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「・・・」


 あいつら夢に出やがった。

 出たのは当然クルトとアドニスだよ。昨日のドン引きする顔で出やがった。

 血涙流しそうな顔のクルトに懇願され渋々一緒に娼館に行ったところ、般若のお面を着けた女に追い掛けられて逃げ、途中で泣きじゃくるアドニスにしがみつかれて引き摺りながら逃げるんだけど、涙と鼻水でびちゃびちゃになっていく服が段々重くなって走るスピードが遅くなり、般若のお面を着けた女に追いつかれて腹パンされるって夢を。

 アドニスお前は新手の子泣き爺か。石になる本家より涙と鼻水でびちゃびちゃにして重くするお前の方が嫌過ぎる。

 まあ、夢の話なんだけど。

 さて、嫌な夢の話はこれくらいで朝食にしようか。

 俺は寝具を片付けて着替えると、朝食を作っていく。

 今日の朝食はサンドイッチにでもしよう。定番のハムサンドと玉子サンド。それにスープとサラダでいいか。凝ったメニューを考える気力なんて無いし。

 それらを小物生産でちゃちゃっと作って食べました。調理時間一分。それでも十二分に美味しいよ。忙しい朝にはありがたいね。


「さてと、それじゃあ得意先回りに行きますか」


 朝食を食べ終えた俺は、いつものように得意先回りに行くべく店舗兼自宅を出た。


「おはようございます」

「っ!」


 俺は店舗兼自宅を出て鍵を掛けようとしたところ、誰も居なかったはずの場所から声を掛けられてびっくりする。

 声がした方向を見れば半透明から段々はっきりと見えるようになってくるアドニスが立っていやがった。

 『隠密』使った状態で話し掛けてくるんじゃねえよ!


「・・・おはようございます。誰かと思えば君か。何でこんな所に居るの?まだ出勤してくる日じゃないよね」


 この街では採用された翌日から出勤と言う場合が多い。

 だが、俺は昨日採用した三人には明後日から出勤してくるように伝えていた。領主との面会が終わるまではそちらに集中したかったし。

 それなのに何で貴様はここに居るんだ?話を聞いていなかったのか?それとも忘れた?


「はい。分かっています。今日は見学させてもらおうかと思って」

「見学?」

「はい。僕如きを雇ってくれたので少しでも早く仕事を覚えて恩返しを出来ればと。家族も家の手伝いはいいから雇ってくれた商会の仕事を早く覚えなさいって。それで、昨日は酒場を手伝わずに早くに寝て、朝一で来れるようにしてたんです」

「そう・・・」


 朝一で見学ね。自主的にその考えに至ったなら評価を上げてやるのだけど、多分違うよな。このネガティブ男がそんな能動的な行動を採るとは思えない。家族が言葉巧みに誘導したんだろう。アドニスにこれ以上酒場の手伝いをさせないために。どう考えても売り上げが落ちた原因なのだから。

 『隠密』スキルでいきなり消えたり現れたりされると本当にびっくりするんだよ。楽しく飲んでる邪魔くらいは簡単に出来る。

 それに、ゴーストとかレイスなどのアンデッドに間違われている可能性もあるからな。アンデッドの方が『隠密』スキルより一般人の認知度高いし。

 何にせよ、アドニスが手伝うことはデメリットが大きいのは間違いない。

 アドニスの家族はそこまで推察出来てはいたけど、アドニスにそのことを告げるのは憚られていたのだろうな。

 で、今回俺がアドニスを雇ったことを幸いに、酒場の手伝いをさせないように誘導したと。

 こいつの話を聞いているとそう考えるのが一番しっくりくる。


 取り敢えず、理由は何であれ、このネガティブ男が能動的になっているのだから見学するのは許可しておくか。

 得意先で『隠密』スキルを使わないように釘を刺しておかないとダメだけど。


「・・・見学するのはいいけど、今から得意先回りに行くから、ついてくるなら『隠密』スキルは絶対に使うなよ。先方に迷惑が掛かる。出来ないなら帰ってくれ」

「・・・はい。気を付けます」


 俺はそれからアドニスを伴って得意先を回って行く。

 途中、ちょくちょくアドニスの様子を確認するけど、『隠密』スキルを発動させずについてきている。得意先にも新しい従業員として紹介がてら挨拶もさせているんだけど、この時も『隠密』スキルを発動させずに堪えていた。危ない場面も何度かあったけどさ。

