暗殺任務3
「はっはっはっ――」
いくら全力疾走をしたとは言え、それでも本来ならとっくに収まっているはずの呼吸はしかし、今もまだ荒いままだった。
セーフハウスに逃げ込み、ベルガが周囲を警戒してくれてはいるが、あれの恐怖が心に強く刻まれているのだ。
先程から、このセーフハウス近辺にも頻繁に騎士の姿を見かけている。
だが恐らくそれは、今ならこの街のどこへ行ってもみられる光景だろう。
ここを尋ねられ、もし強引に踏み込まれても、屋根裏へ隠れてしまえばいいのだから今はまだ、ここは大丈夫だ。
「警備体制を見て、可能なら撤退。無理だと判断すれば、落ち着くまでしばらくはここで待機。それでいいな」
「…………」
ベルガの掛けた声に返事はなく、しかし確かに頷く事で了承を知らせる。
今のクレスタに強行突破は無理だ。隠れながら進む場合でも、もし発見された場合は足手まといになってしまう。それを、ベルガは本人から言われるまでもなく理解していた――
それからどれほど経ったか。
陽は未だに高く、周囲の喧騒もまだ収まらない。いや、むしろいっそう騒がしさを増しているほどだ。これではもはや、日が暮れるまで動くに動けない。
それだけならばまだ良かったが、じりじりと間合いを詰められているような焦燥を感じる。
だからこそこのまま待つのか、リスクを冒してでもそれともここから動くか。
答えの出ない迷いはただ時間ばかりを浪費していく。
クレスタはあがっていた息を整え、いつでも動けるように装備を身に付けてただ待機する。
そしてとうとう、その時が訪れた。
「ここにいたか」
「「っ!?」」
驚愕と共に、一瞬だけベルガとクレスタが身を竦ませる。
それは聞くはずのない声であり、聞きたくもない声。
その涼やかな声とは裏腹に、二人は全身の毛穴がこじ開けられ、汗が噴き出る。
心臓が止まったかのような錯覚。それに反して二人の体は、反射的に声がした方向とは反対側に大きく跳び退る。
まだあれから一時間程度しか経っていない。逃走時に追手を撒けなかったならまだしも、追跡には厳重に注意しながら逃げたのだ。ならばその線もあり得ない。
兵士が来た場合屋根裏に隠れる、といった当初の予定など、ロザン本人が来た事で既に見つかっているのだから無駄だと察している。
ゆっくりと、まるで警戒していないかのように家へ入って来たのはやはりロザン。
その声、その姿。二人にとってそれはまさに、絶望そのものが具現化したかのよう。
「…………どうしてここが?」
緊張に身を固めつつ、訊ねたのはクレスタ。
一瞬の隙も許されないベルガの後ろで待機しているのは、自分がいた所で足手まといにしかならないとう自覚があり、また、ベルガに話す余裕はないからだ。更に、ベルガよりは自分の方が舌戦は得意だという判断だ。
「我が街の民は皆協力的でね。日頃から新参が来れば、必ず報告するようになっているのだよ」
「…………」
この街に住む民全員、ではないだろう。
そうでなければその程度の情報など掴めない筈がない。多くて百人に一人、実際にはもっと少ないはずだ。が、元騎士、それも忠義に篤かった者等、一定の信頼できる人間にだけそういう役目が課せられているといったところか。
外が一気に騒がしくなったのは近辺を捜索しているようカモフラージュし、ロザンの突入に合わせてタイミングを見計らって全方位から一気に集結させたからだろう。その行動の素早さ、全体がタイミングを過つことなく同時に動く統率力、さすがに国内で最強を誇る騎士が率いているだけはある。
その時、まるで覚悟を決めたかのように深く、そして長く、ベルガは息を吐いた。
ベルガはただ、全身全霊で集中する。
何に? 無論、ロザンに、ではない。ただ己に強く強く、深く深く、どこまでも潜るように深く、己自身に言い聞かせる。
ロザン相手に強張る体を解きほぐし、意識的に、可能な限り自然体を心がけ、近づける。
一度息を吐き切り、再び吸う。まるでそのタイミングを見計らったかのように、ロザンが無造作に一歩を踏み出した。
それはまるで王者のように堂々とした一歩。ならば迎え撃たんとするベルガは踏みつぶされるだけの蟻だろうか。
――それは否。ベルガは決して王者相手に臆してなどいない。ロザンが間合いに入ったその瞬間、ベルガが仕掛けた。
「ッア!」
鞘と柄に手を掛け、姿勢はそのままに膝の力を抜いて足を開き、腰を落として姿勢を低く。その一歩に合わせて体が最も弛緩した瞬間、鞘に収まっていた刀を抜刀。
ベルガが鞘に納めていた刀は神速を以って抜き放たれる。瞬きよりも速く、閃光のように刹那の攻撃。
たった一撃。
しかし必殺の念と共に放たれたそれは、ベルガに放てる最高の一閃。
並の人間であれば、そもそも斬られたと言う事にすら気付かないほどに迅く、並の武器や防具ならばそれごと切断したであろう。無論公爵家の、それも剣聖の名で知られ、前線でも戦う人間なのだから武器は最上級の物である事くらいは分かっている。
だが、それほどの一撃がまるで当然の事のように小揺るぎもせずに受けとめられる。
これは、覚悟をしていたベルガにとっても小さくない衝撃をもたらした。
力の差は知っていた。
ほんの僅かながら、力みもあったかもしれない。
