毒婦の遺伝5
「久しぶりね」
「……ソウデスネ」
ターニャの家で久々の再会と相成ったのは、望まぬ必然であった。
フィオナの背後にちらついたターニャの陰が、そしてフィオナが放った最後の言葉が、今この状況を作り出したと言っても良い。
今までは会う必要がなかったから逃げ回っていたのだが、会う用件が出来てしまった。正確に言えば、作られてしまったと言うべきだが。
これからの事を思えば、前日の休暇がいかに俺にとって必要だったかが分かる。
休憩しなければ、間違いなく今日で胃に穴が開いた所だと確信出来るのだから。
「ゲンキソウデナニヨリデス」
「ええ、あなたもね。それよりどうしたの? 緊張しているのかしら?」
「ハハハハハ、まさか。どうしてターニャさんに会っただけで緊張しなければならないんですか?」
「あら、でも私に会った男は、それが貴族であれ緊張していた者の方が多いくらいよ?」
きっとその緊張は、今の自分とは別の意味での緊張だ。
二年ぶりに会ったがその美貌は今も衰える所を知らず、むしろ円熟した色気をこれでもかと醸し出している。
だけどそれに対して素直に酔えるほど、今の自分は潔白ではない。むしろ後ろめたい秘密で真っ黒だ。
「私の贈り物は気に入ってくれたかしら?」
「あれを気に入ると本気で思ってるなら、今すぐに良い医者を紹介しますが?」
「あら、世間一般の男なら、あの子のような綺麗で男を立てる事も知っている子と知り合えたんだから本気で私に感謝するはずよ? それにちゃんと来てくれたと言う事は、効果はあったみたいね」
「…………」
ああもう、効果が抜群すぎて困るのだ。それに、どこまで話したか可能であれば探らなければならないし、この二人の関係とも直に確認しておかなければならない。
まったく、全部が全部ターニャの掌の上であり、そんな相手と探り合いなどまったくもってゴメン被りたいのが本音だ。
それに――
「ちょっと、何よその扱い。二人とも私に酷いと思わないの? まったく、失礼しちゃうわ」
横にはそんな化け物がもう一人。
ターニャの家を訪れると、なぜか既にそこに待ちかまえていた。
誰にも言っていないばかりか、家を出て真っ直ぐにここへ来たというのにだ。
いつもは格下ばかりを相手にしていたし、子供という事で甘く見られていたフィルターは機能しない。
この中では一応最年少であり弱者でもあると言うのに、本当に勘弁願いたいものだ。
「あ、姉さん。ほんとに悪いけどこの子、私がもらうから」
「…………は?」
「へえ……」
そのあまりに何でもない日常会話をするかのようにあっさりと出た自分勝手な発言にイザークは開いた口が塞がらず、ターニャはおもしろいとばかりに口角を上げる。
ターニャの思惑を確認しようと思った矢先、フィオナの会話の主導権を握るための先制攻撃は、間違いなく効果を発揮した。
そしてまるで所有権を主張するかのようにあまりに自然な動作で腕に手を回され、引き寄せられ、年齢の割には発達した胸に押しつけられる。
「まあこうなるとは思っていたわ。ほんと、誰に似たのかしらね?」
半ば宣戦布告染みたやりとりに、しかしターニャは予想していたのか、そこに驚きの色はない。
「誰に似たのかは知らないけど、少なくとも姉さんが私の立場ならそうしたでしょう?」
言葉では喧嘩を吹っ掛けあい、まるで一触即発とも言える状態だが、二人の表情はむしろ逆。満面の笑みで、面白い冗談を言ったかのように微笑みあう。
会話さえなければ仲の良い友人、仲の良い姉妹にしか見えない。
「フィオナには悪いけど、この子は私の予約済みなの。それは諦めた方がいいわよ」
そして今ターニャにも文句なしに発達した胸に腕をとられ、谷間に腕を埋める。
だけど、柔らかいはずのその感触を楽しむだけの余裕がない。
麗しい二輪の花に挟まれていながら、太い棘にチクチクと刺され、その香りには毒が含まれているかのような錯覚を覚えるほど。
或いはさながら、肉食獣の顎に挟まれた哀れな肉そのものだ。
「この子、最初に会った時から可愛かったわよ。こんな坊やが来て何を言い出すのかと思えば、娼婦の私にいきなり教育の真似事をしろなんて。それも、この夜姫に向かってそれ以外の全てを、と言いだした時には本当に笑ったわ」
「私も似たようなものね。必死に噛みついてくる姿なんて、とても可愛かったわ。それに、こんな美人を捕まえていきなり化け物扱いよ。ほんと、傷ついちゃった」
