながら、一条の瞳がさらに鋭くなる。冷たく、鋭利な、殺意の瞳。一条は手にした鎌を両手で握り締める。

 白い仮面の周囲にいる仮面の一人が、不意に一条から視線を外して空を見る。

「ん?」

 他の仮面たちも、何かを感じ取ったのか、その仮面に(なら)って空を見る。漆黒の闇、町の明かりに掻き消されて、星の姿は薄く弱い。

「誰か来ますね」

 白い仮面は一条に視線を向けたまま呟く。

「それもかなりのスピードで」

 白い仮面は振り向いた。

 闇の中に白い点が見えた。(よい)明星(みょうじょう)ほどの小さな点、それが急激に大きくなり、こちらに接近してくる。

 光の(かたまり)が仮面の一つに激突する。

「んぎゃ!」

 衝撃を直撃して、仮面の体はバラバラに砕けて、仮面だけが宙に浮かぶ。

 周囲の仮面が唖然(あぜん)としてやられた仮面を見上げる中、白い仮面だけは光の正体へと目を向ける。

 少年だった。右腕から奇妙な光が放出され、顔の左側面に暗黒の仮面を被っている。少年はじっと白い仮面を(にら)みつける。

 白い仮面はとぼけたような調子で訊ねる。

「おや、君は?」

 下にいる一条と若草も光と衝撃音に気付いて、石段の上を見上げた。仮面たちが群がる中に、別の人影を認める。

倉橋(くらはし)くん!」

 反射的に、若草は叫んだ。

 その声に満足したように、白い仮面は微笑(ほほえ)む。

「MASKSですか。よくここまで辿り着けましたね。トレストもたくさんいたでしょうに。そっちから来たということは、途中で笹竹(ささたけ)くんに会いませんでしたか?」

 倉橋は、しかし白い仮面の言葉を無視して、短く訊いた。

「誰だ」

 白い仮面はおどけたように肩を(すく)めて見せる。

「ここまで言って、お気づきでない?」

 白い仮面は仰々(ぎょうぎょう)しく自分の胸前に右手を置く。

「榊原樹と申します」

 白い仮面が一礼した、直後。

 ――ザッ!

 倉橋は駆け出した。

 白い仮面の前に仮面たちが集まって、倉橋の向かう先を(ふさ)いだ。それでも倉橋は止まらない。仮面の一つが倉橋に向かって飛びかかり、しかし倉橋はその仮面を右手で払い退()かす。

 ――ボゴッ。

 仮面の体が(いびつ)に膨れ上がる。

「!」

 周囲の仮面たちは驚いて目を見張る。直後、仮面の体は空気の入れすぎた風船のように破裂した。

 倉橋はさらに前進を続ける。他の仮面たちは怖気(おじけ)づいたのか、一歩も踏み出せないでいた。あと少しで白い仮面に届く、手前で。

 倉橋の目の前に大きな鏡が立ち塞がった。

「……!」

 倉橋は鏡に触れる数センチメートル手前で停止した。

 姿見(すがたみ)くらいの大きさがあり、倉橋よりも二回り以上大きい。

「けけけけけっ」

 奇妙な笑い声が聞こえて、倉橋は視線を落とす。足元に両手で一抱え分くらいの大きさの人形のような仮面がそこにいた。

「けけけ。攻撃してみるか?私の鏡は全ての攻撃を跳ね返す」

 仮面は楽しそうに笑っている。その笑い方が妙に神経を逆撫(さかな)でして、耳にしているだけで苛々(いらいら)してくる。

 倉橋は迷わず鏡に手を触れる。

「……え?」

 驚愕の声を上げたのは、仮面のほうだった。

 倉橋の右腕から放たれた光は鏡の中に吸い込まれて、波打つように光り輝く。

 ――ピシッ。

 亀裂(きれつ)が入る。

 倉橋の触れている右の(てのひら)を中心に、亀裂は次第に拡大していく。すでに鏡の半分以上に(ひび)が入っている。

 仮面は慌てたように鏡を見上げる。

「嘘だっ。そんな……!」

 それ以上、言葉は続かなかった。

 ――パリン!

 鏡が割れた。

 同時に、仮面は奇声を上げながら、バラバラに砕けた。体は闇夜の中に溶けて消えて、仮面だけが意志を失ったように宙に浮かぶ。

「これは……!」

 白い仮面は倉橋から距離を置こうと、一歩後ずさる。

 と。

 ――ドドドドドドドドッ!

 白い仮面に向かって、無数の銃弾が飛んでくる。

「!」

 白い仮面は弾丸の飛んでくる方角へと振り返った。

 石段の上は何もない、広場のような空間になっている。白い仮面から二十メートルくらい離れたところに屋根付きの休憩所のような場所がある。休憩所といっても、四つの椅子と、その中央に丸いテーブルがあるだけの簡素なものだ。

 その屋根の上に、月明かりを背にして一つの人影が見える。人影は両手で銃器を構えて、そこから銃弾をこちらに向けて発射しているようだ。

「ぎゃぁ!」

「ぐえっ!」

 周囲の仮面たちから悲鳴が上がる。

 白い仮面に比べて、他の仮面たちは頭二つ分くらい小さい。その分力もないのか、銃弾に打ち抜かれた体はボロボロと崩れていって、すぐに体を失って仮面だけがその場に残る。

 白い仮面は体を(かば)いながら、弾丸の襲うこの場から離れようとさらに後退しようとする。その瞬間には、倉橋が肉薄(にくはく)している。

 ――早い!

 倉橋が右腕を伸ばしてくるのが見えた。

 その動きに応じようと、白い仮面は左手を差し出した。

 二人の掌が、ピタリと重なる。

「…………素晴らしい……」

 白い仮面の中を、強烈な光が駆け巡る。体から光を放ちながら、白い仮面の体は粉々に砕け飛んだ。

 残ったのは、白い仮面を含めた肉体を失った仮面たちと、そして二人の少年の姿だった。



 石段の上から飛び降りた少年を、若草は向かえる。

「やあ、よくここまで来たね。倉橋くんに――」

 若草はもう一人の少年にも目を向ける。

雨宮(あめみや)くん」

 雨宮はじっと若草を見返すだけで若草には(こた)えない。変わりに返事をしたのは、倉橋のほうだった。

車谷(くるまだに)先輩のおかげです」

 若草は納得したように頷く。

「そういえば、倉橋くんは車谷くんとペアを組んでいたね。その車谷くんは?」

 倉橋は若草から目を()らす。

「フルセルフと交戦中です」

 倉橋は続ける。

「自分は、車谷先輩の言いつけで先に来ました。車谷先輩は、すぐに来ます」

 俯いたまま、倉橋は口を閉じる。

 倉橋の言葉の意味を解して、若草も言葉が出てこない。口を開く代わりに、若草は視線を雨宮のほうへと向ける。その様子に気がついて、倉橋は口を開く。

「こいつは……」

 言いかけて、倉橋は不服そうに顔を雨宮から逸らす。

「途中で拾ってきました」

 雨宮がキッと倉橋を睨みつける。

「あぁ?何だよ、それ」

 倉橋は外方(そっぽう)を向いたまま答える。

「事実だろ。あのまま俺が放っておいたら、貴様は今頃迷子になっていた」

 はっと、雨宮は子莫迦にしたように笑う。

「偉そうに言うなよ。フルセルフ(てき)が怖くて、一人で逃げ出したくせに」

 倉橋がキッと雨宮を睨みつける。

「何だと」

「何だ」

 睨み合う二人の間に、若草が慌てて仲裁(ちゅうさい)に入る。

「まあまあ、二人とも。そのくらいに……」

「雨宮海斗(かいと)

