序曲
世界はモノクロにしか見えなかった。
世界を覆う空は病的に白く、どこまでも清んでいて、無機質だった。稼動しない空は全てにおいて無感情で、平等という言葉がよく似合っている。
雲などない。
風などない。
そんなものは、関与に入らない。
空はただ清んでいて、静かで、上空に存在する全てのものはただ透明で、上空に存在する全てのものはただ白い。
下界には、人工物質が散乱している。
道を塞ぐ巨大なビルは乱雑に上を競い、蟻共が這い回る足元には見向きもしない。薄汚れた蒼白の建築物は黒塗りの窓のせいで窒息しかけている。白いマスクが似合いそうだけど、疲弊したコンクリートは失われた色をして、瓦礫の山へと姿を変える。
規則正しく張り巡らされた道路は、どこまでも続いていて、どこまでも平坦で、どこまでも自主性がない。身勝手に創造された道は固定的に存在していて、邪魔でしかない。定められた道は、定められた世界の縮図を示している。
路面を流れる車は風のように冷たい色を放っていて、信号のスイッチに導かれるままに秩序だった軌道を描いて走る。その透明な白い鉄屑は途切れることなく、世界の空気に溶け込んでいた。
だけど、人はそんな世界を気にも留めない。
なぜなら、人は黒いから。
人は原色の黒でできている。
光を通さない暗黒色。黒でできた人の姿は、影絵の人形と同じ形をしている。色は単色、厚みはない。紙切れのように景色と等しく流れていて、それでも自身を飾り立てようと、思い思いに着飾っている。
そんな通俗の行動に意味がないことを、人は理解していない。
かわいい服も。きれいなアクセサリーも。髪を伸ばしても。化粧をしても。眉をいじっても。爪に飾りをつけても。スカートを短くしても。腰パンをしても。髪を染めても。ピアスをしても。
そんなことに意味はない。
人の黒い色素が、全てを黒く侵食する。
黒い人形たちは、天下を闊歩する。大地を踏みつける音は津波となって、空気を横切っては嵐を起こし、けたたましい話し声は公害に等しい。
どんなに着飾っても人の本性は変わらない。それはわかりきっていた。理解していたはずなのに…………。
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規則は人の守るべき正典である。
規律は人が持つべき精神である。
古より、人は人を怠惰にさせない為に神意を定め、人を愚かにさせない為に教育を施したのだ。
人は常に正さねばならない。なぜなら、人の性質の根幹には野生の面がまだ残っているからだ。
人は身勝手だ。結局人は自分のことしか考えていない。周囲の存在よりも、最後には自分が一番かわいい。自己中心的で、自分の損得に異常なくらい過敏で、自分さえ満たされればそれでいい。
そのためならば、人はいくらでも人を使う。人の言うことなど聞きはしない。自分の障害になるのであれば、いくらでも人を圧迫して、陥れて、排斥する。
暴力は悪であり、嘲笑は非道であり、支配は邪であり、無関心は罪である。
全ての悪行は正義を以て雪がれねばならない。正義の名は正当な行使であり、その断行は神から許された聖なる魔力なのだ。
恐れる必要はない。
臆する理由はない。
悪を憎んで何が悪い。非道を制して何がおかしい。邪を諫めて何が不満だ。罪を訴えて煙たがれるいわれがあるか。
これは正義の行為なのだ。それが教えではないのか。人はそれを徳と呼ぶのではないのか。その通りに動いただけだ。人の理想に貢献していただけだ。
それなのに…………。
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どうして私に暴力を振るうのか。どうして私を嘲笑するのか。どうして私を支配しようとするのか。どうして私の言葉に無関心なのか。
小さな罪人は反旗を翻す。
非難。
中傷。
陰口。
嫌がらせ。
飽きもしないで、そんな無駄なことに精を出す。そんなどうでもいいことばかりに真剣になる。
止めろと言っても止めない。止めるわけがない。
人は邪魔者を排斥する。
自己の生活を脅かす異端を狩る。
野放しにされた罪人は自分の罪にも気づかないで、あるいは気付かないふりをして、目を逸らして、耳を塞いで、ただひたすらに、自己の世界と安寧を確立するために、正義を訴える異端を攻撃する。
そして、私が信じた大人たちは私を裏切った。
どうして暴力を止めようとしないのか。どうして嘲笑の味方をするのか。どうして支配の存在を認めないのか。どうして無関心のままでいられるのか。
大人だからといって、悪を憎んでいるわけではない。