その時は大笑いしていたはずだと、しっかり記憶にあるのだが。それに今も、せめて傷ついた素振りくらいは見せてほしいものだ。
と言うより二人して可愛いだのと遠回しにディスるのやめてくんないかなあと、現実逃避がてら遠い目でここではないどこかを見る。
いやもうほんと仲が良くて羨ましい限りだ。
このまま自分の事は忘れて、二人だけで会話に華を咲かせてもらいたい。
「それはそうと、私達二人、両手に華のキミは何か感想があるんじゃないかしら?」
と思った途端に矛先が此方に向く。
もうほんとテレパシーでも持っているのかと聞きたくなるほどに絶妙なタイミング。
「ええ、思わず魂がどこかへ飛んで行きそうでしたよ。そのせいで意識がとんでいました」
天国ではない、むしろそれとは正反対のどこかに。
「あら、それなら女冥利に尽きるわね」
「ええ、ほんと」
嫌がっているのを理解していながら、いけしゃあしゃあとのたまう二人はどうみても姉妹だ。
だが、どうせなら娼婦として培ってきたはずの技能の一つを、そしてそんな女性を姉と慕うもう一人も、男に対する気配りをみせてほしいものだ。
「それはそうと、どうして僕の事をフィオナさんに?」
「あら、そんな事は一々言わなくても理解していると思ったわ。まあただ、面白い子がいると教えてあげただけよ。だから余計な心配はしなくていいわ」
「それはそれは。どうせなら、知り合うと面倒な人がいると僕にも教えてほしかったですね。知り合う前に」
「キミ、時々ほんと失礼よね」
これで、一応ターニャを訪れた最低限の理由はクリアした。
無論鵜呑みにするわけにもいかないので裏を読まなければならないが、喋ったとしてもやはり上辺だけだろう。
ターニャ自身、どこまで情報を掴んでいるのかしらないが、問題になるほどではない。
その確認が出来ただけでも、最低限の収穫にはなった。
「別に、誰とは言ってないですよ。最近知り合ったばかりの年上の女性とは、誰も言ってないです」
「あらそうなの。ごめんなさい、早とちりしちゃったわね。それもそうよね。だって私、キミと知り合えてこんなに良かったと思ってるんだもの。キミが私に対してんな酷い事を思うわけがないわよね」
「ええ、僕がフィオナ先輩に対してそう思うわけがないですよ。ええ、知り合えて良かったなんてとてもとても……」
「……へえ」
敢えてずらした、しかし本音からの解答にカチンと来たのか、フィオナが一瞬だけ感情を押し殺した声で呟く。
「その減らない口、私が黙らせてあげようかしら?」
「先輩が黙ってくれれば、僕もすぐに黙りますが?」
「ふふ、ほんと生意気ね」
「先輩ほどでは」
うふふ、はははと両者本音を隠して笑い合う。
「二人とも、私を忘れてないかしら?」
「いえ、まさかそんな」
敢えて意識しないようにしていただけだから忘れていたわけではない、とは言わない。
「まあいいわ。それはそうと、私は私で聞きたい事があるのだけれど――」
一度言葉を切ったターニャは、フィオナに一度視線をやってから言葉を継ぐ。
「かわいらしい私のご主人様は、一体何を考えているのかしらね?」
「ああ、それは私も知りたいわね。ええ、本当に」
この二人を相手にしていると、日常会話がいきなり剣戟に等しい攻防に変わるのだから本当に勘弁してほしいものだ。
二人の口はいつもの微笑が張り付いていながら、目は獲物が一瞬の隙でも見せようものなら喰い殺すと言わんばかりに爛々としている。
「お二人とも何を期待しているのか分かってはいるつもりですが、残念な事に何もないですよ。まあ何があるか分からないから、それなりの部下は育てていますけどね」
その必要性は今更論ずるまでもなく、そこは二人とも理解している。
そう、本当に何があるか分からないからこそ、優秀な部下は必要だろう。どこかの先輩みたいに物騒な人間に出くわす事もあれば、いつ革命という名前の戦争が起こるかも分からない世の中なのだから。
「ま、キミが言わないのは分かってたけどね」
「ええ、そうね」
そして二人とも、話すつもりがない相手から口をわらせる事の手段の少なさも理解している。
そのどれもが、今の条件下で行使出来るものでも、行使したとして徒労に終わる事も理解していた。
