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異世界における革命軍の創り方  作者: 吉本ヒロ
3章 12歳、学園編
68/112

暗殺任務2

日曜に投稿しようとして読み直してたら、なんか物足りなくなって書き足してました。

倍に増えたせいで投稿は今日になったのと二話に分けようかと思いましたが一緒にしたので、遅れたことはあしからず。。。

うん、言い訳ですはい。



 多くの貴族は街の中心地に館を建てているが、ここはそんな呑気なものじゃない。絶えず隣国からの侵攻に対する最前線として機能してきた城塞都市だ。当然、その中央にあるには館ではなく城。故に、頑強さと戦争における合理性を第一とした造りになっている。だが、得てしてこういう場所ほど個人を相手にした防衛など前提にない。


 軍隊相手には有効な防衛施設だが、ただの大きな館よりはよっぽど忍び込みやすい。

 だから三日間を観察に費やした。相手次第では数ヶ月、最悪年単位での偵察も考慮していたが、僅か三日間で結論が出てしまったと言うべきなのか。


 ただ遠くからロザンを見て、様々な人間を相手に雑談に紛れさせて情報収集を行った。有名で、そしてここに住む人間ならば誰もが誇りと共に自慢するのだから、あまりにも事は簡単に運んだ。


 結果として分かった事はただ一つ。


 少なくとも本人には隙がない。


 特に重税を課す事もなく、キチンと隣国から領地を守り抜いている事で民から慕われ、兵士からの信頼も厚い。


 ロザンより何代も前から行っていることとはいえ、街の区画整理がかなり進んでいるという事実がどれだけ戦争に特化しているのかを物語る。また常に隣国と小競り合いをしているため兵士の需要が高く、あまり職に迷うという事もないためか貧民街も極狭い範囲に限られているせいで、よそ者が簡単に入り込むための余地もない。


 暗殺者に対する警戒度も充分に高いと言える。


 極めつけに、本人が厄介すぎた。


 彼自身がただの要人で、傍にいる護衛が最強の人間ならばどうとでも出来た。いや、それ以前に、自分達が手を下すまでもなくとっくに亡き者にされていただろう。が、現実は標的が最強の人間なのだ。どれだけ上手く隠れて行った所で、近づけば最終的に間違いなく悟られる。


 そこから実力行使となれば、結局は論外。


 とれる手段は一つ。賭けに出るしかないとクレスタは決心を固めた。









「よお、旦那。調子はどうだい?」



 そう男に親しげに声を掛けてきたのは、卑屈そうな笑みを浮かべた小男だった。

二人は最近酒場で知り合ったばかりの仲ではあるが、声を掛けられた男の方もこの小男の事を気に入っていた。何せこの小男と知り合ったからこそ、一週間に一度の楽しみであった酒場に通って安酒を呷る日々がほぼ毎日、それもそこそこ値の張る酒を飲めるようになったのだから。



「ああ、最高だな。きっと今が人生の絶頂期ってやつさ」



 だからこそ、男はだらしなく出っ張っている腹を揺らしながら笑い、実に機嫌よさそうに答える。


「そうかい、そいつあ良かった。それでどうだい? 今晩も行くか?」


「当然だよ。むしろ、行かない理由がない」


「ちげえねえ」


 そう言って、今度は二人が笑う。

 男はこのまま絶頂期が続くものだと、何の根拠もなくそう信じていた。絶頂期を過ぎればいずれは下降するしかないという事に、今もまだ気付けていない。






 二人が行ったのは何の変哲もない、どこの街にでもあるような酒場だ。

 ここが男の行きつけでもある。が、最近ここにはトランプというカードが置かれていた。4種類のマークと13までの数字が書いてあるだけのものだったが、これは発想次第で幾つものゲームが楽しめた。


 その中の一つ。説明書にもあった基本的なゲームの一つでもあるポーカーに男達は嵌まっていた。


 最初はびくびくとしながら安酒一杯程度の金額を賭けるだけだったのが、今では安酒で換算すれば実に百杯を超えるほどの金額を掛けていながら、男は実に堂々としていた。それはなぜか、と言えば単純に、勝つからだ。勝つのならどれだけの金額を賭けようと、いや、むしろ、金額は高い程にいい。



