第二楽章 除け者
――サア、ハジメヨウ。
若草は目を開いた。
ベッドから飛び起きると、素早く着替えて帽子を被り、コートを羽織って机の上に置かれた携帯電話を掴むと、廊下へと出た。
――バタン!
ドアの音が二つ、重なって聞こえた。
廊下を挟んですぐ右斜め前方、その部屋のドアが開いている。そこから一人の少女の姿が覗いて見える。
白いシャツを着て、黒いスカートを膝頭が隠れるくらいまで垂らしている。横に長い眼鏡をかけて、そのせいか生真面目な印象を与える。
二人の視線が、重なった。
「……」
「……」
若草はすぐに人の良さそうな笑みを浮かべる。
「やあ、一条くん」
「呑気に挨拶をしている場合ですか」
一蹴された。
若草はズレた帽子を被り直す。
「気が付いたかい」
一条は冷たい声で答える。
「すでにMASKSを引退された総指揮官が感じ取れるのです。私が気付けなかったら、総指揮官補佐失格です」
若草は苦笑する。
「それもそうだね」
若草が廊下に出て扉を閉めると、一条も同じように扉を閉めた。若草は早足で歩き出して、一条がその横にピタリとつく。
「位置はわかるかい?」
歩く速度を緩めずに、若草は一条に訊いた。
「声だけしか確認できていません。それに――」
一条は眼鏡の奥で瞳を細める。
「気配が、増えています」
若草は無言で聞いた。
一条は続ける。
「榊原樹の居場所を見つけるのは、少し困難です。今から、探索をして……」
一条が顔の前に右手を伸ばす。
――すっ…………。
その手を、若草が掴む。
一条は若草のほうに視線を向ける。
「いや、まだ必要ない」
若草の顔が一条の瞳に映る。
若草の口元はいつものように微笑を残していたが、目は真剣そのもので、少しも笑っていない。
「…………」
一条は黙って右手を引いた。
若草はすぐに携帯電話を開いて、急いでボタンを押す。何度が数字を押して、その後で決定ボタンを押した。
一条は目で若草の指の動きを追った。
「連絡なら、私がします」
「いや」
若草は、一条のほうは見ずに答える。
「メールでは遅い。私が直接この地域のMASKSたちに連絡する」
「では、私が全体確認を行います」
一条は右手に携帯電話を持って、歩きながら画面を見つめる。
「お願いするよ」
若草は廊下の角を曲がった。
そこにエレベーターが二つ並んでいる。若草は迷わず上へ向かうボタンを押して、すると少しも待つことなく扉が開いた。
二人はエレベーターに乗り込んだ。若草は屋上のボタンを押して、扉を閉じる。
「…………」
「…………」
静かに、エレベーターは上昇していく。
「みんな起きたかい?」
「あと少しです」
一条は携帯から目を離さずに答える。
体にかかる重力を感じながら、五秒ほどでエレベーターは目的の場所に到着する。扉が開くと同時に、若草はエレベーターを降りる。一条もそのあとに続く。
廊下を進み、目の前に扉が現れる。金属が露出した、無骨な扉。
――ガチャ。
扉を開けて、若草と一条は屋上に出た。
――ブオォ!
風が吹いた。
「……」
帽子を押さえながら、若草は先へと進む。
外枠の手摺まで辿り着いて、若草は下界を見下ろす。
周囲は民家と田畑に囲まれて、明かりはほとんどない。暗闇がこの空間の大部分を支配している。
若草の視線の先、遠くのほうで光が見える。ビルや街灯の明かりだろうか、そこに人が密集しているらしい。
若草は振り返る。
「もう大丈夫かな?」
一条は携帯の画面を凝視したまま答える。
「一人から、反応がありません」
「誰だか、わかるかい」
「雨宮海斗です」
一条は即答する。
「…………」
若草は困惑の表情を浮かべる。
「いいさ。彼も、きっと起きているだろう」
若草は正面へと向き直り、自分の携帯電話を開く。
「MASKS総指揮官、若草宗助だ」
数回ボタンを押して、マイクに向かって声を発する。今、若草の声はこの付近の地域にいるMASKS全員に向けて発せられている。
「真夜中にすまない。けど、緊急事態だ」
柔らかい口調で話してはいるが、普通若草からMASKSに直接連絡がいくことはほとんどない。多くは補佐を勤める一条から連絡がいく。
「全員、直ちに戦闘態勢に入ってほしい。――榊原樹が現れた」
緊張を押し殺した声でいったものの、これを耳にしたMASKSの動揺は大きいはずだ。榊原樹――組織に反逆する存在――については、全てのMASKSが把握している。
「榊原樹の位置はまだこちらでは把握していない。わかったら、また連絡する。君たちの中で、榊原を発見したものは、速やかに一条くんまで報告してくれ」
また、と言って若草は続ける。
「町では、フラストの大量発生が予想される。以前通達したように、二組ペアで行動するようにしてもらいたい。独断行動は、極力控えるように。まだ確認されていないが、榊原の仲間である『フルセルフ』の出現も考えられる」
フルセルフのことも、この地域に配属されているMASKSなら全員がその報告を受けている。
フルセルフ、フラストやトレストに次いで確認されている第三の存在。心だけの塊であるフラストとは異なり、体を持ち、それでいて心の領域を解放することができる。その面では、MASKSに近い。
ただし、MASKSと違うところは、仮面を外すことがないこと、そして敵であること。今のところ、若草が受けている報告ではフルセルフは二体だけで、どちらもすでに倒されていて、再度現れる心配はない。
しかし。
――榊原が、計画を実行した。
何の守りもなく、榊原が組織に敵対する行動を起こすだろうか。
――まだ、いる。
若草は携帯電話に向かって、さらに続ける。
「ただし、フラストやフルセルフを倒すことも重要だけど、最優先してもらいたいのは、榊原の抹殺だ。…………榊原を発見次第、すぐに一条くんまで知らせて欲しい。以上だ」
そこで通話を切った。
若草は一息ついた。
「やはり雨宮海斗から受信確認の連絡はありません」
携帯の画面を確認しながら、一条が口を開く。
若草は帽子の下から額を押さえる。
「雨宮くんについては、後で対応するよ」
一条は携帯電話を閉じて、ポケットに仕舞う。
「榊原の居場所を割り出します」
「いや――」
若草は顔を上げる。
「おそらく、あそこだ」
若草は町の方角を見たままだった。
一条はいつもの冷たい目で若草を見つめる。
「心当たりが、あるのですか?」
若草は答えない。
ただ、疲労を滲ませた声を漏らすだけだ。
「困ったね。DECORATEから、まだ武器の追加が届いていないのに。こんなに早く、榊原が動き出すなんて、ちょっと予想外だ」
「使わないでください」
若草は振り向いた。
一条の鋭い視線が若草を射抜く。
「『フラッシュバック』は」
「……わかってる」
若草は自嘲的な笑みを浮かべる。
倉橋はベッドから落ちた。
――ドサッ!
