第一楽章 魔王
始業式は、雨だった。
夏休みが終わって、学校が始まる。松風高校では、初日は始業式だけで、その後は各クラスでロングホームルームをやって、今日は終わる。
夏休みが明けたと言っても、まだ充分に夏の雰囲気は残っていて、雨でも気温は下がらない。湿度を含んで、体育館の中は人の熱気も手伝って、蒸したように暑い。
太陽の刺すような暑さとは違って、肌にまとわりつくような、汗腺を締めつけるような、独特の暑さ。動いても楽にならない、動くと余計に湿度を感じてしまう、嫌な熱気。風もなく、熱湯の中に浸っているような違和感。
蝉の声はない。あるのはただ、雨の音ばかり。ザー、ザー、と外を覆って、地面に当たって、体育館を打ちつける。
雨の音に掻き消されて、生徒たちのざわめきはあまり聞こえないが、それでも気怠そうな空気だけは漂っている。
『静かにしてください』
体育館には前方の壁に左右一つずつ、計二つのスピーカーが付いている。生徒役員のマイク係――咲希は詳しい役職名を知らない――が正面ステージの生徒たちから見て右側の階段付近に立っている。三脚に乗せたマイクの位置を調節して、再度マイクに向かって声を送る。
『静かにしてください』
二つのスピーカーから増幅された電子音が吐き出される。
それでも生徒たちの声は止まない。箱の中に押し込められた虫は、しかし無秩序に動き回る。体育館の中では、生徒たちの楽しそうなお喋りと、収集されたことに対する不満の声が膨らんで、限られた空間を圧迫している。
『こらァ!静かにしないかっ』
怒鳴り声が響いて、突然スピーカーから耳を劈くような高音のノイズが吐き出される。
「……っ」
咲希は咄嗟に顔を顰めた。
ぷつりという電源を切る音がして、ノイズはすぐに止んだ。しかし再びマイクのスイッチが入り、マイクに向かって怒鳴った教師の声は、マイクの許容量を超えたのか、すぐに裏返って高音のノイズを吐き出した。
「うるせーぞ」
生徒たちの中から不満の声が上がる。
「黙ってろよ、くそ教師」
「テメーが一番うるせーんだよ」
「偉そうに言ってんじゃねーよ」
「耳が腐るだろ」
非難の言葉が空間に溢れて、迫害の空気が周囲に満ちていく。それが、神経を痛める騒音を作り出す。
マイクの前に立っているのは、おそらく生徒指導の教師だ。マイクを色々と弄っているようだが、体育教師にマイクの構造を把握するだけの知識はなく、この短時間で直せるわけもない。教師は仕方なく、声を抑えてマイクに向かう。
『もうすぐ式が始まる。全員、静かにするように』
それで終わりかと思ったが、教師の声が再びスピーカーから漏れてくる。
『全員、静かにするように」
同じ言葉の、繰り返し。
生徒指導の注意を受けて、体育館の中の音は少しだけ音量を下げたが、完全な沈黙などありえない。生徒たちの話し声と、教師たちに対する不満の声、その無秩序な空気だけは、今も漂っている。
前方の扉が開き、周囲にいた教師たちの視線がそちらに集まる。背の高い咲希は、生徒たちの頭越しにその様子を見た。
校長と、教頭だ。
この高校のトップ二人。
扉の脇に立った教師たちは直立して頭を下げる。校長と教頭は何食わぬ顔で彼らの前を歩み去る。大分暑いのだろう、校長は扇子を扇いで、教頭は手にしたハンカチで額の汗を拭っている。生徒たちが手にした団扇で扇いでいれば、教師から注意の対象になるというのに。
『まもなく始業式が始まります。生徒は整列してください』
校長と教頭が入ってきたのを見計らって、生徒会役員がマイクに向かって指示を出す。
その一言で、しかし生徒たちが乱れた列を直そうとはしなかった。周りに配置された教師たちの熱心な指導を受けて、なんとか生徒たちも動きを見せる。大分乱れていたのか、咲希は直前までいた場所から上下左右に動かされる。
校長と教頭が所定の席に座った。教師たちは直立不動の体勢をとり、生徒指導がマイク係に指示を送る。
『只今より、始業式を始めます』
式が始まり、体育館の中はようやくある程度の静けさを帯び始める。
『一、生徒会長挨拶』
生徒会長が演壇の前に立つ。
ほとんどの学校でもそうなように、通例的な挨拶がされる。夏休みはどうだったとか、これから学校が始まるとか、そんな内容。言葉も簡素で、軽薄な挨拶。発せられた言葉は、耳に入ったと同時に、抜けてしまう。記憶に定着しない音だ。
『二、校長先生挨拶。校長先生お願いします』
校長が演壇の前に立つ。
これも、通例的な流れだ。内容に意味はない。話をする、その行為だけに意味がある。それを聞く生徒たち、彼らの存在にも、ただいることにしか意味はない。一種の儀式、意味のない意義。
周囲の生徒の、おそらく半分以上は校長の話を聞いていない。聞いている生徒を探すほうが手間だろう。咲希の周りでも、すでにほとんどの生徒が意識を別のところに飛ばしている。
咲希は実際の時間を計ったことがないが、おそらく十分近くはこの話が続く。その間、直立不動を維持しなければならないのだから、生徒からすればたまったものではない。
周囲を取り囲んで、生徒たちの監視にあたっている教師たちのほうが、まだ状況はいい。彼らは監視を名目として、自由に動くことができる。生徒と違って、拘束がない。また、壁に寄りかかれるのも、大きな強みだ。
生徒はじっとしていなければいけない。生徒は拘束される。
教師は自由がある。教師は休んでも許される。
教師が、どれだけ全うな理由を並べて自分たちの正当性を主張しても、生徒たちの認識はそんなものだし、変わらない。
校長の話が終わった。
拍手が起きる。
――パチパチパチパチ…………。
最初に拍手をしたのは誰だろうか。少なくとも、生徒の中にはいない。教頭か、生徒指導か、あるいは次の校長の席を狙うやる気のある教師か、そんなところだ。
生徒の中で真剣に拍手をしているものは、おそらく誰もいない。それでも、拍手をしていればまだいいほうだ。
『校長先生、ありがとうございました』
儀式は終わった。
校長は用意された席には戻らず、そのまま階段を降りて出口へと向かう。話が終わったから、帰るのだ。そのあとを、教頭が一定の距離を保ってつき従う。校長が立ち止まらないように先に扉を開けて、校長が出た後は扉を閉めて張りついたようにくっついていく。
「何しに来たの、校長」
誰かが漏らす。
「話だけして、すぐ出て行っちゃうし」
「あいつのせいで、ずっと待たされたしさー」
「本っ当、ウザい」
「何様よ」
「仕事してんの?」
「何もしてないんじゃない」
「じゃあ、辞めちゃえばいいのに」
「あんなのに、金やるだけ無駄じゃん」