大人だからといって、正義を重んじているわけではない。
大人だって、自分の生活のほうが大切だ。
大人だって、いらない火の粉を被りたくはない。
罪を訴えても動かない。罰を求めても義務感を感じない。罪を訴えても聴こうとしない。罰を求めても拒絶する。
結局、大人も人なのだ。何よりもまず自分を優先する。他人のことなど興味に入らない。自己の平和を死守するために、目の前で起きている暴動には見向きもしない。口ではいくらでも聖人を語れるのに、すぐ近くで起こっている誤りには身を投じない。関与を否定して、拒否して、質すべき訴えを疎んで、全ての責務を放棄する。
罪人は、告訴を密告と言い、訴状を裏切りと呼ぶ。
大人は、告訴を取り合わず、訴状から逃れようとする。
――みんな人なんだ。
私は世界を拒絶して、自らを隔離した。
色のないゴミだらけの部屋の中で、私は自分の体を投げ入れる。一日中部屋の中に閉じこもり、何をするでもなく、じっとベッドの上に座っていた。身体を覆う布団は、単に部屋の中のゴミから身を護るためだけのものではない。
とても長い間、部屋の中に閉じこもっていた気がする。
一日、二日なんて短すぎる。
一月以上は経っていたかもしれない。
夜も昼もわからない、明かりのない部屋。一日が終わったのかもわからない、一日がどれくらいの長さかも忘れてしまう、色のない場所。
自分の部屋に閉じこもっている間、一度だって部屋を出たことがない。
大量の食べ物を部屋の中に隠していたから、ずっと部屋の中にいても生きていけると思っていた。普段から食欲もなくなっていたから、ずっと部屋で過ごしていても大丈夫だと思っていた。
その間、お風呂にも入らなかった。しばらくすると体中がかゆくなって、最初は我慢していたけれど、それでも時間が経つにつれて耐えられなくなって、かゆくて、かゆくて、何もすることがないからずっと体を抱えて、体中を掻いて、爪を立てて、皮膚の上に赤いあざのようになっても、爪で体中を引っ掻く。
歯も磨かない。顔も洗わない。髪も梳かさない。服も替えない。爪も切らない。トイレも部屋の中で済ませる。掃除もしない。
ずっと部屋の中で暮らした。
外の音など聴きたくなかった。
鍵を掛け、ロープで縛ったドアノブが、日に何度も激しく軋んだ。扉の前に机と本棚を置いたはずなのに、僅かな隙間から扉を叩く音が聴こえてくる。
部屋に閉じこもったばかりはよく扉が軋んだ。その頃は純粋に全てが嫌だった。強い反感の意識を持っていた。
しばらくすると静かになった。扉を叩く音もなく、部屋のほうに近づいてくる足音もしない。その頃は純粋に安堵していた。強い安らぎを覚えていた。
けれど、そのうち食糧が尽きてくる。体がかゆくて堪らない。掃除をしない、閉じ込められた部屋の中には異臭が溜まり、それでも意固地になって部屋を出なかった。
とうとう部屋の中の食糧が底をついた。何も食べない時間が続いた。何も食べないで、ただじっとしているだけの生活。
最初は空腹を感じていたが、不思議なもので、何も食べていないとそのうち空腹を感じなくなる。何も食べなくてもいいように、体が勝手に今の生活に適用してくる。部屋の中に満ちていた淀んだ空気を、全く気にならなくなっていた。
もはや動くこともない。
その頃には再び扉が軋みだした。
自分の体を動かす気力もなかったけれど、それでも部屋から出たいとは思わなかった。
――外は嫌いだ。
外から聞こえる音は嫌いだ。
そこには、欺瞞と偽善が満ちていた。
――人の本性は嫌いだった。
自己優越のために他者を、弱い存在を、異端児を誹謗中傷する。そんな小汚いやり口が大嫌いだった。
それと同時に、人の言う綺麗事に絶望した。
人の悪行を潔しとしないと言っておきながら、正義を翳そうとしない。一人の正義よりも大勢の悪魔のほうを支持して、安全なところに身を隠す。正義を語りながらも、手が汚れるのを疎んで、正義を行使するのを怠惰して、何もしない。
どこまで行っても人の本性は変わらない。そんなことはわかりきっていた。とうの昔から理解していた。
人は黒く、黒い自分を受け入れている。黒い自分にも気付かずに、黒い人の中に身体を埋もれる。
そうすることが大好きで、そうやっている自分に安堵する。
――それが人だ。
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しばらくしてから部屋のドアが開いた。
自らを封印した扉は全て取り払われた。
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黒い光の中に白い影が揺れていた。