第三楽章 業火の中で踊りましょ
周囲は炎の色に埋め尽くされていた。熱風は辺りを灼き、火炎は瓦礫を灰へと変える。崩れた建物は炎に呑まれて、黒い影となって消滅する。
高峰は手にした扇子を煽ぐ。
――おおおおおおおおっ!
炎が円を描くように左右から動く。その行く手の先に、人の影が見える。
「そんなもんかよォ!」
落合は正面で腕を交差させて、炎が衝突する直前、左右の腕を向かってくる炎に向けた。
――ドオォン!
爆発音が響く。
急激に火力を増した炎が空気を震わせて、落合を炎上した炎が飲み込む。その余波で、高温の熱風が高峰のところまで流れ込んでくる。
「うぅ!」
高峰は咄嗟に顔を庇った。
熱気が流れて、風が収まったところで高峰は前を向いた。
先ほどまで落合がいた場所、炎が霧散して、しかし落合の姿はどこにも見えない。
「…………」
高峰は警戒して辺りを窺う。
高峰の周囲一キロメートル以上の範囲がすでに瓦礫と灰と、そして炎によって埋め尽くされている。建物は崩れて、その衝撃で舗装された道路はひび割れ、露出した地面を高熱の空気が灼いて黒く乾いている。
火光に照らされて、辺りは茜色に染まっている。ビルの窓からは灼熱の光が反射されて、暗雲は赤黒く燃えている。
「…………」
高峰は手にした扇子を肩の高さまで上げて構えている。静止したまま、じっと周囲の気配を感じ取っている。
――ゴオォオオッ!
高峰の左手、二十メートル先の瓦礫が炎上した。
「!」
高峰は咄嗟に振り返る。
炎は爆発したように炎上して、周囲の瓦礫を吹き飛ばす。その火炎の中に、高峰は一人の人影を認めた。
「足りねえ足りねえ足りねえ足りねえェ!」
落合だ。
炎を身に纏った落合が、瓦礫の中から飛び出した。
「そんな炎じゃ、全っ然足りねえェ!」
高峰は手にした扇子を煽いだ。
周りの炎が扇子の動きに反応して渦を巻く。しかし、高峰の周りには炎が足りない。小さな火の粉が高峰の周りに集まるだけだ。
「遅ええええええェェ!」
落合の体から炎が上がる。
身体の半分以上を侵食する炎、そのまま落合は高峰に向かって突っ込んでくる。
――ザッ!
高峰は素早く地面を蹴って、後退する。
高峰の動きに気付いて、落合は上半身を上げる。
「今度は……」
右半身を捻って、落合は右腕を溜めるような恰好になる。その動きに応じて、落合を包んでいた炎火が右腕のほうへと集まってくる。
膨大な炎、凄まじい熱気、それが落合の右腕を呑み込んで、最早それは炎の塊でしかない。炎は唸りを上げながら炎上する。
「テメーが喰らいなァ!」
落合は右腕を突き出す。
呼応するように、炎が一直線に伸びる。
――ゴオオオオオオオオオォォォォオオオオオオオオオオッ!
放たれた炎は、真っ直ぐ高峰に向かってくる。
高峰は扇子を煽ぐが、しかし落合の火力は止められない。高峰は横に跳んで火柱を躱す。
「へっ」
落合は残虐な笑みを浮かべる。左腕を溜めて、今度は左腕の周りに炎が纏わりつく。次の攻撃がくる。
一方の高峰は、炎を避けて、その炎の勢いが弱まってくるのを見計らって、消えゆく炎のところへと駆け寄った。消えそうになる炎を、再び煽いだ。
「喰らうのはぁ」
高峰の扇子の動きに呼応して、消えかけた炎が再燃し始める。
「そっちぃぃいいぃ」
一気に扇子を、落合に向かって煽ぎ上げる。
――おおおおおおおおおおおおおおおおっ!
消えかけた火柱に沿って、炎の渦が燃え上がる。
「……!」
落合は異変に気付いた。
だが、そのときには遅い。
落合の右腕から炎が吹き上がり、それが落合に向かって襲い掛かる。
――おおおおおおおおっ!
落合の体を炎が呑みこみ、炎の渦が落合の周りを取り囲む。
「…………」
高峰は緊張した目で、その炎を凝視する。
火柱の大きさは、半径五メートル、高さは三十メートルを超える。短時間で、落合がこの炎の渦から逃れられているとは考え難い。この攻撃で、落合を倒せたのか、それがわかるまで気が抜けない。
と。
――ボオッ!
炎の渦の中から人影が飛び出した。
「!」
高峰は驚いてその姿を見上げる。
「あはははははははっ!」
高笑いが聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「なめた真似してくれんじゃねーか」
落合だ。
炎の渦から、落合は抜け出した。しかも、あまりダメージを負っているようには見えない。
「――だがよ」
落合の体中を包んでいた炎が、左右の腕に集中する。
「そんなひょろっちい炎じゃ、全然効かねーんだよ」
高峰に向かって、炎の塊が飛んでくる。
「……っ!」
高峰は後方に跳んで火の玉を躱す。
何発も飛んでくる炎の弾丸、それを何とか避けて、ときには扇子で軌道を僅かにずらしながら、高峰は後退していく。
高峰は必死で避けようとしているが、しかし落合にはその真剣みが欠けている。力を出し惜しみしているようにも見える。もう少しだけ力を出せば、すぐにでも高峰との間合いは縮まる、しかしそれをしないで、常に高峰との距離を一定に保っている。追いつかず、逃がしもせず、そうやって甚振っているようにも見える。
「ほらほら、どうした。さっきみたいに、俺様を出し抜いたときみたく、もっと燃えるような炎をぶつけてこいよ。それとも……」
落合は意味深に笑う。
何かを思いついたときの、無邪気で、残酷な笑顔。
「あんだけの炎を出すには、ちーっとばかり時間がかかるのか?」
高峰はハッとして、無意識に足を止めた。
その様子を見て、落合の目は爛々と輝く。
「図星のようだな」
落合は攻撃を止めた。
「…………」
二人は、向かい合って、立ち止まる。
「いいぜ。待ってやるよ」
落合が口を開く。
「最後のチャンスだ。それでもし俺を倒せなかったら――」
落合は、いっそう狂気的な笑みを浮かべる。獲物を追い詰めて、あと一手で仕留められるのに、技と相手の逃げる様を眺めているような、絶対強者の瞳。
「――そんときが、テメーの最期だ。高峰灯」
その残虐な笑みを、高峰に向ける。
高峰の表情には、すでに疲労の色が滲んでいる。しかし高峰は、微笑み返した。
「そんなこと言ってぇ、後悔しても知らないわよぉ」
高峰は扇子を煽いだ。
――おおおお!