 別の声が聞こえた。

 呼ばれて、雨宮は顔を上げる。一条がこちらを薄く見ている。感情を一切(はい)したような、至極事務的な目。

「今頃、何ですか?」

 一条は冷たい声で続ける。

「こちらからの連絡に応答しない。これは重大な違反です」

 一条の冷めた瞳が雨宮を射抜く。

 雨宮のほうは、露骨に不服の色を表して、一条を睨み返す。再び若草が止めに入る。

「まあまあ、いいじゃないか。雨宮くんも、こうして来てくれたんだから」

 そう言ってはみたものの、三人の空気は一向に変わらない。若草は困り果てて肩を落とす。

「……それに」

 若草は目の前に並ぶ仮面たちに視線を向ける。

「今いがみ合っている時間はないよ」

 仮面たちの中から声が上がる。

「これで戦う相手は三人」

 緑の仮面が口を開いた。

影人(かげと)を倒した。奴も使えるほうだったが」

 茶色い仮面が続ける。

「いいねいいね。折角やり合うんだから、こうじゃないとな」

 青い仮面が楽しそうに笑う。

 その仮面の群を見ながら、雨宮と倉橋が口を開く。

「何だ、こいつら」

「榊原樹と言っていた奴は倒した。その仲間か」

「残念ながら、榊原樹はまだ倒しきれていない」

 若草は首を振る。

「彼らが、榊原樹だ」

 その言葉に、雨宮と倉橋は驚いたように目の前の仮面たちを凝視する。

「彼らぁ?」

「これ、全員ですか?そんな莫迦な……!」

「説明している暇はない。ここにいるもの全員を、倒してくれ」

 若草の言葉を聞いて、雨宮が笑みを浮かべる。見るものをゾッとさせる、狂気の笑みだ。

「言われなくても――」

 雨宮は銃を握り締め、倉橋は右手に左手を()える。

「了解しました」

()ってやらァー!」

 雨宮、倉橋、一条は、それぞれに仮面の集団に向かって散った。

「この小僧(こぞう)は、私が相手をする」

 雨宮の前に、茶色い仮面を被った男が立ち塞がる。体は大きく、小柄な雨宮と比べると巨人の域だ。

 雨宮はその大男を睨み返す。

「テメー、榊原樹か?」

「ああ、そうだ」

「だったら、白百合真奈(しらゆりまな)っていう女子を知っているな」

 茶色い仮面の(こぶし)が、(かす)かに震える。

「もちろん。彼女は、私の大切な仲間だった」

「そうか……」

 雨宮の顔が、一気に怒気に(ゆが)む。

「テメーが白百合を(たぶら)かしやがったのかぁ」

 茶色い仮面は怪訝(けげん)そうに雨宮を見返す。

「誑かしたとは人聞きの悪いことを言う。私はただ白百合くんに協力を仰いだまで……」

「それを誑かしたって言うんだよォ!」

 茶色い仮面の言葉を(さえぎ)って、雨宮は叫ぶ。

 ――こいつ、白百合くんを知っているのか。

 茶色い仮面は興味深そうに雨宮を眺めみる。

「ところで、君の名は?」

「雨宮海斗だ。仮面の名前は『跳馬(はねうま)』」

 茶色い仮面は頷く。

「私は士岩(しがん)

「はあぁ。何言ってやがる。テメーは榊原樹だろ」

「そう、私は榊原樹。君は私の仮面の名前を知らないのか?」

 雨宮の無言の返答を、茶色い仮面は肯定と受け取った。

「私の仮面の名は『詐欺師』。能力は複数の仮面を持つことだ。そしてこの場所にいる全ての仮面が私自身。それぞれが己の榊原樹としての意志を持つ」

「へぇ。おもしれー力じゃねーか」

 雨宮は歯を見せて笑う。

「とにかく、俺はテメーを倒す。そして他の榊原も倒す。榊原樹は、俺がこの手でぜーいんぶち殺す」

 雨宮は銃口を茶色い仮面に向ける。

「ぶっ殺してやらァァアアアアッ!」

 引き金を引こうとした、瞬間。

 雨宮の体に衝撃が走った。その反動で、雨宮の体は軽々と宙を舞う。

「……!」

 一瞬の出来事で、雨宮の頭は理解が追いついていない。しかし、視覚は確かにその光景を(とら)えていた。

 茶色い仮面が、雨宮の腹部に拳をぶつけた。

 続けざまに、茶色い仮面は空中に浮かんだままの雨宮を地面に向かって叩きつける。雨宮は地面に両足を着いたが、衝撃が大きくてしばらく動けない。

 その瞬間をついて、茶色い仮面は着地と同時に雨宮の首元を掴む。

「威勢がいいのは、口先だけか?」

 言い終わった直後、茶色い仮面と雨宮の間で爆発が起こった。雨宮が、持っていた手榴弾(しゅりゅうだん)を爆発させたのだ。これだけの至近距離だ、相手はもちろん、雨宮自身も相当なダメージを受ける。

 煙が晴れた。そこに茶色い仮面が、変わらぬ姿で立っている。

「ほう、大した度胸だ。自らが傷を負っても構わない、か」

 茶色い仮面は品定めでもするように、雨宮の体を隅々まで見回す。

「お前に、攻撃する機会(チャンス)をやろう」

 茶色い仮面は雨宮を掴んだ右腕を伸ばす。

「さあ、私を撃て」

 驚いて、雨宮は目を見張る。

「気違いか、テメー……」

「早くしろ。私の気が変わらんうちにな」

 雨宮はまじまじと茶色い仮面を見た。

 距離が開いたおかげで、サブマシンガンが使える。もしまた手榴弾を使っても、さっきよりは反動も少ないはずだ。

「そうかよ。なら…………」

 雨宮は銃口を茶色い仮面に突きつける。

「ここでくたばれェェエエエエ!」

 雨宮は引き金を引いた。

 連射される強烈な弾丸に、茶色い仮面の体が激しく揺れる。

 ――いい攻撃だ。これなら、トレストとも渡り合える。だが……。

 茶色い仮面は、空いている左手で雨宮を殴りつける。

「まだまだ、お前には一条くん(かのじょ)ほどの殺意がない」

 雨宮の仮面が、砕けた。



 転校した初日は、とても慌ただしくて、気が気でなかった。

「私、宮島翔華(みやじましょうか)。よろしく」

 席に着いた途端、隣の女子生徒から話しかけられた。

「あ、よろしく……」

「何か困ったことがあったら、何でも聞いてね」

「あ、うん」

「まだ緊張してる?」

 雨宮は顔を上気させて頷く。

「うん…………」

 宮島はおかしそうに笑った。

「すぐに慣れるよ」

 雨宮はそのまま俯いて、言葉が出てこない。

 休み時間になると、雨宮は周囲の生徒たちから質問攻めにあった。

「雨宮くんって、前はどこに住んでたの?」

「えっと…………、山奥」

 雨宮の机を、ぐるりと何人もの生徒たちが取り囲む。雨宮は椅子に座ったまま身動きが取れない。

 周りから好奇の視線が集中して、雨宮は顔を上げていられない。俯きがちに、雨宮は小声で答える。

「それって、どこ?」

「僕にもよくわからないんだけど……」

「自分の住んでたところもわからないの?」

「…………」

 雨宮は俯いた。

 言葉がうまくでてこない。自分でもよくわからないのは事実だし、説明の言葉を雨宮は持っていない。

 他の生徒から質問が飛んでくる。

「まあいいや。今はどこに住んでるの?」

「公園の近くのマンション」

 子どもたちの中から奇妙などよめきが上がる。

 何か自分が変なことを言ってしまったのではないかと思い、雨宮は(くちびる)()んだ。

「ああ、あの団地か」

 誰かの声が聞こえた。

 何か納得したような、不思議な感覚。

 雨宮は恐る恐る顔を上げた。

「あの団地に住んでいる人って、結構多いんだ。先生の中にも、住んでいる人がいるんだよ」

 女子の一人が雨宮に説明する。

 他の生徒たちも、次々と口を開く。

「俺も住んでるよ」

「あたしもあたしも」

 楽しそうに笑う、生徒たち。

 つられて笑った雨宮の笑顔は、とても歪な形をしていた。

「……」

 その日は妙に疲れた。

「はあぁ……」

 雨宮の口から溜め息が漏れる。

 学校も終わって、今は帰り道を歩いている。授業が終わって掃除も終わると、同じクラスの生徒から放課後遊んでいこうと誘われた。

 雨宮はうまく動かない口をなんとか動かして、その誘いを断った。

(えー、なんでー)