その衝撃で、倉橋は目を覚ました。
「い、たいわー……」
暗闇の中で、倉橋は上半身を起こす。
落ちた場所、床の上にいるはずなのに、妙に凹凸が激しい。倉橋は自分の足元を見ようともしない。見なくても、倉橋にとってはそれが普通の光景だ。
床一面にいろいろなモノが散乱している。雑誌、お菓子の袋、コンビニの弁当、ペットボトル、普段着から、下着まで、ありとあらゆるものが、その場に置かれたまま放置されている。
整理整頓されて置かれているのならまだいいが、この部屋の状態を見る限り適当にモノが置かれたままで、片付けられた形跡はない。モノが溢れかえっているせいで、床が見えない。足の踏み場もないはずなのに、倉橋はモノの上をいつも平気で歩いている。
どこかで音が聞こえる。
「……」
倉橋は辺りを見回す。
高い音だ。神経を裂くような不快な音。音量はそれほど大きくないが、しかし妙に耳にこびりついて離れない。
ハウリングしたように、音は振動して、鼓膜を執拗に揺さぶる。耳孔に吸収された高周波の音は電気信号になって、倉橋の聴覚野を刺激する。寝起きのせいもあって、いつまでも聞いていると頭痛がしてくる。
「なんねん。全く」
倉橋の体は無意識に音のするほうへと進んでいく。ゴミも必需品も混ざり合った床の上を掻き分けて、倉橋は自分の携帯電話を手に取った。
「……」
仏頂面で画面を開いて、そこに映し出された文字を見て、途端、倉橋の意識は一気に覚醒する。
「若草はんや」
倉橋は慌てて携帯電話のボタンを押す。
同時に、携帯からのアラームが止んだ。
「…………」
若草からの連絡、しかも口頭伝達。これが何を意味するのか、MASKSの中で知らないものはいない。
『MASKS総指揮官、若草宗助だ』
一分ほど待って、携帯から若草の声が聞こえた。
倉橋はいつになく緊張した様子で、携帯電話を凝視する。
『真夜中にすまない。けど、緊急事態だ。全員、直ちに戦闘態勢に入ってほしい。――榊原樹が現れた』
「……!」
倉橋は驚愕した。
榊原樹、その名前を倉橋は知っている。倉橋だけではない。この地域のMASKSならば、誰もが耳にしている、倉橋が所属するMASKS、それを所有している組織に敵対している人物の名前だ。
若草の声は続く。
『彼の位置はまだこちらでは把握していない。わかったら、また連絡する。君たちの中で、榊原を発見したものは、速やかに一条くんまで報告してくれ。また、町では、フラストの大量発生が予想される。以前通達したように、二組ペアで行動するようにしてもらいたい。独断行動は、極力控えるように。まだ確認されていないが、榊原の仲間であるフルセルフの出現も考えられる。ただし、フラストやフルセルフを倒すことも重要だけど、最優先してもらいたいのは、榊原の抹殺だ。榊原を発見次第、すぐに一条くんまで知らせて欲しい。以上だ』
ぷつりという電子音とともに、若草の声が切れた。
「…………」
倉橋は携帯を見つめたまま、動かない。
榊原樹、最近のフラスト大量発生に起因すると思われる人物。元組織の人間で、組織を抜けて独自に組織と対抗するためのグループを形成している。
――榊原樹が現れた。
倉橋は突然立ち上がった。
「ぼけっとしとる場合かい!」
倉橋はズボンのポケットから手袋を取り出して、右手に嵌める。甲の部分に反射シールがついていて、指の部分に穴が開いているタイプの手袋だ。
倉橋は急いで部屋を出て、アパートの自室から飛び出した。ズボンのポケットから鍵を取り出して、鍵を閉める。鍵がかかったことを確認すると、倉橋はそのまま駆け出した。
「いよいよ敵さんの登場や」
倉橋は顔の前に左手を翳し、そして退かした。
倉橋の顔の左側に、仮面が現れた。夜闇よりも暗い、漆黒の仮面。街灯に照らされても、その仮面は決して色を反射しない。
「すぐに見つける」
倉橋は路上に出ると、地面を蹴って宙を舞う。壁伝いを蹴り進んで、アパートの天辺に立つ。そこから、倉橋は町を見渡す。
「…………」
通りには街灯が点り、そのせいで少しは明るく見えるが、民家には一つの明かりも見当たらない。人々が寝静まった、夜の町。
「なんだ、これは」
倉橋の顔に、明らかな驚愕の表情が滲む。
「気配が多すぎる」
倉橋はアパートから飛び降りて、民家の上を移動する。家と家の間隔は充分に開いていて、普通は飛んで渡れる距離ではない。倉橋は、しかし、屋根から屋根へと軽快に移動していく。
数百メートルほど移動して、倉橋は立ち止まる。
「…………」
じっと黙って、何かを感じ取ろうとしているようだが、やがて諦めたように舌打する。
「変わらないか」
辺りは、フラストの気配で満ちている。
倉橋がフラストの存在を感知できる範囲は、だいたい半径百メートルから一キロメートル。フラストが体の世界に現れていれば、より遠くの位置にいてもわかる。
フラストの正確な位置までは倉橋にも特定できないが、かなりの数が周囲にいることはわかる。いつ遭遇しても、おかしくない。
「…………」
倉橋は注意深く気配を読む。
――倉橋の背後に、黒い影が立つ。
背丈は倉橋の倍以上、その体躯に相応しい太い腕に、鋭い爪。
――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!
化物は右腕を振り下ろす。
あまりの勢いに、風が吹いた。
「……?」
手応えはない。
化物は不思議に思って右腕を上げた。直前までいたはずの倉橋が、忽然と姿を消している。
「こっちだ」
化物は振り返った。
化物の背後に、倉橋が立っている。倉橋の右腕は僅かに光を帯びていて、そして、倉橋の右手は化物の背中に触れている。
――ドンッ!
光が解放され、同時に衝撃音が響く。
化物の体が、一瞬、光を放ち、しかし辺りはすぐに闇に包まれる。
「オ、オオオオアアアアアアアアアアッ!」
化物が咆哮する。
耳を劈くような、痛ましい高周波。
――ピキ。
瞬間、化物の体中に亀裂が入る。
――パン!
断末魔を残して、化物は破裂する。
闇色の破片は夜の中に散って、跡形もなく溶けるように消えた。
倉橋は警戒するように、辺りを窺う。
「早く移動したほうがいい」
倉橋は屋根の上から飛び降りる。
屋根の上のほうが障害物はなく、また人と遭遇する心配もないので、できるなら歩道は使いたくないのだが、なにしろフラストの気配が多すぎる。
フラストが建物の影に隠れていた場合、こちらからは相手の姿が見えないのに、相手からはこちらの動きが丸わかりなのは都合が悪い。それに、屋根から屋根へ移動する際に襲われたら、咄嗟の反応に遅れてしまう。
倉橋は道の上を駆けて進む。
ただ、目的は定かではない。
見つけなければならない相手は、榊原樹。だが、フラストの気配に妨害されて、その位置はつかめない。
MASKSの中でも普通くらいの実力しかない倉橋の索敵範囲は狭い上に、倉橋はそもそも榊原と会ったことがない。故に、榊原の気配がわからない。
「…………」
自分でもどこへ向かってるのかわからないが、一つの場所に留まっていても榊原と遭遇する確率は低い。ここは、気配のある場所をしらみつぶしにあたっていくしかない。
「……!」
気配を感じて、倉橋は立ち止まった。
――この気配……。
倉橋の体は緊張で強張っている。
――相当でかい。トレストか。
倉橋は右腕に左手を添える。
敵の気配は、前からだ。倉橋の道の先には十字路が見える。正面から現れるのか、それとも左右の道からか。