不満が辺りに充満する。
『三、生徒指導からの連絡』
周囲の空気を無視するように、マイク係は進行を続ける。
演壇の前に、今度は生徒指導の教師が立つ。校長の話が終わって、それで式を終わりにすればいいのに、毎回生徒指導から幾つか小言を言われる。
大概は、規則を守らない生徒がいて、本来の校則はどういうものかを再認識させるための指導で、校則を守っている生徒からすれば至極当たり前のことで、校則を無視して自分勝手にやっている生徒のほうは、元々守る気がないのだから全くと言っていいほど効果がない。
これも、儀式。
無意味な行為。
『えー、今日はまず、生徒指導からの連絡の前に、みんなに話しておきたいことがある』
生徒指導の教師がそう切り出した。
『夏休み中に、一年二組の白百合真奈さんが、事故で亡くなった』
体育館の中がどよめいた。
いつもは無関心を装う生徒たちも、流石に驚いたようだ。
『そこで、一分間の黙祷を捧げたいと思います。全員、黙祷』
咲希は目を閉じた。
周囲からざわめきが消える。直前までの騒音が、一瞬で消滅する。咲希の耳に入ってくるのは、外で降り続ける雨の音だけだ。
始業式の日は、半日で終わる。
用事のない生徒は速やかに帰宅、という教師たちの言葉を真剣に聞く生徒などいるわけもなく、多くの生徒は学校に残っているか、町に繰り出して遊ぶ算段をつけている。
「ねえ、咲希」
咲希は振り向いた。
そこに、真奈の顔が映った。
「!」
目を見開いた咲希の視界に、しかし真奈の笑顔はすぐに色褪せて、そこに別の生徒の顔が現れた。
「どうしたの?」
その女子生徒が不思議そうな顔で咲希を見る。
咲希は慌てて首を横に振る。
「ううん。何でもない」
その女子生徒は一瞬眉を顰めたが、すぐにぱっと明るい顔を向ける。
「あのさ、帰りに皆でカラオケに行こうって話しになったんだけど、咲希も来ない?」
咲希は反射的に返事をしていた。
「あ、ゴメン。今日は用事があって」
その生徒は特に嫌そうな顔もしないで、すぐに納得した。
「そっか。じゃ、また今度ね」
「うん。また」
それだけ残して、その生徒は他の女子たちの輪の中へと消えていく。カラオケに行くと言うメンバーだろうか、しばらく話をしていたようだが、楽しそうな顔で教室から出て行く。
彼女たちの姿が見えなくなって、咲希は俯いた。目の前には自分の机がそこにある。何もない、ただの机。
咲希はふと顔を上げて前を見る。
妙に人のいない教室、学校にいる必要はなくなったとはいえ、まだ教室に生徒たちがいてもおかしくない時間なのだが、今日に限っては数えるくらいしか残っていない。
咲希の視線の先に、花瓶が置かれた机がある。誰も座っていない。花の飾られた花瓶が、不自然に机の上に乗っている。
咲希はぼおっとその席を見つめている。
「なあ、咲希」
咲希の視界が遮られた。
咲希は驚いて身を引いた。かなり近距離で、最初は誰だかわからなかったが、それが林とわかって咲希は慌てて言葉を探した。
「なに?」
冷静を装ったつもりだったが、その声は僅かに震えている。
林はじっと先を凝視して、しばらくしてから咲希の腕を掴んだ。
「ちょっと」
林の手が咲希の腕をぐいっと引っ張る。
「え、わ、なに?」
咄嗟に咲希の口から奇声が漏れるが、林は構うことなく咲希を椅子から立たせて、そのまま教室を出た。
咲希は混乱していた。
林の行動の意図がわからないし、何より林に対して咲希が何かをしたという覚えもない。わけだけでも教えてもらいたいと思ったが、ずっと無言の林に向かって言う言葉を、残念ながら咲希は持ち合わせていなかった。結局、黙って林にされるがままになっている。
林は階段を上って、中間の踊り場の位置で足を止めた。
「…………」
林は辺りを確認する。
ここは下の一年生の階と、上の二年生の階のちょうど中間、普段なら人の行き来もあるのだが、もう学校が終わってから大分経っている。下の廊下も、上の階でも、生徒たちの姿は見られない。
林は手を離して、咲希のほうへ向いた。
「咲希、なんか元気ないぞ」
第一声、そう咲希に向かって言った。
虚をつかれたように、咲希は動揺する。そんな咲希の様子を、林はじっと見ている。咲希は困惑しながらも、何とか返す言葉を探した。
「そうかなあ……」
出てきた言葉は、そんな曖昧なもの。
林は肩を落として、右手で自分の頭を掻く。その様子は非情に男っぽく、林の性格をそのまま印象付ける。
「あたしさあ、はっきりしないことが嫌な性格だから、時々ずうずうしくなってるかもしれないけど」
そう前置きしてから、林が口を開く。
「真奈のこと?」
咲希の表情が凍りついた。
曖昧に誤魔化すために作った笑いも、完全に色を失くしている。俯いて、目を逸らしたい衝動に駆られたが、林の真剣な目はそれを許してはくれない。
林は追い討ちをかけるように、言葉を続ける。
「なあ。真奈のことで、落ち込んでるのか?」
咲希は急いで言葉を探したが、うまく頭が回ってくれない。さらに、林はじっと咲希を見つめて、逃げ道はもうない。
咲希は、ようやく言葉を見つける。
「…………うん」
咲希は観念したように頷く。
「やっぱな」
林の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。
自分では少しも意識していなかった。
真奈がいなくなったことによる咲希のショックは大きい。クラスメイトの中でも、とりわけ真奈とはよく話をしたし、夏休み中にも一緒に買い物に出かけた。
今まで意識したことがなかったが、咲希にとって真奈はとても近くにいたような気がする。その真奈が、急に遠くへ行ってしまった。
林が口を開く。
「あんま気にしてても、しょーがないと思うぞ」
咲希は顔を上げた。
「いつまでも気にしててもさ、真奈が戻ってくるわけじゃないんだし、どっかで区切りつけないと」
「リッコは……」
咲希の口が勝手に動く。
「寂しくないの?」
咲希の言葉は、止まることなく、次の言葉を紡ぎ出す。
「真奈がいなくなって、寂しくないの?」
「そりゃ」
林は口を開いて、しかしその先の言葉が出てこない。重い沈黙が辺りに満ちていく。林は俯いて、それでも言葉はうまく出てきてくれない。
十秒くらいして、林はようやく口を開く。
「……寂しいよ」
か細いくらいの、小さな声。
「寂しいし、嫌だよ。こんなの」
咲希は林の様子に驚いた。
瞳が潤んで、少しだけ赤く腫れたような色をしている。いつも溌剌とした林からは、ちょっと想像ができない。
「ちょっとたんま!」
林は慌てたように咲希に背を向ける。
――パチン!