 周りを囲んだ生徒たちは口々に不満の声を上げた。

(いいじゃん、遊んでこーよ)

(そうだよ。学校終わったんだし)

(でも……)

 雨宮は生徒たちの会話を遮って口を開く。

 生徒たちの視線が集中する。

(あのっ)

 言葉を発してすぐに、雨宮は俯いてしまう。

(その……)

 口を開いたはいいが、何を言って続けたらいいかわからない。それでも、雨宮は懸命に言葉を探す。

(引っ越したばかりだから)

 雨宮は道の上で溜め息を()く。

「はあぁ……」

 それでクラスメイトたちには何とか納得してもらって、雨宮は一人、学校をあとにした。

 クラスの生徒たちには引越しの整理があるという適当な理由を口にしたが、しかし雨宮はすぐには帰らず、こうやってこの付近のいろいろな所を探索中であった。

 そもそも、雨宮の今住んでいるアパートにはそんなにものはない。あるものといえば、今月一ヶ月分の生活費、制服と私服、それに授業で使うための教材一式、それくらいのものだ。全部押し入れに仕舞いこめる量しかない。

 机もなければ、ベッドもない。布団は押入れに入れてあるので必要ない。洗濯機もなければ、冷蔵庫もない。近くのコインランドリーと弁当屋で済ませる。だから、包丁や俎板、皿や調味料の(たぐい)もない。

 生活必需品の欠けた空間で、生活できるかどうか(はなは)だ疑問だが、雨宮はそれで生活をしていくつもりだ。必要なものを用意するだけのお金は支給されているが、雨宮はそれを断った。

 モノが乱雑している部屋が嫌なのだ。

 モノがある空間が嫌なのだ。

 扉を開けたとき、隙間から覗いたとき、その場所にモノが散乱していると、無性(むしょう)に落ち着かなくなる。動悸(どうき)までする。異常なまでに、()えられない。

 だから、モノを置いていない。

「ここは行き止まりか」

 雨宮は後ろを向いて、元の道に戻る。

 別に、道に迷っているわけではない。慣れない道とはいえ、帰りの道と自分の家の付近のお店くらいは把握している。

 つまり、雨宮が歩いていることに意味はない。あるとすれば、寄り道ということになる。

 雨宮は、早くこの地域に慣れようと思っている。この地域の道やものの場所を、できる限り早く熟知(じゅくち)しておきたいと思っている。

 その行為は、別段必要とされていない。これは単なる、雨宮の自由意志だ。それに、雨宮にとって嫌な作業ではない。むしろ、少しだけ楽しいくらいだ。こうやって、自由に歩きまわれるのは、雨宮には初めてのことだった。もちろん、雨宮が今まで生きてきた中で外を歩くことができなかったわけではなく、本来なら「久し振り」という表現を用いるのだろうが、当の本人から言わせれば、やはり「初めて」なのだ。

「…………」

 雨宮は立ち止まった。

 長い間歩き回っていたのか、日は大分傾いて辺りはすっかり茜色(あかねいろ)をしている。道は車一台が通れるくらいで、舗装(ほそう)もろくにされていない。(わき)には畑が広がり、子どもがふざけ合ったら簡単に落ちてしまう。

「……」

 雨宮は神経を集中させる。

 特に、聴覚。

 ――何か、聞こえた?

 雨宮の耳に、微かだが音が聞こえたような気がした。

 何の音かはわからない。聞こえたことも、もしかしたら気のせいかもしれない。

 しかし、雨宮は神経を研ぎ澄ませて、その音を再び拾おうとする。辺りに人の姿はなく、鳥の声も虫の声も聞こえない。

 ――オオオオオオ…………。

 遠くから、耳を(つんざ)くような音が聞こえた。

「……っ!」

 雨宮は反射的に駆け出した。

 音は、どうやらこの先から聞こえたらしいが、まだ大分離れている。

「……」

 雨宮は顔の前に左手を(かざ)して、顔を覆い隠す。

「行くぜェ」

 手を退けた。

 仮面が現れた。

 雨宮の顔の左側面に、右目が異様に膨らんで、鮮やかな赤や黄色やオレンジの三角形の飾りが彩られた、奇怪な仮面。

 仮面は笑っていた。

 目を見開いて、狂気の色に笑っている。吸い込まれそうなほど、純心で、狂気に満ちた、笑顔。

 雨宮は、さらに速度を上げる。人が通れるように舗装された道、その脇に広がる畑、遠くに民家が見えるだけで、店屋の類はほとんどない。

 雨宮は団地の中へと入った。

「……」

 足を止めて、辺りを見渡す。

 規則的に配置された灰色の建物、マッチ箱のように四角いアパート、それが左右対称に幾つも並んでいる。

 団地の中心部には公園があって、雨宮は公園の中にいる。幼少(ようしょう)の子どもが遊べるような遊具の類や砂場などがあるが、そこに人の姿はない。

 雨宮は叫んだ。

「どこだァ!」

 声は周囲に拡散していき、ビルの壁に反射されて木霊する。

 その声に、しかし応えるものはいない。人気のない、静まり返った団地の中。時間帯のせいか、人のいない沈んだ空気が、辺りを暗くみせる。

「どこにいやがる」

 雨宮は歩きながら辺りに視線を向ける。

 ――オオオオオオッ。

 雨宮はさっと顔を上げる。

 音がした。

「こっちか」

 雨宮は音のしたほうへと駆けた。

 左右に並ぶ灰色の建物を一組過ぎて、雨宮は角を曲がる。建物が陰になって、日の光が当らない、暗鬱(あんうつ)な場所。雨宮はさらに進んで、建物の角を折れた。そして、それを見た。

 高さは三メートル以上、皮膚は黒く、体全体が闇色に染まっている。人に似た体躯(たいく)をしていて、二本足で立っている。腕も二本、巨大な体躯に相応しい太い腕。雨宮に背を向けているために、顔はわからない。漆黒の闇が、雨宮の視界を塞いでいる。

「……」

 雨宮は無言で笑った。

 巨大な怪物を見上げる雨宮の目に、恐怖はない。畏怖(いふ)に侵食されたものの引き()った笑みではなく、そこにあるのは嬉々(きき)とした狂気の笑顔だった。

 雨宮は肩から()げたショルダーバックを開けた。取り出したそれは、学生用鞄から本来出てくるはずのない、黒いサブマシンガンだ。

 ――ガチャ。

 雨宮は銃口を化物に向けて、構える。

 雨宮の小さな体には不釣合いな無骨(ぶこつ)な銃器。黒光りするサブマシンガンを、雨宮は両手で握り締める。

 雨宮は引き金を引いた。

 ――ドドドドドドドドドドドドドド――――――――ッ!

 銃口から、無数の弾丸が放たれる。

 ――オオオオオオオオオオオオッ!

 化物は悲鳴を上げる。

 化物の体に何発も弾丸が命中して、その痛みに化物は叫び声を上げる。痛々しい悲鳴が空気を震わせて、鼓膜(こまく)を刺激する。

 その甲高い悲鳴を聞きながら、しかし雨宮は()(かい)したふうもなく、笑みを浮かべたまま化物に向かってサブマシンガンを乱射する。

「くたばりやがれェ!」

 雨宮に背を向けていた化物が、顔だけ雨宮のほうへと向ける。化物の首が、一八〇度回転して、雨宮を見下ろす。

「アアオオオオオッ!」

 化物が咆哮(ほうこう)する。

 雨宮は子莫迦にしたように笑う。

「何者だ、って訊かれて素直に答える莫迦がいるかァ?」

 化物は顔を歪ませて(うな)り声を上げる。

 ワニのように尖った口、蛇の目、その瞳がさらに鋭利に細くなる。獲物を見つけたときの、爬虫類(はちゅうるい)の目。

 化物はその大きな口を開けて、雄叫(おたけ)びを上げる。

「オオアアアアッ!」

 化物の首が伸びた。

 首から上だけを見れば、正しくそれは大蛇(だいじゃ)の化物だが、その下には二本の足と二本の腕を持つ巨大な体が繋がっている。体は雨宮に背を向けたまま、頭だけが雨宮に向かって伸びてくる。巨大な口が雨宮に向かって襲いかかる。

「アアアアアッ!」

 化物の巨大な口が一気に閉じる。

 化物は空気を噛んだ。

「…………?」

 化物はキョロキョロと周囲を見渡した。

 さっきまでいた雨宮の姿は、どこにもない。化物が飲み込んでしまった感覚も、ない。忽然(こつぜん)と姿を消していた。

「こっちだよバァアアカっ」

 再び銃声が(とどろ)いた。

 銃弾が化物の首に命中する。しかも、下からだ。

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!