呼応するように、大気がうねり、炎が渦を巻いた。周囲で幾つもの炎が渦を巻いて、空気を中へと取り込んで、火力をどんどんと膨らませていく。
落合は余裕を持った目で辺りを見回す。
「煽って火力を上げる能力か。だが、やっぱ小せーな。あと、どんだけ上がるかな」
十分は経過した。
それでも、炎の大きさは最初より一回り大きくなった程度、大きさは一つ辺り直径で一メートル、高さは三メートルくらい、それが落合の周囲に八つ。
「……はあぁ、はあぁ………………」
高峰の息が上がっている。
相当な量の心のエネルギーを解放した。これ以上はエネルギーを使えない。あとは、地道に時間をかけて炎を大きくしていくしかないのだが、その炎を維持するだけの力も、果たして残っているだろうか。
高峰の右腕の動きが、ピタリと止まる。
「どうしたーァ!それが限界か?」
体が傾いでいく。両手を膝の上について、倒れるのをなんとか堪える。それ以上、動くことができない。立っているだけで、やっとだ。
「……後悔してもぉ、知らないわよぉ」
精一杯の声で返したつもりだったが、力が入らないせいで落合の耳にまではよく聞こえない。
「ぐだぐだ言ってねーで、もっと火力を上げろよっ」
炎が揺らめいている。
激しく燃えていた炎が、勢いを失ったように小さくなる。周囲の炎が崩れていくのを見て、落合は小さく舌打ちする。
「なんだよ、もう限界か。んじゃ、これでラストにしてやる」
落合の右手に炎がつく。
「…………莫迦ねぇ」
高峰が体を起こす。
「もうぅ、充分よぉ」
高峰は扇子を煽いだ。
落合の周りに影が映る。落合を中心にして、半径三メートルほどの円盤。
「……!」
落合は頭上を見上げた。
落合の真上に、炎の塊が現れた。そして落合が見上げた瞬間に、落合の周囲を小さな火の粉が取り囲む。
――おおおおおおおおぉぉああああああぁぁぁぁああああああああああ!
火柱が上がる。
落合の周りを、炎の渦が取り囲んだ。
「続けてえぇええぇ!」
さらに、高峰は扇子を煽いだ。
落合の周囲を取り囲んでいた八つの火柱が火力を増して、その鋭利な先端を落合のほうへと向ける。
それが一斉に、炎の渦を突き刺した。
「図に乗ってぇ、あんなこと言うからよぉ。これでぇ――」
その言葉は、途中で遮られた。
爆発音が響いて、巨大な炎の渦が中央で裂けた。そこから、左右に二本の火柱が伸びて、くるくると回り出した。火柱が高峰に向かってくるが、今の高峰にはそれを躱すだけの力もない。扇子で顔を守るのがやっとだった。
高峰は状況がわからなかった。
炎が裂けたのは、高峰の行動ではない。中から別の火柱が上がったのも、高峰はやっていない。
「終わりだ」
声が聞こえたとき、高峰にはそれが見えていなかった。
――ドンッ!
低い振動が、高峰の脳髄を駆け巡る。
高峰の視覚野には、もう何も映っていない。その虚無の瞳に映るのは、高峰の仮面を掴む腕と、その腕を覆う高温の炎、そして――。
残虐な笑みを浮かべる、落合の顔だけだった。
月が出ていた。三日月くらいの、細い月だ。淡い光が、夜の町を薄く照らす。寝静まった町に、しかし街灯の華やかな明かりのために、月明かりなど意味がない。星々の姿も、人工灯の前では無力に等しい。
夜空の中を、進む影が二つ見えた。地上から百メートル以上の高さにいる、それは人の姿をしていた。
一人は少女だった。顔には髑髏を模した仮面をして、髑髏の形を反時計回りに九十度だけ回転させたように被っている。手には、少女の小さな体には不釣合いな巨大な鎌が握られている。月明かりを受けて、その刃は妖しい光を放つ。
もう一人は男だった。帽子を目深まで被っているので、年齢まではわからない。顎には無精髭を生やして、どことなく人の良さそうな雰囲気を持っている。
二人はそれぞれ黒い影の上に乗って、夜空を進んでいる。
「どこですか。その場所は?」
一条が口を開いた。
若草が答える。
「方角は、あっているはずだ。もう少ししたら見えてくるだろうから、そのときになったら言うよ」
「私は、どこかと訊いているんです」
一条は冷たい視線を若草へと向ける。
若草は困ったように押し黙る。一条は嘆息する。
「本当にその場所に、榊原樹がいるのですか?若草総指揮官」
若草はすっと前を見る。
夜の町、人々が寝静まる、その時間でも、町には明かりが点る。街灯の明かり、店のネオン、信号機の光、町には光が満ちている。作られた光の前に、星や月の光など、微かでしかない。夜空に埋め込まれた星の光は、月の輝きは、ただ闇の中に呑まれていく。
若草は闇を見ながら、呟く。
「……多分ね」
「多分?」
一条が怪訝そうに訊き返す。
若草は帽子を目深に被り直す。
「気配が生まれたとき、私は彼の姿を見たんだ」
一条の反応に変化はない。
眉を吊り上げたまま、じっと若草を見つめている。
若草は弁解でもするように、続ける。
「気のせいだと言われればそうかも知れないけど、私はその一瞬の感覚を信じたい。そのとき、私は彼の居場所をあの場所だと確信した。榊原は、言っていたんだ」
若草は、続けて言う。
「だから、そこで間違いないと思うんだ」
一条はさらに追求しようとして、しかし断念した。若草の目に、迷いはなかった。信じて、疑わないものの目、そこにどんな言葉を費やしても、おそらく若草が口を開いてはくれないだろう。
一条は若草から目を逸らした。
「……」
若草は、不意に笑みを浮かべる。苦笑とも、自嘲ともとれる、どことなく疲れたような、そんな笑顔。
「まだ、フラッシュバックの影響が残っているのかもしれない」
小声で呟いたつもりだったが、どうやら一条の耳に届いてしまったらしい。一条は不安そうに顔を上げる。
「大丈夫なのですか?」
若草はいつもの人の良さそうな笑顔を作る。
「ああ、心配ない。若干、昔の感覚が鋭くなっているのかもしれないけど、それほど気になるものでもない。おそらく、仮面は外せない。感覚を完全に取り戻すには、もう一度フラッシュバックを使わないとだめだろうね」
「先ほども言いましたが……」
一条が言いかけた言葉を、若草はすぐに遮る。
「わかってるよ。フラッシュバックは使わない」
若草は微笑んで、視線を下のほうへと向ける。ビルの屋上を遥かに超える高さ、飛行機にでも乗らなければ見ることのできない光景だろうけれど、ここは飛行機のように身の安全を保障してくれるものは何もない。
数分ほど上空を進んで、若草は声を上げた。
「見えてきました」
若草は指差した。
その方角を、一条も見る。
「あそこです」
「なんですか、これは」
反射的に、一条が声を漏らした。
普段の一条からは想像のつかない、動揺した声。
若草は不思議に思って訊ねる。
「どうかしましたか?」
若草の問いに、しかし一条は答えず、その場所に向かって死神たちを降下させる。