倉橋は構えたまま、じっと待つ。相手は人ではない。心から溢れ出した、暴走した化物。フラスト相手に、理性は通じない。屋根の上から襲ってくるのかもしれない。あるいは、霧の状態から突然姿を現すかもしれない。
気配が近づいてくるのがわかる。しかし、倉橋のレベルでは大体のことしかわからない。いつ姿を現すのか、全く予想がつかない。
十字路に影が伸びる。街灯が点いているので、そこだけ明るくなっている。
「!」
倉橋の右腕が光を帯び始める。
次の瞬間、十字路からそれが姿を現した。
「よお、駿か」
聞き覚えのある声が聞こえた。
その人影が見えて、倉橋は右腕から左手を離す。
「車谷先輩」
倉橋は車谷の元へと駆け寄った。
十字路の上に立っているのは、車谷だった。MASKSの一人で、倉橋とは今回チームを組んでいる。MASKSの中でも上級の実力を持ち、ホリックとして組織から正式に認められている。
街灯の下で、車谷は笑みを浮かべる。車谷は右手に金属バットを持ち、額の上には黒いサングラスがかけられている。
「まだ、生きてるようだな」
「車谷先輩は、榊原の位置がわかりますか?」
倉橋は訊いた。
車谷は肩を竦めてみせる。
「さっぱりだな。フラストの気配が多すぎて、判別がつかない」
「……そうですか」
倉橋は俯く。
車谷のほうは、しかしその猟奇的な笑みを崩さない。
「だが、なんとなくだが、目星はついた」
倉橋は顔を上げる。
「こっちの方角が、怪しい」
すっと、車谷はバットを上げた。バットの先端は、町の中心を指している。
倉橋は首を傾げる。
「何故、そっちが?」
「俺はさっきからこの町中を走り回っている。そうやってわかったことが、一つだけある。気配にはムラがある」
「……と、言いますと?」
「フラストの密集している場所もあれば、逆にフラストが全然いないところもある。しかも、ここからが俺の気がついたことなんだが、町の中心に向かうほど気配が集中してくるらしい」
「じゃあ……!」
倉橋は声を上げる。
「そういうことだ」
車谷は頷く。
「フラストの気配が集中しているところ、つまりこの方角に進んでいけば、榊原のヤローが見つかる可能性が高い」
倉橋の顔に喜色が広がる。
「行きましょう」
「ったりめーだ」
二人は駆け出した。
途中で、何体かのフラストと遭遇したが、二人はフラストを倒しながら先へと急ぐ。フラストの数は、明らかに多い。普段なら一日一体、多くても三体くらいだ。それが、今日に限ってはすでに十体近いフラストと遭遇している。
何かいつもと違う。
そして、その原因ははっきりしている。
二人は山道を進んでいた。上り坂が続き、道は舗装されているが、辺りは緑に囲まれている。道も狭く、蛇行が多い。車でも通るのに困難な道だが、二人は頂上まで十分くらいで駆け上がる。
突然、目の前が開けた。緑が裂けて、街灯も幾つか立ち並び、辺りの様子がはっきりとしてくる。
目の前に鉄橋が見える。山が裂けていて、向こうを繋ぐために大きな橋が架けられている。しっかりと作られていて、そう簡単には壊れそうにない、頑丈な橋。二人はその鉄橋の上を進もうと、足を速める。
瞬間、先を行く車谷が足を止めた。
「っ!」
「止まれ」
前を塞がれて、倉橋も急ブレーキをかける。
「……どうしたんですか?」
倉橋が困惑したように車谷を見上げる。
車谷は前方を見つめたまま呟いた。
「おかしい」
倉橋は辺りを見渡す。
目の前には巨大な鉄橋があるだけで、他には何も見当たらない。フラストの気配はあるが、その姿はどこにも見えない。しかし、それは別段不思議なことではない。フラストは元々、心の世界の住人、心のエネルギーの塊でしかない。姿を悟られないように、存在を隠している可能性がある。
わけがわからず、倉橋は首を傾げる。
「何が、ですか?」
「…………俺は、ここにトレストが何匹もいると思っていた」
車谷は口を開く。
「数や位置まではわからなかったが、それだけの気配があった。トレストが五匹ぐらい、そこら中で待ち構えているんじゃないかってな。だが…………」
車谷は一度言葉を区切り、そして続ける。
「ここには、一匹の気配しかない」
言われたところで、倉橋には敵の数などわからない。しかし、MASKSの中でも上級の実力を持っているホリックである車谷が言うのだから、間違いないはずだ。
倉橋は改めて橋の上を注視して、そして明かりに照らされる一つの影を見つけた。
「車谷先輩、あれ」
車谷も、その存在を見つける。
橋の向こう側に、人の影があった。遠くて、細部まではわからないが、橋の中央にぽつんと一人で立っている。
倉橋は訝しんで、その人影を凝視する。
「人……?」
もう夜も遅い。この場所は民家から離れて、普段は人が通るような場所ではない。その橋の上にいるのは、確かに一人の人だ。
「何で、こんなところに人が…………」
「おい、駿。お前まだ気付かねーのかよ」
言われて、倉橋は注意深く橋の上を眺め見る。
ここにはフラストの気配がある。それも相当な大きさだ。車谷が言うように、トレスト五匹、いやそれ以上にも匹敵するくらいの膨大なエネルギーの塊。
しかし、辺りにフラストの姿はなく、代わりに見えるのは橋の奥で佇む一つの人影のみだ。たった一人の姿だけ。
倉橋の頭に一つの考えが浮かび上がる。
「まさか……!」
思いついた瞬間、倉橋はその発想を瞬時に受け入れることができなかった。
しかし車谷は言っていた、ここにいる敵の気配は一体だけ、そして目の前には人が一人しかいない。
車谷は口を開く。
「俺たちMASKSと同様、心を解放できる人間――」
そこから導き出される答えは、一つしかない。
「フルセルフ」
車谷は手にした金属バットを握り締める。
「行くぞ。駿!」
「はいっ」
二人は駆け出した。物凄いスピードで橋の上を駆け進む。
橋の長さは百メートルを超えるほどの巨大なもの。橋の向こう側にいた少女との距離が次第に縮まっていき、二人は橋の三分の一の位置まで到達した。
瞬間。
――ボオッ。
気配が膨らんだ。
目に見えない感触が一気に橋全体を呑み込んで、その膨大な量の気配に倉橋は反射的に足を止める。今まで闇の中に隠されていたその不可視の塊が、急速に反転してこの世界に具現化される。
視界が暗転したかのように、目の前が暗くなる。
――グニョ、グニョ。
それが蠢いている。
――グニョ、グニョ。
ゼリーのような、スライムのような、流動性を持った半固体の物体。向こう側から橋の半分近くを埋め尽くして、それがグロテスクに蠢いている。色は不完全に混ざり合った暗緑色で、そこから触手のような突起物が何本も伸びてきて、二人に襲い掛かる。
「……っ!」
声を上げている暇もなかった。
倉橋は後ろに跳んで、触手の塊から距離を置く。だが倉橋よりも早く、触手の群は倉橋へと迫ってくる。
「くっ……」
倉橋の左手の回りに光の玉が浮かび上がる。大きさは野球ボールほどの大きさで、三つの玉は左の手首の周囲を回転する。
「このっ」
倉橋は左手を触手たちに向けて突き出した。倉橋の左腕から光の玉が放たれて、触手の塊に激突する。
弾けるような音がして、二、三本の触手がダメージを負ったが、それでも触手の群れの進行は止まらない。
「……!」
触手の塊が倉橋へと攻撃してくる。
直前。
――ふわっ。
倉橋の体は何かに持ち上げられるように、宙へと飛んだ。
倉橋は驚いて、背後を振り返った。
――ブオン、ブオン!
――パラリラパラリラ!