 化物は悲鳴を上げて(もだ)える。

 痛みから逃れるように首を動かして、そして化物は雨宮を見つけた。化物の首の下、体のすぐ近くだ。

 雨宮は化物に襲われそうになったとき、後方に逃げたのではなく、化物の(ふところ)へ飛び込んだ。

 化物が咆哮する。

「オオォォオオオオオッ!」

 向かってくる化物の頭を、雨宮は余裕の表情で向かえる。

「邪魔なのは、テメーだよ」

 (せま)ってくる化物の頭部。

 銃口から放たれる無数の弾丸。

 ――オオオオオオオオオオオオッ!

 ――ドドドドドドドドドドドドッ!

 両者の動きがピタリと止まる。

 互いに相手を睨みつけて、そのままの状態で静止する。

「…………」

 雨宮の口元に笑みが浮かぶ。

「はっ」

 雨宮は引き金を引いた。

 一発の銃弾が化物の首を穿(うが)つ。

 直後、鈍い音がして、化物の首は途中から引き千切れる。

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッ!

 悲鳴を上げながら、化物の頭が地面へと落下する。同時に、化物の頭は(ちり)のように崩れて空気の中に消えていく。背後に立った化物の巨大な体も、意志を失ったように空気中へと霧散(むさん)していく。

 そこにはもう、化物の痕跡(こんせき)すらない。

「へっ」

 雨宮は立ち上がって、愉快そうに笑う。

「ちょれーもんだ」

 雨宮は顔の左側面にかかっている仮面を掴んで、それを顔の前に被せる。

「うわぁ、びっくりした」

 顔から手を退けると、雨宮は声を上げた。

 直前まで顔の前にあった仮面は、しかし跡形もなく消えて、雨宮の顔つきも幼い印象のものに変わった。

「まさか初日からフラストに会うなんて」

「……誰?」

「!」

 声がして、雨宮は正面に視線を落とす。

 人影が二つあった。二人とも雨宮の通っている学校らしく、制服を着ている。一人は男子生徒で、地面に倒れて気絶しているようだ。

 もう一人は女子生徒。地面の上にしゃがんで、(おび)えたように雨宮を見上げている。

「…………」

 雨宮の口からは声が出てない。何を言えばいいのかもわからない。完全に脳が停止(フリーズ)している。

「誰?」

 女子生徒は再びぽつりと呟いた。



 転校二日目。

「おはよう」

 教室に入った雨宮は席に着くと、隣から挨拶をされた。

「お、おはよう。ええっと……」

 反射的に挨拶を返したが、雨宮はそれ以上言葉が続かない。

 挨拶をしてきたほうは、呆れたように肩を落とす。

「宮島。宮島翔華」

 雨宮は顔を真っ赤にして俯いた。

「あ、うん。……ゴメン」

 雨宮は鞄を机の脇にかけると、そのまま机に伏して頭を抱え込んだ。大分使い古された、汚れた机。所々に切れ込みが入って、(いた)みも(ひど)い。雨宮は思い溜め息を吐いた。

「どうかしたの?」

 隣から宮島が覗き込んできた。

「えっ」

「なんか変だよ」

 雨宮は慌てて手を振った。

「ううん。なんでもない」

 懐疑(かいぎ)そうに見る宮島だったが、それ以上の追求はなく、すぐに視線を別の方向へと向ける。

 雨宮は内心でホッとする。雨宮は教室の中を見渡した。あと五分もしないうちにホームルームが始まる。それでも、教室のあちこちでは生徒たちのお喋りが目立つ。

 教室の前の扉が開いた。

 担任の先生が入ってきたのかと思ったが、入ってきたのは女子生徒だった。その生徒の姿を見て、雨宮は咄嗟に声を上げそうになった。

 女子生徒は両手で花瓶(かびん)を持っている。教室で飾っている花だろうか、雨宮の記憶にはない。そもそも昨日は、周りを見ているだけの余裕などなかった。

 周囲は女子生徒のことに気付いていない。互いのお喋りに集中して、他のことは視界にはいっていない。

 女子生徒の前に五、六人の男子の集団がいた。何やら楽しそうに話をしていたようだったが、女子生徒がこちらに向かってくるのに気がついて、途端に皆、口を閉じた。

 そして。

 ――ガチャン!

 派手な音がして、クラスの視線が教卓のほうへと集中する。

 女子生徒は床に倒れて、彼女の前には割れた花瓶と新しい水、そして綺麗な花が散乱している。

 しかし、女子生徒を見ていたのは一瞬だけで、生徒たちは互いのお喋りに戻る。

「あの人は?」

 雨宮は隣の宮島に訊いた。

「ああ、(みどり)米倉(よねくら)嬰」

 宮島は不機嫌そうに答える。

「あんたに教えとく。(あいつ)には近寄らないほうがいいよ」

「え?」

 雨宮は当惑(とうわく)したように声を上げる。

「あいつ、泥棒だから」

「泥棒?」

「そう」

 宮島は頷く。

「前の席の女子が固まっているトコあるでしょ。扉から三番目の、前から二番目、今席に座ってる子」

 雨宮は宮島の指差すほうに目を向ける。女子生徒三人が集まってお喋りをしているようだ。その内の二人は立っているが、もう一人の女子は席に座っている。

佳奈(かな)はね、嬰に財布、()られたの」

 雨宮は驚いて目を開いた。

「本当?」

「疑ってる?」

 雨宮の問いに、宮島は不服そうに返す。

「そういうわけじゃ……」

 雨宮は咄嗟に言葉を探すが、その先が出てこない。雨宮の様子を見て、宮島は肩を落とす。

「ま、私も実際のところ見たわけじゃないから、あんま威張(いば)って言えないけど」

 雨宮の反応に、宮島はそれほど気にしている様子はないらしい。宮島が説明する。

「体育の時間が終わった後に、佳奈の財布が盗まれてたの。そんで、外で皆が体育の授業を受けている間、教室にいたのが、嬰」

 宮島は教室の前のほうにいる嬰を指差した。

 雨宮は、大切そうに花を拾い上げる嬰の姿を見た。宮島は興味がないのか、周りの生徒たちと同じように、自分の作業に戻る。

 その後、担任が教室に入ってきて、割れた花瓶を見つけて近くで花を抱えた嬰に事情を訊いた。嬰は(しき)りに、私のせいですとか、今すぐ綺麗にしますからとか、そんな類の言葉を口にする。

 素手で花瓶の破片を掴もうとした嬰を、担任の教師は止めて、嬰に(ほうき)とちりとりを掃除用具入れから持ってこさせて、とりあえず事態は収拾した。

 その後しばらく、教室からは忍び笑いが耐えなかったが、担任はそんな異変には気付いていないようだった。

 一時間目の授業が始まって、しかし雨宮は授業に集中できなかった。雨宮の視線の先にあるのは、教室の窓側、前から二番目にいる米倉嬰の背中だった。

 ――米倉嬰さん、か。

 雨宮の脳裏に今朝の出来事が浮かび上がる。

 花瓶を運んでいた嬰の足を、前に固まっていた男子生徒の一人が払う。そのせいで、嬰は転倒して、そのまま花瓶を割ってしまったのだ。

 ――昨日の子、だよね。

 嬰の姿と、昨日団地にいた少女の姿が重なった。幾分気が動転していたが、その顔ははっきりと覚えている。

 ――見られたよなぁ……。

 フラストのことばかりに気を取られて、人がいることに雨宮は気付けなかった。目の前にいた少女、嬰は雨宮のことをどう思っただろうか。

 ――どうしよう。

 機会を見て、嬰に接触しようとはしたものの、雨宮には誰かに話しかけるだけの度胸はなく、結局その日は遠目で見ているだけに留まった。

 その翌日、放課後。

 その日の雨宮はすぐには帰らず、まだ学校の中にいた。

 一昨日同様、町の中だけでなく、学校の中の様子も見ておこうと思ったのだ。本当は、昨日のうちに済ませておくつもりだったのだが、嬰の処遇(しょぐう)についていろいろ思案しているうちに、当の本人が帰ってしまい、学校も閉まってしまう時間になったので、雨宮はその日の校内探索を断念した。