ものすごい音がした。
聞くだけでも痛々しい、加減を知らない音だ。
「よしっ」
林は顔から両手を離して、咲希のほうへと向き直る。
「みんな、さ」
林が口を開く。
「寂しいんだよ。少なくとも、あたしはそう思ってる。女子の中でカラオケ行こうって話が出てるんだけど、咲希も聞いた?」
咲希は頷いた。
「あいつらも、そうやって区切りをつけたいと思ってるんだよ」
どこか遠くを見るような目で言った林は、急に表情を和らげる。
「咲希はそういうの嫌なのかもしれないけどさ」
「ごめん」
咲希の口から言葉が漏れる。
「私、自分のことで、頭が一杯だった。みんなだって、悲しいはずなのに」
「わっ!謝るなよ」
俯く咲希に、林は慌てたように両手を差し出して声を上げる。
「別に、咲希のこと責めてるわけじゃねーんだから」
なんとか励ましの言葉を考えているようだったが、適切な言葉が浮かんでこないのか、林は咲希の肩に手を乗せるだけだった。
「とにかく、元気出せよな」
林の顔が覗いてくる。
真剣な林の顔に、咲希は頷いて笑みを浮かべる。それで安心したのか、林は咲希の肩から手を離す。
「誰かが落ち込んでるの見ると、妙に落ち着かないんだよ。あたしが」
バツが悪そうに頭を掻く林。
その素振りが、妙に林らしい。
「うん」
咲希は頷いた。
「にしてもさ……」
林は頭から手を離して咲希へと向き直る。
「お前ら、仲良かったよな」
「そうかなあ?」
咲希は首を傾げる。
「親友、っていうよりは、姉妹、って感じだった」
その表現に、咲希はますます困惑する。
「姉妹?」
林は頷いて、ぴっと指を向ける。
「そ。お前が姉さんで、真奈が妹」
林は腰に手を当てる。
「真奈がお前に懐いてた、って感じがする」
林は破顔する。
何も含むところのない、純粋な笑顔。
「そうかもしれない」
咲希は思いを巡らせる。
咲希から話しかけるようなことは、あまりなかったように思える。どちらかというと、真奈のほうが咲希に話しかけてくることのほうが多かった。
特別なことを話した覚えはない。むしろ極当たり前の、ありふれた会話。真奈のほうが一方的に話をすることもあったけど、そのときの真奈はとても嬉しそうだったように思える。
「だから――」
林が意地悪っぽい笑みを浮かべる。
「お前もお姉さんらしく、しっかりしなきゃダメだろ」
咲希は頬の辺りが急に熱を帯びてくるのを感じる。
「私は、真奈のお姉さんじゃないよ」
言って、二人はしばらく笑った。
その二人の空間に割り込むように、別の声が聞こえた。
「およ、お二人はん」
咲希と林は、同時に顔を上げた。
階段の上、三階の廊下に、鞄を持った倉橋の姿が見えた。
「倉橋さん」
倉橋は破願する。
林は咲希に訊いた。
「咲希、知り合い?」
咲希は頷く。
「うん。二年の先輩の、倉橋さん」
「いや、先輩なのはわかるんだけど……」
倉橋を一瞥して、林は咲希の顔を覗き込む。
「どういう繋がり?」
その質問に、咲希は一瞬詰まる。
咲希は質問の答えを持っている。しかしそれを素直に言っていいものかと、咲希は思案する。全てを話してしまうわけにはいかないからだ。
咲希が迷っていると、倉橋がなんでもないように答えてきた。
「海斗繋がりや。そんで一回、海斗のクラスにお邪魔してんねん」
林が驚いたように倉橋のほうへと顔を上げる。
「海斗、って。雨宮のことか?」
そや、と倉橋が頷く。
咲希も、驚いて倉橋のほうを見ていた。
咲希が言おうか迷っていた返答、それを倉橋はなんの苦もなく言ってしまった。咲希は緊張して二人のやりとりを見守った。
「雨宮さ、今どうしてるか、先輩知らない?」
そう、林が切り出した。
「あいつ、休み始まる前から休んでてさ、今日も来てないんだ」
その言葉に、倉橋は頭に疑問符を浮かべる。
「今日も?」
林が頷く。
「担任には休みの連絡いってないみたいで、雨宮のこと知ってるなら、何か聞いてます?」
倉橋は腕組みをして考え込む。
二人は倉橋の返答を待った。
「…………」
五秒くらいそんな沈黙が流れた。
倉橋は組んだ腕を解いて、口を開く。
「わからへんな」
その簡素な答えに、林は諦めたように肩を落とす。
「そうですか」
倉橋の軽い調子の声が聞こえた。
「寝坊かなんかとちゃう?」
言われて、林は少し考えるように斜め下を向く。
「あいつ結構ギリギリに学校来るからな。休みボケで、その可能性もあるな。ったく。ありがとうございます」
これ以上聞くこともないのか、林は咲希のほうへと向いた。
「咲希、手間取らせて悪かったな。あたしこれから部活に顔出さなきゃいけないから、もう行くな」
言い終わると同時に、林はさっと階段を降りて行った。咲希が気付いたときには、もう下の階に着いている。
「うん。じゃあ」
「じゃあな」
咲希が手を振ると、林も手を上げて返す。そのまま、林の姿は階段の影に隠れて見えなくなった。
「元気な子やな」
林がいなくなって、倉橋が口を開く。
「咲希はん。あんたに用事や」
咲希は驚いて顔を上げる。
「私に?」
倉橋は満面の笑みで頷く。
その健全そうな笑みは、反って咲希の不安を呼んだ。倉橋からの用事、それが何を意味するのか、咲希は必死になって思考を巡らせた。
咲希は町の中にある公園に来ていた。時間は午後三時十分前、倉橋が指定したのはこの場所の十分後、しかし待たせては悪いと思って、咲希は予定よりも少し早めに、この場所へとやって来た。
「…………」
来たのは、今が初めてだ。
咲希は平日からよく、この辺にしては大きな町に来るのだが、それはあくまで塾に行くためであり、駅と塾までのルートぐらいしか行ったことがない。
倉橋から渡された地図では、町の中にあるとはいえ、町のほとんど終わりのほうにあったので、咲希は家での食事を抜きにして、着替えを済ませただけでこの場所に立っている。一応、家からお菓子の類を持ってきてはいるが、どうも食べる気がしない。
「ここ、だよね」
咲希は改めて地図を確認する。
細かい道やお店の名前まで明記されていて、目的の場所には親切にも印が付いてある。たぶん、この辺りだと思われる。
咲希は辺りを見渡した。地図の中での大きさや、実際に来てみた印象としては、とても大きな公園のようだが、人の姿はあまり見かけない。
「あの、失礼ですが……」
しばらく歩いていると、後ろから声をかけられた。
咲希は振り向いて、その人物を見た。
すらりと伸びた背は、咲希より少し高いくらいで、平日のこの場に合わせたようにラフな恰好をしている。つばのついた帽子を目深に被り、そこから見える顔は少しやつれているようにも見える。
その男は、優しい口調で咲希に訊いてきた。
「上嶋咲希さんで、よろしかったですか?」
自分の名前を呼ばれて、咲希は咄嗟に答える。
「あ、はい」
その返事に、男は満足したように頷く。
「私、若草宗助と言います。雨宮くんの、上司になります」
その言葉に、咲希は驚いた。
「え、じゃあ。組織の人?」
咲希はまじまじと相手を見つめる。
この世界には、二つの世界が存在している。人間や他の生き物たちが暮らしている体の世界。もう一つはその生物たちの内側に隠されている心の世界。
両者は互いに不干渉で、交わることはない。はずなのだが、時々心の世界の住人が体の世界に溢れてくることがある。
フラスト――心の化物――がそれだ。フラスト――フラストの中でも強力なものは特にトレストと呼ばれる――は、体の世界に現れて、秩序を乱す。人の心を乱して、社会生活にも影響を及ぼす。
組織とは、人の心から溢れたフラストを倒すために設立された団体で、フラストと戦うために、MASKSという兵士を生み出している。
雨宮はMASKSの一人。そして目の前にいる男、若草宗助がその上司、MASKS総指揮官並びに独立監査委員の一人、MASKSのトップに立つ人物だ。
「わざわざすみません。いきなり、呼び出したりして」
若草は穏やかな調子で言った。
咲希は慌てて首を振る。