無色透明なものが倉橋の背後に並んでいる。大きな気配の塊、それが光の屈折で姿が見える。バイクに跨った暴走族の集団、そしてそれは車谷の力。
しかしそこに車谷の姿はなかった。倉橋は慌てて車谷を探したが、バイクの群の中に車谷の姿はどこにも見当たらない。
触手の群を通り過ぎた、そのとき。
「車谷先輩!」
倉橋は咄嗟に叫んだ。
触手の群の中に、車谷の姿があった。手にしたバットを振り回して、襲い掛かる触手たちを次々と薙ぎ払っていく。
「駿。テメーは先に行け」
車谷の声が、倉橋の耳に届く。
倉橋は急いでバイクから降りようとしたが、バイクに乗っている透明な人影にしっかりと掴まれて、降りることができない。
「嫌です。先輩を置いていくなんて……!」
「俺を見縊るなよ」
車谷の声が返ってくる。
そこには、恐怖も虚勢もない。純粋な自信が、その声からは感じられる。
「それに、隊長も言ってただろ。榊原樹を倒すことが最優先だってな」
倉橋を一瞥すると、車谷はすぐに正面の人影へと目を向ける。
「テメーは先に行って、榊原のヤローを見つけだせ。いいな」
その自信に満ちた声に、倉橋は妙な高揚感を覚えた。
目の前の敵は、トレスト五体以上の力を持つフルセルフ。いくら車谷がホリックといえど、そう簡単に倒せる相手ではない。やられる可能性だって考えられる。
しかし、車谷の声を聞いていると、妙に安心してしまう。もしかしたら、車谷は一人でもフルセルフを倒してしまうんじゃないか、そんなふうにさえ思えてしまうから、不思議だ。
「はい!」
倉橋は頷いて、正面を見据える。
次々と触手が襲い掛かってくるが、バイクの集団が倉橋の乗っているバイクを守るように走っていく。触手の群を切り抜けて、倉橋は橋の向こうまで辿り着き、倉橋を乗せたバイクはさらにその先まで駆けていき、闇の中へと消える。
「…………」
人影は振り向いて、倉橋の消えたほうへと視線を向ける。
「意外に思うか」
車谷の声に反応して、人影は振り向いた。
「どうして俺が、駿だけ先に行かせたか。あいつが榊原を見つけたって、きっと返り討ちに合うのがオチだろうさ」
榊原はフルセルフを従える存在。榊原がフルセルフより弱いとは、考えにくい。車谷よりも弱い倉橋が、榊原の相手になるとは到底思えない。
車谷は右手に持った金属バットを、すっと目の前の人影に向ける。
「やっぱ勝負は一対一、正々堂々じゃねーとな。二対一なんてせこい真似、俺はゴメンだ」
車谷はバットを肩へとかけて、堂々と叫んだ。
「俺は車谷徹也。仮面の名は『番長』。テメーは?」
人影のほうは、ぼそぼそと、面倒そうに呟いたが、車谷の耳にはしっかりと届いた。
「笹竹、早沙恵」
「早沙恵か。女相手だからって、手加減はしねー。覚悟しな」
車谷は不敵に笑う。
「行くぜエエエエエエェェッ!」
車谷は駆けた。
その動きを見て、辺りで蠢く触手が車谷に向かって襲い掛かる。車谷は次々と触手の群を躱して、笹竹との距離を縮めてく。
半分まで近づいたところで、目の前に大きなスライム状の塊が立ち塞がる。それは壁のように聳えたち、車谷の行く手を塞いでいる。
その壁が、まるで波が押し寄せてくるように、車谷に向かって倒れてくる。
車谷は手にした金属バットを構えて、溜めの姿勢に入る。
「そおらァ!」
車谷がバットを薙いだ。
圧縮された空気の塊がスライムの壁に衝突する。
――ブグッ!
鈍い音を立てて、スライムの壁が凹む。中央付近が、一気に十メートル近くも凹んで、そこだけ空洞ができる。
歪んだ反動で、スライムの壁が僅かに押し戻される。車谷はその場で踏み込んで、スライムの壁を飛び越えた。
「……!」
車谷は、壁の向こう側の光景を目にする。
橋の上を、暗緑色のスライムがびっしりと覆い尽くしている。粘質性の、半固形の物体が橋を包み込む様は、異様だ。排水溝の周りにこびりついたヘドロを想像させる。見ているだけで、鳥肌が立ってくる。
――ボコッ。
車谷は異変に気付いた。
――ボコッ。ボコッ。
暗緑色のスライムが、泡立っている。
――ボコッ。ボコッ。ボコッ。ボコッ。
見ているだけでもおぞましい。
ヘドロを煮立てているような、そんな不快感。
――ボゴッ!
突如、ヘドロのような膜から、触手が伸びる。それが空中にいる車谷を目指して向かってくる。
「おっと!」
車谷がバットを構える。
と。
――ごおッ!
車谷は心を解放する。
周囲の空気が、変わる。車谷の周りを何かが包み、そのせいで車谷の姿が霞んで見える。それが急速に形を帯びてくる。
――ブオン、ブオン!
――パラリラパラリラ!
音までリアルに聞こえる。
車谷の周囲に暴走族の群が現れる。過度な装飾と、限界まで改造が施されたバイクの数々、バイクに跨った色のない人の姿、必要以上に吹かしたエンジン音が喧しく、けたたましいサイレンを鳴らしている。半透明のバイクの集団が、宙に浮かぶ。
車谷はその内の一台に飛び乗った。
「行くぜェ」
アクセルを握る。
――ブオオオオオオオオォォォォンッ!
エンジンが急速に稼動して、タイヤが勢いよく回転する。半透明のバイクの群が、走り出す。バイクの集団に向かって、暗緑色の触手が襲い掛かる。
――ビー、ビー、ビーッ!
――パラリラパラリラ!
バイクの塊と、触手の群が衝突する。
触手がバイクの車輪に巻き込まれて引き千切れ、またバイクが複数の触手に捕まったりと、混戦している。
「おらおらおらおら!」
車谷は笹竹に向かって、バイクを直行させる。
向かってくる触手の群を完全に無視して、強引に接近する。近づいた触手を、車谷はバイクとバットで吹き飛ばしていく。
二人の距離が次第に短くなっていく。百メートル以上あった距離も、もう十メートルをきった。
「…………」
しかし笹竹の顔に焦りはない。車谷がすぐ傍まで迫っているのに、顔色一つ変えず、黙って車谷のほうに目を向ける。
――ボオッ!
周囲の気配が、さらに密度を増す。肌を纏わりつくような、重たい感触。生きたままコンクリートを流し込まれるような重圧が、辺りの空気を染めていく。
――ボゴッ!
周囲の触手が動いた。
車谷の乗ったバイク目掛けて、暗緑色の物体が不気味に伸びる。それも、全方向から。
「!」
車谷は異変に気付いて辺りを見渡す。
足元ばかりに意識が集中していて、車谷は気付くのに遅れた。道路だけではない、鉄橋の柱、頭上の鉄骨にまで、暗緑色のスライムが絡み付いている。
下から、側面から、真上から、粘質性を含んだ触手が一斉に、車谷に向かって襲い掛かる。周囲を囲まれて、車谷には逃げ場がない。
「はっ……!」
車谷は、しかし不敵に笑う。
――ぐっ。
車谷はアクセルに力を込める。
――ブオオオオオオオオォォォォンッ!
バイクがさらに加速する。
呼応するように、バイクの集団のスピードが上がる。笹竹のいる場所を目指して、バイクの塊が一気に加速する。
――ビュッ!
触手の群が襲い掛かる。
何台ものバイクが途中で触手に絡め取られ、バラバラに砕かれていく。バイクの数はまだまだ多いが、急激にその数を失っていく。
「このまま喰らいな――――ァ!」
車谷は構わず笹竹に向かって突っ込んでいく。迫ってくる触手を強引に振り払いながら、車谷のバイクは止まることがない。
バイクの塊が、地面に衝突する。
――ドオオオオオオオオォォォォ――――――――――――――ッン!
衝撃が、橋全体を震わせる。
白煙が上がり、二人の姿は煙の中に隠れて見えない。
「……っ!」
煙の中から人の影が飛び出した。
車谷は衝撃の反動で、路上を転がる。
「ははっ、どうだ」
勢いが納まると、車谷は立ち上がって煙が上がる方向に向かって叫んだ。
「あれだけ喰らったんだ。どんなに防御したって、防ぎきれるもんじゃねー」
車谷は豪快に笑う。
煙に隠れて、まだ笹竹の様子はわからない。ただ、あれだけの攻撃を受けたのだ。無事では済まない。
――ニュル。
車谷のすぐ横の鉄柱で、何かが動いた。蛇のような気もするが、一瞬だけだったので姿形は確認できない。だが、車谷はその存在に気付いていない。
――シュ!
鉄柱の隙間から、何かが伸びる。
「……!」
車谷は反射的にそれを躱す。続けざまに、それが何本も伸びてくる。
「何だ……!」
躱しながら、車谷はそれを見た。紐のように伸びたそれは、ゴムのようにしなやかで微かに鉄橋の人工灯を反射している。
だがその色は毒々しく、不完全に混ざり合った暗緑色をしている。
「まさか……!」
暗緑色の触手は絶えず車谷に向かって襲い掛かる。車谷は避ける一方で、反撃のチャンスが窺えない。
「ヤロ……」
車谷は手にしたバットで触手の群を薙いだ。
細い触手はバットの風圧で脆くも砕けて、車谷は体勢を立て直す。
――シュ。
その一瞬の反撃が、隙を生んだ。
――ビタッ!