 これが最後まで出来るなら得意先への配達も任せられるんだがな。


「おはようございます」

「おはようございます」

「おはようございます!あ、会長じゃないですか」


 カドモス薬店に着くと店番をしていたミケルが笑顔で応対してくれる。

 うちで採用したからか呼び方が『タサカさん』から『会長』に変わっているな。


「それと、昨日、面接の時に会ったガロアさんでしたっけ?」

「はい。アドニス・ガロアです」


 アドニスもミケルとは面接の時に控室で会っていたからかあまり緊張していないようだ。

 これを初対面の人にもやってくれたらいいんだけどね。


「今日は二人してどうされたんですか?」

「俺はいつも通りに得意先を回ってるだけだよ。そこに、アドニスが見学したいって言ってついてきているんだ」

「ずるい!僕も見学したいです!僕もついていっていいですか?」

「え、仕事があるんじゃないの?」

「そんなの他の家族に任せます。面接を受けるって決めた時から僕が居なくても仕事が回るように考えてもらっていたので、特に問題は無いですよ」

「そう。問題無いのならついてきても構わないけど」

「やったー!」


 そうして、俺が見学の許可を出すとミケルは店の奥に一旦引っ込んだんだけど、その後、店に居たカドモス家の人たち総勢六人(曾祖母、母方の祖父母、母親、次兄、長姉)が出てきて一斉に「ミケルのことよろしくお願いいたします」って深々と頭を下げてきたのには恐縮したよ。ミケルはお客さんからだけでなく、家族からも可愛がられているようだな。

 因みに、カドモス家では他に父方の祖父母、父親、長兄、次姉の五人が同居しているのだが、彼らは薬草の採取に出ているらしい。

 ミケルを入れると実に十二人。かなりの大家族だ。

 彼らは全員が店の仕事に従事していて、従業員は雇っていない。完全なる家族経営。シフトの調整で困ることは少なそうだ。ミケルが抜けても問題無いだろう。


 そんな訳で、この後はアドニスとミケルの二人を連れての得意先回り。

 まあ、残りは数件だけなのですぐに終わったよ。

 この後はブリトビッツ商会に向かうつもり。

 これからのうちの主力商品を二人に見せるためにね。


「うわー、凄い人だかり」


 ミケルの言うようにブリトビッツ商会の周囲は人で溢れていた。

 よしよし。狙い通りだ。

 俺は目の前の光景に満足する。行き交う人々の全てが一度は足を止めるのだから。

 やはりこの街初の板ガラスを全面的に使った建物は珍しいのだろうな。


「何でこんなに人が集まっているんですかね?」

「窓か扉をよく見れば分かるよ」

「窓か扉ですか・・・、あ、あれひょっとしてガラスですか?」


 ミケルも俺の言葉で今までのようにただ開放された窓ではないことに気付いたようだ。

 扉も今まで木の板だったため店内を覗くことなど出来なかったのだが、板ガラスを嵌められたものになったためそこからも店内が覗けるようになっていた。


「そう。これからのうちの主力商品の歪みの無い板ガラス」

「え、歪みが無いんですか?あの、もっと近くで見てきていいですか!」

「ああ、構わない・・・って言う前に行ってるな」


 ミケルは俺の言葉を待たずに店の近くに行ってしまっていた。


「・・・すみません」

「ん?何が?」

「僕、人混みが苦手で・・・。近くに行って見てこないとダメなのに・・・」


 アドニスが消え入りそうな声でそう言ってくる。

 輪郭がぼやけているところを見ると『隠密』スキルを発動しかけているな。


「あ、近くで見る必要無いから。そのうち嫌程近くで見ることになるだろうし。今日は新商品のお披露目の日だったから連れてきただけだよ」

「そうですか」


 俺の言葉を聞いたアドニスは、あからさまにほっとした顔で息を吐き、ぼやけていた輪郭も元に戻った。

 まあ、こいつが人混みダメなのは予想の範囲内だ。間近で見てこいなんて言うつもりは無いよ。

 それから俺たちはミケルが帰ってくるのを待っていたんだが、その時に人混みの中から見知った者が出てくるのを見付けた。


「あれ、君も来てたんだ」

「あ、会長。今日が板ガラスのお披露目だと聞いていたので見に来たのです」


 人混みの中から出てきたのはレティシアだった。

 彼女は得ていた板ガラスの情報の検証と、実物の確認に来たってところかな。


「話には聞いていましたが、本当に一切歪みが無いのですね。これで増々、タサカ商会に就職する選択をしたことが正しかったと思えました。自分グッジョブです!」

「そう。そう思ってもらえてよかったよ」


 レティシアが笑顔で話してくるのを見てると、やはり彼女がうちに来てくれたのは幸運だったと思えるな。

 美女の笑顔は癒しだよ。たとえそれが演技だったとしても!


