トランディス大平原
敢えて言おう
すいませんでしたアッ!!!(全力土下座)
三重四重にやらなければならに事が重なって、まったく手が付けられない状態が続いておりました。
恐らく一月いっぱいまでその状態が続きそうですので、遅れを取り戻せるのは三月ごろになるかと思います。
お待たせして本当に申し訳ないです。
近年、王国では目立った災害や飢饉は起こらず、戦争は隣国との帝国とだけしか起こっていなかった。その戦争も、王国史でも類を見ない英雄の誕生により、安定した勝利を得ていたため、王国全土で人口は増加する。
しかし食料生産量はそれほど増えたわけでもなく、さらには特権階級の腐敗が進んだ事で、却って民の生活は苦しくなった。今まで辛うじて持ちこたえていた生活は立ち行かなくなる者が急増し、餓死者や首をつる者、離散する者が後を絶たない状態になってきたのだ。
故に貧困層の起こす犯罪も自然と増加し、碌に対応をしないために各地で治安の悪化や犯罪が増加していったのは当然の理だ。
王国北東部に位置する平原は、一見すると枯れているようにしか見えない草が所々に生え、ぽつんぽつんと何箇所かに木があり、遥か遠方に連なる山がある程度で、これといって目立ったものがない寂れた場所だった。しかし、ただただその広大さによって有名であり、かつての獣人は大半がそこに、種族毎にまとまって住んでいた。
しかし王国では近年、亜人種への奴隷狩りを開始した。その副産物として奪った土地は、そのまま貧困層を利用し、開墾や開発をさせることで犯罪率を減らし、かつ人口、領土、資源を増やす策として、多くの貴族の支持を得た。
だが、そこで大きな問題は一つ。
この獣人の大半が暮らすトランディス大平原の大部分を所領としていたのはリヴィアの父ジェラルドという事だ。実際の所、名目上侯爵家が治め、しかし納税等の義務もない獣人達はかつてと変わらず自由な存在だったのだが、それは侯爵家代々に亘っての融和政策がとられていたからだ。
そして当然のことながら、その現当主たるジェラルドもまた変わらない。亜人種への融和政策を唱え、ジェラルドに知らされず強行された初期の奴隷狩りを除けば、まともな奴隷狩りが行われなかった土地でもある。
むしろその時の反発もあって、ジェラルド指揮下の騎士達が頻繁に見回りを行っているため、奴隷狩りを狩るという構図さえ出来上がっているほどだ。結果、目立つ大人数での奴隷狩りが行えなくなり、元々集団行動を前提とし、身体能力も高い獣人を確保する事が難しくなったため、採算がとれずに獣人の奴隷狩りを断念する奴隷商人が相次いだ。
無論、ジェラルドとて貴族の一角であり、無条件でそうしているわけではない。
単に保護するだけでは利がないように思われるが、そこは獣人との貿易を経て魔物の素材、肉類、特産物を安値で輸入し、それをそのままの状態、或いは加工して輸出する事で経済を保ってきた。
確かに人道にもとるからという理由も少なからずあるが、それだけで動くには侯爵という地位は重すぎる。
それらの理由は獣人族も承知の上で、両者は共に良い関係を築いてきた。
そして今、そんな獣人の大多数が住むトランディス大平原の一角にエステルはいた。
向かい合うは、紛うことなき獣人の頂点。
それが獣人ならば、彼と向き合うだけで堪らず膝を折るだろう。そう刷り込まれた本能を、しかしエステルは理性で容易くねじ伏せ、常と変わらずじっと見つめる。
周囲は彼と彼女を取り囲む獣人が数百もいて、物音一つ立てず見守る。そうしてどれほどの時が経ったか。ごくりと、唾を呑んだ音を立てたのはいったい誰だったか。それを合図にしたかのように、両者の距離は一瞬で互いの間合いの内へと縮まった――
ここで話は遡る。なぜあの時、イザークと出会った最初期にエステルが獣人のリーダーとして選ばれたのか。
これは当時どの他種族も、そしてイザークでさえ口を挟まなかったが、疑問に思った事ではあった。
獣人としてはよくいる猫種であり、それだけに決して強いわけではない。虎やゴリラ、象、そういった獣人の中でも希少種と言われるほどの者までいて、あの時、あの場には単純なスペックならば猫種のエステルより強い獣人も確かにいた。