一本の触手が、車谷の持った金属バットに絡みつく。
「なっ……!」
車谷が気付いたときには、触手は物凄い力でバットを引っ張り、車谷の体は一気に橋の下へと吸い込まれる。
「うわっ」
鉄橋の下には、漆黒の闇が広がっている。かなりの高さがあるらしく、暗闇のせいもあって底が見えない。落ちたら、それで終わりだ。
車谷の体は円を描くようにして、鉄橋の真下へと引きずり込まれる。
「!」
車谷は、それを見た。
――グニョグニョ。
――ボコッボコッ。
鉄橋の下を、暗緑色のスライムがびっしりと埋め尽くしている。無数の触手は絶えず蠢いていて、橋そのものが動いているようにも見える。見ているだけでもゾッとしそうな、グロテスクな光景。
――ぐんッ。
触手が車谷の体を引っ張る。そのまま、スライムの塊の中に吸い込まれていく。車谷は、反撃することも、防御することもできず、触手の群に攻撃される。攻撃を受けるたびに、車谷の体に暗緑色のスライムが纏わりついて、絡みつく。
百メートル以上ある橋の下を、車谷は引き摺られるように引っ張られていく。
「ぐっ……!」
橋の出口までやってくると、触手は車谷を橋の上に引っ張り出した。その勢いで、車谷の体は鉄柱に叩きつけられる。
「がはっ!」
車谷の体は、体中に付着したスライムによって鉄柱に貼り付けられる。さらに、その上から粘質性を含んだ触手が何重にも絡み付いて、車谷の体を縛り上げる。
「うがっ」
肺が圧迫されて、空気が漏れる。締め付けられる重圧に、体中の血管が押さえつけられる。粘液が体の上から張り付いているために、身動きが取れない。
下のほうから声が聞こえてきた。
「これで、終わりですね」
車谷は視線を落とす。
笹竹の姿が見える。車谷を見上げるその瞳は、どこか感情が欠落したように見える。
「莫迦言えっ」
車谷は腕に力を込める。
体に纏わりつくスライムの塊を引き剥がそうとしてみるが、体は少しも動かない。
「この……」
何度も繰り返してみたが、結果は同じだった。強度の粘着性と異常な重圧に、車谷は動くこともままならない。しかも、力を使うたびに体力を消耗して、体が圧迫されているので息が苦しくなる。呼吸が困難になり、さらに力が入らない。完全に悪循環だ。
「諦めたほうがいいです」
笹竹は静かに口を開く。
「今あなたは私の近くにいます。私に近いほど、私の力は強くなります。そう簡単には壊れません。それに、相当な量を巻きつけました。どんなにあなたの力が強くても、もうそこから抜け出すことはできません」
その言葉に、しかし車谷は不敵な笑みを浮かべる。
「そうかよ。ならこれなら……」
車谷は心を解放する。
空気を震わせる、強烈な気配。膨大な量のエネルギーが、車谷から放たれる。
「……」
だが、それだけだった。
「……!」
車谷は驚いたように周囲を見回す。
鉄橋の上には街灯の明かりが輝いて、それ以外には何も見えない。車谷と笹竹、そして暗緑色のスライムが辺りに満ちている。
「無駄です」
笹竹が静かに口を開く。
「私が絡めとるのは、体と心の自由。さっきみたいに、心から物体を生み出すことはできません」
車谷はさらに心からエネルギーを解放する。
エネルギーの気配はあるのだが、さきほどのようにバイクの集団が生まれることはない。目には見えないエネルギーの塊が空気中へと霧散していく。
「くそっ……!」
何度やっても、同じだった。
車谷の周囲に何本もの触手が伸びる。いつでも車谷に攻撃できるように、暗緑色の触手はひらひらと揺れている。
笹竹は、すっと正面へと向き直り、車谷に背を向ける。
「あなたは、ここで終わりです」
誰もいない暗い廊下に、高峰は一人で立っていた。
高峰の前には、部屋が一つあった。扉は開いて、中の様子が見える。明かりはなく、廊下以上に暗い暗闇が扉の奥から漏れてくる。
「……」
高峰は中へと入っていく。
部屋の中にあるのは、机とベッドと旅行用の鞄。ベッドは布団が押しのけられていて、上には女性のものと思われる寝巻きが脱ぎ捨てられている。
机の上は比較的綺麗で、何もない。
電子音が鳴った。高峰は携帯電話を取り出して中を開く。新着メールが一件追加されている。中身を開くと、メールは一条からだった。
『私は若草総指揮官と行動を共にします。あなたは直接こちらまで来なさい。場所は』
高峰は行を一段スクロールさせてその続きを見た。
「…………」
場所を確認して、高峰は携帯を仕舞う。
高峰は部屋を出た。廊下を突き進んで、エレベーターで一階まで降りると、そのままホテルの外へと出る。
「……」
辺りに人がいないことを確認して、高峰は左手で顔を覆って、すぐにその手を払う。
高峰の顔の左側面に、仮面が現れる。赫い仮面だ。燃えるように赤黒い仮面。目や口など、顔の各部位は非常に小さくて、黒いシミのようにしか見えない。
「全くぅ、勝手なんだからぁ」
高峰は口を開く。
「いつも自分勝手ぇ。少しはあたしのことぉ、考えてもらいたいなぁ」
高峰は上着のポケットから扇子を取り出して、開いた。扇子には彼岸花の模様が描かれている。
「まぁ、場所がわかってるからいいけどぉ」
高峰は再度周囲を見渡す。
「町へ行くにはぁ、どっちに行けばいいのかしらぁ」
しばらく思案しているようだったが、行き先が決まったのか、高峰は駆け出した。
「線路に沿って行けばぁ、間違いないわよねぇ」
歩いて三十分くらいはかかるはずの駅までの道を、高峰は五分くらいで消化した。
高峰は駅舎を飛び超えて、ホームの中へと入る。掲示板に書かれた隣接する駅の名前を確認すると、高峰は町のほうこうに向かって駆け出した。
高峰は薄く笑う。
「あんまりない経験かもねぇ。線路の上を走るなんてぇ」
高峰は線路の上を進んでいく。
夜も遅いせいか、線路の上を列車が通る気配はない。民家からも明かりが消えて、辺りは静寂に包まれている。その中を、線路を走る音だけが響く。
数駅ほど通り過ぎたところで、高峰の目に緊張の色がよぎる。
「めんどくさいなぁ」
線路の上に影が見える。一つではない、複数いる。数まではわからない。大きさは皆、高峰の胸よりも低い。形も曖昧で、蠢いている様子だけは見える。黒い影の中で小さな赤い目が高峰を見つめている。
高峰は手にした扇子を左に構える。
「邪魔よぉおお!」
扇子を煽ぐ。
――おおおおおおおおっ!
目の前が炎上する。
――ギャアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッ!
悲鳴が上がった。
黒い影の群を炎が包み込み、影は次第に小さくなっていく。炎火に灼かれて、黒い影は溶けるように消滅する。
高峰は炎を飛び超えて、先へと急ぐ。
途中で、同じような影の群と遭遇したが、高峰は扇子を煽いで、影の群を灼いていく。
「あれぇ?」
高峰の目の前に一つの駅が現れる。
今までも、幾つかの駅を通り過ぎてきたが、その駅だけは様子が違っていた。
「明かりぃ?」
その駅には、明かりが点っていた。
もう夜も遅い、本来なら人々は寝ている時間だ。駅だって、もう終電も終わって、駅の明かりも消えているはずだ。今までの駅がそうだったように。
高峰は警戒しながら、その駅へと接近する。
「…………」
高峰は線路から駅の中へと侵入する。
「……!」
ホームに入り、高峰は中の様子を見て立ち止まった。
明かりの正体がわかった。
――キャラキャラキャラキャラ。
音が聞こえる。
――キャラキャラキャラキャラ。
その音が、ホームの中で木霊する。
「これはぁ……!」
高峰は駅の中を見上げる。
線路の上、ホームの上、天井に至るまで、びっしりと光る化物で埋め尽くされている。大きさはサッカーボールを少し大きくしたくらいで、形はおよそ球体だろうが定かではない。靄か、あるいは明かりのようにぼんやりとしていて、形がはっきりしない。
奇怪な姿の化物が、駅のホームの中を覆っている。
「へえぇ」
高峰は薄く笑う。
見るものを虜にするような蟲惑の笑顔。その魅力的な表情は、この場所ではむしろ異様に映る。
「変わったフラストもいたものねぇ」
光の化物たちが一斉に高峰に向かって襲い掛かる。
――キャラキャラキャラキャラ。
高峰は扇子を構える。
「あんたたちぃ」
扇子を煽いだ。
「キモいのよおおぉぅ」
ホームの中を炎が包み込む。
――キャアアアアアアアアアァァ――――――ッ!