 学校の中は町ほど広くはない。一通り終わって、一階にある校内の地図を見てから帰ろうと、雨宮が教室に戻ったときだった。

「おいっ。どこに隠したんだよ」

 教室の中から怒鳴り声が聞こえた。

 雨宮は一瞬、足を止めた。廊下にまで響く大声、もう授業が終わってから大分()っているので、廊下には雨宮しかいない。他の教室も、ほとんど空っぽだった。

 雨宮は恐る恐る教室へと近づいた。教室には廊下に面した窓はなく、扉も閉まっていたので、中の様子がわからない。

 雨宮はゆっくりと、音をたてないように扉を開ける。僅かに開いた隙間から、中の様子を覗き見る。

 教室の前のほう、窓のすぐ傍に彼らは固まっていた。

 男子三人、女子一人、その女子は米倉嬰だった。嬰を囲むように、三人の男子生徒がこちらに背を向けて立っている。

「……知らない」

 嬰が呟くように答える。

「嘘付けっ!」

 男子生徒の一人が怒鳴り声を上げる。

 あまりの声に、雨宮は反射的に肩を竦める。

 ――ガタッ。

 男子生徒たちがこちらを振り向いた。驚いた反動で、雨宮は音を立ててしまった。このまま知らない振りをしようかと思案したが、雨宮に隠し事をするほどの度胸はなかったので、雨宮は正直に扉を開けた。

「…………」

 四人の視線が、雨宮に集中する。

 雨宮は決心して、口を開く。

「…………何してるの」

 すぐに返事はこない。

 嫌な沈黙が教室の中に広がっていく。

(こいつ)が、リョウの財布を盗んだんだ」

 返事をしたのは、真ん中にいる男子生徒だった。

 雨宮は妙な違和感を覚えた。何だろうか、上手く言葉にできない。何か妙な感じが心の中に引っかかる。

「ち……!」

「そうだ!」

 嬰が言いかけた言葉を、さっき怒鳴り声を上げた右の生徒が遮った。

「こいつが俺の財布を盗ったんだ。俺たちが外でサッカーしている間に……!」

 右の男子が嬰に詰め寄る。

「さあ、早く出せよ。俺の財布、どこに隠したんだ」

「違う、私じゃ……!」

「お前しかいないだろ」

 言ったのは、真ん中の生徒だった。

「このクラスで盗みをする奴なんて、お前ぐらいしかいないんだ」

 見下ろすように、その男子生徒は嬰に向けて言う。

 今まで大人しそうだった嬰の目が、突然驚いたように大きく見開かれる。驚愕、というよりは、ショックを受けているといったほうがわかりやすい。

「そうだろ、嬰。お前がやったんだろ。佳奈のだって……」

 男子生徒の言葉に、しかし嬰は怯えたように小刻みに首を振る。

「……違う」

 嬰の口から、言葉が溢れる。

「私じゃない――」

 言った直後。

 教室の中の空気が変色する。

 体に凄まじい負荷がかかるのを雨宮は感じる。他の生徒たちも、その重圧に押されて床の上に倒れる。雨宮はその重圧感になんとか耐えて、(かす)む視界の先を見つめた。

 倒れた生徒たちの体に剣が突き刺さっている。剣は背中から生徒たちの体を貫いて、教室の床と()いつけている。

 悲鳴は聞こえない。どうやら、生徒たちは気絶しているらしい。しかし、そんな中でまだ立っていられる生徒の姿があった。

「な、なんだよこれ」

 真ん中に立っていた男子生徒が、驚いたように倒れた二人の男子生徒を見る。

「おい。大丈夫か」

「私じゃない」

 耳元で囁く声が聞こえて、男子生徒は飛び退くように振り向いた。

「全部、ケンくんがやったんじゃない」

 嬰は笑って手を振った。その手の中に、いつの間にか財布が握られていた。女の子が使うような鮮やかな色ではなく、(こん)を基調にした、明らかに男物の財布だ。

「リョウくんのも、カナちゃんのも。全部、ケンくんがやったんじゃない」

 その財布を目にした瞬間、男子生徒は制服のポケットに手を当てる。感触はない、中身のない、空のポケット。

「……違う」

「違わない」

「違う!」

 男子生徒は叫んだ。

「財布を盗んだのはお前だ。そういうことにするはずだったのに……!」

 男子生徒は頭を抱える。(うめ)くように言葉を吐き出す。

「何でお前はそうなんだよ。いつもいつも俺の邪魔ばっかりして。俺の邪魔を…………!」

 瞬間、雨宮の脳裏にある光景が浮かび上がる。

 建物の影、団地の裏のような場所、少女の姿、嬰だ、嬰が何かを言って、自分の声が返す、嬰がさらに何かを言って、全てがシャットアウトした。

 ――ジャマヲスルナ。

 雨宮は倒れそうになるのを、なんとか堪える。

「だって、ケンくん、私との約束破ったから」

 嬰の声が聞こえた。

 顔を上げると、嬰が柔和(にゅうわ)な笑みを浮かべている。さっきまでの恐怖の色は消え失せて、そこには目を惹きつけるほどの晴れやかな笑顔が広がっている。

「何でもしてくれるって、言ったよね?」

 嬰が男子生徒に一歩近づく。男子生徒は一歩後ずさる。

「私がケンくんのしたこと、皆に言わなければ、何でもしてくれるって――」

 嬰の目が見開いた。少しも笑っていない、石ころのような瞳。

「言ったよね」

 男子生徒は怯え切った表情で、数歩後ずさる。足はガタガタと震えて、それだけ離れるのも精一杯だった。

 ――ドオォォオンッ!

 男子生徒の体に巨大な剣が突き刺さる。

 他の男子生徒二人のものとは、比べものにならない。高さは教室と同じくらい、幅は一メートルもある。柄の部分に、人の顔のような形をした飾りがついている。

 雨宮は目を見張る。

 ――フラスト……!

 雨宮は急いで体を動かそうとして、重圧に負けてその場に倒れる。

「あなたは、一昨日転校して来た」

 嬰の声が聞こえた。

 雨宮は顔を上げた。雨宮の目と、嬰の目が重なる。男子生徒に囲まれていたときの不安そうな表情はなく、どこか吹っ切れたような、晴れやかな笑みを見せている。その表情が、今はとても異質に感じる。

「この前も、見えてたよね」

 嬰の二つの目が開いて、雨宮を凝視する。

「あなたは、誰?」

 雨宮は答えない。じっと嬰を見返したまま、動けないでいる。

 そのとき、教室の扉が勢いよく開かれた。嬰の目がその方向を見る。

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 何かが突き刺さる音とともに、悲鳴が上がる。

「まだ、他にも人がいたんだ」

 嬰は(かが)んで、巨大な剣に体を貫かれた男子生徒に微笑みかける。

「大丈夫だよ。ケンくん」

 嬰は微笑みながら、男子生徒の頬を()でる。

 男子生徒は口から泡を吐いて、白目を()いている。

「ケンくんのしたこと、誰にも言わない。誰にも知らせない。だから――」

 嬰が無機質な瞳で男子生徒を見る。

「約束、守ってね」

 嬰が自分から目を逸らしたのを確認して、雨宮は勢いよく起き上がった。そのまま、自分の机に向かって全力で走った。

 その気配に気付いて、巨大な剣の顔が雨宮へと視線を向ける。雨宮の頭上に剣が現れた。雨宮は自分の机に到達してショルダーバックを掴んだ。宙に浮かんだ剣が一直線に雨宮に向かって落下する。雨宮は鞄を開けて、それを取り出す。

 ――ドンッ!

