道と道とが出会うところ
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タイトルはレイモンド・カーヴァーのパロディー。PDF推奨です。
満ちた月を見上げるまで、空が異様に明るいということにも気づかなかった。それでも、荒れ果てた山道を猛スピードで抜けていくというのは悪くない気分だ。いつもなら闇に解けきってしまう木々も、仄明るい空を背景に細長い痩せこけた巨人の群れとなり、またあるいは車のヘッドライトに照らされて、さっと四肢に似た枝をフロントガラスに張り巡らせる。間断ない上下運動で車中のあちこちに体をぶつけていたにもかかわらず、太ももに挟んだハイネケン・ビールはただの一滴もシートにこぼれ落ちなかった。
秋人はすっかり昂った声で、意味をなさない咆哮を闇夜に向かって投げた。それが山頂付近から聞こえる野犬の遠吠えに対するものだったのだと気づくまでに、しばし時間がかかった。半時間前に吸引したマリファナのおかげで、意識をひとところに留めおくことがどうしてもできなくなっていたのだ。
「おまえ、ちゃんとキマってるよな?」と秋人はこちらに顔を向けた。「ひとりでキマってると阿呆みたいだからさ」
「さっきから考えごとが止まないんだ」
「ほっほう! じゃあ安心だ。それにしても──」と彼は言いかけ、窓から特大の唾を吐いた。「それにしてもさ、人間って職を変えると人も変わっちまうもんだね。なんか覇気がなくなったっていうかさ」
「え、なんて?」窓から入り込んでくる風に負けじと、僕は声を張り上げた。
「飯田さんだよ」と言って、彼は窓を閉めた。遠吠えの真似をするのにも十分満足した顔つきで。「あの人の目、見ただろう? クマだらけだったじゃんか」
「さあ。そうだったかな」と僕は前だけを見据えて言った。そのとき僕が考えていたのは、木こりはこの山にも住んでいるのかどうかということだった。「ねえ、あの先のところで道が分かれてるよ」
「うん──でもそういうのって、ある程度歳を食ったら自分でわからなくちゃだめだよな。世の中そうそううまい話はないっていうことをさ」
「ああ、たしかに」、僕は後部座席に手を伸ばして求人誌を手に取り、ぺらぺらと捲った。「なにか食べ物ってなかったっけ?」
「左にしよう。東京方面。なにか言った?」
秋人がハンドルを切ると、タイヤが鋭い窮屈な音を立てて道を曲がった。緩やかな傾斜がしばらく続いたあとで、舗装された道に出た。車が長い直線に差し掛かると、秋人はハンドルから手を離して煙草に火を点け、カーナビゲーションの電源を入れた。
「ちゃんと前を見て運転してよ」と僕は不満を言い、求人誌をダッシュボードに投げた。「ただでさえまともじゃないんだから、おれたち」
「わかってるって」
「今回はあんまりいいネタではないけど──だって前回は笑いが止まらなかったからさ」
秋人が煙草を吸っているあいだ、僕はいっときも彼から目を離さなかった。いや、どうしても目が離せなかったのだ。これまでとは違うなにかが彼の体全体に宿っていて──<輝いている>といった安易な言葉で括れない逡巡のようなものがそこにはあって、それが秋人自身をその瞬間その瞬間に新しく作り変えているといった感じなのだ。彼の口にする言葉のほとんどは僕の意識に拾われることなく通り過ぎていったのだけれど、その声の音程に生き生きとするなにかが含まれていたのをよく覚えている。まるでちょっとずつ若返っているというような、少なくともそういう風に見えた。
反対車線を走る、何台かの同じく猛スピードの車と交錯し、木こりの想像をなおもたくましくしているところで、車が急ブレーキを踏んだ。その唐突さに、僕はすっかり肝をつぶしてしまった。千メートルも体を吹っ飛ばされて、僕はシートに着地した。
「とうとうビールがこぼれた!」と僕は叫んだ。
「さあ、どっちにする」彼は窓の外に向かって火の点いた煙草を指ではじき、車のエンジンを吹かした。「右は新宿方面、左は池袋」
「別にどっちだっていいよ。ねえ、だからビールがこぼれたんだってば──」
「だめだね」いやにきっぱりと秋人は言い切った。「文字通り、人は人生は選ばなくちゃいけない。というのは、例えばこの道を右に行くか左に行くかにしたって、おれたちの人生はまったく違うものになってしまうっていうことなんだ」