悲鳴が上がる。
その音が共鳴して、聴覚を狂わせるような高周波がホームの中で振動する。
――キャアアアガガガッガアアアアアガァ…………。
火炎に呑まれて、光は次第に小さくなって消えていく。
「全くぅ……」
高峰は燃えて消えていく光を見ながら嘆息する。
「雑魚ばっかねぇ。少しはてこずると思ってたのにぃ、案外簡単に一条さんのいるところに辿り着いちゃうなあぁ」
炎に呑まれて、灰へ変わっていく光の群を見ながら、高峰は薄い笑みを浮かべる。残虐な笑みは、しかし見る者を惹きつけるだけの魔力がある。
突然、辺りに音が響く。フラストが上げている悲鳴ではない。もっと好戦的な、雄叫びの咆哮。
――アアアアアアアアアアアアアアアアッ!
高峰はハッとして、表情を引き締める。
咆哮が止み、爆音とともに炎火の中から黒い影が飛び出してくる。その影が高峰の前に姿を現す。
四足で線路の上に立ち、四本の足には分厚い爪が伸びている。高さだけで高峰の身長を超えて、顔は牛のようにも見えるが、巨大な口は高峰など簡単に飲み込めそうだ。
高峰は驚愕に目を見張る。
「これはぁ、トレストぉ」
高峰は、その化物の姿を凝視する。
異形の化物、危険な存在、ただ、その化物の右の前足の爪は欠けてなくなっていて、体も大きさの割には痩せ細り、顔も左半分が欠けている。
化物の右目が、一瞬赤く光る。
「……っ」
高峰は咄嗟に地面を蹴って後退する。
瞬間、化物の右目から何かが飛び出した。
――シュッ!
それは、一匹の蛇だった。
高峰は素早く距離をおく。
蛇の体は細く、あまり強力そうには見えないが、五メートル以上あけた高峰との間隔をあっという間に縮めて、加えてくねくねと素早く動き回るため、動きを補足できない。
高峰はさらに距離を開いて、手にした扇子を振り下ろす。
――ごおおおおおおおお!
高峰の前に、炎の壁が立ち塞がる。
――ギャアアアアアアアアアアアアアアアッ!
炎の壁に阻まれて、蛇はそれ以上高峰に近づくことができない。
高峰は、さらに扇子を煽ぐ。
――おおああああああああああっ!
トレストの体から炎が吹き荒れる。
炎に灼かれながら、しかしトレストはまだ唸り声を上げている。
「トレストはぁ、よぉーく灼いておかないとねぇぇええええ!」
高峰が再び扇子を振り下ろす。
トレストの頭上で、炎が渦を巻く。炎の渦は次第に勢いを増して、槍のようにトレストの体に突き刺さる。
――アアアアアアアアオオォォォォオオアアアアアアアアアアアアアアッ!
最期の咆哮を残して、トレストは燃え尽きた。
高峰は興味を失ったように、燃え盛る炎を見つめている。
――すっ。
高峰が扇子を下ろすと、燃え盛っていた炎は一瞬で鎮火した。
あれだけの炎が辺りを灼いていたというのに、駅構内には焦げた跡もなく、何の変化も見られない。
「……」
高峰が一歩を踏み出そうとした、瞬間。
――ドサッ。
上から黒い塊が降ってきた。
「……!」
高峰は咄嗟に足を止めた。
黒い塊は、一つだけではない。ざっと見渡しただけで、五体くらいはある。
「どういうことぉ?」
高峰はその内の一つに近づいて、黒い塊を注視する。さきほどの炎で灼かれたようだ。損傷が激しく、原形が判別できない。
高峰は、しかしそれで納得したのか、他のものにも視線を向ける。
「これもぉ。このトレストもぉ、最初から壊れてるぅ」
姿形がわからなくても、高峰には気配でわかる。それら黒い塊からは心の気配が感じられる。元々は、相当大きなエネルギーを持っていたようだが、今では中身の抜けた空洞のような感覚しか感じ取れない。
ダメージは大きく、フラストの特徴の一つである再生も始まっていない。形は残っているが、もう動き出すことはないだろう。
「あたしが来る前にはぁ、もう倒されてたぁ、ってことぉ?」
高峰は上から降ってきた黒い塊を慎重に観察しながら、考え込む。
――あたしに反応してぇ、動き出しちゃっただけぇ?
フラストは、心の領域から溢れ出した化物で、要するにエネルギーの塊。人のように形という概念がないため、少し壊しただけではすぐに再生する。
そのため、MASKSではフラストを壊散――完全に破壊して、再生不可能の状態に――させるようにしている。
壊散させれば、普通はフラストが蘇ることはないのだが、フラストが密集していると稀にバラバラになった心のエネルギーが寄り合わさって、新たなフラストが生まれることがある。
ただ、それは稀な例であり、問題なく壊散できていれば、フラストが再び動き出すことはない。
――こいつらを倒したMASKSはぁ……?