 銃声が轟いた。

「ちっせーなぁ」

 雨宮は手にしたサブマシンガンの銃口を頭上へと(かか)げる。片手で支えられたサブマシンガンの銃口からは、白煙が上がっている。

「そんなちっせー心じゃ、俺は縛れねー」

 雨宮の荒々しい声が教室の中に響く。

 顔の左側面には、奇妙な仮面が揺れている。仮面は、狂気的な、異質な笑みを浮かべている。異様に膨らんだ右目が印象的だ。

 嬰が表情を曇らせて訊いた。

「あなたは、誰?」

 雨宮は楽しそうに笑う。戦いを楽しむものの、狂気に歪んだ笑み。

「お前みたいなフラスト(ばけもの)を倒すために作られた、MASKS(へいき)だよ」

 雨宮は銃口を巨大な剣へと向ける。

 ――そうさ……。

 雨宮は引き金を引いた。

 ――僕は、いろんな人を壊してきた。

 無数の弾丸を、巨大な剣は受けて。

「だから、もう……」

 粉々に砕けて、消えた。

 ――ワタシジャナイ。



 その光景は、スローモーションの中で動いているように見えた。

 雨宮の体が高く宙を舞って、ゆっくりと、緩やかに、落ちた。衝撃音が、空気を震わせて鼓膜に届く。痛烈な音の後に残ったのは、異様なほどの静けさだった。

「まずは、一匹」

 茶色い仮面の男が呟いた。

 世界が停止したようだった。何も動かず、何も聞こえず、あるのは視覚の世界だけ。切り取られた写真の一風景のように、その光景だけが瞳に()きついて消えない。

 地面に落ちた雨宮の体、落下の衝撃だろうか、地面に赤い液体が染み込んでいく。雨宮が持っていたはずのサブマシンガンは、しかし雨宮の手にはなく、飛ばされた衝撃でどこかにいってしまったらしい。

 ――仮面が、砕かれていた。

 雨宮の仮面、右目だけ異様に膨らんでいて、その周りには赤や黄色や橙色の派手派手しい三角形があしらわれた、原始的な仮面。狂気の笑みを輝かせていたその仮面は、今はバラバラに砕けてその頃の名残を失っている。

 雨宮の瞳からは生気がない。どこにも焦点(しょうてん)が合っていない、どこも見ていない(うつ)ろな瞳。感情を感じられない、人形のような姿。

「うっ……」

 停止した世界を、倉橋の叫び声が破った。

「うおあああああああああっ!」

 叫びながら、倉橋は茶色い仮面に向かって駆け出した。右腕に左手を添えて、右腕から光が集まっていく。

「おいおい、どこ行くんだよ」

 倉橋の前に青い仮面だ。

「お前の相手は、この僕だ」

 言うが早いか、青い仮面は両手を交差させるように構えて、勢いよく両腕を引いた。瞬間、倉橋の目の前に何本ものナイフが現れて、こちらに向かって飛んでくる。

「くっ……」

 倉橋は左腕に光を集約させて、腕の周りに球形の光を走らせる。光を帯びた左腕をナイフの群に突き出して、光の玉を放った。光の玉とナイフが衝突して、両者は空中で弾け飛んだ。

 青い仮面は感心したように口笛を吹く。

「へぇ、やるねえぇ。――なら」

 再び青い仮面は指の間にナイフを仕込む。普通なら、これで八本のナイフ、全部だ。しかし、 それで終わりではなかった。

 ――ずぶずぶずぶずぶ…………。

 闇の中からナイフが現れる。

 青い仮面の周囲を囲むように、何本ものナイフが宙に浮いている。そのどれもが、先端を倉橋のほうへと向けている。

「これならどうだいッ!」

 青い仮面はナイフを放った。

 青い仮面が指に挟んだナイフと、宙に浮かんだ何本ものナイフ、それら全てが倉橋に向かって襲いかかる。

「退けェェエエエエッ!」

 倉橋は足を止めて、右手を差し出す。

 光が溜まった右腕、そこに左腕を添える。右の掌が光を帯びてくる。あまりの光に、闇夜の世界が明るく照らされる。

 ――ゴオオォォオオオオッ!

 光が放たれた。

 強烈な光だ。

 その場所だけ、昼間のように明るくなった。

 光の中に、ナイフが()み込まれる。光は拡散するように広がって、無数に散ったナイフの群を一瞬でその中へ取り込んだ。

 音と光、それが消えると、直前まで広がっていたナイフの群は、しかし跡形もなく消えてしまっていた。

 倉橋は安堵の息を吐いた。

「――隙を見せたね」

 声が聞こえたときには、倉橋の右腕に線が入っていた。

「……っ!」

 倉橋の右腕の真下に、青い仮面の姿があった。右手にナイフを持って、下から倉橋の腕を切りつけている。

 痛みを感じるよりも先に、切れ目からすーっと赤い筋が入り、赤い雫が溢れ出る、それよりも早く。

 ――倉橋の腕が膨らんだ。

 強烈な痛みに、倉橋はその場に崩れた。

「――――っ!」

 倉橋は自分の右腕を凝視した。

 咄嗟に、脳が理解を拒絶した。

 ――腕からナイフが生えている。

 一本や二本ではない。見えるだけで、十本以上のナイフが倉橋の右腕から伸びている。

「ぁぁぁぁああああああががっあああああああああああああああ!」

 あまりの激痛に、倉橋は声を上げた。

 重みで腕が地面に触れて、瞬間、内側から擦れるような音がして、倉橋の神経を()(むし)る。

「があああああああっ!」

 痛みで覚醒(かくせい)した脳の中で、倉橋はその攻撃を理解する。

 これは外部からナイフを突き立てられた痛みではない。内側からナイフが溢れ出して筋肉、血管、神経をズタズタにされたときの痛みだ。

 苦痛に悶える倉橋の姿を見下ろしながら、青い仮面は楽しげにナイフを(もてあそ)ぶ。

ナイフの使い手(サウザンド・ナイフ)の、この刀矢(とうや)を甘く見てもらっちゃー困る」

 一方、緑色の仮面と戦っている中で、一条は二人の様子を目にする。雨宮も、倉橋も、ともに戦える状況ではない。

「っ……」

 一条は奥歯を噛む。

「あらあら」

 艶めいた声が一条の耳を震わせる。

余所見(よそみ)なんてしてて、いいのかしら?」

 一条の周囲から、何本もの(つる)が生えてくる。太さは人の頭ほど、長さは十メートルを超える。巨大な蔓の周りには無数の(とげ)が伸びていて、その棘だけで人の親指よりも大きい。

 一条は素早く鎌を振るって向かってくる蔓を切り倒しながら、キッと緑色の仮面を睨みつける。一条の仮面の左の眼窩が、カーディナルレッドから真紅へと、その色を変えていく。

「無駄」

 緑色の仮面の周りからも、何本もの蔓が生えてくる。その中に、闇色のローブを纏った死神の姿が見える。死神は蔓の固まりに締め上げられて、粉々に砕けて闇へと消える。

「あなたも遠隔具現、操作タイプならわかるでしょ」

 緑色の仮面が艶っぽい声を出す。

「遠隔具現は、自分の心の解放が及ぶ範囲ならどこからでも心を具現化することができる。けれども、離れていれば離れているほどその威力は弱くなる。逆に、自分に近いほうが威力は大きい」

 緑色の仮面は魅惑的(みわくてき)な微笑を浮かべる。

「同じ遠隔操作タイプの勝負は、最初に相手の動きを封じたほうが勝ちなの」

 緑色の仮面がすっと右手を一条へと向ける。

 直後、一条の周りから再び何本もの蔓が生えてくる。

「だから、一瞬でも隙を見せたら、それは命取りになるわ。ほらほら、もっとあなたの殺意を私にぶつけてきなさいよ」

 群がる蔓を切り倒して、一条の仮面の眼窩が輝きを増す。同時に、緑色の仮面の周囲に、五体の死神の姿が現れる。

 緑色の仮面はおかしそうに、笑い声を漏らす。

「これだけぇ?」

 直後、緑色の仮面の周囲から伸びてきた蔓が、死神たちをねじ伏せる。

 ――この一条って子、具現化は得意じゃないのかしら。

 緑色の仮面が窺うように一条を見る。

 ――でも、真奈ちゃんと戦ってたときはもっと多くの死神を一瞬で具現化してたから、まだまだ出し惜しみ?