 もし負けてもすぐに次で取り返す。



 四人で卓を囲みながら、男は五十パーセントに迫る確率で勝ち続けていた。

 そんなサイクルがここ一週間も続けば、少なくとも普通の人間であれば、それも酒の力で程良く酔っ払い、正常な思考能力を失っているのであれば、こうなるのは必然であったと言えよう。



 奇跡のような偶然を疑えたのは、始めの三日までだった。


 それが続けば必然に変わった。しかし増長した男に彼らはすぐに手を出すことなく待ち続けていた。


 だからこそ、今日の男はツイていなかった。


 いや、本当の意味で言うのならば、一週間前、男が勝ち続けた時から、本人は人生の絶頂期だと信じていた頃から、ある人間に目を付けられたときから既に運が尽きていた。



「…………うそ……だろ……」



 愕然とした表情。自然と口からこぼれた言葉は、本心からの言葉に他ならない。

それなりに値の張る酒を浴びるように飲み続けていたと言うのに、今の男は一気に酔いがさめるほどの衝撃を受けたのだ。


 負けが続いた。


 しかし、それは偶々続いたに過ぎないと、どうせ勝てるからと、続いた負けの分を上乗せし続け、一発逆転を狙い続けた男はとうとう、負けの回数で言えば充分に予想してしかるべき範疇でありながら、全財産を投げうっても到底返せない程の膨大な金額の借金を背負った。……いや、背負わされた。



 手持ちの金がなくてもそこまでゲームを続けられたのは、たかだか庶民と言えど勝ち続けた事によって溜まった一財産からくる信用があったからだ。


 しかしそれさえも建前。


 より大きな、それこそ男ではどう足掻いても返しきれない額の借金を負わせるための方便にすぎなかった。


 勝ち続けていた人間が、自分が負けるために実際に札のすり替えが行われていたことに気付けるわけがない。


 だからこそ、自分が負け続けても今更相手が何かしているのかなど、素人目に気付けるはずもなかった。


 何せまだ普及して間もないもので、しかも正規品はそれなりに値が張るものだ。であれば、予備のカードを用意して服の内に隠し持っているなどと予想できる人間は、それも庶民は一体どれだけいるだろうか。まして予備のカードは実際に使うこの酒場と同程度に使い込んだ物を用意されれば、現実にすり替えられたとしても到底気付けるものではない。


 この程度、所詮は小手先の技だと孤児達の誰もが口を揃えて言う事も、庶民であるこの男にとっては理解の及ばない人外の技であった。


 始めは偶然酒場で知り合っただけのはずだったグループ。だけどこの中で唯一絶対王者として場を支配していたのは、皮肉な事に最も負け込んでいた男だった。



「始めのうちはさんざん金はあるのか、と高圧的に言ってくれたが、その言葉を返そうか。さて、賭けたからには払う当てがあったのだろう?」



 まだ若い、しかし負け続けていても不足なく大金を払っていたその男が冷徹な声でそう告げる。



「な、あ……あと一回! あと一回やれば勝てるはずなんだ! そ、それで返すから頼む!!」


「勝てるはず? では、今のように負けた場合は? それ以上、どうやって払うというんだ?」


 容赦のない正論に、男は言葉を返せない。


 今まで勝ってきたから、なんて言葉を、負け続けて現実を見せられた今は言えない。



「当てはないのかな? ああ、そういえば、アンタにはちょうど年頃の娘がいたな?」



「なっ……、む、娘は関係ないだろ!」


 その一言で、男は自分の愚かさを呪った。


 勝ち続け、酔っていた男は気分良く、そして自慢げに言ったのだ。公爵様に仕えている娘こそが自分の誇りだ、と。


 メイドというのはその街で比較的見目麗しい少女が選ばれる。


 ならばそんな娘が借金の形に連れて行かれたなら、娼婦として落とされるであろう結末は、自分がまけることさえ想像できなかった男にも容易に想像できた。


 お金を払えない事による身の破滅とは別種の恐怖が男を襲う。



「っ、ああああアアアアあああああ!!」



 だからこそ反射的に、或いは本能的に獣のように吼えて男は殴りかかった。

 それだけが、男に残された最後の道だ。だけどただの素人が苦し紛れに放った一撃は容赦なく空を切り、逆に男が体勢を崩れた所を足払いをかけられ、入れ替わった後で背後から殴られ、地面に叩き伏せられた。