二人は地面の上へと降り立った。
「……」
若草は辺りを見渡す。
町の中、にしては不自然なくらい緑が多い。地面もコンクリートで舗装されているわけではなく、頭くらいの大きさの石が敷き詰められている。
ビルが犇めき合う町の中にぽっかりと空いた異空間、人々の憩いの場所として提供されている、公園。
公園は相当広く、ビル四つを簡単に飲み込めるくらいの大きさがある。若草がここにやってくるのは、これで二度目だ。
――すぅ……。
若草の周囲を、三つの影が囲む。
暗黒のローブを頭から被り、ローブの下からは足がなく、影は宙に浮いている。手にした大きな鎌が特徴的で、タロットカードに出てくる死神を髣髴させる。
ローブの裾から伸びた手は、しかし肉がなく、鋼色の骨が露わになっている。さらに頭部、ローブの隙間から覗くのは、血走ったような赤い二つの瞳と、やはり鋼色の、不気味な頭蓋骨だ。
「一条くん?」
若草は一条に声をかける。
一条は若草よりも少し前に立って、緊張したように自分の髑髏の仮面、右目の前に浮かぶ眼窩のカーディナルレッドの膜を注視している。
一条は振り向かずに、口を開く。
「感じませんか?」
若草は辺りを見回す。
「今までよりずっと大きな気配です。ここで間違いないでしょう」
「はい。間違いはないと思います。しかし…………」
一条は言い淀み、それ以上の言葉が出てこない。
若草は不思議に思って、一条に訊いた。
「何か、おかしなところでもありますか?」
一条は、すぐには答えない。
何か迷っているようにも感じられるが、ややあって一条は口を開く。
「気配はあります。でも、気配がないんです」
「はい?」
一条の言っている意味が掴めず、若草は首を傾げる。
「どういうことですか?よく、意味がわからないんだけれど」
一条は言葉を探して、なんとか若草に伝えようとする。
「榊原樹の気配はあります。しかし、榊原樹の存在がないんです」
一条は答える。
「この場所に満ちているのは、大きなエネルギーの塊。こんな大きさ、人が持ちえる範囲を超えています」
若草は改めて辺りを窺う。
今の若草に、正確に気配を読むだけの力はない。しかし一条の言葉だけで充分だった。若草の瞳に、真剣な光が宿る。
「――完成させていたのか。榊原」
独白のように、若草が呟いた。
その言葉に応えるように、二人の後ろから声が返ってきた。
「やあ、宗助。そして、一条くん」
一条は驚いて、後ろへと振り向いた。
若草も、落ち着いた様子で背後へと体を向ける。
誰もいなかったはずの公園、しかし今二人の視線の先にあるベンチの上に、一つの影が見える。体にフィットするタイプのスーツを着用して、両手には黒い手袋を嵌めている。全身が黒一色で、しかし顔に被った白い仮面だけが異様に光っている。
「君なら、私を見つけてくれると信じていたよ。宗助」
仮面の奥から笑い声が聞こえてきそうだった。仮面のせいで表情まではわからないが、その声はとても楽しげだった。
「…………そんな!」
一条は驚愕して、その人物を見つめる。
「何故、あなたがそこにいるんですか?」
一条には、すでにいつもの冷静さは感じられない。信じられないものを見るかのように、焦燥と動揺の色が感じ取れる。
――榊原樹。
組織を裏切り、組織に反逆する、絶対の敵。今までのフラスト異常発生の原因とされ、トレストをも超えた能力を持つフルセルフを作り上げ、そして、今日のフラスト大量発生の中心人物。
榊原樹が、そこにいた。
「なるほど」
一条の耳元で声が囁く。
「!」
一条は驚いて振り返る。
そこに榊原樹の姿がある。目の前にいる榊原と同じ恰好をした、もう一人の榊原樹が確かにそこにいる。
「君は、探索型の能力も持っているのか」
榊原の手が一条の仮面へと伸びる。
「触るなっ」
一条は咄嗟に手にした鎌を振るった。
真横に立った影は、まるで蜃気楼のように揺らめいて、闇の中へと姿を消した。
「『影人』だったかな」
その様子を見て、若草は落ち着いた声で言った。冷静なようだが、いつもの若草とは雰囲気が違う。緊張を孕んだ、優しさを欠いた声。
ベンチに座った榊原が感嘆したように拍手する。
「よく覚えていたね。宗助には、一度しか話したことがないのに」
「君の力はとても印象的だからね。――一条くん、構えなくていい。これは幻覚だ」
若草は静かに説明する。
「幻覚と言っても、個々にエネルギーを分散することができる。だから、一条くんのように心のエネルギーを探索する力を持っていても、見破ることができない」
榊原は驚いたように口笛を吹いた。
「本当に、よく覚えている。嬉しいよ、宗助」
榊原の賛美の言葉を無視して、若草は言葉を続ける。
「榊原。君は、完成させたようだね。『ディストラクション』を」
聞き慣れない単語を耳にして、一条は眉を顰める。
「なんですか?それは」
答えたのは、榊原だった。
「心と体の境界を『破壊』する」
その言葉を受けて、若草が口を開く。
「組織にはMASKS以外にも、様々な研究が行われている。対フラスト用の武器を開発しているところもあるけど、MASKS以上に有用な兵器は、現段階では存在していない」
組織の中で対フラスト用の武器を開発しているのは、DECORATEだ。トレストにも通用するような強力なスタンガンなど、様々なものを作っている。DECORATEで開発しているものの中で、最も強力な武器は、フラッシュバック、一条が若草に使わせないようにしている武器だ。
フラッシュバックは、人の心の中に眠る悪夢を呼び起こして、仮面を作り出す薬物だ。MASKS以外の仮面を持たない人に、仮面の形成を促す効果を持つ。しかし、その特性上、人のトラウマを呼び覚ましてしまうため、副作用として精神的苦痛を与え、失敗すれば精神を崩壊させる。
しかし、そのフラッシュバックでさえ、MASKSを超えられない。あくまで、フラッシュバックの効果は、一般人にMASKSと同じ能力を発現させること。
しかも、その効果は一時的で、下手をすれば精神を壊してしまう恐れもある。まだ実用のレベルには達していない。
「他にも、MASKSを超えた新たな兵器を生み出そうと、いろいろと研究がされているけど、その中の一つに、心と体の境界を破壊する、ディストラクション計画がある」
榊原が若草の言葉を引き継ぐ。
「心と体の境を破壊する。つまり、肉体を持ちながらも心を解放できるようにする。MASKSと違うのは、心と体の境界がすでになくなっているため、仮面を外す必要がない。それにこれが完成すれば、MASKSのようにある一定以上で能力を発現できなくなることもなくなる」
その言葉に、一条はハッとする。
「じゃあ、フルセルフは……!」
榊原は頷く。
「察しの通り」