「あ、いえ。……じゃあ、呼んだのは」
「はい。私です」
頷く若草。
「少々場所を変えましょう」
若草が先に立って歩き始める。咲希もそのあとを追う。
咲希は若草の後ろ姿を眺め見る。組織の人間、しかも雨宮の上司と聞いて、咲希は今まで想像していた人とは違って、少し驚いている。
雨宮は自分の正体が咲希にバレたとき、とても焦っているように見えた。組織のことが一般人に知られてはいけない、そう話していた。
だから、組織の上の人たちというものは、とても厳格な人なのではないかと、咲希は思っていた。
しかし、目の前にいる若草には、少し話をしただけだが、そんな雰囲気は微塵も感じられない。むしろ、とても優しそうな印象を感じ取った。
「そこに座りましょうか」
若草の示す先に、屋根のついた場所があった。その下には円いテーブルと、向かい合う形に幾つかの椅子が見える。
二人は互いに向き合う形で腰を下ろす。
「あなたとは、もう少し早いうちにお話したいと思っていました」
若草が口を開く。
「あなたは、雨宮くんからどこまで聞いていますか?」
咲希は正直に答えた。
フラストという化物がいること。フラストは心から生まれた存在であること。フラストを倒すために組織があること。そしてフラストと戦うMASKSのこと。雨宮や倉橋、高峰がそのMASKSであること。
「なるほど」
若草は納得したように頷く。
「あなたは充分認識しているようですね。フラストや組織について」
「あの、やっぱりまずいことでしょうか?」
咲希は恐る恐る訊いた。
「何故ですか?」
若草は逆に訊き返す。
とても穏やかな表情で、問い詰めるような雰囲気はない。その反応に、咲希は反って困惑する。
「ええっと。雨宮くんから、組織のことや心の世界のことについて、世間の人に知られるのはいけないことだと聞いているから。それで」
「なるほど」
若草は頷いて、そして微笑む。
「安心してください。今日は別に、あなたをどうこうしようというわけで来たのではありません」
若草は人の良さそうな笑みを浮かべて咲希に答える。
「今後も、組織があなたに危害を加えるようなことはしません。私がそう決定させました」
咲希はふと疑問に思った。
「若草さんって、実はすごく偉い人なんですか?」
若草はおかしそうに笑った。
「これでも、MASKSのトップを務めていますから」
「…………上司って、そういう意味だったんですか?」
組織での雨宮の上司、と聞いて、咲希は若草がそれなりの地位にいる存在だとは思っていた。しかし、若草がMASKSのトップであるとまでは考えていなかった。そんなに偉い人が、自分なんかに会いに来るとは思えないからだ。
「組織ではMASKS以外にも、幾つかの機関があって、各機関につきトップは一人しかいません」
若草は口を開く。
「今の社会では、その部署ごとに何人ものトップがいるのでしょうが、組織では秘密保守の観点から、トップは一人しかいません。そして、秘密はトップにしか明かされない。そういうシステムなんです」
そこまで説明すると、若草はテーブルの上に両手を組んで乗せた。
「今日、私があなたとお会いしたかったのは、あなたのフラストについて、お訊きしたいことがあったからです」
咲希の体が緊張で強張る。
「フラスト、ですか」
若草は頷く。
「あなたは、以前フラストを持っていた。間違いありませんか?」
フラスト、心の世界の化物。
咲希の心には、以前、フラストが住みついていた。住みつく、という表現は正しくない。元々、咲希が生み出してしまった、もう一人の自分だ。
それがきっかけで、雨宮のことを知って、組織やMASKSのことを咲希は知った。
「はい」
咲希はゆっくりと頷く。
「MASKSでは、確認されたフラストに関して報告することを義務付けています」
若草はそう前置きしてから訊いた。
「高峰くんの報告では、あなた自身がフラストを倒したとありましたけれど、それは本当ですか?」
咲希は一瞬答えに迷った。
咲希のフラストは雨宮と戦っていた。今でもそのときのことは良く覚えている。体が動かなくて、直接見ていたわけではないけど、戦いの様子だけは聞いていた。
雨宮がフラストにやられそうになったとき、咲希は立ち上がってそれを止めた。そして何かを言って、フラストを倒した、らしい。雨宮からそういうふうに聞いている。
咲希自身は、そんな意識はない。何を言ったのかはぼんやりとしていてあまり記憶にないが、雨宮を殺そうとするフラストを、自分自身の心を止めようとしたことだけは覚えている。それが、フラストを倒すことに繋がったようだ。
「はい」
頷いてから、咲希は違和感を覚えた。
「高峰さんからの報告ですか?雨宮くんじゃ……」
ないんですか、と言う前に、若草が答えた。
「雨宮くんには報告することができません」
咲希には若草の言っていることがわからなかった。
若草は続ける。
「事情があって、彼が本来するべき報告は一括して高峰くんが代行することになっているんです」
咲希は思い出したように口を開く。
「そういえば、雨宮くん言ってました。失敗ばかりするから、高峰さんに監視されている、って」
「雨宮くんは口が軽いな」
若草は嘆息混じりに苦笑する。
「まあ、私も人のことは言えませんけど」
「まずい、ことでしたか?」
咲希は慌てて口を開く。
「今の、話?」
「いや、気にしなくていいよ。それほど重要なことじゃないから」
若草は手を横に振った。
咲希は口を噤む。安心は、していない。まだ緊張しているのか、肩が少しだけ硬い。若草は両手をテーブルの上において話を続ける。
「失敗ばかり、というのは雨宮くんの誇張表現だね。――雨宮くんは、初めての任務で大きなミスを犯した」
咲希は驚いて小さく声を上げる。
「え?」
「そのため、高峰くんをサポートにつけている。これは監視と言っても間違いじゃないかな。管轄内での雨宮くんを見張って、フラストが現れたら雨宮くんをサポートしてあげる。組織との連絡は高峰くんが全て行う。それが高峰くんの役割です」
初耳だった。
いや、高峰が雨宮の監視役であることは聞いていたが、その理由までは咲希は雨宮の口から聞いてはいない。
「その、大きなミス、って」
若草は微笑する。
「残念だけど、それ以上は言えません。組織に関わることですからね」
咲希は慌てたように俯く。
「すいません」
萎縮する咲希を、若草は困ったように宥めて、それから話を戻す。
「もう一度確認しておきます。あなたが自分のフラストを倒した、ということで間違いないですね?」
咲希自身、自分がフラストを倒したというのは非情に不自然な感じがするけれど、実際はそういうことになっているので、咲希は頷くことにした。
「はい、そうです」
若草はなおも訊いてくる。
「どうやって倒しましたか?」
訊かれて、咲希も困る。どうやって咲希がフラストを倒したのかわからないし、何より咲希がフラストを倒したという自覚がないのだ。
若草は柔らかな言葉で咲希を促す。
「覚えている限りでいいんです。そのときのことを、詳しく教えてください」
咲希は考え込む。
咲希の心の中にフラストがいたことは覚えている。そして、もうフラストが咲希の心からいなくなってしまったことも知っている。
しかし、どうやってフラストを倒したかと訊かれると、途端に記憶が曖昧になる。
咲希は、MASKSではない。雨宮や高峰、倉橋のように、フラストと戦えるだけの力は持っていない。自分がフラストを倒したなんて言われても、にわかには信じられないし、実感が湧かない。
「拒絶、したから」
咲希の呟きに、若草は反応を示す。
咲希は困ったように、それでも言葉を探す。
「よく覚えていないんです。どうやって倒したかなんて。私自身、私が倒したなんて、思えなくて」
咲希はそのときのことを回想しながら、言葉を紡ぐ。
「雨宮くんは、私が自分のフラストに打ち勝ったからだって言ってましたけど……」
咲希は断言する。