「おいおい、それで払えねえからって暴力はよくないだろ、暴力はよ。こりゃ逆に、アンタをぐっちゃぐちゃにしても構わねえってことだよなあ?」



 先の冷徹な声とはまた違う暴力の気配を滲ませながら、地面へ抑えつけたままの男の顔の横にナイフを突き立て彼は言う。


 先の身のこなしだけで、男が一定の戦闘能力を有しているのは明白だ。それに、ここは酒場。顔見知りの人間も多く、まして賭けに負けてこうなってしまったのならばどうしようもなかった。


「今のアンタに拒否権はない。殺されたくなければ、いや、死ぬよりも酷い目に――そうだな、例えば妻と娘は奴隷に落とされ、嬲りモノにされながら家畜同然の待遇でアンタを恨みながら死に、アンタ自身は鉱山で死ぬまで働かされたくなければ、此方の言う事を聞いてもらおうか。なに、安心しろ。俺はそれなりに優しいから、アンタが協力的であれば、アンタ自身も含めて全員の安全を約束しよう」


 全ての点で、男は立場が低い事を自覚させられた。借金を背負い、暴力を振るった事に対する負い目。精神的に優位に立たれ、暴力でも敵わない相手を前に、男はただ黙ってその言葉を受け入れるより他なかった。





 メイドというのはその街で比較的見目麗しい少女が選ばれる。これが王宮などになると貴族の娘がメイドとして働く事もあるが、一地方の領主となればやはりこの程度が限界だ。


 そしてこの街は公爵家が治めるとあって、ここは地位の低い貴族の娘から領民の娘まで、幅広い層がメイドとして働いている。


 多くのメイドは、やはり主人に手籠めにされる危険性を孕んでいた。そのまま妾として認知されれば幸運な方で、最悪何の手当てもなく家へ帰される可能性の方が高い程だ。


 だが、ここの領主であるロザンはそんな事もなく安心して働けると、そしてあわよくば見初められでもすれば間違いなく大切に扱ってもらえるだろうと、女性関係の醜聞もないことからそう評判であった。


 しかしそんな環境で二人のメイドが急にやめたのは、家庭の事情があるとはいえ本人にとってやはり不幸であり、しかしその枠を狙わんとする者からすれば幸運であった。


 一人程度ならゆっくり募集を掛けたかもしれないが、空いた枠は二つ。穴を埋めるために募集をかければ、そこに応募する人間は恐らく百人を下らない。


 それなりに急いでも、選定するのに十日はかかるだろう。そして、その間の業務も支障をきたすほどではないが、やはり負担が増大するのは避けたい。



 激しい競争があるかと思われたが、ここに勤めて比較的長く、仕事ぶりや人柄からも信頼を得ている人間の推薦があるならばと、その枠の内の一つは確定した。


 だから他のもう一人が決まらずとも翌日には早くも採用の運びとなったのは、ある種必然であったかもしれない。





「本日から此方でご奉公させて頂きます。ミレイと申します。どうぞよろしくお願いします」


 丁寧に頭を下げたのは、まだ十を過ぎたばかりというような幼い少女だ。


 醸し出されるのは社交的で話しやすい垢ぬけた雰囲気。更には丁寧な言葉遣い。かわいらしい年相応の外見。


 年齢を言わなければその身のこなしや態度からも、庶民と言う事を考えれば、彼女ほどメイドに適した人間もそうはいないだろう。


「あらそう。それじゃあまずは、先輩のリリスちゃんに付いてちょうだい。あなたも知り合いだから、やりやすいでしょう?」


「はい、お気遣いありがとうございます」



 再び頭を下げる。

 その丁寧な対応等から余計な教育はいらないと看破したメイド長は、即戦力が入ったと機嫌良く去って行った。



「それではよろしくお願いしますね、リリス先輩」

「ええそうね、ついてきなさい」



 その言葉を、少々ながら複雑な気持ちでリリスは受け入れる。


 ミレイと名乗った、クレスタを見つめながら――





 メイドには実に穏便な方法でやめてもらった。

 人間である以上誰しも欲というものは存在するが、メイドというのは高貴な客を迎え入れる事も多いため、少なくとも庶民から採用されるメイドにはある程度の素行調査、或いは確かな推薦人を経て合格した人間が選ばれる。だからその点、メイドを切り崩すのは出来なくもないが少々骨が折れる。