人でありながら、心の領域を解放できる存在。しかしMASKSとは異なり、仮面を外すことをしない、いや、そもそも仮面というものを持たないもの。
全てフルセルフの特徴と合致する。
組織の中で進んでいたというディストラクション計画、その事実を一条は知らない。如何に一条がMASKS総指揮官補佐という役職にいても、それは組織の中では意味を持たない。組織内の情報は、総指揮官クラスにならなければ知ることができない。
おそらく、その研究は組織の中では成功していないだろう。もしも成功していたら、MASKSは途端にその存在が危うくなる。MASKSのような旧式兵器は、すぐに用済みになるだろう。
つまり、榊原は心と体の境界を破壊する、ディストラクションを完成させて、その知識を組織に開示しないまま逃走したことになる。
「それで……」
若草が静かに口を開く。いつものような優しい響きを失った、やや低い声。
「君は一体、何をするつもりなんだい。榊原」
その若草の声に、榊原は変わらない調子で答える。
「人々を解放する」
榊原は両手を広げる。
「世界中の人々の心の中から、仮面を破壊するのさ。人は仮面を被っているが故に、傷ついていく。心を隠し、不満ばかりを溜めていく。それが子どもたちを、延いては社会を壊していく。そんな世界は、もう見たくない。――そうだろ、宗助」
榊原は立ち上がって、若草に向かって手を差し伸べる。
「私たちの誓いを、今日より現実のものにする」
榊原の手は、若草に仲間に入れという意味だろうか。
しかし、若草はきっぱりと言い放つ。
「間違っている」
その言葉に、榊原は不快そうな声を上げる。
「なんだって?」
「そんな方法、間違っている」
若草は、真っ向から榊原を否定する。
「仮面を失ったら、それはただ自我が溢れるばかりの世界になる。人々は自分のやりたいことばかりに執着して、自分の望みしか信じない。それは最早、社会ではない。人類という文化が、崩壊する」
榊原は、しかし何も言わなかった。仮面に隠れているため、表情が読めない。その笑った仮面の裏で何を思っているのか、不可解なことが不気味でならない。
若草の声に応えたのは、しかし別の声だった。
「何を言っているの」
若草と一条は、声のした方向に顔を向ける。
そして、二人は驚愕に目を見張った。
「……!」
誰もいなかったはずの公園に、幾つもの影が見える。
仮面だ。色も形も様々な、奇妙な仮面。それが公園の中に浮かんでいる。その仮面たちが、じっと二人を見つめている。
仮面の中から声が聞こえる。
「心身の不調和が精神の、そして肉体の破壊を招くと言ったのは、どこの誰だったかしら」
女性の声だった。
大人びた、成熟した、女特有の艶やかな声。
「自分の望みも言えず、不満すらも言えず、そうやって自分すら失った子どもたちがさらに壊されていくのを、君も見てきたではないか」
次に口を開いたのは、男の声だった。
熟しすぎた、老人の声だった。しかし老いた印象はなく、むしろ若さを感じるような、覇気のある声だった。
「自分のやりたいことを正直に実行できたほうが楽しいに決まっている」
次は少年の声だ。
変声期の、中性的な声。自分の意思に忠実で、社会の意図とは反抗的な、純粋で、我の強い感じのする声だった。
榊原が、再度口を開く。
「さあ、宗助。今ならまだ私は、君を許すことができる」
榊原は手を差し出したままだった。
「広末くんへの暴力、白百合くんへの冒涜、榊原への裏切り。それが組織への離反だけで、全てなしにしてあげる。どうかな?」
若草は振り返って、榊原を見る。
榊原の仮面を一瞥して、榊原が差し出した手を一瞥して、もう一度榊原を見る。そして、きっぱりと言い放つ。
「断る」
榊原は落胆したように、肩を落とす。
「そうか。なら仕方ない」
榊原は差し出していた手を高く上げて、指を鳴らす。
――パチン。
直後。
仮面の下から、体が現れる。
どれも人の形をしている。背の高いもの、低いもの、体の大きいもの、小さいもの、着ている服も様々で、統一はない。
驚愕する二人を他所に、榊原は軽やかに叫んだ。
「さあ、始めよう」
そのときのことを、あたしはよく覚えていない。
その間の記憶が、欠落している。
周りのことも、ぼんやりとしか思い出せない。
「さ、灯」
白い部屋の中で、母親の姿があった。
「もう、退院よ」
父親は医師と話中だと言う。
自分の病室を出て、あたしは母親と一緒にロビーで待った。
何故自分が病院にいるのかわからなかった。何故自分が入院していたのかも覚えていない。退院することの意味すら、理解できていなかった。
ロビーのソファに座って、時間の経つのを待っていた。あちこちに人の姿があって、向こうにはテレビがあって白い光を放っている。母親が隣に座って雑誌を読んでいる。
妙だと思った。
母親は本を読む人だったろうか。何でも自分で試すようなタイプで、本から知識を得ようなどとは考えるような人ではない。家にだって、母親の所有する本は少なかったように思える。
それとも、自分の記憶違いだろうか。自分のほうが間違っているのだろうか。周りのことが、よくわからなくなっていた。
「お待たせ」
父親が来た。母親は雑誌をロビーの元の場所に戻して、あたしの手を引いて歩き出した。
「灯。退院おめでとう」
車の中で、運転席に座る父親からそんな声をかけられた。
その言葉の意味が、よくわからなかった。
あたしは何故退院した?
入院していたからだ。
あたしは何故入院していた?
「…………」
あたしは返事をしなかった。
その後、車は無言で走っていく。
しばらくして、車が止まると、父親はエンジンを切って車を降りた。
「さ、灯」
母親がドアを開けて、あたしの手を握る。
「着いたわよ」
母親が車の外に出て、あたしも引かれて外に出た。
母親が見上げる先に、一件のアパートがあった。新築なのか、周りの雰囲気とは馴染んでいないような感じがする。周囲にもアパートが何件か見られたが、他のアパートは白いコンクリートが剥き出しになっているのに対して、そこだけペンキで色付けされていて、違和感を覚える。
「行くわよ」
母親はあたしの手を引いて歩き始める。
先に行って部屋の鍵を開けていた父親が二人を出迎える。
「ようこそ」
あたしが部屋の中に入ってくると、父親は嬉しそうな顔であたしを見た。
「新しい我が家へ」
破顔する父親の顔。
笑顔を向ける母親。
「…………」
無言のあたし。
ここはどこ?
あたしの家は?
狭い場所の中で、三人の生活が戻る。
毎朝父親は会社に出かけて、その部屋にはあたしと母親が残った。母親は仕事に行かないのだろうか。あたしは学校に行かなくてもいいのかな。
「灯。お昼、何にする?」
笑顔を浮かべて訊ねる母親。
何でそんなことを訊くの?
仕事へ行かなくていいの?
あたしは学校へ行かなくていいの?