彼はとんでもなく早口でまくしたてた。僕はそのとき頭がどうにかしてしまっていたのだろう。あわてて求人誌を開き、カラープリントの紙面で必死に水滴を拭っていたから。
「それって映画の物まねかなにか?」と僕は顔を上げて尋ねた。
「違うよ──いや、そうでもあるけど、違う。本当にそう思うんだよ」彼はハンドルから手を離してシートに背をつけ、まっすぐにこちらを見た。後ろから車が来るかもしれないと注意しても、聞く耳を持たなかった。
「じゃあせめてハザードを焚けよ」と僕は命令した。
「なあ、ちょっと待った」秋人は静かに呼吸して、自分の間合いみたいなものを演出しだした。今にも消えそうな、相手を自分の話に聞き入らせるためのささやき声。「よく考えてみろよ。本当に本当によく考えるんだ」それから彼は暗い道の先を指差した。「例えばこの道を右に行ったとき、おまえはヴィックス・ノーズ・ドロップスの看板を見るかもしれない。あの、胸に塗るやつな。それは目に見えていて、見えていないものだ。言ってることはわかるよな?」
僕はサイド・ミラーから目を離さずに、かすかに肯いた。
「大丈夫だよ。話を聞けって。こんな道めったに車なんか──まあとにかくおまえは看板を見るわけだ。ヴィックス・ノーズ・ドロップスでもペプシ・コーラでもいいや。それでね、結論からいうと、五年後にふと思いついておまえはヴィックス・ノーズ・ドロップスを買っちゃうんだよ。ほとんど衝動的っていうか、すごく好奇心をそそられる感じで。もちろん薬局かなにかに行かなきゃヴィックス・ノーズ・ドロップスは売ってない。そしてたかだかヴィックス・ノーズ・ドロップスを買うためだけに、おまえは薬局に寄るんだよ」
「うん……ああ、もうわかったよ……」とうんざりした気持ちで僕は答えた。「でも早口すぎてなにを言ってるのか──」
「ところがヴィックス・ノーズ・ドロップスごときを買うだけじゃ満足できなくて、結局シャンプーも買っちゃうんだ。よし、じゃあヘア・ワックスも買うとしよう。するとおまえはその分だけ金を消費し、ヴィックス・ノーズ・ドロップスとシャンプーとヘアワックスを手にすることになる」
「そのくらいわかるよ」
「つまりおれがいいたいのはさ、たとえヴィックス・ノーズ・ドロップスの看板を一目見るだけでも、それまでのおまえの人生とは違ったものになっちゃうっていうことなんだよ。だってそうだろう?」彼は半ば悦に入るような目をして、こちらに少し寄った。彼は僕の胸のあたりを指差し、興奮のあまり今にもその指先が触れそうになる。「それがおまえの人生にどれだけの影響を与えるかなんて、おまえ自身には見当もつかないんだからさ……そうだろう? だからこそ人生には選択が必要不可欠なんだ。そうじゃない?」
僕はそれには答えずに、缶を左右に振った。ちゃぷちゃぷという音がして、異様に重さを欠いているのがわかる。
「なあなあ、聞いてんのかよ」と彼は冗談まじり、僕の肩を力まかせに揺すぶった。「でも近頃はおれだって、そういうことにあれこれと理由をつけるのを──」
まさにそのとき、サイドミラーに閃光をとらえて、僕はすくみ上がった。
「後ろから車が来てる!」と僕は叫んだ。「早くハザードを!」
「ええ、どこだよ? 見えないぞ」
「いいからハザードを焚けって!」
彼はしぶしぶ車を端につけ、三角のボタンを押してハザード・ランプを点滅させた。
「これでいいだろ」
「おまえは本当に馬鹿だな」と僕は嘆くように言った。「よりにもよってパトカーだよ」
秋人はあわててシートベルトを締めたけれど、いまさらそんなことは問題ではない。車を発進させるなどもってのほかだ。道の先で車が停まり、警官が二人降りてきた。ひとりはすでに激していて、窓を懐中電灯の柄で乱暴に叩いた。
そこでかたかたというフィルムの回り始める音がして、視覚映像が切り替わった。
「この先は行き止まりになっています」と警官は嵐の中で叫んでいた。「半時間前に落盤事故がありまして、ええ、この先には行けないんです──いえ、そうではなく、落盤事故です。近くに避難できる洋館がありますので、今夜はどうぞそちらにお泊り下さい!」
しかしそれはあくまで僕の妄想で、警官が口にしたのは「なーにやってんだ。こんなところで!」という威嚇めいた台詞だけだ。