「ええ。そちらのガロアさんもそう思いますよね?」

「はい。僕如きを雇ってくれる素晴らしいところです」

「そう卑屈になるのはよくないですよ。折角いいものを持っているのですから自信を持ってください。人は自信を持つだけで何倍も魅力的になるのですから」

「・・・」


 レティシアの言う通りだろう。特にアドニスのような奴は。

 俺としてもアドニスには自信を持ってもらいたいと思っている。そうすればあの顔面資源をもっと有効に活用出来るのに。あの顔で裏方仕事だけになるのは勿体無い。


「それはそうと、先程カドモスさんもお見かけしたのですが、一緒に来られたのですか」

「うん。そうだよ」

「そうですか。私だけ除け者にされたんですね・・・」

「いやいや、違うから!除け者になんかしてないから!元々集まる予定も無かったし。今朝、店を出る時にアドニスが見学したいって言って押しかけて来たから許可して、ミケルも得意先回りでカドモス薬店に寄った時にアドニスが見学で同行しているのを見てついてきただけなんだ」


 レティシアの『除け者にされた』発言を、俺ははっきりと否定する。

 こんな誤解で雇ったばかりの従業員の機嫌を損なう訳にはいかない。


「そうだったのですね。それでしたら私もご一緒しても構いませんか?」

「うーん、もう回る所は無いから見学は終わりなんだよね」

「えっ!そうなのですか?」


 俺の言葉に驚いたのはアドニスの方だった。


「うん。今日の見学はここまでだよ」


 俺としては見学はここで終了である。

 今日はまだ商品を生産するところを見せる気は無いし、もうじき終了する廃棄物処理なんか見せる意味が無い。

 他に仕事と言えることは魔物の住む領域での材料調達なんだけど、今は本当に馬鹿みたいに魔物に襲われるから連れて行くのはちょっとな。三人もステータス的にはかなり戦えると思うけど、あの魔物の波状攻撃は危険だと思う。俺もフォローしきれる自信なんて無いし。だから、彼らに魔物の住む領域に行ってもらうのなら、俺と一緒に行くよりも彼らだけで行ってもらう方がいい。

 なので、見学はここで終了なのだ。


「見学は終わりなんだけど、時間があるならこれからみんなで昼食にでも行かない?歓迎会と言うか、親睦会と言うか、そんな感じで。勿論、俺のおごりだよ」

「はい。ご一緒させてもらいます」

「僕も」


 俺の提案にレティシアもアドニスも快く同意してくる。

 この後、戻ってきたミケルにも聞いたら「勿論行きます!」と元気に答えたよ。

 と、言うことでみんなで一緒に昼食を取ることになった。店の選択はみんなにお任せ。彼らの方が長くこの街に住んでいる分、美味しいお店の情報を多く持っているからね。

 三人が協議した結果、行くことになったのはカドモス薬店の近くにある『庶民の娯楽亭』と言う名のこじんまりとした店だった。ここは庶民がお祝い事などでちょっとした贅沢を楽しむ時に通うお店らしい。料金的には一人当たり銀貨五枚から金貨一枚くらい。安くもなく、高過ぎることもない微妙な価格帯の店を選んできたのは彼らの気配りかな。安い店だとおごると言っている俺の懐を侮ることになるし、高い店だとたかっているような感じが強くなるからね。