アーシェスのようにハイエルフという高貴な血筋でもなく、ジェナスのように最も強いというわけでもなく、ルツィアのように理知的でカリスマとも言える不思議な魅力があったからでもない。
だが、確かに同族から異論なく、選ばれただけの理由がエステルにはあった。それは獣人にとって最も大切な事。
原初の血を色濃く発現した獣だったからだ。
それはどの獣人種でも本能的に嗅ぎ取る事の出来る、格の差と言っても良い。
決闘などする前からその差が解っていたからこそ、今エステルはこうしてここにいる。そしてそれ故に、エステルは本能に抗ってここに立っている。
祖の血を色濃く受け継いだエステルであったが、今エステルの眼前に立つ獣人は間違いなくエステルよりもその血は濃く、種族としても強い。
故に獣人の掟であり不文律に従うのなら、エステルは意見なら出来ても決定権は持たない。それを覆すため、誰の目にも明らかな強さを見せつけるため、今エステルはここに立つ。
祖の血が劣る新参者が、主権を握るために。
イザークはその進化に疑問を持った。いや、その疑問と答えはある種必然だったのだが、その疑問をエステル達へと話し、獣人の文化を始め、根掘り葉掘りと聞きだし、疑問が尽きるまで討論した。人間が全ての生物を駆逐する事の出来る未来を、そして現状がまさにそうなのだから、その答えは半ば推論ながら、ほとんど確定と言っても良いほどに強い説得力があった。
多くの生物を絶滅させ、危機に追いやり、自然界に出来た調和を乱したのは人間だ。
言い換えれば、自然と形成されていた完璧な調和を崩せるほどに、人間とは強く歪な存在という事だ。科学が発展し、いずれ他の追随を許さない場所まで行ってしまう。それほどの強さを取り入れんがため、人間の知性と獣の体を持った生物が生まれても、そういう進化を遂げてもおかしくないのではないか。人の祖が猿であったように、彼ら獣人の祖がそれぞれの獣だとしてもおかしくないのではないか、と。
自身より強い生物を打倒する、その知性こそが最大の武器だ。
だからエステル達獣人に対し、獣で在ろうとせず人間であれと。獣性と理性、その両方の良い所を上手く取り入れてみせろと語った。
その答え、武術という人間の知性と、獣人の本能が合わさった一つの到達点。その中でもエステルだけが辿り着く事の出来た頂。
本能だけで彼我の戦力差を測ってきた獣人は、狩る者と狩られる者という事実が本能に強く刻まれていたため、戦いにおける工夫をしてこなかった。戦う前から勝敗が決していたからだ。しかし現実、獣人は人間に負けている。
それほど脅威と思わなかった人間の軍勢を相手に、ほとんど一方的な展開を許してしまう事は、彼ら獣人にとって理解し難い不条理でもあった。
だから学習させるのだ。
なぜ負けたのか。なぜ弱いのに強いのか。なぜ、なぜ、なぜ――
疑問を抱かせ、改善するためにどうするのかを考えさせ続ける事。人の知恵を、他のどの種族よりも強く学ばせた。
獣人族の長であるレオンハルトは戸惑っていた。
持ち込まれた案件に否と叩きつけた瞬間、決闘を申し込まれたからだ。
いや、戸惑っているのは自分だけではないのは、周囲の反応からも良く分かる。
厚顔無恥だと罵声が飛んだ。
突然やってきて何様のつもりだと、一瞬で一触即発の状態になった。
それをなだめ、獣人の少女に向かって諭す様に、それとなく周囲へも向けて説得した。
確かに、人間のやった事は許せるものではない。しかし、負けたのもまた事実。今が安泰で、代々の侯爵家は信用出来る。だから、リスクを冒してまで乗るほどではないと断じたのだ。
目の前にいるのはなるほど、見た目こそまだまだ子供であるが、確かな強さを秘めている。
数千を超すグループの中でも指折りの強さなのは間違いない。だが同時に、だからこそ己との格の差を感じ取れているであろう。種としては百獣の王たる黄金の獣の血を受け継ぎ、その濃さもまた原初に立ち戻ったとさえ謳われた先祖返り。二つの点で長になるべくして生まれたと、幼い頃からそう言われ、そう育ち、そう在った。
確かに、必死な時に決死の覚悟で決闘というのはないでもない。だがしかし、それは祖の血の濃さで劣っていようと、種族的な強さが上だからだ。その両方が劣っている者が格上に勝負を挑むなど、未だかつてなかった。