「カーナビを見ていて」と秋人はとっさに言いわけした。
「とりあえずそっちに車を進めてください」と若い男の警官が言った。「左横にスペースがありますんで」
年嵩の方がこちらを睨みつけたまま車へ戻っていき、僕らもそのあとに続いた。
「まさか道を選ぶ前に捕まるとはな」と秋人はつぶやくように言った。「……まさか分岐点で足止めを食うなんて」
「ぐずぐずしてるからだよ」
我々の眼はそのとき異様に血走っていたに違いない。もしもマリファナを吸っていたことがばれたらどうしようと、心臓が弾けんばかりの動悸を訴えていた。だからこそ、僕らはどちらもその話題に触れようとしなかった。わざとリラックスしたような素振りを見せ、張り詰めた車内の沈黙を荒ぶる鼻息でいっぱいにした。しかし警官がふたたびこちらに寄るのを見て、耐えかねたように二人とも車を降りた。あまり明るいところで顔を見られたくない。
「証明するものはきちんとあるんだね? 免許証は?」
「あります。どちらともちゃんとあります」
秋人は震える手で書類と免許証を手渡した。年を食った警官がうさんくさそうにそれをひったくると、懐中電灯で照らしながら何度も紙面をひっくり返した。
「どこに行ってたの?」とぶっきらぼうに男は訊いた。
もごもごと小さな声で秋人が返答し、警官はそれに対してものすごく腹が立ったような顔つきをした。どうやら相手に威嚇を与えなければいられぬ性分らしい。
「なんて言った?」男は若い警官に向かって目配せをした。「おい、あれ持ってこい」
用心深い目つきで、男は僕と秋人の顔を懐中電灯で入念に照らした。マリファナの酔いもすっかり覚め、僕は吐き気をもよおし始めていた。
「酒を飲んでんのか?」
「いや──ええ、そこにいる連れは何杯か飲みましたけど」
「おまえが飲んだかって訊いてるんだ」と警官は大声でまくしたてた。「おまえは酒を飲んだのか? 飲んでないのか?」
「僕は飲んでません」
折りよく若い警官が車から戻り、秋人はチェッカーに向かって息を吹きかけた。酒気を帯びていないことがわかり、年嵩の方はそれでついと興味を失ったようだった。しかしそれもほんの一瞬のことで、警官は僕らの行為をただの悪ふざけだと決めつけたらしく、表情にその手の苛立たしさが新たに浮かび上がった。
「うちはどこなんだ」
「西荻」
「どこだって?」と警官は声を荒げた。
「埼玉です」
そこで唐突に踵を返し、男はパトカーに戻っていった。入れ替わるように若い警官が僕らの前に立ち、腰に両手をあてて忠告を口にした。秋人は媚を売るように、今回のことで罰金は取られないんでしょうかと訊いた。警官は素っ気なく肯き、うちに帰りなさいと言った。
「どっちがいいですかね」立ち去ろうとする警官に向かって、僕は声を上げた。「こっちの道と、そっちの道」
「うちに帰りなさい」と警官は繰り返した。
僕らは車に戻った。秋人がキーをひねると、止まっていた音楽が息を吹き返した。
「今回は本当にやばかったな」彼はシートをいっぱいに倒し、頭の後ろに手を組んで深く息をついた。「満月の日には必ずなにか起こるんだ。とてもじゃないけど、生きた心地がしなかった」
「楽勝だよ」と僕は言った。緊張状態を乗り越えたことで、今ではしっかり落ち着いた気分になっていた。
「どこが」と秋人は吹き出した。「おまえぶるぶる震えてたじゃねえか」
「それは自分だろう──このあとどこに行くんだ?」
「よし、では月に向かって走ることにしよう。今うちに帰ったらとんでもなく落ち込んじまうと思うから」
「腹が減ったな」
「高速を抜けて、どこかで朝飯を食う。今のところはそれが最良の選択じゃないか?」
「最良の選択なんてない」と僕は言った。「計画通り生きられる人間なんて、この世にひとりもいないはずだ」
だからこそ我々は人生を選ぼうと努めるのだ。目に見えぬ何者かの力に抗おうと、そしてなにかを守ろうと……ボートのごとき車のシートに揺られながら、そのとき僕の頭の中では、アーヴィン・ウェルシュ──「トレインスポッティング」の一節が、ラジオのように延々流れ続けていた。
「ビールはもうないの?」
人生を選べ。人生を選べ。ハリー・ローダーはこう歌っていた──この道の続く限り、おれはひたすら進んでいく、と。