 緑色の仮面は、仮面の奥で笑う。上品深く、それでいて艶のある蟲惑的(こわくてき)な笑顔。

「楽しみね」

 一条のほうは、蔓を払いながら、次々と死神を緑色の仮面の周りに具現化させる。しかし、現れるたびに、緑色の仮面は死神を倒していく。お互いに、決め手に欠ける。

 緑色の仮面はランダムに出現する死神に集中して、一瞬一条の姿が視界から消える。

「!」

 緑色の仮面は気配を感じ取って、視線を向ける。

 一条が肉薄する。

 ――なるほど。少しずつ具現化したのは、私の意識を誘導するため。

 緑色の仮面は地面を蹴って、素早く一条との間合いを開ける。

 ――あなたの気配に気付かないほど、私は鈍くなくってよ。

 充分な距離を取った、ここなら一条の刃が当たる心配はない。そう確信していた。疑う余地など、ない。

 ――しかし。

 緑色の仮面は視界の中に、それを見た。

「なっ……!」

 一条が手にした巨大な鎌の切っ先が、こちらに向かってくる。

 ――鎌が伸びた!

 緑色の仮面は反射的に身を(よじ)ったが、それで避けきれるわけもない。引き裂かれた右腕が軽々と宙を舞って、闇夜へと消えた。

「ちいぃぃ。やってくれるわぁ」

 緑色の仮面は苦痛に顔を歪ませながら、一条を睨む。

 感情の(たかぶ)った頭は、しかし一条の様子に異質なものを感じ取って、すぐに冷静さを取り戻していった。

 ――あの子、私を見ていない?

 一条は確かに緑色の仮面のほうを見ている。だが、見ているのは方向だけで、一条の視線はもう少し上のほうを捉えている。

 ――あの子の見ている先は…………。

 ハッとして、緑色の仮面は顔を上げた。

「士岩っ。いったわ!」

 緑色の仮面のいるところから三十メートルほど後方に、茶色い仮面の姿がある。一条の手にした鎌の切っ先は、真っ直ぐ茶色い仮面に向かって伸びていく。

「むっ……!」

 茶色い仮面が気付いたときには、刃との距離は一メートル。咄嗟に右腕を出して攻撃を防ごうとしたが、鎌は茶色い仮面の右腕の付け根、脇から肩にかけてを切り裂いた。茶色い仮面の右腕も、緑色の仮面と同じく宙を舞って消え失せる。

「士岩の旦那ァ!」

 青い仮面が声を上げる。

 青い仮面が倉橋から背を向ける。その一瞬の隙を、倉橋は見逃さなかった。倉橋の右手が青い仮面の背中に触れる。

「なぁ……!」

 その感触に気付いて、青い仮面は肩越しに倉橋を見る。

 何本ものナイフで、ズタズタに切り裂いたはずの倉橋の右腕が、強烈な光を帯びて輝いている。

「…………にいぃ」

 倉橋はすっと口元に笑みを浮かべる。

「……隙を見せたな」

 鈍い衝撃音とともに、青い仮面の体が光を放つ。

「くそがぁ……」

 最期の言葉を残して、青い仮面の体は粉々に吹き飛んだ。

「はあ、はあ」

 倉橋は荒い息を吐き出しながら、膝を折った。

 右腕が痛んだが、重い痛みがじんわりと広がっていくだけで、大して痛みを感じない。だが、大量のナイフを腕に詰め込まれたようなものだ、痛まないはずがない。倉橋の痛覚は、完全に麻痺(まひ)している。

 倉橋は右腕に左手を添えて、光を集中させる。治療のためだ。

 ――ドス。

 背後で鈍い音がした。

 途端に、倉橋の体から力が抜ける。

「――――――っ!」

 倉橋は倒れこんで、強烈な痛みが一気に意識を覚醒させる。

「なかなか楽しかったよ。不意打ちでも、この僕を倒せたんだからね」

 背後から声がして、倉橋は力を振り絞って後ろを振り返る。

 そこに、青い仮面が立っていた。直前に、倉橋が倒したはずの青い仮面が、無傷でその場に立っている。右手には一本のナイフが握られている。

「でも、やっぱ最後には勝っておきたいし」

「どうし、て…………!」

 理解できなかった。

 倒したはずの仮面が後ろに立っている。確かに、この手で体を吹き飛ばしたのに、その傷跡すら見られない。

「君には説明してなかったかな。今の僕に体はない。心だけの存在になったんだ」

 青い仮面は愉快そうに笑う。

「だから、心のエネルギーが残っている限り、僕は何回でも実体化することができるのさ。反則っぽくて悪いけど」

 倉橋の頭にさっと血が昇る。

 ――そんなの、反則だ。

 心だけの存在、それはフラストと同じ存在だということを意味する。フラストはある程度ダメージを与えても、心のエネルギーさえあればすぐに再生する。故に、修復不可能になるまでフラストを破壊しなければ、フラストは倒せない。

 体を粉々にしても、しかし青い仮面は蘇った。まだ完全に破壊しきれていなかったということだ。ならば、この仮面たちの本体は、一体どこにあるのか。

「じゃあね」

 最後のナイフが放たれる。

 ――ドス。

 背中に重い感触があり、直後、倉橋の意識は暗転する。

 緑色の仮面は切断された右腕を再生させると、一条のほうへと目を向ける。仮面の奥では、余裕の笑みを浮かべている。

「さあて。これで二人とも戦闘不能よ」

 茶色の仮面も腕を修復させると、若草のほうへと視線を向ける。

「宗助。そろそろ君も仮面を外したらどうだ」

 その言葉に賛同するように、青い仮面が声を上げる。

「そうだそうだ。この前のように、もう一回僕と勝負をしよう」

 緑色の仮面が粘つくような声で続ける。

「このお嬢ちゃん一人じゃ、流石にもたないと思うけど」

「必要ありません」

 きっぱりと、一条が答える。

「あなた方には、私一人で充分です」

 言って、一条は肩越しに若草に視線を送る。

 ――約束は、守ってもらいます。

 一条の視線を受けて、若草は黙って頷く。

 ――一条くんには話していないが、フラッシュバックには一つだけ予備がある。一条くんも戦えなくなった場合、それを使わせてもらうけど、榊原を止めるまでにやれるだろうか。

 若草の反応を確認して、一条は再び視線を前方に並ぶ仮面の群へと戻した。

 緑色の仮面が呆れたように呟く。

「ふん。強がりね」

 茶色い仮面は感心したように頷く。

「勇ましいのはいいことだ」

 青い仮面は不平の声を漏らす。

「ちぇ。つまんねー」

 一条は鎌を両手で構える。戦力は、一条一人。だが、相手はフラスト同様、心さえ残っていればいくらでも動ける。数からしても、圧倒的に不利だ。

 ――そのとき。

 気配が生まれた。

 大きな気配だ。気配の波が、ビリビリと肌を伝う。

 仮面たちが振り向いて、一条もそれをみた。目を疑った。

 ――雨宮が、立っている。

 銃は持っていない。先ほどの戦闘で、どこかへ飛ばされたらしい。それよりも、さらに驚くことは――。

 ――仮面がない。

 茶色い仮面が感心したように呟く。

「まだ、立つか」

 しかし、その声の端には僅かに震えるものがあった。

 ――莫迦な。仮面を砕いたはず。立てるわけが。

 茶色い仮面は右腕を振り上げて、雨宮に向かって突っ込む。

「この死に損ないがアアァァアアアア!」

 茶色い仮面が右の拳を振り下ろす。

 しかし、その攻撃に手応えはない。

 ――(かわ)した!

 雨宮は茶色い仮面の右腕のすぐ横に立っている。

 ――ふ、焦るな。こいつは銃器を媒介にして心を解放する。さっきの戦闘で、こいつは銃を失っている。今のこいつには、何もできない。

 焦る?