片や王者の威風を纏う堂々たる体躯、片やまだ幼さを残した女子供。
そんな者が今から決闘などと、誰がどう考えても悪い冗談だとしか思えない。
だと言うのに……だと言うのに既に決闘が始まっている状況にも関わらず、相変わらずの眠たそうな瞳。何を考えているのか分からない表情。真剣に臨んでいるのか。そう詰問したくなるほどのそれは、代わりに攻撃として問いと成し、そして攻撃を躱し続ける事によって返答となった。
酷く勘に障る、余裕ともとれる態度。
それ故に、攻め手はより速く、より激しくするのだが、依然としてかすりもしない。自然と戸惑いはより大きくなり、攻撃の手はより速く、激しくなる。
それはいつしか、レオンハルトの限界にまで到達した。
もはやなんの容赦呵責もなく、連続する両の拳。逃げ場の一つもなく、空間を埋め尽くす無数の拳撃は当たれば一撃必死、その子供のような体躯ならば風に攫われる木の葉のように呆気なく吹き飛ぶだろう。
軽く撫でるようにして終わるつもりだった。
まだ大人になりかけの冗長した子供相手に世界の広さを教えてやるつもりで、すぐに終わらせるつもりだった。だというのに、掠りもしない。
まるで狭い世界で生きてきたのは自分だとでも言いたげだ。
なんなのだという驚愕は内心のみに留めようと、周囲にはとっくに悟られている。
実際、本気を見切れる者などいなかった。
皆、本気を出す前に終わっていた。
だからこそ、皆誰もがまだ上があると思っているだろう。いや、そう思いたいのだ。
積み上げてきた常識を崩壊させてしまえば、今までの総てが嘘になるのではないか。そんな怯えを、誰も彼もが抱いているのが分かる。なぜならば、自分もまたそうなのだから。
秩序の崩壊を許してはならない。積み上げてきた歴史に特例を、例外を、その存在を許してはいけない。ここで負ければ、人間への反攻が決定付く。そしてそれは獣人の滅びへと繋がる。若さ故の愚かさを認めるわけにはいかない。個の強さでなんとかなるようなら、とっくに自分がなんとかしている。だからこそ、限界を超えても尚振り絞らんとする力。だが、繰り出す拳の速さにだけは嘘がつけない。誰の目にもとまらぬ速さの拳は、しかし放っている自分にだけはもう変化がないと否応なく理解出来る。いや、それは自分だけでなくもう一人、この聴衆の中で唯一見切っている少女の反応のみがその証左。
動く。
これで限界なのかと、限界なのだとしたら此方から行くとばかりに、その態度で語る。
そしてとうとう、大きくエステルが跳び退った。
ほっと一息ついたのは、聴衆の方。
誰もがその暴風に耐えかね、退いたのだと思い込んだ。
そして同時に、正反対に息を呑んだのはレオンハルトとエステル。
レオンハルトは理解していた。
舐められている内に意表をついて一撃必殺。そんな地力を見せられないような戦い方で勝利した所で、エステルも周囲も納得など出来ない事を。まぐれで躱したわけではなく、圧倒的な実力の差を見せつける。
歴史を否定するために、味方として取り込むために必要だと断じた事であると。
とーん、とーんと、エステルがその場でゆっくりと跳ぶ。それはまるで浮いていると錯覚してしまうほどゆっくりと、重力に囚われていながら尚遅く――
「――ふッ!」
「――ッ!?」
そして動いた。
「ウォォオオオオオオオオオオ!!」
必要な事だと理解していても、故に許せない。
王者として育ってきた。獣人族の絶対者として君臨してきた。その自負、誇りが決して安いはずがない。たとえ種としての獣人が人間に負けようと、自身だけは決して負けない。獣人の象徴として、戦い続ける。
その覚悟を秘めた誰もが恐れ戦く獣の咆哮は、しかし悲鳴のようでもあった。
八メートルの距離など零にも等しい。
体の軽いエステルの鋭い踏み込みに、真っ直ぐに走っていて尚、一瞬とはいえレオンハルトの視界から消える。それほどまでに、地面スレスレに体を傾けた独特の体勢からの疾走は、獣人ならではの柔軟とバランス感覚あっての事。
「ガアァッ!!」
レオンハルトは拳を地面へ向けて撃ち下ろす。しかしそれは、エステルを捉えることなく、エステルがまだそこへ辿り着く前に地面を陥没させた。