 だが、その家族にまで審査は及ばない。



 他の人間と比較してもお金にがめつい親兄弟を持つ人間を選び、気分良く酔わせた後でギャンブルに誘い、始めは勝つよう仕向け、少しずつギャンブルにのめり込んだ時、負け込ませる。今まで勝ってきたから、これだけ負けてもそろそろ勝てる、などといった愚かな思考を利用し、ムキになって元を取り返そうと大きい金額を賭けた際にトドメの一撃として負けさせる。そして気付けば、自分一人では到底返せない程の借金を背負わせる。



 後はそれなりに清廉潔白で家族思いの性格を利用し、大金を渡すから自分の元で働けと、中堅所で金に弱い商人を通してその話を持ちかければ、彼女達は簡単に従ってくれた。


 そしてその中の最後の一人が、リリスだ。


 三人の中で最もメイド歴が長いため、彼女には紹介役として残ってもらった。

 商人の娘として箔をつけたい、という理由で、公爵家のメイドとして働きたいのだろうとリリスには思わせている。





 そんなリリスの指導の下、仕事として堂々と屋敷の内部を歩きまわり、内部の正確な地図を三日で書き上げたクレスタ。しかしそれはついででしかなく、やはり本命であるロザンは事前に調べ、予測した通り主に外で訓練を積み、後は執務室で公爵としての仕事をこなすロザンの行動を裏付けるだけだった。


 直接的な攻撃は、それが狙撃の類であれ無駄に終わるだろう。


 だからこそ、メイドとして働く事になる前から考えていたプラン通りにクレスタは動く。


 メイドとなったのは夜、眠っている時に堂々と接近して襲うためではない。



 クレスタは理解していた。




 ()ている(・・・)()こそが(・・・)危険(・・)である(・・・)、と。




 彼ほどの超越者になれば、本能に従って生きている。故に、奇襲や夜襲の類、その場に一人しかいない状況、ある意味で最も本能的な状態である睡眠時に襲うなどいった事は、それこそが自殺行為であると。


 ならば彼が最も油断している時はいつか。


 午前の厳しい鍛練を終え、そのまま外で昼食を食べ終わり、毒がなかったと安心し、たとえほんの僅かであれ本人が最も油断し、眠気を誘うような温かい午後になったばかりの時間。食後の紅茶を楽しむといういつものリズム。


 いつもはリリスが用意する紅茶を、今日は自分が持って行ってみたいと、間近でロザンを見てみたいと初めての我が儘を言った。そして、仮にも親が借金をしている相手の子供である自分の我が儘なら、リリスが聞かない筈はない。


 その紅茶に、無味無臭の毒を入れてある。


 理想を言えば遅効性のものを混ぜた物を他人に持って行かせる事なのだが、無味無臭の絶対条件を満たす物はなかった。それ故に、仕方なく自分が持って行き、事前に口内に仕込んだ解毒剤と一緒に呑みこむ事で毒はないと思わせる手法をとる。

常人なら二、三滴で充分ではあるが、念の為その倍の量を。


 多少は耐性があり、解毒剤も一緒に呑むとはいえ、かなり体調を崩す事になるだろうがそれは仕方がないと割り切っている。



「緊張でもしているのかな? 動きが硬い」



「あ、は、はい。まだここにご奉公に来て時間も経っていませんので、まさかこんなにすぐに公爵様とお会いできるとは思いもよらず……」



 どうしても、この人間の視界に入ると緊張は拭いきれない。

 無理をすれば隠しきれない事もないが、それで騙せるのはせいぜいそこらにいる兵士が限度だろう。どう足掻いても、ロザンを相手に騙し通すことなど出来はしない。


 ならばこそ、自らの幼い容姿を利用した設定で、庶民が貴族に対する緊張と恐怖を演出する。


 声を掛けられたことにも驚いたという雰囲気を出し、経験など足りていない年相応の人間だと見せかける。


 しかし、初めて視線を交わした瞬間に一瞬だけよぎった疑念。


 先のやりとりは想定通りのものだったし、不自然な点などなにもない。


 このまま毒入りの紅茶を口内に仕込んだ解毒剤ごと呑み込み、安心させ、飲ませれば終わる。


 だから恐らく、まともな人間であれば誰もがまさかありえないと一笑に附し、任務を継続したであろうこの状況。


 だが、イザークは言っていた。本来なら臆病にもほどがあると、もはや妄想の域だと笑われるようなことを。しかし、クレスタもまた、ロザンを一目見た時にまさにその通りだと直感した。何よりあのイザークがそう言ったのなら、ありえないなんてことはありえない。