「私は、拒絶したからだと思うんです」
若草は真剣に咲希の話を聞く。
「拒絶した、というと?」
「フラストを、否定した、っていう意味です」
若草は考えるように額に組んだ手を当てる。
「でもそれはあなたのフラストだ。あなた自身の心の投影。それは、自分を否定したということになりますね」
咲希は頷く。
「確かに、あれは私でした」
しかし、すぐに咲希は俯く。
「…………でも、私は」
そこまで言って、うまく言葉が出てこない。
咲希のフラストは、社会を憎んでいた。
他人が嫌いで、周りの笑い声が、話し声が、存在が、全てが鬱陶しくて、嫌悪そのものだった。他人が嫌いだから、他人だらけの社会が嫌だった。
社会の中にいるのが、社会に束縛されるのが、嫌だった。そんな社会という集合体を、憎悪していた。
――でも……。
咲希は顔を上げた。
「あそこまで、社会を嫌っていないし、人を嫌ってなんかいません」
咲希の顔に、もう迷いの色はない。
そこにあるのは、咲希の決意した意志だ。もう、誰かのせいにはしない。もう、自分から逃げない。もう、誰かを傷つけたりしない。
「なるほど」
若草は頷いて、組んでいた手を解いた。
「わかりました」
その瞬間、咲希の肩から力が抜けた。
咲希は自分の言ったことが急に恥ずかしくなって、顔を赤らめて俯いた。
「すいません。変なこと言って」
「いえいえ」
若草は手を横に振る。
「こちらこそ、嫌なことを思い出させてしまい、申し訳ありませんでした。でも、おかげで参考になりました」
その言葉を聞いて、咲希はふと疑問に思った。
「あの」
「はい」
一瞬だけ逡巡して、咲希は迷いながらも口を開く。
「参考って……」
「お、見ぃーっけ」
若草の声ではない。もちろん、咲希の声でもない。別の誰かだ。
若草と咲希は、ほとんど同時に声のした方向を見た。
「あれ、若草はん」
「やあ、倉橋くん。どうしました」
倉橋は若草と咲希を交互に見ながら、必死で言葉を探す。
「いや、あれですよ。若草はんが咲希はんに会いたい言ーとりはったんで、呼んだんですけど」
「はい、会いました。話も、もうすみました」
「あ、さいですか」
倉橋は、そこから言葉が続かない。引き攣った笑みを浮かべながら、困ったように頭を掻いている。
唐突に、倉橋は手を上げて、わざとらしく叫んだ。
「じゃ、俺はこれで」
それだけ残して、倉橋は逃げるようにしてその場から消えた。
「…………」
咲希は呆然として、倉橋のいなくなった場所を見つめていた。
どうやら、倉橋は咲希を若草に会わせるために、たった今、この場所に到着したらしい。現在の時刻は、倉橋が指定した時間から一時間は経過している。
「…………フラストを倒す方法です」
若草の声が聞こえて、咲希は意識を若草のほうへと戻す。
「その参考に、あなたの話を聞きたかったんです」
「フラストを、倒す?」
咲希の口から咄嗟に言葉が漏れる。
「でも、フラストを倒せるのは、MASKSだけなんじゃ……?」
「MASKSに代わる、新しい方法の模索です」
若草は答える。
「MASKSを作るには、ある特殊な処理が必要です。実際にフラストと戦えるまでの訓練もしなければいけません。それでも、全てのMASKSがフラストに勝てるわけではありません。フラストに敗れて、再起不能になるものもいます」
フラストに敗れたMASKSは、多くは心を破壊されて、感情を失う。生きてはいるが、自分からは何もしないし、何も感じない。苦しみを感じないかわりに、何も望まない。完全な植物状態となる。
「それに、フラストと戦闘になれば、少なからず社会に影響が出てきます。フラストを倒せたとしても、フラストを宿した人たちの心理的ダメージはなくなりません」
フラストが心の世界から溢れて、体の世界――人間や他の生物が実際に暮らす世界――に流れ出すと、宿主である人間は一時的に意識を失う。心の一部を急激に失うからだ。
そのため、フラストを破壊した場合、宿主は大幅に心を失い、精神的に大きな欠落が生じる。フラストが宿主の心の多くを占めていた場合、最悪の場合、宿主本人も感情を失い、植物状態になる事例も報告されている。
MASKSとフラスト、どちらが勝っても、被害は出る。
「けれど――」
若草は続ける。
「もしも上嶋さんのように、宿主本人がフラストを倒すことができれば、被害は少なくなります。フラストが心から溢れる前に対処できれば、MASKSも必要なくなる。そうなれば、MASKSを作り出すことも、なくなる」
最も、と若草は自嘲したように笑う。
「これはあくまで、理想論ですけどね」
若草は立ち上がった。
どうやら、話はこれで終わりのようだ。咲希も、若草のあとについて公園を出たところで、若草は咲希のほうへと振り返る。
「もう一つだけ、付き合ってもらえますか?」
咲希は雨宮の住んでいるアパートの前に立っている。
随分、久し振りな気がする。六月に訪れたのが最後だから、およそ二ヶ月振りだ。そのときと何ら変わっていない、雨宮の居住地。
咲希と若草は階段を上って、雨宮の部屋の前に立った。若草がインターホンを押してみたが、返事はない。
「仕方ないですね」
若草は懐から一本の鍵を取り出した。
「スペアですか?」
咲希の問いに、若草は頷く。
「全てのMASKSの家の鍵のスペアを、私は持っています。もちろん携帯の番号も把握しています。嫌な話ですが、MASKSの状態を常に把握するためには、必要なことなんです」
若草は苦笑して、扉の鍵穴に鍵を指した。
――カチャ。
乾いた音がして、扉はあっさりと開いた。
「MASKSの中には――」
部屋に入りながら、若草は口を開いた。
「家や、あるいは他の場所に留まって、全く動かなくなるものがいるんです」
「え?」
咲希は当惑して声を上げる。
若草はさらに続ける。
「MASKSは、元々、心に傷を負った子どもたちを育成することによって作り上げています。育成といっても、彼らの傷をさらに抉るようなことをするんですけど」
若草は苦笑を浮かべる。
「だから、MASKSは精神を痛めた状態で社会に出ます。そしてフラストと戦う際には、その頃のトラウマを引き出さないといけない。いつ、壊れてしまってもおかしくありません」
若草の表情が暗くなる。
「MASKSとしての任務を放棄して、戦いを止めて、連絡もとれない、そんなMASKSは、結構いるんです」
「じゃあ、雨宮くんも……?」
咲希は咄嗟に口を開いたが、それ以上言葉が続かない。
若草はそれには答えず、さらに続ける。
「高峰くんから、今日学校に来ていないとの報告を受けました。一応、休学の手続きは夏休みまでとしていたので、今日から普通に登校しているはずだったのですが」
若草は居間へと繋がる、扉を開く。
二人は部屋へと入り、咲希は中を見た。
以前来たときと何も変わらない、何もない部屋だった。テレビもない、机もない、ベッドもない、窓にカーテンはなく、誰かが生活しているような痕跡が見当たらない。
「いませんね」
若草は部屋の中を隅から隅まで見渡す。といっても、ものがないのだから、見るものすら存在しない。
若草は困ったように帽子の上から頭を掻く。
「どこか、違う場所にいるんでしょうか」
困惑気味の若草に対して、咲希は部屋に入ったときから、一つの場所に目を向けていた。咲希の足は、自然とその前へと赴いていた。
――押入れ。
襖で区切られたもう一つの空間、何度も雨宮の家に訪れたことがあるが、その奥だけは咲希も目にしたことがない。
「……」
咲希は襖に手を伸ばす。
――すっ…………。
取っ手を掴んで引いてみると、襖は簡単に動き出した。頻繁に使われているのか、抵抗はない。
一〇センチメートルほど開けて、咲希は中を覗き見た。中は真っ暗で、何も見えない。中をよく見ようと、咲希は顔を近づける。
――目が合った。
「きゃっ!」
咲希は咄嗟に悲鳴を上げた。
その声に呼応するように、襖が内側から勢いよく閉められる。
――バチン!