迅い。間違いなく、エステルは迅い。
足の運びは淀みなく、文字通りの全力疾走を体現する。
だというのに、そこに付随するのは言葉に出来ない『遅さ』があった。
事実、それが獣人の長たる彼を惑わせる。
「ウウウッ――!」
牽制ではなく、必中を期して放った攻撃はあまりにも早過ぎ、エステルに届くこともなく空を切り、かと思えば拳を振るうことなく間合いの内に詰め寄られる。決して、それは決して彼が弱いからではない。むしろ間合いなど初歩の初歩。そのような感覚を誤るなど、肉食獣の中でも頂点に君臨していた生物がモデルの彼にあるわけがない。
だが、どうしても間合いを正確に把握出来ていない。
間合いの内でダンスを楽しむかのように、エステルはレオンハルトを翻弄する。だが無論、先と同じ事だけではない。攻撃の合間を縫うように、レオンハルトの体にエステルもまた攻撃を加える。
もしここで見る者が見れば気付いただろう。上体と下半身の動きが連動しておらず、摺り足を使って、一見動いていないように見えて動いているといった虚実の動き。弛緩しきった体はふらふらと揺れ、酔拳にも似た、挙動が一定しない動作。彼の繰り出す拳は暖簾に腕押しとばかりに当たらず、走っているのに遅く、そして走っていないのに速い。例えるのならばそんな状態をエステルは意図的に作り出してタイミングをずらしている。
それを客観的に見れば、舐めているとしか思えないようなどこか緩慢で不安定な動作となる。しかしここで激昂するならばそれこそ思う壺。一見しただけでは分からないその技の妙は、冷静さを失えばより深みに嵌まる脱出不可能な底なし沼。
故に、冷静であろうと己に強く言い聞かせている時点で、レオンハルトは既に冷静などではなかった。まして、系統こそ違えども武術を齧っている人間ならともかく、獣人である彼では冷静であってもその技を見抜けなかっただろう。
武器を持たないが故に自由に仕える四肢を変幻自在に操り、最低限の挙動とさりげなくも大袈裟な挙動を混ぜて体の動きを錯覚させる。
これこそが魔物のいる世界で、人型を相手にする事がなかったからこそ発展しなかった徒手空拳の妙技だ。武器を持つ事が前提の世界で、一定のランクより上の魔物相手には達人クラスでもなければ通用しないため、発展しようのなかった武術が今、日の目を浴びる。
レオンハルトの繰り出した拳はエステルの眼前を通り過ぎるも、両者共に当たらないと確信している。
攻撃を掻い潜り、もはや完全に懐に潜り込んだエステルは足を重点的に攻撃する。
「グウッ!」
攻撃が連続すれば耐えきれず、歯を剥き、低く呻いた。
「ガアッ!?」
そこに意識が向いた瞬間、鳩尾へ跳び上がるようなアッパーに、堪らず苦痛と共に息を吐く。
翻ってレオンハルトは、足元のエステルへ向けて拳を振り下ろすも捉えきれず、股を潜り、常に死角へ動き回るエステルを見失う。そんな状態が一分ほど続き、そこで右足の前へ出てきたエステルをレオンハルトの視界が捉えた瞬間、彼は千載一遇のチャンスとばかりに、たまりにたまった鬱憤を晴らすかのように強く右足を蹴りあげた。
しかしそれさえも罠。
「――ッ!?」
ダメージの溜まった左足を鋭い足払いが襲い、レオンハルトがあえなく転倒してしまう。
単なる片足立ちならば、耐えれただろう。しかし蹴りあげた直後の不安定な体勢になるよう誘導されてしまえば、ましてダメージを負った足では小柄なエステルの攻撃でも沈む。
レオンハルトの巨体が、音を立てて地に落ちる。
そこにすかさず飛び乗って、エステルはレオンハルトの眼前で拳を止めた。
「……これで終わりにゃ」
「「「……………………」」」
誰もが息を呑む。
決定的に、或いは致命的に、己が内側にあった何かが壊れた。
「――ッ! ガァァアアアアアアアアッッ!!」
それを跳ねのけるようにレオンハルトは勢いよく状態を起こし、エステルは逆らう事なく宙を舞う。
「貴様のような小娘の攻撃で沈む私ではない! 勝ち名乗りを上げるのであればこの私を納得させてみせろ!!」
「……そ、そうだ!」
「レオンハルト様がその程度で負けるわけがない!!」
悲鳴のような叫びに、しかし周囲も同調する。