「灯の好きな、天ぷらにする?」
あたしは答えなかった。
母親は困った様子だったが、それでも笑顔は崩さなかった。
「いつまであの子はああなの?」
夜になって、父親と母親が廊下で話している。
父親が不安そうに母親に訊いた。
「まだ、よくならないのか?」
「まだもなにも」
母親は痺れを切らしたように叫んだ。
「ずっと黙りこくったままなのよ。退院したときの、入院していた頃と、何も変わってないわ」
「でも」
父親が宥めるように言った。
「お医者さんの話じゃ、体に問題はないそうだ。今までの入院だって、あくまで様子見で、それで大丈夫だから……」
「何が大丈夫よ!」
母親が喚き散らす。
「帰ってきてから一言も口を利かないし。お昼に私が折角料理を作ろうとしたら、あの子、突然騒ぎ出したのよ」
父親の訊ねる声が聞こえる。
「何かしたのか?」
「何もしていないわ」
母親が訴える。
「ただお昼を作っていただけだわ。あの子を喜ばせようと、あの子の好きな天ぷらを作っていたのよ。そしたらあの子、急に騒ぎ出して」
しばらく間があって、父親がの声がした。
「火を使ったのが、マズかったんじゃないのか?」
「え?」
母親の困惑した声が返ってくる。
父親の言葉は続いた。
「灯は火事の中にいたんだ。きっと、そのときのことを思い出すんだ」
沈黙が降りる。
「……じゃあ、どうするのよ?」
母親の戸惑うような声を出した。
「じゃあ、どうすればいいのよ。火を使わずに、料理なんてできないわ」
「それでも、灯のことを考えれば……」
母親の悲痛な訴えに、父親は頼み込むように返す。
それから、毎日二人は廊下で話をするようになった。
それは日を追うごとに激しくなって、二人は毎日喧嘩をするようになった。
「もういい加減にしてほしいわ」
隣で母親がテーブルを叩いた。
目の前の父親が困ったように顔を上げる。
「おい。食事中だろ。灯もいるのに……」
「こんなの、もう我慢できい」
また母親がテーブルを叩く。コップがカタカタと揺れる。
父親が嘆息する。
「もう少しの辛抱だ。それまで……」
「少しって、一体いつよ」
母親の言葉は続く。
「いつまで私はここにいなきゃいけないのよ。いつまでこの子の傍にいなきゃいけないの。仕事だってあるのに」
叫びながら、母親はあたしを指差す。
この頃になると、あたしの前だろうと関係なく二人の口喧嘩は始まる。あたしなんて見えていないように、あたしはそのへんのものと同じように。
あたしは、なんでここにいるの?
なんで二人は、そんなに怒っているの?
「いつまでも休み休みなんて、そんなことばかりしてたら、私会社を首にされちゃうわよ」
「仕方ないだろ。灯が……」
「仕方ないって、なんでよ!」
父親の言葉を遮って、母親が叫んだ。
「なんで私ばかりが灯の面倒を見なくちゃいけないの?あなただって灯の面倒見なさいよ」
「見ているだろ。今日だって」
「休みのときだけじゃないの」
「仕方ないだろ。仕事が」
「私だって仕事があるわよ」
母親が怒鳴り、父親は黙り込んだ。
母親の目は、鬼のように真っ赤に光っている。
「あなたも、仕事を休めばいいんだわ」
母親の呪詛めいた言葉が口から吐き出される。
「そうよ。私と同じように、あなたも仕事を休んで、一日中灯の面倒を見ればいいんだわ。そうすれば……」
「無理に決まってるだろ」
父親が反論する。
「そんなの、無理だ」
「あら、何故?」
母親が妙に優しい声で訊き返す。
「どうして無理なの?なんで無理なの?言ってみて。言ってみてよ。私が納得するように、ちゃんと言ってみてよ。ほら、言ってみてよ。言ってみなさいよ。ほら、聞いてあげるから。ちゃんと聞いてあげるから。だから言ってよ。ほら、言って。早く言って。ちゃんと言ってよ。早く。黙ってないで。黙ってたらわからないでしょ。ほら早く。早く。早く言って。言って。早く。早く言えっていってるでしょ!」
母親はテーブルの上のサラダを投げ捨てた。床に野菜がぶちまけられる。
今日の料理は、パンと野菜、それにハムと飲み物に牛乳、どれも火を使わないで食べられるものばかり。
「私こんなに頑張ってるのよ!」
母親は急に立ち上がった。
「見てみなさいよ」
父親は黙って俯いている。
「今日の料理だって、全然火を使ってないのよ。灯が火を怖がるから、だから火を使わないで食べられるものを考えて、頑張って作ったのよ」
父親は俯いたまま、一言も口を利かない。
「あなたは何をしているっていうの?」
その問いに、父親は答えなかった。
「仕事を犠牲にして、料理だって色々考えて作ってるのに、あなたは一体灯のために何をしているって言うの?」
「…………すまない」
ぽつりと、父親が言葉を漏らす。
「すまなかった。お前は、頑張ってるよ」
そこで、二人の言い争いは終わる。母親はそれ以上父親を責めることはしない。父親も、ホッとした様子で食事に戻る。
そんなことが、一ヶ月くらい続いた。
そして。
――二人は、離婚した。
それしか、方法はなかった。
父親が仕事を休むわけにはいかず、母親も早く仕事に復帰しなければならなかった。いつも争いの火種を持ち出した母親も、それだけはしたくなかった様子で、最後まで言い出すことを耐えていたようだったけど、苦渋の末に漏らした母親の一言で、父親はすんなりとそれを受け入れた。
――呆気ない、終焉。
どちらがあたしを引き取るかで、色々揉めたようだが、最終的には父親のもとで暮らすことになった。
父親が提案したことらしい。母親も色々と考えたようだったけど、結局は父親にあたしを任せることにしたようだ。
母親は部屋を出て行った。
父親と二人だけの生活が始まった。
「じゃあ灯。父さん仕事があるから。ちゃんと学校、行ってくるんだぞ」
久し振りの学校、でもそこには違和感があった。同じ学校なのに、どこか違う空気。同じクラスなのに、どこか違う雰囲気。久し振りの友達が、遠い他人。
あたしは病院に通うようになった。父親の勧めで、色々な病院へ行ったけど、帰りの車の中の父親の横顔は疲れて見えた。
なんで病院に行くの?
あたしのせいなの?
あたしが間違っているの?
あたしのどこがおかしいの?
あたしが父親と離れて生活するようになるのは、母親がいなくなってから一年くらい経ったあとだった。
その病院に何度か通って、あたしはその人たちに手を引かれて、父親のもとを離れた。
「けっ。あっけねーの」
落合は倒れた高峰を見下ろしている。
「MASKSは俺たちと違って、仮面を外すことで力を使う。仮面でもって、力の制御を行っている」
落合は高峰の頭にかかった赫い仮面を足で蹴る。乾いた音を鳴らして、仮面はからからと揺れる。
落合は愉快そうに、にかりと笑う。
「――だからMASKSの弱点は、その仮面」
MASKSには少なくとも二つの人格がある。普段、社会の中で生活するときの顔と、フラストと戦うときのもう一つの顔。戦闘の際には、普段の仮面を外してもう一つの顔を曝け出す。そうすることで、心の領域を解放し、力を行使する。
仮面を持つことで心の切り替えを行っているわけだが、同時に仮面は力を抑制する要因になっている。
MASKSを研究する組織のほうでは、心の領域の解放率をあげるため、仮面をなくす方法を模索しているチームもあるが、その研究はあまり進んでいない。
――仮面を失ったMASKSは、感情を失う。
仮面を破壊されると、MASKSは一切の思考能力を失う。つまり、何も考えず、何も感じず、生きていながら、それはもう生きているとは呼べない存在。完全な植物状態になる。
組織で把握しているのは、そういうことだ。だから研究も進んでいない。多くの犠牲者を出して、何人もの被験体から彼らの人生を奪って、そして研究を中止している。被害者を増やさないために中止しているのではなくて、研究資料の浪費を防ぐために。
落合は倒れた高峰を見下ろす。高峰の目からは感情の色が失せて、まだ生きているはずなのに、高峰からは生気を感じ取れない。
「俺と同じ、炎の使い手だからどんなもんかと試してみれば――」
落合は興味を失くしたように、高峰から背を向ける。
「どーってことねー、雑魚じゃねーか」
落合は数歩歩いて、口元を大きく歪ませて笑った。
「さて、他に骨のありそうな奴でも探しに行くか」
落合の両腕に、炎が纏わりつく。
周囲の炎が、力を失ったように小さくなっていく。
「――灼くるは焔」
突然、炎が勢いを増した。
――おおおおおおおおおおッ!