咲希は襖から身を引いた。
取っ手に指をかけたままだったので、ぶつかった衝撃に指先が痺れる。しかし、咲希にとってはあまり重要なことではない。
暗闇の中から覗いた、白い光を放つ瞳。異常なほど見開いたその目は、どこか人間らしさを欠いていた。恐怖を色濃く含んだ、見るものにもその恐怖を感染させるような、強烈な異色を放っていた。
「そこですか」
声がして、咲希は振り返る。
咲希のすぐ後ろに若草が立っていて、若草は咲希の横を通り過ぎて襖の前に立った。
「雨宮くん?」
返事はない。
返ってくるのは、不自然なくらい冷たい静寂だけだった。
「そこにいるんですか?」
やはり返事はない。
物音一つなく、呼吸の音すら聞こえない。
「開けてもいいですか?」
若草は取っ手に手を伸ばす。
「開けますよ」
若草は襖を開けようと取っ手を引いてみたが、襖はピクリとも動かない。
「…………」
若草は取っ手から手を離す。内側から力が加えられていて、開きそうにない。若草は困ったように襖を見つめる。
「……雨宮くん」
呼びかけたが、返事はない。
若草はさらに続ける。
「ここを開けてくれませんか?」
「……」
「少しだけ、私とお話をしましょう」
「……」
若草は溜め息を吐いて、後ろに立っている咲希へと向いた。
「…………ダメ、みたいですね」
若草の顔には苦笑が浮かぶ。
「先に外で待っていてもらえますか。すぐに行きますから」
咲希は、しかし動かなかった。
硬直したように、その場に立ち尽くす。咲希の視線は、ただ襖のほうに向いている。
「……」
咲希は服の裾を摘んだ。
決心したように、咲希は若草の脇を通りすぎる。
「上嶋さん……」
「雨宮くん」
咲希は襖の前に立った。
「私、上嶋咲希」
返事はない。
咲希は続ける。
「雨宮くん。私、雨宮くんに訊きたいことがあるの」
「……」
「――真奈を殺したのは雨宮くんだって、あれ、本当?」
「…………」
昨晩、咲希の携帯電話に雨宮から電話があった。
咲希のフラストが消滅した後、咲希は何度か雨宮の家に訪れた。フラストが咲希の心から消えて、その後の生活に影響がないか様子を見るためだ。そのとき、何か異変があればすぐに連絡がとれるようにと、咲希は雨宮から携帯の番号を訊かれた。
普通は雨宮が咲希に電話番号を教えるところだが、生憎雨宮は携帯を所持していない。組織のほうで携帯電話を没収されているのだと雨宮は説明した。
結局、その頃は雨宮が咲希の携帯電話に連絡を入れることはなかった。咲希も、昨日の夜まで、雨宮に連絡先を教えたことをすっかり忘れていた。
雨宮が咲希の携帯にかけてきた、最初の電話。
『僕が…………白百合さんを、殺した……』
咲希は、再び口を開く。
「私、全然納得できないから」
咲希ははっきりとした口調で言った。
「あんな、電話だけじゃ、私、全然わからないことだらけだから。だから、ちゃんと教えて」
「……」
「学校に来て、ちゃんと私に、私の前で、全部教えて」
「……」
「私、待ってるから」
返事は、最後までなかった。
咲希はそれだけ言うと、襖に背を向けて部屋を出た。
「…………」
若草は苦笑して、帽子の上から頭を掻く。
「雨宮くんに、朗報だ」
襖に向かって、若草は口を開く。
「高峰くんと、それと一条くんから、君が二体のフルセルフを倒したと報告があった。一体はホリックであるクロくんと協力して捕縛したけど、もう一体に関しては君の独力で倒した、とね。以上の功績から――」
若草はポケットから何かを取り出した。
掌くらいの大きさのそれは袋に入っていて、中身はわからない。それを若草は自分の足元に置いた。
「君から、高峰くんの監視を外す。携帯電話も、君に返却し、組織からの連絡も、君に直接伝える」
反応はない。
若草は嘆息する。
「これからの君の活躍に、期待しているよ」
若草は閉ざされた襖に背を向けて、そのまま部屋を出た。誰もいなくなり、そこには何もない、永遠に等しい静寂がこの空間を覆う。
辺りは漆黒の闇だった。
明かりはない。外の明かりさえ届かない。どこかの建物の中だろうか、しかし窓もないので外の様子がわからない。非常口へと誘導するランプだけが不思議な色を放っている。
足音が聞こえる。
密閉された空間のため、方向がわからない。ただ足音だけが、この場所に響き渡る。
ぽおっと、明かりが見える。それが近づいてくるのがわかる。それと同じく、足音も近づいてくる。
誰かが来るようだ。
曲がり角、その向こうから誰かが来る。明かりが次第に大きくなり、その中に一つの影が浮かび上がる。
「ったく」
角を曲がってきたのは、一人の少年だった。
穴の開いたジーンズに、上着も擦り切れたように所々から糸が伸びている。元々そういう恰好なのだろうが、どうもみすぼらしい印象を与える。
トップのシャツには禍々しい、不吉な雰囲気を漂わせる模様が描かれて、首からは刃物のように尖ったアクセサリーが垂れ下がっている。左耳に埋め込み式のピアスが、何個か装着されている。
左手にライターを持って、それを明かりの代わりにしている。
「なんでこんなところに来なきゃいけねーんだよ」
少年は苛立ったように吐き捨てる。
「もっとマシな場所に呼び出せ、っての」
少年はさらに先へと進む。
すでに停止しているエスカレーターを下って、少年は最下層へと辿り着いた。
駅のプラットホーム。辺りは白い壁に覆われて、窓もないので外の様子もわからない。どうやら地下のようだ。
「ここでいいのか?」
明かりのない地下のホーム。少年はライターの明かりを頼りに、先へと進む。
「…………」
人気のないホームの中、足音だけが異様に響く。両側に線路が並び、柱とベンチが交互に続く。
柱の陰から出て、少年はライターを突き出した。漆黒の空間を、ぼんやりと明るい光が照らし出す。また誰もいないと思って足を踏み出そうとした瞬間、少年の目に黒い影が映った。
「うわっ!」
少年は反射的に悲鳴を上げた。
影は動かない。
「…………」
少年はライターを持つ手を伸ばして、ベンチに座る影を注視する。
明かりが次第に影を飲み込んで、その形がはっきりとしてくる。影の正体がわかって、少年は安堵の息を漏らす。
「なんだ、笹竹かよ。脅かすなよ」
笹竹と呼ばれた女性は、しかしベンチに座ったまま身動き一つしない。ベンチに座ったまま、じっと線路の先を眺めているだけだ。
大学生だろうか、少年と比べて大人っぽい雰囲気がある。笹竹は少年に目を向けるでもなく、まるで少年の存在そのものに気付いていないように静かだった。
「榊原の奴は、まだか?」
「うん」
か細い声が返ってくる。
あまりにも小さすぎて、うまく聞き取れない。誰もいないこの場所だからギリギリ聞こえる、そのくらいの声だった。
少年は不機嫌そうな声を上げる。
「けっ、相変わらず薄気味悪ー奴だな」
「…………」
返事はない。
その様子が気に入らなかったのか、少年はさらに続ける。
「そんなんだから、親に捨てられるんだよ」
ビクンと、笹竹の肩が震える。