誰かが先行してこの近辺のフラストを倒していた場合、そのMASKSは手を抜いていた可能性がある。
最後までフラストを破壊しつくしていれば、復活することもない。それに、最後に高峰が戦ったトレスト、あれはまだ動くことができた。
トレストは、フラストの中でも特に力の強いものを指して呼ぶ。そんな危険な存在を、中途半端に生かしておくなんてこと、普通はしないし、できるわけがない。よほどの実力がなければ、そんな軽んじた行動はしない。
高峰は改めて辺りを窺う。
「もうぅ、先に行っちゃったのかなぁ?」
高峰は駅の掲示板に目を向ける。目的の場所に着いたようだ。
高峰は改札口を通って、駅を出る。もちろん、切符など持っていないから、改札口の上を飛び越えてだ。
「……」
駅の外へ出て、高峰は辺りを見渡す。
町の駅らしく、道は舗装されて、目の前にはロータリーがある。夜も遅いせいか、ロータリーには車は一台も止まっていない。閑散とした情景は、昼間の町とは対極的で、異質なものを感じさせる。
高峰は歩き始める。辺りを見回しても人の気配はなく、異様な静けさが広がっている。街灯は弱く、駅前の光景は闇に等しい。
「あれぇ?」
時計台の下に人影が見える。柱に凭れかかって、その場にしゃがみこんでいる。
高峰は近づいて声をかける。
「ねえぇ」
その人の顔を覗き込んで、高峰は驚いて足を止めた。
僅かに開いた口元からは唾液が漏れて、頬を伝って首筋まで垂れている。瞼は大きく開かれて、眼球はただ虚ろで、どこも見てはいない。生気の抜けた表情をしている、人形のような人間。
「ちょっとぉ……!」
高峰が肩に触れると、その人間は何の抵抗もなくその場に倒れた。中身の抜けた、乾いたような音だけが返ってくる。
高峰は静かに一歩後ずさり、もう一人倒れていることに気がついた。すぐ傍に、同じように生気の抜けた表情をして倒れている。
感情の消失した、ただの肉塊。
「これってぇ…………」
言いかけたとき、別の人間の声が聞こえた。
「また来たか」
「!」
高峰は驚いて顔を上げる。
光を失った駅の上、月明かりに照らされて、そこに人影が見える。声の感じからして、どうやら男のようだ。年は若く、少年の雰囲気がある。
「これで、三匹目だ。MASKSさん」
その単語に、高峰は不信感を覚える。
――MASKSのことをぉ、知っているぅ。
高峰は警戒して、相手を見上げる。
「あなたはぁ、だぁれぇ?」
高峰の艶のある声が空気を震わせる。艶美な口元は好色の笑みを浮かべているが、高峰の大きな瞳は鋭い光を放っている。
少年は笑みを浮かべる。愉悦の滲んだ、狂気の笑み。
「そうだな。今から殺される相手の名前くらい、知っておいたほうがいいよな」
たっぷり間をもたせて、少年は答えた。
「落合昭伍。フルセルフ、って言えば、わかるんだろ」
高峰の警戒は確信へと変わる。緊張が全身へと伝わってくる。
――相手が悪いわねぇ。
高峰は思考を巡らせる。
――少しぃ、時間稼ぎをしないとぉ。
高峰は右手に持った扇子を顔の前まで持ってきてパタパタと煽ぐ。
「榊原樹のぉ、仲間ってことぉ?」
高峰の言葉を聞いた瞬間、落合の顔が露骨に不機嫌なものへと変わる。
「けっ。薄気味悪ーこと言ーなよ。榊原の仲間だぁ?はっ!誰が、あんな変態ヤローなんかと。俺はただ、あいつと約束しただけだ」
「約束ぅ?」
落合は不機嫌な表情のまま答える。
「『力をあげよう。その代わり、私の願いを一つだけ叶えて欲しい』ってな」
高峰はさらに訊ねる。
「その願いって何かしらぁ?」
途端に、落合の顔が嬉々とした表情に変わる。
「それが、今日だ」
落合は喜色を浮かべて答える。
「あいつの計画を手助けする、それが俺の役目だ。計画がなんなのか、どういうものなのかは、俺にもわからない。榊原のヤロー、意味不明なことばっかぬかしやがるからよー。とにかく、俺はその計画を邪魔する奴らを消していけばいいだけだ。楽なもんだ、今まで通りにやってればいいんだからな」
落合の瞳が愉悦に輝く。
獲物を前にした肉食獣の瞳。弱者を甚振るときの、蹂躙する快楽を知ったものの狂気の眼差し。
歪んだ光が高峰を見下ろす。
「あなたぁ、フルセルフなのよねぇ」
高峰は何とか言葉を続ける。
落合は頷く。
「おう、そうだ」
「じゃあぁ」
高峰は扇子を煽ぎながら、言葉を紡ぐ。
「あなたの『力』を教えてくれないかしらぁ?」
落合が笑い声を上げる。
相当おかしかったのか、両手で腹部を押さえて堪えている。
「ばーか。言えるわけねーじゃねーか。そんな大事なことをよー。テメーは言えるのか?敵に自分の能力の秘密を」
高峰はゆったりとした口調で答える。
「そうねぇ」
答えながら、高峰は扇子の動きを止める。
「言えないわねぇ」
落合には聞こえないように、小声で付け足す。
「…………言うつもりもないけどぉ」
「だろう……」
落合の言葉は最後まで聞こえなかった。
――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!
駅全体を巨大な炎が包み込む。
「っ!」
落合の姿が炎の渦の中に消えた瞬間、高峰はその場から走り去った。
走りながら、高峰は携帯電話を取り出して、ボタンを一つだけ押して、すぐに画面を閉じて元の場所へ閉まった。
――応援は呼んだぁ。あまり期待はできないけどぉ。
相手が自分よりも強いと判断される場合、MASKSでは近くにいる他のMASKSに応援を要請することができる。
しかし、応援を呼んだところで、実際に応援に駆けつけてくれる可能性は、残念ながら低い。特に、今はこの町にフラストが大量発生している。どの場所でも戦闘が行われているはずだ。そんな中、他人を助けに行っている余裕など、あるはずもない。
高峰は周囲を見渡した。ビルが犇めき合う町の中に入ったようだ。しかし、建てられてからは相当年月を経ているのか、どれも黒く汚れている。町というよりは町の外れ、世間の賑わいから外れて、寂れた雰囲気が漂っている。
「ここまでくればぁ……」
高峰は速度を緩める。ゆっくりと歩いて、改めて辺りを見回す。
使い古されたビルが並ぶ。世代のずれた看板、すでに電気の通っていない街灯、道も壁も黒く汚れて、活気も人気もない、錆びついた場所。
高峰は一条の指定した場所を目指して、駆け出そうとした。
瞬間。
――オオオオオオオオ。
耳を劈くような音が、辺りに響いた。
ビルの合い間から、三つの影が高峰の前に現れる。どれも高峰より大きい、禍々しい巨躯を持つ、異形の化物たち。
「……やっぱりぃ、そう簡単にはいかないものねぇ」
高峰は扇子を構える。
――ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
視界を炎が埋め尽くす。火炎の中に化物たちは呑み込まれて、巨大な体は溶けるように消えていった。
高峰はその光景に目を見張る。
――誰?
高峰は、まだ動いていない。
「そういや――」
声が聞こえて、高峰は振り返った。
「まだ聞いてなかったな。テメーの名前」
高峰の背後、十メートルくらい先に人の姿があった。
「聞いといてやるよ。同じ炎使いとしてな」
落合が愉快そうに笑う。
「…………」
高峰は正面から落合を見て、自分の名前を答える。
そして――。
世界が業火に灼かれる。
月が見える。夜空に浮かぶ、細い月。三日月くらいのその月は、薄く弱い光を放っている。明かりが少ないせいか、星の光もよく見える。月を引き立てるだけの、小さな星屑。月の光りもまだ弱く、それでも夜空を白く彩っている。
「はぁ、はぁ…………」
車谷は息を吐いた。
山の合い間に現れた大きな鉄橋。崖のように切り立った場所で、下には川が流れているが、暗闇のせいで見えない。
車谷は橋の鉄柱に縛り付けられている。車谷の体の回りには、暗緑色のスライムのような物体が付着していて、それが車谷の自由を奪っている。
「おらっ……」
車谷は体に力を込める。
しかし、体に纏わりついたスライムはビクともせず、車谷と密着したまま動く気配がない。
――ちくしょう。
車谷は息を吐いた。呼吸は荒く、相当息が上がっている。頭の部分だけが外に触れているが、その顔も汗で濡れている。
――ビクともしねー。
何度となく、車谷はこの縛めを解こうと試みたが、結果は同じだった。体力は削り取られるようになくなっていき、呼吸すらまともにできない。自由になるのは頭だけで、それ以外は全く動かない。
スライムの圧迫は強く、血管すら潰れそうな重圧が体中にかかっている。圧力のせいで筋肉が痺れて、次第に力が入らなくなる。
締め付けられる感覚が肺をも押し潰し、疲労も重なって目の前が霞んでくる。
――俺は、こんなところでくたばるわけにはいかねーんだ。
車谷は再度体に力を込める。
「くぅ……」
結果は変わらない。
「はぁ、はぁ…………」
目の前に、何本もの触手が蠢いている。
――こんな化物に、俺はやられるのか?