だから嘆息混じりに呟きながら、フィオナは空気が緩んだ隙を突くのだ。
「あ、でもキミ、姉さんと知り合ったのはベルトラン商会を介してらしいわね?」
「…………ええ、まあそれが一番現実的でしたので」
事実上もう露見していることとはいえ、この手の事案は当事者である自分かベルトランが口を割らない限り本来の意味で確信を得る事はないのだから問題はない。
それに、そのくらいのことはやはり喋っていたかというのも予想通りだ。
「あら、どうして? キミなら父親にでも頼めば一発じゃないかしら?」
「まさか? あの親に? 御冗談を。先輩もご存じでしょうが、あの豚に頼み事をするつもりはないですよ。なら畢竟、次に可能性があるのは大商人たるベルトランさんになります」
順序として当然の事で、何ら特筆すべき事はないと平然と言う。
この手の事を確たる証拠もなしに認めてしまえば、それは徒に手札を一枚失うのと同義だ。
認めるのならば、手札を切るのならば何かと引き換えでなければならない。
だからそうでなければとにかく認めない事、憶測の域を出さない事。それだけに終始しなければならない。
これ以上深くまで入り込まれないためにも、雑談から余計なことを言わないためにも。
「ちょっと待ってよ」
「嫌です」
「どうせ帰り道は一緒なんだからいいじゃない」
「今日はただでさえ疲れたんです。そんな時に先輩と一緒に帰れば余計に疲れがたまりますから」
「なによそれ! もういいわよ、じゃあキミが私と帰るよりもうーんと疲れる事してあげちゃうんだから、一人で帰ればいいじゃない。言っとくけど私――」
などと、騒がしくも慌ただしく帰る二人を見送って、ターニャは自己の思考に埋没する。
「フィオナでも無理とはね……。さすがに、あの子を探るのは限界かしら」
昔から、初対面の時からイザークが何を企んでいるのか気になってはいたのだ。
だからこそ、フィオナをけしかければ自分と同じ事に気が付き、探ろうとする所までは合っていた。
だが、あの様子ではフィオナでも探り切れなかったようだ。
情報を与えないようにするなら、極論話さないことだ。
あの子はそれを理解しているから、極力私と会おうとしない。そして今日のように会っても、肝心な部分は口を閉ざす。
無論表情や醸し出す空気で察することはできるが、それとて完璧じゃない。そういった事を把握しているあの子では尚のこと効果は薄い。
私が教えたことを基に、独自のやり方を確立しつつあるあの子では余計に。
それに、あの子はあの子で私に対する苦手意識から相性は最悪だと思っているようだが、それは間違いだ。
そもそもの話、私を相手にして上回るという事自体があり得ない。つまりあの子の視点、相対的に見れば全員が私との相性は悪いという事になる。前提条件からして間違っているのだ。
頂点からの景色というのは、二番手だろうと十番手だろうと全部下でしかないのだから。
しかし私に言わせれば、あの子こそ私にとって最悪の敵だろう。あまりにも新しい組織であり、しかも情報の秘匿に関しては臆病どころの話ではない。
何をしているのか、一部想像は出来ても確証が得られないのだ。
そこは一人一人が徹底的に教育されていた。
だからこそ、あらゆる伝手を辿っても情報が集まらない。また、出会った当初は色に興味があるほど年齢が育っておらず、育った今ではそもそも私に対する警戒心が高すぎる。
つまり、一切の情報らしい情報が入ってこないのだ。
せいぜいが数百人規模の、出来たばかりという部分を考慮すれば大組織を構築し、それは未だに拡大を続けている。そして、何かを企てているという事くらい。
まして驚くべき事に、彼自身そういった肝心な部分は間違いなく誰にも話していないのだから、あまりの徹底ぶりには脱帽するばかりだ。
だからフィオナをけしかけたというのに、それでさえ今のところ効果はない。
素直に手詰まりを認めるべきなのだろうが、だからこそこの苦境を己の手で打開したいという欲望が疼いている。
これほどの苦戦、滅多にないからこそ愉しいのだ。
「まったく、酷い女たらしね。その年齢で一体何人を虜にしてきたのやら……」
イザークが聞けば全力で抗議したであろうそのセリフは、しかしターニャの舌の上で転がされるだけ。
男を誘うような濡れた瞳は、この場にいない、扉の向こう側の獲物を確かに見つめていた。