笹竹の反応に満足したのか、少年は愉快そうに言葉を続ける。
「親だって嫌がるさ、テメーみたいなねくらなんか」
「…………いや……」
その声を、少年は辛うじて聞いた。
笹竹の体が、小刻みに震えている。膝の上に整えられた両手が、ガタガタと震えている。その動きは、尋常ではない。
少年は異変に気付いて、言葉を飲み込んだ。
「おい」
「いやアアアアァァ!」
笹竹が叫んだ。
直後、周囲の空気が変わった。
明度がさらに落ちて、淀んだ空気が辺りに満ちていく。闇の上を、さらに暗いものが塗り潰していくような不快感。粘りつくような感触が空間を塞いで、肌を這う。息が詰まるような、圧迫感。
その気配が、形を成す。笹竹の姿が歪んで見える。笹竹の周りの空気だけ、異質なものが混ざったように、光が捻れる。
「まっ……!」
少年が声を上げるのと、ほぼ同時だった。
気配が動いた。
少年は咄嗟に飛んでそれを躱した。
「……!」
少年の手にしたライターが、それを照らし出す。
直前まで少年のいた場所、その壁にべったりと何かが張り付いている。濁ったそれは、アメーバかスライムのように粘質性を持ち、壁に付着する。
辺りを見回すと、同じような塊がホームのあちらこちらに張り付いている。天上、床、線路やその奥の壁にまで。
少年は慌てたように声を上げる。
「ワリーいワリーい。俺が悪かったよ。ただの冗談だ、冗談」
謝罪の言葉を述べたが、笹竹の耳には届かない。
――グニャ。
笹竹の周りで、何かが動く。
直後。
それが伸びてきた。
半透明のスライム状の物体、それが突起のようになって辺りに拡散する。
少年は慌てて回避行動に出る。その途中で、ライターを落としたのか、辺りは漆黒の闇に包まれる。スライムが周囲の壁や床に付着する独特の音が、不快に空気を振るわせる。
「――おい」
闇の中に明かりが点る。
「あんま、調子に乗ってんじゃねーぞ」
少年の姿が闇の中に浮かび上がる。
少年の右手の上に明かりが点く。だが、少年の右手にライターはなく、代わりに炎の塊が掌の上に浮かんでいる。
「いい加減にしねーと、灰にするぞ」
少年の表情は激情にかられて歪んでいる。
一方の笹竹は、ベンチに座ったまま怯えたように震えている。しかし、それは今の少年の態度に恐怖を感じているからではない。彼女の耳には、そもそも少年の声はもう聞こえていない。
少年は苛立たしげに、右手の炎を掲げる。
少年が腕を振り下ろそうとした、その直前に、別の声が二人の間に割って入ってきた。
「何をやっているんだい、二人とも」
二人は声のしたほうへと顔を向ける。
足音が、ホームの中に響き渡る。ゆっくりと、ゆっくりとこちらに近づいてくる。漆黒の闇の中、そこから一つの影が現れる。
体をすっぽりと覆い隠すように、爪先まで隠せるくらいの黒いロングコートを身に付けて、お伽話の魔女がつけるようなつばの大きい帽子を頭に乗せている。
全体的な色合いとは対照的に白い仮面を被り、そこだけ浮かび上がって見える。その人物はベンチのすぐ傍、笹竹の近くまで行って、立ち止まる。二人は驚いたようにその存在を凝視する。
「君たちが争っても、仕方ないでしょう」
仮面の人間が口を開く。くぐもって年齢まではわからないが、どうやら男のようだ。
少年はバツが悪そうに顔を背けて、対照的に笹竹は怯えた目で仮面の男を見上げる。
「落合くんに」
「ちっ」
「笹竹くん」
「……ぁ…………ぁああ」
二人にそれぞれ視線を送って、男は困ったように溜め息を吐く。
「仲間なんだから、仲良くしないとダメじゃないか」
「……ぁ……あのぉ…………」
笹竹が仮面の男に向かって声をかける。
仮面の男は笹竹のほうを見る。
「あ、あの。…………ええっと……」
声をかけたのはいいが、笹竹の口からはうまく言葉が続かない。迷うように口を動かして、目はあらぬ方向を泳いでいる。
「ごごごごごめんなさい」
笹竹の口から言葉が溢れ出る。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………!」
必死で謝る笹竹。
その様子は、怒られることに恐怖しているように見える。
仮面の男は、すっと笹竹の頭に手を伸ばす。
「わかってくれればいいんです」
笹竹は口を噤む。
男の手が、笹竹の頭を優しく撫でる。
「君はいい子です。笹竹くん」
安心したのか、笹竹は仮面の男を見上げて、明るい笑顔を浮かべる。
笹竹の様子に安堵して、仮面の男は続いて落合のほうへと顔を向ける。落合は驚いたように目を見開いていたが、男の視線に気付いて、ぷいと顔を背ける。
「ふん」
仮面の男は肩を落とす。
「で?」
顔を背けたまま、落合が口を開く。
「何の用だよ、榊原さん。俺たちをこんなところに呼び出して」
仮面の男は笹竹の頭から手を引いて、声のトーンを僅かに落として口を開いた。
「――計画を、実行に移すときが来ました」
二人は榊原を見た。
「私の予てからの目的、人々を解放する日が来たのです」
その言葉を聞いて、落合は笑みを浮かべる。
「やっとかよ」
楽しそうな口調で、落合は言った。
「やっとこれで、MASKSどもを皆殺しにできんのか」
落合の目は、歓喜と狂気が入り混じったような光を放っている。これからのことに期待を膨らませる、純粋で、残虐な笑み。
「あれ。他の人は?」
笹竹はキョロキョロと辺りを見回す。
落合も、ようやくそのことに思い至って、周囲を見た。地下のホーム、この場所にいるのは榊原と笹竹と落合、その三人だけだ。
「集まってるのは、俺たちだけか?他にもいただろ。二人くらいよお」
その言葉を聞いて、榊原は項垂れる。
「広末くんと白百合くんは、来ません」
二人は意味が掴めず、榊原を凝視する。
「は?どういうことだよ」
「見捨てたの?」
笹竹が恐る恐る榊原を見上げる。
聞いてしまうのが怖くて、それでも聞かないでいることができない、笹竹の表情には微かな不安が滲んでいる。
「他の人たち、見捨てちゃったの?」
榊原は苦笑して、首を横に振る。
「いいえ」
榊原は口を開く。
「広末くんは組織に捕らえられ、そして白百合くんは…………」
言いかけて、榊原は口を閉じる。
二人の視線が榊原に集中している。榊原はしばらく思案するように言葉を止めて、やがてゆっくりと口を開く。
「白百合くんは、もう、いません」
落合、笹竹、二人はすぐに榊原の言葉の意味を理解できなかった。
榊原は躊躇いながらも、言葉を続けた。
「MASKSKに、やられました」
辺りを静寂が覆う。
榊原は口を閉じ、二人もすぐには何も言えなかった。落合が言ったように、自分たちにはあと二人の同士がいたはずだ。だがそのうち一人は敵対している組織に捕縛され、もう一人はやられた。
その事実は大きい。二人は理解するだけでもやっとのようだった。榊原も、それ以上の説明の言葉が浮かんでこない。
一分近い沈黙が、突然破られた。
「へ、情けねーな」
最初に口を開いたのは、落合だった。