落合は驚いて立ち止まる。
「!」
辺りが、再び炎で覆われる。
落合の周りを、ぐるりと炎の壁が立ち塞がる。
「燻るは躰――」
落合はさっと後ろを振り向いた。
そこに、高峰の姿があった。
「…………」
落合は、目を疑った。
さっきまで倒れていた高峰が、もう完全に意識を失っていたはずなのに、高峰はその場に立っている。
「……なんだ。まだやる気かよ」
自信ありげに言ったつもりが、声の端が僅かに震えている。
そんな様子の落合に対して、高峰は無視するように言葉を続ける。
「燻り燻りて、幻現」
すうっと、手にした扇子を上げる。
真っ赤な、血を固めたような色が鮮やかな、彼岸花の描かれた扇子。真っ直ぐ伸ばした腕は肩の高さまで上がって、止まった。
落合が叫ぶ。
「死に損ないがアアァァァァッ!」
炎を纏った左腕を、勢いよく高峰のほうへと突きつける。
――ぼわッ!
炎が火力を増す。
その火炎が、落合の目の前で膨らんだ。
「……!」
落合は咄嗟に右腕で顔を守る。
――ゴオオオオオオオオオオオオオオ――――――――ッ!
炎が、落合に向かって襲い掛かる。
――なっ……!
落合は反射的に目を閉じた。
自分の炎が、自分に向かって襲い掛かる。落合には理解できなかった。状況に混乱して、落合は動くことができない。
――オオオオオオ………………。
次第に、炎の威力が弱まる。
「…………」
炎が鎮火して、落合は恐る恐る目を開く。
――高峰の姿が消えていた。
落合は目を見開いた。
辺りを覆っていた炎は消え失せて、地面には焦げた跡すら見当たらない。目の前にいたはずの高峰の姿もなく、そこはさっきまで落合がいた場所ではない。
「どこへ行った」
返事はない。
落合は声を荒げた。
「どこ行きやがったァ!」
声が、木霊する。
帰ってくるのは、波のような自分の声ばかり。
「…………」
落合は辺りを見回した。
「どこ行きやがった」
落合は歩き出した。
歩きながら、辺りを注意深く窺った。
「…………」
さきほどまでと、違う場所。
何もない場所だった。広さは、車二台が充分擦れ違えるくらいで、奥行きは三十メートルほど。周囲を二メートルくらいの壁が囲んでいる。
「どこだ、ここ」
辺りをよくよく見ながら、落合は先へと進む。
突き当りまで行くと、左手に通路があった。
「……」
落合は中へと進んだ。
さっきよりも広い空間に出た。上には屋根がついていて、どうやら何かの工場の中らしい。まだ使われているのか一見しただけではわからないが、相当古いものだということぐらいは判断できる。
落合は辺りを見渡す。
「どこだ」
鉄の柱が建物全体を支えて、その柱も年月のせいで薄汚れている。あちこちに機材が転がっているが、何に使うものかはわからない。
その光景に、落合は妙な違和感を覚える。
「どっかで見たことあるような気はするんだが、どこだったかな」
この工場を、この中を、落合はどこかで見たことがあるような気がする。しかし、それがどこで、いつの頃なのか、思い出せない。
――気のせいか?
落合はすぐに頭を横に振る。
――いや、違う。
どこかで見たことがあるはずだ。
どこかで体験したことがあるはずだ。
この光景を。この場所を。
――どこだったか。
思い出せないことに、無性に腹が立ってくる。そんな自分に、さらに焦りを感じる。異常な、焦燥感。
「うわっ、でっけー!」
声がして、落合は振り向いた。
落合が入ってきた入り口に、人の姿が見える。背丈は小さく、年は小学校低学年ほどだ。そこから、ぞろぞろと子どもたちが中へと入ってくる。
「子ども?」
落合は不審に思って、子どもたちの動きを観察する。
子どもたちは興味ありげに辺りを見回す。
「広ーい」
一人が感嘆の声を上げる。
あとの子どもたちも、みな驚いたように口々に叫ぶ。
「すげーな」
「なんだ、ここ」
「いろんなものがたくさんある」
「すげーすげー」
「何するところなんだろー」
「あれ何だ」
「誰もいないのかなぁ」
「これ動かないのか」
「こっち動かしてみようよ」
「わ、あぶね」
「あはははははっ」
子どもたちは思い思いにはしゃぎ回る。
真上を見上げるもの、下を向いて何かを探すもの、機材に近づいて触ろうとして触れないもの、機材に触って遊んでいるもの、大きな機材を何人かで動かそうとするもの、工場の中をただ走り回ってるもの、実に様々だ。
一人が落合の後ろを指差した。
「あっちに階段があるぅー」
子どもたちの視線がこちらに集中する。
落合も振り返ってみた。三十メートルほど後方に、一人分くらいの幅の狭い階段があった。鉄の板を組んだだけの簡素な作りで、あまり頑丈そうには見えない。
子どもたちの中から歓声が上がる。
「上行ってみようぜ」
その声を合図に、子どもたちが一斉に駆け出した。
足音に気付いて、落合は振り向いた。子どもたちの集団が、すぐそばまで迫っている。
「おいっ……!」
慌てて避けようとしたが、あまりの人数に落合は背後から来た一人の子どもに気付かなかった。
――ふわっ。
子どもが自分の体をすり抜ける。
「……!」
落合の体は硬直した。
そんな落合の様子には構わず、子どもたちは落合の体を通り抜けていく。いや、そもそも落合の姿など、見えていないようだ。
「これは…………」
子どもたちは階段を上って二階へと進んでいく。
二階は大人二人がギリギリすれ違えるくらいの幅で、手摺が備え付けてあったが、子どもたちの身長には高すぎる。
「待ってよー」
背後から声が聞こえて、落合は振り返る。
まだ子どもがいたらしい。落合はその子どもの姿を見て、愕然とする。
「お前……!」
迷彩のズボンに、真っ黒い服、半袖、半ズボンのはずなのに、サイズが合っていないのか、服が大きく見える。
慌てていたのか、子どもは躓いてその場に倒れ込む。今にも泣きそうな顔をしているが、涙をぐっと堪える。
落合はその子どもをじっと見つめる。
「…………俺?」
口から、自然と言葉が漏れる。
――子どもの頃の、俺だ。
落合はさっと辺りに視線を走らせる。
鉄筋で固められた工場、ガラスの割れた窓、二階へと続く階段、一階に並ぶ大きなタンクと機材。
「まさか……」
落合が言いかけて、そこに子どもの声が割って入ってくる。
「みんな待ってよー」
子どもは起き上がって、二階にいる子どもたちに声をかける。
「なんだよ、昭伍」
子どもたちは下にいる昭伍に目を向ける。
昭伍は精一杯に叫ぶ。
「僕にも見せてよ」
子どもたちの声は、しかし冷たい。
「ダメー」
「お前はこっち来んな」
昭伍は大声で訊いた。
「なんでー?」
子どもたちは無邪気な声で返す。
「昭伍には見せてやんないよ」
「昭伍には上らせてやんないよ」
「昭伍くんは来ちゃダメなんだから」
「昭伍は外で待ってな」
それでも昭伍は納得しない。
「えー、嫌だよ。僕も仲間に入れてよ」
子どもたちはからかうようにはやしたてる。
「ダーメー」
「昭伍は入れてやんないよー」
「ちびすけちびすけ」
昭伍は怒ったように叫ぶ。
「ちびじゃないよ」
子どもたちは気にした様子もなく、揶うのをやめない。
「お兄ちゃんがいないと何もできないくせに」
「ほら、早く外で待ってろよ」
一人が上からネジを投げつけてきた。
「うわっ」
昭伍は咄嗟に避けて、その拍子にまた転んでしまう。
二階から子どもたちの笑い声が聞こえる。
「ほら、先行こうぜ」
「そうしよー」
「ねえ、待ってー」
子どもたちは奥の部屋へと姿を消した。
一人残された昭伍は悔しそうに呟く。
「なんだよなんだよ。みんなして」
昭伍は立ち上がって、ズボンのポケットからライターを取り出した。
落合はそのライターを注視する。どこにでも売っている百円ライター、だが小さな子どもが持っているような代物じゃない。
しかし、落合は知っている。何故昭伍がライターを持っているのかを。