 ――莫迦な。私は先ほどこやつを倒した。何も恐れることなど。

 恐れる?

 ――何を考えている。私は榊原樹の中の自信と強硬の心。その私が、恐怖するなど。

 迷いを(さら)すなど。

 雨宮の右手が茶色い仮面の右腕に触れる。

 ――茶色い仮面が消滅した。

 音はない。攻撃のモーションも、気配すらない。茶色い仮面が、忽然と姿を消した。体はもちろん、その仮面も何もかも、消えた。

 静かだった。

 あまりにも静かで、あまりにも突然だった。

 その沈黙を破ったのは、青い仮面だった。

「士岩の旦那ァ!よくも……」

 青い仮面が雨宮の前に襲いかかる。

「これでも喰らえエェ!」

 青い仮面は指に挟んだナイフ、そして周囲のエネルギーから構築した何本ものナイフを同時に放つ。

 瞬間、眩い光が雨宮を包む。一条も若草も、呆然とその光景を目にしていた。

 光は、何かの形をしていた。雨宮の背中から生えた、それは翼だ。純白の、鳥のような翼。いや、この場合は天使とでも言うべきか。広げた翼の、その大きさは両方合わせて十メートル近い。

 雨宮の背中から生えた翼が、ナイフの攻撃を弾き飛ばす。

「そこだァ!」

 翼の切れ目を狙って、青い仮面が手にしたナイフを一本放った。

 雨宮はそれを右の掌で受け止める。ナイフは雨宮の右手を貫いて、傷口からは真っ赤な鮮血が溢れ出る。

「傷を負ったね」

 青い仮面が愉快そうに笑う。

「僕の勝ちだ!」

「待って、刀矢。様子が変だよ」

 緑色の仮面が声を上げたが、遅かった。

「え?」

 声を漏らしたのは、青い仮面だった。

 ――青い仮面が消滅した。

 緑色の仮面は硬直したまま、雨宮の姿を凝視する。

「嘘。刀矢まで……」

「遊んでいる余裕は――」

 不意に声が聞こえて、緑色の仮面は振り向いた。

 背後に暗黒の仮面が浮かんでいた。闇と同じくらいに深い黒、その仮面の両目には、それぞれ上から下を貫くような奇妙な線が入っていた。天辺から目までは真っ直ぐに、目のすぐ下で鉤型(かぎがた)のように曲がった線。一瞬、稲妻(いなずま)を連想させる。

「なくなったみてーだな」

 暗黒の仮面が愉快そうに笑い声を上げる。

支配(しはい)……!」

 緑色の仮面は驚愕したように声を上げる。

「あなたが出るには……」

「『及ばない』か?嘘を吐くな」

 緑色の仮面は口籠(くちごも)る。

「俺たちは、心は違えど、皆一つの、榊原樹の意識を共有している。だから、お前の考えていることもわかるんだぜ、針花(しんか)

 黙り込む緑色の仮面を見ながら、暗黒の仮面は低く笑い声を漏らす。

「俺がこうやって仮面を見せるのも、お前たち全員が望んだことじゃねーのか?」

 充分、十秒近い間をおいて、緑色の仮面は決断を口にする。

「わかりました」

 頷いた直後、緑色の仮面からすーっと体が消えていく。他の仮面たちも同じだ。徐々に体が透けてきて、闇に溶けるように消えてなくなる。残ったのは意識を失った仮面だけだ。

「はっ。さっさと決めてりゃーいいんだよ」

 他の仮面たちとは対照的に、暗黒の仮面の下からは体が伸びてくる。

 全体的に黒い体、上から下までほぼ黒一色だ。手首と足首に金色のリングが装着されていて、腕や足、体や首にまで金色の線が走っている。

 暗黒の仮面が快活な笑い声を上げる。

「表に出るのは久し振りだな。よお、宗助。こうやって面と向かうのは、初めてだな。長い付き合いなのによ」

 暗黒の仮面は若草に目を向ける。

 若草のほうは、驚愕の目で暗黒の仮面を見上げる。

「支配?そんな名前、聞いたことが……」

「ねーだろうな。俺も、今までトレスト相手にも出たことがねー。何でかわかるか、宗助。理由は、心の消費が激しいのと――」

 暗黒の仮面は右の人差し指を立てる。

 パリパリ、という音がして、指の上に小さな丸い玉が浮かぶ。それが急激に膨らんで、一瞬で野球ボールくらいの大きさにまで成長する。パリパリと、独特な音を立てながら、ボールの周りには光の線が走る。その音は、放電の音に似ている。

「パワーがありすぎるからだ」

 電気の球が雨宮に向かって放出された。雨宮は咄嗟に飛んで、それを躱す。電気の球は地面に衝突して、直後、凄まじい放電音を放って消えた。

 ――地面に直径二メートルの穴が開いた。

 暗黒の仮面は空を見上げた。

 三日月の浮かぶ暗い夜。町の明かりが瞬いて、星の光は霞んで見える。闇が支配する夜空に、眩い光が浮かんでいる。

 暗黒の仮面は雨宮に向かって電気の網を放出する。雨宮は翼で自分の体を包み込む。

 ――バリバリバリバリバリバリバリバリ…………ッ!

 閃光(せんこう)(ほとばし)る。

 眩い光が、昼夜を逆転させる。

 暗黒の仮面は左手に電気の球を作る。さっきよりも一回り大きい。

「そのまま黒焦げにしてくれる」

 サッカーボールくらいまで膨れ上がった電気の塊を、暗黒の仮面は雨宮に向かって放った。

 電気の塊が衝突する、直前、雨宮の背中から生えた翼が勢いよく開いた。その衝撃で、電気が一気に空気中に拡散する。轟音と火花が散る。電気の塊を受けた左の翼が黒く焦げて三分の一くらいを失ったが、すぐに翼は再生を始める。

 強力な放電現象のせいで、数秒だけ電気の網が解けた。その隙に、雨宮は暗黒の仮面に向かって飛んでいく。

 暗黒の仮面は高らかに笑う。

「いい度胸じゃねーか」

 暗黒の仮面は左右に両手を広げる。

 仮面を中心にして、薄い電気の膜が張られる。半径二メートル、透けて見えるくらいにしかないが、それを維持するには相当な電力が消費されているはずだ。

 雨宮は構わず突っ込んで、電気の膜に右手を伸ばす。

 ――バリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリッ!

 高電圧が雨宮の体を貫いた。

 電気の膜に触れている雨宮の右手からは凄まじい光と火花が散っている。それでも、雨宮は右腕を引かない。

 暗黒の仮面が笑い声を上げる。

「無駄無駄ッ!この雷壁は攻撃にも使えるほど、威力が高い。絶対防御と、圧倒的な攻撃の、両方を兼ねている。テメーはそのまま黒焦げにしてやるよォ!」

 力は、互いに拮抗(きっこう)している。電流の膜も、雨宮の右腕も、押し返されることなく、その場で静止している。

 ――ふっ……。

 その力の均衡が、突然消滅した。

 電気の膜が、消えた。

「!」

 雨宮の焦げた翼は、すでに再生しきっている。雨宮は間髪入れずに、暗黒の仮面に飛び込んで、仮面の胸倉(むなぐら)を掴んだ。

「ガッ……!」

 咄嗟に、暗黒の仮面は雨宮の右腕を掴んだ。直後、激しい火花が迸る。強烈な電流に、視覚でもその様子が捉えられる。それはすでに、雷と同等の威力を持つ。

「くたばれェェエエエエ!」

 雷一つで、人間などまず即死だ。高圧電流が、雨宮の体を駆け抜ける。

「もう、死なせない」

 雨宮は、小さく呟く。

「――誰も、殺さない」

 雨宮の右腕から眩いばかりの光が放出して、その光は公園の中に浮かんだ他の仮面をも呑み込んで――。

 町の中から、耳を劈くような咆哮が上がった。幾重にも重なる、高周波の合唱(ハーモニー)。それは、何かを(いた)むような、喪失感のある虚しい響きだった。


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