その言葉には、今までの重たい空気を一蹴するような、軽薄な音が含まれている。やられた仲間を労るどころか、負けた仲間を侮蔑するような、そんな響き。
「落合くん」
榊原の言葉を無視して、落合は歩き始める。
「俺だって――」
落合は口を開く。
「MASKSに会ったことがあるぜ」
落合はさらに続ける。
「仮面を外してくる奴らだろ。俺のこと、フラストと勘違いしてるみたいでさー。マジ、ふざけんな、っての。フラストなんざ、一瞬で灰にできる、っつーの」
不服そうに漏らした落合は、すぐに表情を変える。
「MASKSも、フラストよりは強ーみたいだけど、トレストくらいか、俺の敵じゃねーよ。つまり、だ」
落合が笑みを浮かべる。
勝ち誇ったような、不敵の笑み。
「そいつらは、カス、ってことだろ」
落合の言葉に、しかし榊原は控えめに応じる。
「落合くん。そんな言い方はないだろ」
「だって、そうじゃねーか」
榊原の言葉を遮って、落合は口を開く。
「俺たちは完璧な存在なんだろ。榊原さんが言ったことじゃねーか」
「…………」
榊原は口を閉じる。
落合はさらに続ける。
「そんな俺たちがフラストになんか、MASKSにだって、負けるわけがねーんだよ。それともあれか、やられた奴らは欠陥品だった、ってことか?」
落合は、まだこの瞬間、異変に気付いていない。
落合は笑みを浮かべて続ける。
「じゃあ、よかったじゃねーか。計画の前にいなくなってよ。捨てる手間が省け……」
言いかけて、落合は途中で言葉を飲み込む。
――ぞわっ。
空気が変色する。
ホーム全体を埋め尽くすような、長年放置された下水道のように汚れが蓄積して、粘質性のヘドロがこびりついた様な、不快な空気。それが肌の上を這って、淀んだ空気に視界が歪む。圧迫されるような重圧に、息が詰まりそうになる。
――グニャ。
笹竹の姿が、歪む。
急速に形を持ったスライム状の物質が、触手状に伸びて、落合に向かって襲い掛かる。
落合の右手が、瞬間、炎を帯びる。炎上した炎は落合の右腕を飲み込み、その腕を向かってくるものに向かって差し出した。
炎と、暗緑色のスライムが衝突して、スライムは熱気のせいで蒸発する。
「おいおい、なんだよ。俺、気に障るようなこと言ったか?」
叫んだ直後、落合の顔色がサッと白くなる。
「……まさか。欠陥品、って言葉に…………!」
笹竹の周りで、何かが動く。
落合は慌てて笹竹に向けて掌を曝す。
「おい、待て!やめろって」
制止の言葉を、しかし笹竹の耳には届いていない。
怯えたように体を小刻みに震わせて、笹竹の顔は明らかに色を失っている。笹竹の姿は暗緑色のスライムに遮られて、異様な形に歪んでいく。
「お前のことじゃねーよ。カスなのは負けた奴らのことで……」
「止めないか!」
二人はハッとして、顔を上げた。
二人の視線の先に、榊原がいる。まるで時が止まったように、二人は榊原を見つめたまま硬直する。
「落ち着いて、笹竹くん」
榊原は屈んで、笹竹の肩に手を置いた。
「…………ごめんなさい」
笹竹は項垂れて、か細い声で謝罪する。
仮面に隠れて、榊原の表情は見えないが、仮面に刻まれた笑顔がこの場の凍てついた空気を和らげてくれる。
「笹竹くんは、本当にいい子です」
さて、と言って、榊原は立ち上がって後ろへと振り向いた。
「落合くん」
榊原の視線を、しかし落合は顔を背けて無視する。
「君は少し、言葉が過ぎます」
榊原は落合のほうへと歩き出した。
少しずつ、少しずつ榊原が近づいてくるが、落合は榊原と顔を合わせようとしない。強く奥歯を噛んだまま、決して顔を上げない。
「仲間のことを、悪く言うなんて」
榊原が落合の前に立つ。
二人の距離は、一メートルを切った。
「そんなに言うんだったら――」
落合は目を見開いた。
榊原の手が自分の顎を掴んで、くいと正面を向けられる。落合は、抵抗しなかった。抵抗もできなかった。
榊原の声質が変わった。
やや高い、猫撫でするような異質な声、それは男性というよりは、成熟した女独特の声に近い。
毛穴が開く。総毛立つとはこのことをいうのか。筋肉が弛緩して、体の自由が利かない。汗の粒が体中の汗腺から噴き出しているのがわかる。体が妙に熱くて、汗が服に染み込んで肌に不快感を与える。
炎に照らされて、榊原の仮面が妖しく揺れる。
「勝てるわよね」
体中を舐められたような、そんな異質な感覚と、不快感。
その声が、また変わる。
「MASKSになんて、簡単に勝てるんだよね」
落合は反射的に半歩下がる。
その距離を埋めるように、榊原は体を寄せてくる。二人の距離は、もう三十センチメートルくらいしかない。
「そうなんだろ」
やや高めの声だが、女のものではない、男性というよりは少年に近い声をしている。
「この計画で、君は素晴らしい功績を挙げてくれるんだろ」
仮面が、落合の目の前にある。
仮面の愉快そうな笑顔が、このとき落合の目には不気味に映る。
――榊原さん…………。
榊原の声のトーンが、今度は一気に落ちる。
「そんだけ言ったんだ。マジでやらねーと絞め殺すぞ」
榊原の手が、音もなく落合の首元まで移動している。首を掴む手には僅かに力が入り、気道が少しだけ押し付けられる。
――また、壊れやがった……!
落合は、しかし抵抗しない。
そんな余裕もないのか、驚愕したように目を見張って、榊原を見返すことしかしなかった。落合の頬を一筋の汗が伝う。
不意に、榊原は落合の首から手を離した。
「さて……」
振り向いて、榊原は落合から離れて歩き出す。
「計画の内容について話そう」
歩きながら、榊原は説明する。
その声は、最初のときの榊原に戻っている。
「計画の実行は明日の午前二時。ほとんどの人たちが寝静まった頃に行う」
笹竹と落合の中間くらいの位置で、榊原は立ち止まる。
「君たちの役目は、私の護衛」
笹竹と落合の前に、それぞれ奇妙な仮面が浮かび上がる。蒼白い光を放ち、仮面の口元には紙切れが挟まっている。
「配置は、その紙に書いてある場所とする」
二人は紙切れを手に取った。
この町の地図のようだ。それぞれの地図には、違う場所にバツ印が付いている。
「笹竹くんは鉄橋を、落合くんには町のほぼ中央に位置するロータリーにいてもらう。私のところまでやって来るMASKSを、それ以上近づかせないようにするのが君たちの役目だ」
笹竹と落合は手にした地図をよくよく眺める。
「この、丸い印は、なんだ」
落合が自分の地図を指差した。
そこには何かを囲むように丸い印がつけられていて、笹竹の地図にも、同じところに同じ印がしてある。
榊原は答える。
「私のいる場所です。そこに近づかせないようにしてください」
二人はまだ内心当惑したように、地図と榊原の交互に視線を向ける。
「まずはこの町から解放し――」
榊原は歩きながら、両手を広げる。
「やがては世界中の人々が己の仮面から解き放たれる。世界のために」
確信したように、榊原は呟く。
笹竹はまだ不安があるのか、物憂げに榊原を見上げる。落合のほうは、しかし、恐怖の色を残しながらも、楽しげな笑みを浮かべる。