その言葉は瞬く間に周囲に伝染し、叫びを上げる。
再び、先の焼き増しのような光景が始まった。
距離を詰めたエステルを、レオンハルトが迎え撃つという光景。
繰り出されるのは、誰もが一撃で沈む攻撃。
それは人間とて例外ではない。鉄製の防具の上からでも攻撃を通し、陥没させながら押し切るスタイルで容易く屠って来た。肉弾戦に定評のあるドワーフでさえ、この攻撃には耐えられないだろう。それが、今はどうだ。まるで大人と子供だというほどに、見た目とは正反対の実力差。
レオンハルトの拳の暴風圏に留まり、エステルはくるくると独楽のようにいなしながらも常に動き続けている。
レオンハルトの体の至る所に刻まれたエステルの拳の跡。それは大きなダメージではないが、決して小さなものでもない。
それがもはや数えるのも馬鹿らしくなるほど無数の跡となった時、レオンハルトはついに悲鳴を上げる。
殺す事が目的ならばもう終わっていただろう。だが、今は敗北させる事が目的であり、レオンハルトを殺してしまっては同族の説得など上手くいくはずもない。故にエステルは本気を出せない。
だが、所詮はそれだけ。
両者の隔絶した力はその程度で覆るものではない。
下半身を集中的に攻め、膝をつけばボディを、そして時折不意を突くように顔面さえ容赦なく攻撃する。
長所は時として短所にも成り得る事。
理性と本能、人間と獣。
そのバランス、時と場合によって巧く使い分ける術を求め、本当の意味で『獣人』となったエステルが、ただの獣相手に敗北するはずもなかった。
これは獣人にとって、一つの完成形だ。
「――何故だ!? 何故これほどまでに俺と貴様で差が出る!!」
それは、この場にいる獣人の誰もが抱く、そして、誰よりもレオンハルト自身が強く抱く心からの叫び。
戦う前から決まっていた勝負のはずだった。
その差は、まるで真逆になったかのようにどうしようもなく、史上類を見ない差となって表れた。あり得ない事のはずだった。
「…………競う事を、高める事を怠ったからにゃ。……彼が、私達のリーダーが言った言葉にゃ」
「――――――――!」
いつもより長い沈黙。
それは、まるで唾棄すべきものに自身も含まれているかのような、どこか自嘲的な表情。
そこに込められた意思までは分からずとも、感情くらいは読み取れる。
――今の己こそが、彼女の過去なのだと。
その答えに至った瞬間、今までで最も強い衝撃がレオンハルトを貫いた。
いつから己は戦う事を止めたのかと、負け犬のように尻尾を巻いて籠っていたのかと。
眼前から再び距離をとったエステルが、震脚と見紛うほどの強い踏み込みと共に距離を詰める。
その軌跡はただ愚直なまでに真っ直ぐに、今まで見せてきた技巧が夢幻であったかのように一点を目指して突きぬける。
レオンハルトは避ける事も迎え撃つ事も出来なかった。狙いを鋭く絞り、速度を乗せた拳が、鳩尾にめり込む。エステルの何倍もあるその巨体が宙に浮き、弾け飛んだ。
「――ガハッ!!」
血を吐き、仰向けに倒れ込んで
その光景を前に、誰もが息を呑んだ。
レオンハルトはぼやける視界でただ空を見つめる。
そうだ、あり得ない。あり得ない事だが――
――ああ、だが……。
だが人間に負けたというのも、あり得ない事のはずなのだ。
「…………俺の、負けだ」
この瞬間、レオンハルトはこの勝負のみならず、最後の砦であり、先程まで最善と信じ切っていた主義主張にさえ負けを認めた。
誰もが呆然と見ていた。
体格の差は歴然。種族の差も本能の差も、あらゆる面でエステルが勝てる道理などない。だというのにかすり傷一つつかず、息が乱れる事もなく、明らかにまだ奥の手を隠している状態での完勝。
それは、獣人の根底を破壊するに足る圧倒的な勝利だった。
「……みんな、今から私に、そしていずれは彼に従うにゃ」
高らかと、とはいかないまでも、静まり返ったこの状況でエステルの声は皆に届いた。
それは呆然とし、空白になった思考に強く刻まれる事となる。
どこか満足げなエステルはむふーと、小さくも荒い鼻息を零し、珍しくもご機嫌そうに周囲を見渡す。
堂々とした勝ち名乗りに異を唱える者は誰一人としていなかった。