 俺は店に入って席に着くと、みんなにそれぞれ自由に注文するようにと告げた。

 ミケルとレティシアは自分で注文する品を選べているけど、アドニスはダメだな。視線がメニューと俺の顔を行ったり来たりしている。

 俺はその様子に苦笑いを浮かべながら、お店の人にお勧めのメニューを聞いて、それを注文しておいた。この店に来るのは初めてだったからね。

 アドニスはその様子を見て俺と同じ注文をしていたっけ。

 それから暫くして運ばれて来た料理の味はどれも文句無く美味しかった。この店これからちょくちょく通おう。

 そうして、料理に舌鼓を打ちつつ雑談をし、そろそろ食事も終わろうかと言う時に、俺は折角なので三人にお願いをすることにした。


「ちょっといいかな。これから一緒に働くみんなにお願いがあるんだ」

「お願いですか?」

「うん。新しい商品のアイディアを考えてもらいたいんだ。勿論、報酬はちゃんと払うよ。採用されて商品になったアイディアだけでなく、採用されなかったアイディアにもね」

「そう言われても、新しい商品になりそうなアイディアなんてなかなか思い付かないですよ」


 俺のお願いに、ミケルだけでなくレティシアもアドニスも困った顔をした。

 特にアドニスなんかは顔面蒼白になっている。

 いやいや、そんな顔になるようなこと求めてないからね。

 これは言い換えないとダメだな。


「えーと、そうだな、新しい商品のアイディアとして考えるんじゃなくて、もっと簡単に、こんな物があったらいいな、こんな物が欲しいって思ったものを出してもらうだけでいいんだ。それでも十分に新しい商品のアイディアになるから。具体的でなくてもいいんだよ」

「はあ。それでいいのなら出来そうです」


 俺が求めているのは新しい商品の具体案じゃないからね。具体案は日本に居た時の知識の中にたくさんある。

 それよりも、俺はこの世界の人が何を求めているのかを知りたかった。


「あと、これは義務でもないし、期限も無いから、思い付いた時に提出してくれればいいよ」


 俺は最後にそう告げておく。本当に義務ではないので、時間が出来た時にでもやってくれればいいのだ。

 この後、食事が終わったところで解散。

 三人のことを色々聞けてなかなか有意義な時間だったな。




 俺は三人と別れた後、一旦、店舗兼自宅に戻って服を狩り用の装備に着替えた。それから魔物の住む領域へと向かう。

 魔物の住む領域周辺まで来ると、いつものように生産ブロックに巨石を送り込んだものを足場に草の生い茂る場所の上を走り抜ける。

 この移動方法も結構慣れてきたな。これからは戦闘で使えるように練習しておくか。

 そんなことを考えながら森の奥地へ向かう。まあ、そうは言っても今日はこの後廃棄物処理の仕事があるから比較的浅めの場所だ。降り立った後は街に向かって、魔物を狩ったり、木を蹴り倒したりしながら進んでいった。

 今日も目が血走った魔物にモテまくりだよ。効率がいいのはありがたいけどさ。

 俺はそんなことを思いながら暫く狩りを続けていた。


「そろそろ時間かな」


 日の陰り方を見ると、そろそろ切り上げて廃棄物処理の仕事に向かわないといけない。

 俺は魔物の襲撃が一段落したら切り上げて街に戻ることに決めた。


「?」


 今、人の声が聞こえたような・・・。


「助けて!」

「うおっ!?」


 突然、叫び声と共に背中に衝撃を受けた。

 それと同時に、背中から伸びてきた長い手ががっちりと俺をホールドする。

 襲い来る魔物に対処する為、周囲の警戒を怠っていなかった俺にこんなことが出来る者は一人しか心当たりが無い。

 振り返って見るとやっぱりアドニスの野郎だった。


 びっくりしたなんてもんじゃねえぞ!戦闘中になんてことするんだ!


「助けてくださいぃぃぃ」

「おい!助けてほしいなら放せ!動けないだろ!」


 くそっ!パニくっててこっちの話を聞きやしない!

 アドニスはパニック状態なのか、がっちりとしがみついてくる。

 解放して自由に戦えるようにしてくれた方が助け易いのに、それが分かってないのだ。

 俺はしがみついているアドニスを振り解いて魔物と戦おうとするが、アドニスは火事場の馬鹿力でも発揮しているのか振り解けなかった。

 仕方なく投擲メインで対処しているけど、やはりアドニスにしがみつかれたままでは動きが悪過ぎた。


「たずけてくださいぃぃぃぃぃ」

「だったら手を放せって!っ!」


 アドニスにしがみつかれて動き難いなか、新手の角兎十羽以上が目の前に迫って来る。

 あ、やばい。これは捌ききれない。


 ガシャンガシャガシャガシャン。


「はあー」


 咄嗟に異次元収納を頭上に開いて棘付鳥籠を落としたお陰で串刺しにならずに済んだ。

 棘付鳥籠をアドニスが中心になるように落としたから、アドニスは無傷。

 俺の方は棘付鳥籠の隙間を抜けた角兎の攻撃を幾つか食らっているんだけど、重りを着けている場所は攻撃を弾き返したし、重りを着けていない場所でも少しめり込んでちょっと痛いだけだ。