落合には十、年の離れた兄がいる。大学に進んで家を出て以来、会っていない。十歳も離れているため、兄と遊んだ覚えはない。会話らしい会話も、した覚えがない。
兄は高校生の頃には煙草を吸っていた。もっと前から吸っていたのかもしれないが、そんな昔のことは記憶にない。そのせいで、兄は冗談半分に子どもの落合に煙草やライターの類を差し出してきた。
他にも、エアガンやナイフなんかも見せてもらったが、落合は特にライターに惹かれた。どうしてそこまで興味を持ったのかはわからない。たぶん、火というものに、惹かれるところがあったんだろう。
――カチッ、カチッ。
昭伍は火をつけた。
「うわぁ」
火に魅せられたように、昭伍は火を見つめる。
ライターの中に溜まった油を燃やして、火は橙色に輝く。
落ち着いてきたのか、昭伍はキョロキョロと辺りを見渡す。
「僕はここを探検してよ」
歩きながら、昭伍はいろいろなものに近づいていった。
工場を支える柱、使われていない鉄柱、何かの液体が入ったバケツ、置き去りにされた作業衣。昭伍の瞳に巨大なタンクが映る。
「あのでっかいのはなんだろう」
昭伍はそのタンクへと近づいた。
近くで見ると、その迫力に圧倒される。幅は一メートル半、高さは五メートルくらいあるだろうか。巨大なドラム缶を思わせるそのタンクは、昭伍から見れば巨大な鉄の塊だった。
「うわぁ」
昭伍はしばらくタンクを見上げた。
今までに見たことのない形だ。それがこんなに近くにある。昭伍は好奇心の目で見上げた。興味を惹かれる。
「何に使うんだろう」
昭伍は必死に背伸びしてみたけれど、疲れたのかすぐに踵をおろす。
「上からじゃないとわからないや」
そうは言ってみたが、昭伍は上には行けない。他の子どもたちに止められている。上へ行こうとすれば、またすぐに邪魔されるだろう。
昭伍は仕方なく、タンクの周りを歩いてみることにした。
「……」
歩きながら、昭伍はタンクを見上げる。やっぱり迫力がある。ずっと見ていても、少しも飽きない。
――コツン。
何かに躓いて、昭伍は倒れそうになるのをなんとか堪えた。
「うわっ。やっちゃった……」
昭伍は目の前の光景を見て、顔を曇らせる。
昭伍がぶつかったのは、床に置かれたバケツ。その中にはまだ中身が入っていたのか、床一面に液体が広がる。
最初は慌てていた昭伍だったが、その奇妙な液体を見ているうちに、自然と近づいてよくよく眺めるようになった。
「なんだろ、これ」
しゃがみこんで、その液体の中に指を突っ込んでみる。
指に付着したその液体は真っ黒で、妙にネバネバしている。液体のついた指を顔の近くまで持ってきて、その臭いが鼻腔を刺激した途端、昭伍の顔が不快なものへと変わる。
「くさっ」
液体のついた指から、昭伍は反射的に顔を背けた。その反動で、昭伍の体は後ろのほうへと倒れた。
――ジュ。
その音は、昭伍の耳には届かない。
――ゴオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォ!
辺りが急に明るくなって、昭伍は目を開いた。
「!」
その光景に、昭伍の目は釘付けになった。
一面に炎が広がっている。
「あ、あ、あ、あ…………」
昭伍は炎から離れようと、もがくように手を動かした。
そして、気付いた。
自分の右手から、ライターがなくなっている。
「あ、あ、あ、あ…………」
昭伍は広がる炎を見つめる。
炎が、目の前をじわりじわりと灼いている。
「うわあっ!」
昭伍は飛び上がって、燃え盛る炎から一目散に逃げ出した。
昭伍の姿が、落合の体をすり抜ける。
「おいっ」
落合が振り返った、瞬間。
背後で爆音が響いた。
「!」
落合は、振り返る。
――視界が炎に覆われていた。
工場は、跡形もなく、なくなっている。目の前に広がるのは、辺り一面を覆い尽くす灼熱の炎と、火炎の中から見え隠れする砕けた鉄の柱、そして赤く輝く真っ黒な雲。
あとは、なにもない。
――酷い事故でしたね。
声が聞こえて、落合は振り返った。
そこには昭伍の姿があった。膝を抱えて座り込み、その周りを何人もの大人たちが囲んでいる。
「物凄い大火事で」
「何かが爆発したんじゃないか」
「もう使われていない工場らしいよ」
「近々取り壊す予定で」
「石油の精製工場なんだって」
「きっとガソリンが爆発したんだわ」
「でも何で火がついたんだ」
「子どもたちが悪戯したんでしょ」
「そんなところに子どもだけで遊びに行かせるなんて」
「ちゃんと見ていないと」
「子どもは何をするかわからんから」
「キャー、恐い」
「近くの家にも火が移って」
「一日中燃えていたそうよ」
「お気の毒に」
「怪我人も出たようだし」
「中にいた子どもたちは」
「一人を除いて、皆行方不明だ」
「まだ捜索中らしいけど」
「もう死んじゃってるでしょ」
「工場の中にいたら、まず助からないだろう」
「遺体で出てくるのかしら」
「かなり大きな爆発だからな」
「全部灼けちゃって、見つからないんじゃないかしら」
「かわいそうにね」
「まだほんの子どもなのに」
「お子さんを亡くされた御両親はかわいそうだわ」
「――でも、良かったな」
大人が呟いた。
「一人だけ助かって」
その声に賛同するように、大人たちが口々に呟く。
「良かったな」
「本当に良かった」
「あの爆発で生き残ったなんて」
「信じられないわ」
「不幸中の幸いですわね」
「ご無事でなによりです」
「良かったな」
壊れたステレオラジオのように。
「良かった」
「よかった」
「ヨカッタ」
声が充満する。
「よかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったよかったヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタヨカッタ…………!」
落合は耳を塞いだ。
「黙れええええぇぇぇぇエエエエエエエエっ!」
二つの声が、重なった。
声が止んで、辺りは静寂に包まれる。大人の姿も、昭伍の姿もなくなった。誰もいない、落合だけの空間。
しかし落合はまだ耳から手を放さない。何かに怯えるように、何かから逃げるように、落合は固く目を閉じて、全てを拒絶している。
落合はゆっくりと瞼を上げる。
「…………」
落合の目には、しかし何も映ってはいない。
周囲には何もない。工場も、子どもたちも、燃え盛る炎も、大人たちも、そして、昭伍の姿も。辺りに広がるのは、色を失った真っ黒な世界だけ。
落合は自分の耳から手を放して、放心したように顔を上げる。
「…………俺のせいじゃない」
落合は呪詛のように呟く。
「俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない…………!」
落合は真上を見上げた。
真っ青な空が広がっている。青く、ただ青い、澄んだ空。白い雲が漂い、穏やかな風が肌を心地よくくすぐる。
落合は、ただその青い空を見上げた。何も感じず、何も考えず、何もかも忘れて、その青い空を見上げた。
だから、気付かなかった。
――目の前に広がる瓦礫の山を。
黒ずんだ柱、崩れた壁、灰と化した真っ黒な塵。何もかもを失って、何もかもを奪われた、荒廃した景色。
「そうさ……」
落合は自分の手元を見つめた。
「俺のせいじゃない」
広げた手、その右手の上に、一本のライターがあった。
「全部、こいつが悪いんだ」
落合はライターをつけた。
――カチッ、カチッ。
真っ赤な炎が、ライターの上に点る。
「こいつのせいで…………」
温かい光、全てを優しく包み込む炎に、落合の心は次第に平静さを取り戻していく。平常の自分、いつもの自分。
「はは……」
温かい炎を感じながら、自然と笑みが漏れてくる。妙な安心感と、それと、言いようのない高揚感。
満たされていく。
自分の中が満たされていく。
――何に?
