仮題 桃
「桃が食べたかった」
短編小説でも朗読するように声を発した。幾度もみつめたすぎさったときを、もう一度あなたと見つめる。
「薄暗い部屋の片隅。果肉のわずかについた種。あれを硝子の机越しに見ていたんだ、いま思うと。あの人、ぼくをうんでしまい、耐えられない現実に壊れることを選んだ。いつからだろう、きかないのに、聞きたくもないのに言い訳のつもりでもなさげにいつも、いつもけだるそうにうわごとのように‥耳の奥で音がかたまる‥甘くなかった、甘かったら、残してあげたんだけど。揺れる視界、にじむ、色のないプラスチックの容器。色鮮やかな皮に包まれるやわらかな果肉を残す種が、濁った果汁に浸かって、幾度となく、透き通った容器を、容器に溜まる香りをしった。暗闇に、かすかな香り、静かな寝息、厚手のカーテンを握りしめるとベットに横たわる女は目をとじていた。溜まった汁が鈍い色を。強い香り、濁ったものは唇に触れ、止めようがなかった。桃が食べられなくなった。きっと、確かにしりたくない。でも、しりたかった本当のことをあの時から、いや、あの時も。掴んでいた容器を塵箱に落す。見つめた。手をさし入れ湿ったものを握った。小さな庭にびわの木があって、実が生るのを見ていた。だからその木の側に埋めた。だけど真実はわからない。種は花をつけることも芽を見せることもなかった。わすれられない痛みを刻むために庭も家もすぐ更地にされ駐車場に変わった。幼き日々をすごした二件目の家も跡さえ残っていない。かなしいとわらうのはいつから。もうだれかに泣かされるのは嫌だと思った長かったやみもいまはない」
もう一度笑いかける。今度はやさしげに微笑んで。