 カーボンナノチューブ製つなぎマジ優秀。

 胸甲や兜は出番無し。攻撃が当たらなかったからね。

 今後は棘付鳥籠も一人用だけじゃなくて、もっと大きなサイズも作って持ち歩こう。きっちり武装していない時に今回みたいなことになると危険だからな。


 さて、アドニスに問い質したいことは山ほどあるが、先ずは此処を離れて魔物から襲われないようにしないと。

 と、言うことで、俺は棘付鳥籠を持ったまま移動する。しがみついているアドニスを引き摺りながらな。

 移動している間もどんどん魔物が襲って来るけど、そのほとんどは中まで攻撃を届かせることが出来ずに自滅してる。

 俺は一部の攻撃が届きそうな魔物だけ対処しながら、ちょっと前に木を蹴り倒して頭上の見晴らしがよくなっている場所までやって来た。


「しっかりつかまっていろよ」


 俺はアドニスに一声掛けてから思いっ切り飛び上がる。そして、次々と生産ブロックを展開して巨石を送り込んで足場を作って上空に駆け上がっていく。周囲の木の高さを超えたところで棘付鳥籠を異次元収納に仕舞い、更に上空へ駆け上がる。

 絶対に魔物に襲われない高さに辿り着いたところで水平移動を始め、一息に魔物の住む領域上空を駆け抜けて安全な場所に降り立った。


「はい、到着と。おい、アドニス、もう大丈夫だぞ。だから放せ」


 俺は頭の防具を外しながらアドニスにそう告げた。


「うぇ?」

「周りをよく見ろ。もう街の近くだぞ」


 変な声を出しながら顔を上げたアドニスが周囲を見渡す。鼻からは鼻水が糸を引いていた。


 はあー、その垂れた鼻水の片方は確実に俺の背中に付いているよな。今朝の夢が一部正夢になってしまったじゃないか。


 俺は夢と同じような状況にため息を吐きながらアドニスに向き直って様子をうかがう。

 落ち着いたのなら話を聞いて、注意してから帰すつもりだ。


「う、うわあああん。ありがと、ありがとうございますぅぅぅぅ」


 俺はアドニスに抱き付かれそうになるのを押し止め、異次元収納から取り出したハンカチでアドニスの顔を拭っていく。


 はあー、鼻水垂らした状態で抱き付こうとするんじゃねえよ。


「礼はいいから。何であんな所に居たんだ?」

「・・・う、それは、昼食の後も会長にこっそりついて行ってたんですけど、会長が森に向かうのを見掛けて、『体術』スキルを活かすならここじゃないかと思ったんです」


 こいつ昼食の後も俺をストーキングしてたのか。全く気が付かなかった。

 尾行するのに『隠密』スキルは最適過ぎるな。


「でも、会長の方がずっと速くてついて行けなくて。でも、真っ直ぐ進んでいたからそのまま行けばその内会えると思って進みました。でも、段々魔物の数が増えてきたので帰ろうかと思ったんですけど、そこで戦っている会長を見掛けて、助けてもらえると思ったんです。でも、近付けば近付く程魔物がどんどんやって来て、怖くて怖くて、必死に会長の所まで走って助けてもらったんです」