視界が霞んでいるせいで、暗緑色の触手が互いに混じり合って、車谷の目の前はすぐにでも暗転しそうだった。
――冗談じゃねーぞ。
体を拘束されてからどれだけの時間が経過しているのかわからない。車谷は何度目かになる試みを行おうとして、ふとあることに気がついた。
――なんだ、こいつら。
車谷は目の前の光景を凝視する。視界が霞んでいるが、意識を集中させるとその様子が次第にはっきりしてくる。
――さっきから、ちっとも攻撃してこねー。
車谷の周りには、暗緑色の触手が幾つも蠢いている。車谷の周囲を囲み、しかし触手の群はそれ以上の動きを見せない。近づくわけでも、離れるわけでもなく、ただ車谷を監視しているだけのようにも見える。
車谷はふと視線を落とす。車谷から三十メートルほど離れた鉄橋の上に、笹竹の姿がある。笹竹は車谷から背を向けて、鉄橋の入り口のほうばかりに視線を集中させている。最早、車谷のことなど、気にも留めていないようだ。
――なんだ、あいつ。
車谷は笹竹に向かって声をかける。
「おい」
反応はない。
車谷は苛立たしげに声を上げる。
「おいっ。テメー、何してやがる」
その声に気付いて、ようやく笹竹が振り返る。
「テメー、なんで俺を殺さない」
車谷は叫んだ。
「………………?」
笹竹は首を傾げる。
その態度に無性に腹が立ち、車谷は声を荒げる。
「今が、絶好のチャンスじゃねーか。俺に情けでもかけるつもりか。気色悪いことするんじゃねーよ。さっさと殺ればいいだろ」
車谷の声に、しかし笹竹の反応はイマイチだった。
「何故?」
車谷の頭の中が沸騰したように熱を帯びてくる。
「何故って、お前。決まってんだろ。俺はお前の敵だ。目の前にいる敵は、再起不能になるまでぶちのめすもんだろーが」
笹竹は車谷のほうへ体を向けて、真っ直ぐ車谷を見上げる。
「私の役目は、あなたたちMASKSをこれ以上、榊原さんのところへ近づかせないことです。――だから、私の仕事は終わっています」
「終わっている、だと?」
笹竹は頷く。
「あなたはもう動けない」
笹竹は答える。
「あなたを足止めした、だから終わりです。これ以上の行為は必要ありません。さっきあなたが先に行かせた人は、仕方ありません。けれど、これから来る人たちを止められればいいだけのことです」
一度口を閉じて、笹竹は再び口を開く。
「それが私の役目です」
車谷は驚いたように目を見張る。
それで終わったのか、笹竹は車谷に背を向けて、再び正面を見つめる。車谷の顔にさっと怒気が滲む。
「ふざけるなよ……!」
低く、声を漏らす。
――捕まえたから、それで終わりだとぉ?
車谷の怒りが、一気に煮えたぎる。
――どいつもこいつも、俺を莫迦にしやがって…………!
車谷の脳裏に映像が浮かび上がる。
昼夜が反転するような眩しい光。たった一人の自分を取り囲む警官隊。閉じ込められた真っ暗な牢屋。
――俺は、終わらない。
何人もの顔が浮かぶ。みんなヘラヘラと笑っている。色はなく、紙のように薄っぺらい、嘲笑の笑み。
――こんなところで、まだ一人もぶちのめしてねーんだから。
車谷は叫んだ。
「っざけんじゃねエエエエエエエエぇぇぇぇええええええッ!」
反動で、暗緑色のスライムの塊がビリビリと振動する。
「これで終わりだあぁぁああ?」
車谷は、体中の力を振り絞る。
「なめんじゃねーよォ」
笹竹は背を向けたまま、静かに口を開く。
「無理です。トレスト五体の力でも剥がれることはありません。いくらあなたの力が強くても、トレスト五体分の力を超えることはできないでしょ?」
笹竹は振り返って、車谷を見上げる。
「――人には」
笹竹は続ける。
「限界があります。どんなに頑張っても、どんなに足掻いても、できないこと。実現不可能なこと。夢や理想は、いくらでも思い浮かべることができます。けれど、現実はそんなに簡単ではありません。無理なものは、無理なんです。それが、あなたの限界」
笹竹は、俯いて、呟く。
「諦めたほうがいいです」
しかし、それで納得する車谷ではない。
「知ったふうな口、利くなよォ……」
車谷の顔中に、血管が浮かぶ。歪んだ表情に、最早正常な人間の色をしていない。
「無理だと言われようがァ。莫迦だと罵られようがァ」
周囲の大人は言った。莫迦なことは止めろ、と。
周りの仲間たちは言った。そんなことは無理だ、と。
「何度失敗しようがァ。一度もうまくいかなくてもォ」
周囲の仲間たちは言った。お前は負け犬だ、と。
周りの大人は言った。お前は無様だ、と。
――それでも。
そんな彼らに、車谷は決まってこう言う。
「俺は、諦めたりしないっ!」
車谷は、最後の力を振り絞る。決して止まらず、決して緩めず、車谷は最後まで力を出し切り、出し続ける。
笹竹は驚いて目を見張る。
「まさか……!」
車谷を縛りつけているスライムの塊、それが少しだけ動いている。
「絶対にィ……!」
車谷のバットを持った右腕部分から徐々に膨らんで、すでに一抱えくらいの瘤のようになっている。暗緑色のスライムの奥からも、車谷の右腕が僅かに動いているのが見える。
笹竹はすっと右腕を上げる。
「解かせはしません、私の縛を。榊原さんとの、約束のために」
周囲の触手が、車谷に向かって絡みつく。
「どうして?」
笹竹は左腕も上げて、さらに別の方向から触手が車谷を捕らえる。車谷の体には、今や相当の重圧がかかっている。下手をすれば、その重圧だけで押し潰されそうだ。
「縛の量を増やした。なのに、どうして止まらないの?」
車谷の動きは止まらない。
スライムの塊は、さらに膨らんで、もう車谷の右半身は自由な状態だ。
「何で、動けるの?」
驚愕の眼差しで車谷を見つめる笹竹は、その異変に気がついた。
「これは……!」
車谷のバットが僅かに光を帯びて、その周囲で白煙が上がっている。
――私の縛を、心のエネルギーで打ち消し合っている。
この触手は、全て笹竹の心のエネルギーが具現化したもの。
他人の心は自分とは性質が違う。それがぶつかり合えば、互いに拒絶し合い、反発する。二つの心は拮抗して、互いを打ち消し合う。
――これはもう、能力の勝負じゃない。これは、ただの……。
笹竹の口から言葉が漏れる。
「力比べ」
笹竹は愕然として、車谷を見上げる。
――くんっ。
笹竹の体が僅かに引き摺られる。
「っ!」
笹竹は慌てて踏み止まる。
――いけない。このままじゃ引き込まれる。
笹竹は、さらに心の領域を解放しようとする。
瞬間、目の前がぼやけて、体から力が抜けていく。笹竹は慌てて踏み止まった。
「……っ。だめ。これ以上、力を使ったら、意識が飛んじゃう。もう解放しちゃった分だけで、なんとかしなきゃ」
笹竹は橋の下に纏わりつかせているスライムを伸ばしてきて、車谷の周りに絡みつかせる。膨大な量の粘質性のスライムの塊が、しかしだんだんと磨耗していき、徐々にその量を失っていく。
笹竹の顔に疲労が滲み始めた。
「どこにそんな力が残っているの?あなただって、もう限界のはずでしょ」
息が上がってくる。目の前も霞んできて、立っているだけでやっとだ。何とか踏み止まっているが、もうこれ以上車谷を押さえておくだけの力は残っていない。
「どうして……!」
言いかけて、それ以上の言葉は続かなかった。
笹竹の体が宙に浮いた。いや、違う。橋の上に纏わりついていたスライムの塊、そのものが車谷の力によって引っ張り上げられる。
「……!」
笹竹が気付いたときには、笹竹の身体はすでに鉄橋の外へと放り出されていた。
――ああ、私は、ここで終わるんだ。
笹竹は、漠然と思った。
――やっぱり、私には無理だったんだ。
体中から力が抜けて、暗緑色のスライムの塊も、形を失って闇へと消えていく。自分の力が、消滅に向かっていくのが、なんとなくわかる。
――もうお前は、家の子どもじゃない。
閉じかけていた目を、笹竹は急に開いた。
――この恥さらしが。さっさと出て行け。
笹竹は口を開いた。
――待って!
しかし、そこから声は出てこない。笹竹の顔が恐怖に歪む。
――いやっ。許して。私を捨てないで。
笹竹は手を伸ばした。
その先には何もなく、ただ無慈悲な闇だけが広がっている。
「……お父さん。……お母さん…………」
笹竹の体は、深い深い、深淵の底へと吸い込まれていく。
――ミステナイデ。