だがしかし、抜き打ちには不利な剣という形状で、体勢にしたってそれに適したものではないというのにベルガと同速、いや、下手をすればそれよりも速くに抜かれた剣。
己の一閃を受けとめられ、ベルガは初めてそれでも揺らぐ程度にはと、まだ己の常識の範疇に留めようとしていた事を認識させられた。
「くッ!」
即座に身と刀を引き、刀を構える。
底が見えない。
手加減をしているわけではあるまい。しかしきっとまだ、全力じゃないだろう。これは意識的な問題だ。
訓練と実戦、仮にどちらも全力で臨んだところで、果たしてその内容は同じであろうか。
訓練と全く同じ状況の実戦があったとし、その時々の行動の速さ、いや、そもそも、取るべき行動自体全く同じであろうか。
答えは否。そこにある濃密なまでの時間は、理屈の全てをねじ伏せるような、本能を喚起させるその瞬間は、懸けているモノの重さの差は、たかだか訓練などと到底同じであるはずがない。
他を圧倒するほど膨大な経験を積んだ化け物にとって、自分一人など本気を出すまでもないということ。これはつまりそういうものだ。
「これで、終わりかな?」
「――っ!!」
どこか次を期待するかのような呟き。
やはり今の自分では到底敵わない。その事実を理解し、背後のクレスタへ小さな合図を一つ。
そしてベルガとクレスタが同時に動く。
牽制にとクレスタがナイフを投げ、ロザンが防いでいる隙に窓から外へと飛び出した。
狭い室内では檻に囚われた獣だ。なぶり殺しにされるだけの結末が見え透いている。だからこそ、クレスタはロザンに背を向け、ベルガは向き合ったまま一見不利にも思える外へ出る。
「そう来るか……」
呟きに込められたのは僅かな興奮か。
ロザンは敢えて、その動きを阻害しない。代わりに動いたのは騎士。逃さないと何重もの壁を作って道を塞ぎ、武器を構える。その動作の一つ一つだけでも随分と訓練を積んでいるのが分かる。日常的に殺しを行ってきた戦闘集団特有の雰囲気を身に纏った、間違いようのない精鋭。
背後から迫るのはロザン。軽装のクレスタ一人でこれだけの数の、それも装備を整えた騎士を相手にするにはさすがに無理がある。が、ロザンの足止めなどベルガ以外に任せられるものではない。
ベルガの役目は、あくまでも足止めなのだ。
だからこそ、自分がただ何もせずに戦いの行く末を見守るだけというのはありえない。一見自殺行為にしか見えないが、しかしこれこそが生存のためにとれる唯一の手段だ。
「……なるほど。部下の力量を理解していないわけではない。だが、死地でこそ更なる死地へ。きみ達のその行動、おおよそ凡人にはとれまい。やはりきみ達は面白い」
僅かに笑みを浮かべ、ロザンは言う。
そこに込められたのは、皮肉でも何でもない心からの感心。そして期待。
自ら死地に飛び込んだのならばこそ、生き残るだけの力を見せてみろと言外に告げる。
「……一つ、聞く」
背中越しに、クレスタがロザンへと問いかける。
「なぜあの時、私が暗殺者だと気付いたの?」
完璧だったはずなのだ。
暗器の一つも持ち込まず、見た目はまだ幼い少女で、立ち振舞いも計算し尽くした自然体。
自信があった。これならばどんな相手でも気付けるはずがないという。
だが事実、気付かれた。
その原因は何のかと、クレスタは問いかける。
「たしかに、きみの立ち振舞いは完璧だったよ。その動きに違和感など覚えもしなかった。しかし明確に言葉では説明できないが強いて言うなら雰囲気、だな。僅かだが、そこに違和感を覚えただけの事だ」
「……っ!!」
小さく、そして鋭く息を呑む。
自分の全身全霊が砕かれた。きっと一人ならば、こんな状況でさえへたり込んでいるほどの衝撃が襲う。なにせその衝撃は、今までの自分の総てを否定された事と同義だ。
「…………イザーク……この相手だけは、無理だよ……」
本人でさえ意識せずに零れた言葉は、ベルガ以外の耳には届かなかった。
誰よりもロザンを評価していたはずのイザークでさえ、まだ正当な評価には届いていないという皮肉。
ここにベルガがいなければ、そしてこんな状況でなければ、クレスタは己の命さえ諦めてしまっただろう。
それをベルガは察し、上段に構えた。
その時、間違いなく雰囲気が変わった。
滲みでる必殺の気配が漏れ、大気に満ちる。誰もが息を呑み、思わず見入ってしまうほどの力強い気配があった。
己が放てる、最高最速の一刀は先程防がれた。
ならばあとは連撃で崩すより他はなく、しかし真っ当な攻防では地力の差から負けが見えている。
逃げるべきだと、理性も本能も訴える。だが何もせず、即座に逃げようとするならばそこを狙われるだろう。今のこの状況で、逃げに転じるその瞬間をみすみす見逃す程甘い敵ではないことくらいは分かっている。
僅かでも配下の騎士に時間をかければ、距離を詰めたロザンに殺される。
ならば結局、向き合うより他にない。
「クレスタ、後は頼んだ」
「……大丈夫。分かってる」
背中に感じる気配を頼りに、その言葉を己の芯に、クレスタはただ己の正面に待ち構える騎士を睨みつける。
ベルガは鋭く息を吸い、止める。
「――ッ!!」
瞬間、ベルガが動いた。
それに一歩遅れてクレスタもまた動く。
待ち構えるのは最強の騎士と、それに率いられる戦闘集団。
そこへ、両者が激突した。