そんなことはどうでもいい。
何でもいい、自分が満たされていく。
満たされるだけで、自分は満足だ。
「ははははっ…………」
笑い声が止まらない。
そして、落合は気付かなかった。
ライターの火は、落合の体に引火して、一瞬にして自分の身体を呑み込んでいく。
熱くはない。痛みもない。苦しみもない。
ただ満たされている感情だけが、落合を包んでくれる。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははっ、あはははははははははははははははははははっ……!」
そう、壊れた。
――オレノセイジャナイ。
周囲で炎が燻っている。炎は地面を灼いて、空気を熱する。熱気を帯びた炎が辺りを赤く照らしている。
炎の周りには、何もない。破壊されたビルの塊、粉々に散った瓦礫の山、割れたガラスは熱で溶けて、赤い空気の中に消えていく。
炎の中に、二つの人影があった。
一人は、少年だった。年は若く、まだ中学生くらい。目立った外傷はないが、少年はその場に倒れて意識を失っている。
それだけではない。少年の顔は、恐怖に歪んでいる。何か恐ろしいものでも見たかのように、口元は大きく引き攣って、瞼は恐怖に駆られてか、大きく開いている。その歪んだ目からは、人間らしい生気を感じられない。感情を失ったような、人形のような大きな瞳。
もう一人は、少女だった。少女は、その倒れた少年を上から見下ろしている。服は土で汚れて、体にも傷跡が見受けられる。
感情らしい感情を排したような、無感動な表情、意志の乏しい口元に、何も感じない大きな瞳が特徴的だった。感情を感じられない少女も、端から見ると人形の、日本人形のように見えるが、その異様に大きな瞳には生気が感じられ、その瞳からは見るものを惹きつけるような、不思議な魔力が宿っている。
「――それが、あなたの過去」
高峰は落合を見下ろしながら、小さく呟く。
「友達を失った、自分のせいで。炎に灼かれる友達を見ながら、自分だけが助かった。それ以来、放火を繰り返すようになった」
ライターを片手に持って、夜の町を徘徊する落合の姿。適当な場所を見つけては、人のいないのを確認して火をつける。その繰り返し。
落合が狙ったのは、特に民家が多かった。人がいる場所を、好んで落合は火をつけた。そのせいか、人気のない空家や建物には火をつけたりしなかった。
高峰は静かに続ける。
「あなたは、火に恐怖している。――あたしと同じように」
辺りを覆い尽くす炎の海。
柱を灼いて、天上を灼いて、床を灼いて、全てを灼いた、火。全てを奪った、炎。火炎は全てを破壊する。
「でも、あたしとあなたは違う」
高峰は目を細めて、落合を見下ろす。
「あなたにとって、火とは罪」
何ものにも、罪はない。
罪を持つのは、人だけだ。
「自らが犯した過ち。大勢の命を奪った大罪を、凶器へと転嫁した。火は凶器、あなたが放った凶器に、あなたは自らの罪をなすりつけた。友達殺しの大逆を、全て火のせいにした」
人の命を奪う。
簡単に。
自分の行いがどれほど愚かだったのか。どれほど軽率だったのか。事が大きくなって、初めてそのことに気付く。気付いたときには、もう手遅れ。
どんなものにも、危険は潜む。そのことを知っていても、自分の不注意から事故を起こしてしまったら、それは――。
理解っていないのと同じだ。
「罪から逃れた」
罪は消えない。
「許されたかった」
許されるはずもない。
「でもそれは所詮、ただの自己擁護。偽りの真実。あなたはその嘘に耐えられなかった。だから、放火に奔った」
生きているのではない。
生き残ってしまった。自分だけ。
何故自分は生きているんだ。何故自分は助かったんだ。何故自分じゃないんだ。何故他の人たちなんだ。
自分が消えていれば、よかったのに。
自分がいなくなってしまえば、こんなに苦しまずに済んだのに。
早く自分を断罪してくれ。
自分の罪を、誰でもいいから見つけてくれ。
「火に罪を押しつけなければいけない。火に罪を背負ってもらわないといけない。でもそのためには、火が罪であることを、その目で認識しなければならなかった。だから火をつけて、火が罪であると思い込む必要があった。火は、人の命を奪う、罪の塊。罪の全て。そんなあなたの妄信が、自己弁護のための言い訳が、火を凶器にした。あなたを狂気へと変えた」
自分の罪を消すために、火を犠牲にする。
しかしそれは新たな罪へと火種となって、罪は瞬く間に広まっていく。拡散していく罪を、また新たな罪で塗り潰す。
罪を罪で償うということは、さらに罪を重ねるということ。一生消えない罪を、自らに科すということ。
罪は生まれ、また罪を生む。
罪は、永遠に罪しか生まない。
「罪から逃れようとして火に全てを転嫁して、その罪を真実にするために放火を繰り返す。あなたは火を纏い続ける。結局――」
高峰は落合から顔を背ける。
「――あなたは、火から逃れられなかった」
高峰は倒れた落合に背を向けて、歩き出した。
しかし、数歩歩いたところで、高峰は気を失い、その場に倒れた。