「そう。まあ、助けを求めたのは別に構わない。でも、しがみつくのはダメだからな。戦い難くなる。助けようにも助けられない。俺が『放せ』って言ったの聞こえなかった?」

「・・・すみません。聞こえてませんでした」

「そう。まあ、パニックになってしまっていたのだろうけど、冷静にならないと助かるものも助からないからな。これから注意するように。分かった?」

「・・・はい。すみませんでした」


 まあ、今回のことはこの程度の注意でいいか。命の危険があったのはアドニスの方だし。


「あ、それと、俺は魔物に襲われる体質みたいだから、ついて来ると危ないよ」

「えっ?」

「俺に近付く程魔物の数が増えただろ。あれってそう言うことだから。今度から気を付けるといいよ」

「・・・」


 今日は多数の魔物に襲われてパニックになるくらいだったのだ。これでストーキングされることも減るだろう。街の中に入った後、大人しく帰っていったし。

 俺はこの後、廃棄物処理の仕事して、風呂屋に行って、帰宅。食事して、商品を作って、すぐに寝た。




 今日は大事な領主との面会の日。

 俺は迎えに来たクルトと一緒に領主屋敷へと向かった。

 領主屋敷に着くと応接室に通され、暫く待つことに。

 出された紅茶を飲みつつ失礼の無い範囲で室内を観察するけど、流石に貴族だけあって調度品はどれもいい物だね。勿論、出された紅茶も香り、味共に優れた上物だったよ。

 そうして、十分ちょっと経った頃、領主のバートナー・リングレス子爵がやって来た。

 リングレス子爵は穏やかな佇まいをした細身の中年男性だった。


「よく来たな。マイアー」

「リングレス様、本日は私共のために時間を作っていただきありがとうございます」


 俺はクルトと一緒にソファーから立ち上がって頭を下げる。


「なんのなんの、街の発展に力を尽くしてくれている者に会うのは領主の義務だよ。で、そちらは?」

「お初にお目に掛かります、リングレス様。私は田坂商会を営んでおります田坂悠馬と申します。以後、お見知り置きを」

「ほう。君があの。話は色々聞いているよ。それと、君のところの商品には世話になっている。特に歯ブラシはいいな。今までの物とは大違いだ」

「ありがとうございます」


 領主ともなれば情報の入手先も多いだろう。俺のこともかなり正確に把握しているんだろうな。うちの商品も入手しているようだし。


「で、君たちの用件はガラスの件かな?」

「はい。リングレス様のお屋敷用に私共の板ガラスを購入していただけないかと」

「成程。それはかなりの出費になりそうだ。王都の屋敷と、この屋敷の分も買わなくてはならないのだろう?」

「そうしていただけるとありがたく」


 リングレス子爵は聡明と聞いていたが、ここまでとは。こちらの意図を完全に見抜いている。

 俺たちは板ガラスを売り込みに来たけど、それはこの屋敷の為の物ではない。他の貴族に売り込む為にも王都の屋敷の方が重要で、最善なのは両方の分を同時に買ってくれることだった。


「ふむ、我が領の新しい特産品のためなら引き受けなくもないが、多額の出費をするだけの価値があるか確認しないことには頷くことは出来ないな」

「では、ご確認を。こちらが実物になります」


 俺はクルトに促されて、鞄からサンプルとして持ってきた板ガラスを取り出した。


「ほう。これは、本当に歪みが無いな。人をやって確認させてはいたが、まさかここまでとは。いいだろう。ガラスを買おう。契約書はあるな」

「はい。こちらに」


 リングレス子爵は板ガラスを手に取って確認するとすぐに買うことを決めるし、クルトは当然のように清書された契約書を取り出す。

 会ってから十分と経たないのにもう今日のメインの用事が終わりそうだよ。

 二人とも仕事早いね。


「インクとペンを頼む」

「畏まりました」


 リングレス子爵に命じられて執事がインクとペンを取りに行く。

 俺はこの時とばかりに用意していた品を鞄から取り出して差し出した。


「リングレス様、ペンはこちらをお使いください」

「ほう。美しい。ガラスで作ったペンか」


 俺が差し出したのは骨で作った上品なケースに入れたガラスのペン。

 その品の出来栄えにリングレス子爵だけでなく、クルトも目を見張っていた。

 このガラスのペンはクルトにも見せていなかったからね。


「ご契約いただいたことへのささやかなプレゼントです」

「ふははは。君はこれをささやかだと言うが、これは誰に見せても自慢出来る逸品だよ。だろう?マイアー」

「はい。このような物を持っていれば私も自慢します。タサカさん、こんな物があるのなら何故見せてくれなかったのですか!」

「ちょっとしたサプライズとして用意した物なので、先に見せては面白くないじゃないですか」

「私を驚かせる必要は無いでしょう!」

「いや、どうせなら一緒に驚かせようかと」


 折角用意したサプライズなのだ。驚く人が多い方が面白いじゃないか。


「ふははは。名うての商人であるマイアーも手玉に取っているのか。数々の画期的な品を作り出すことといい、これは是が非でも後見となることを許してもらわなくてはな。タサカ殿、我がリングレス家がタサカ商会の後見となることを許してもらえるかな?」

「お申し出大変ありがたく。こちらこそよろしくお願いいたします」


 子爵家の後見ゲットだぜ。

 聡明だし、商品を只で寄越せとかの無茶を言ってくることも無いし、本当にリングレス子爵は当たりだよ。

 後日、都合が付いた時にまっとうな上位貴族と繋いでくれるとも言ってくれるしね。


 で、この後、契約書へのサインと、うちの商会の後見になってくれたことを一筆認めてくれた。

 この時にはガラスのペンの使い心地を絶賛してくれたよ。

 まあ、比較の対象が羽ペンだし、書き味や、書ける長さで圧倒するのは当然なんだけど。


 さて、何はともあれ、これで板ガラスの商売の第一弾は大成功だった訳だ。

 さあ、これからどんどん売り込んでいきますよ。

 ブリトビッツ商会がね。

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