 ロザンが異常であるならば、ここにいるクレスタもまた異常だった。



 ベクトルこそ違えど、同じく凡人など比較にならない化け物と呼ばれるべき人の許で積んだ様々な経験。そこには経験に裏打ちされた確かな理論とそこから来る女の勘とでも言うべき、言葉では言い表せられない特殊な感覚を養う訓練さえも十全に積んできた。更にはイザークに対する、畏怖にも似た信頼。イザークと出会う前に培われた、野生の獣染みた危険察知能力。育ってきた環境が、クレスタを正常なままではいさせなかった。



 考える余地などなく、ただ本能的に大きく跳び退き、クレスタはロザンから距離をとった。


 結果、その判断は正しかった。


 目を逸らした覚えも、瞬きした覚えもない。


 だがしかし、それでもいつ抜いたのか分からないままロザンは、既に剣を振り抜いた姿勢を保っていた。


 そして、何より驚愕したのは、そこに殺意さえなかったと言う事。殺意がなければ、攻撃の起こりが読めない。その事実は、一対一の戦闘に措いて相当な不利に繋がる。


 信じられないが、この人間にとっては殺す事さえ呼吸と変わらない当然の事なのか。



「ほう……」



 僅かながら、感嘆を混ぜて呟くロザン。



 たしかに、あれが躱せるなどと思ってもみなかっただろう。自分でさえ驚くくらいなのだ。偶然に過ぎない奇跡の産物であり、同じ事をやれと言われても不可能な事。


 しかし完全には躱し切れなかったのか。眼前を数本の髪の毛が舞っている。



「――ッ!!??」



 噴き出す汗。

 激しくなる呼吸。

 なぜ気付かれたのかと本来であれば聞くべき事など、今はどうでもいい。

 あのままなら自分は、間違いなく死んでいた。そして次にロザンが動けば、その剣が振るわれれば回避できずに死ぬ。



 今後の参考のための会話、などという余裕さえ許されない。警戒すれば間合いの外に出て躱すくらいは、などと思い上がれば間違いなく自分は死ぬ。


「くッ!」


 九死に一生を得たクレスタの判断は迅速だ。

 時間にして僅か一分にも満たない遣り取りで、クレスタはどうあってもこの男に勝てないと悟る。


 震えかけている足に喝を入れ、ほとんど折れて今にも泣き出しそうな心はそのまま、本能に身を任せて即座に身を翻し、脇目も振らず逃走を開始する。


 そして当然、ロザンはその後を追う。





 日頃感情を動かす事のないロザンが、しかしこの日、僅かな時間で二度目の感嘆を覚えた。


 孤児達を他人と比較した際、最も優れている点で真っ先に挙がるのが身軽さだ。

ではロザンはどうか。


 剣聖。

 不死身の英雄。


 彼を知る人間は誰もがそう呼ぶ。

 戦場において不敗。

 どんなに不利な状況であろうと、彼が負ける事はない。


 配下の兵を皆殺しにしようと彼だけは生き残り、最後には強引に勝利をもぎ取る。


 戦術だとかそういう次元ではなく、単に誰も、どんな手段を用い、何人で掛かっても敵わない、無敵の剣士。


 百の兵で取り囲もうと、一度に対峙できるのはせいぜい四、五人が限度。強引に行けば八人程はいけるかもしれないが、個々人の動きが制限されてしまうからやはり下策。そしてならば、彼はその程度の状況で負けることなどありえず、そんな存在を前に多数を相手にすることが前提の軍略は地に落ちる。



 だがしかし、もしロザンに勝てる点があるとすれば、唯一それこそがそうだった。



 情報を無事に持ちかえる事。捕らわれない事。それを最重要視し、念頭において訓練を積んできたのだからある種当たり前だと言えるが、彼らが全力で逃げに徹した時に追いつける人間は果たしてどれだけいるか。


 少なくとも、戦場で生き残る事を最重要視し、攻防の技術を学び続けたロザンにとって、いくら本人が驚異的な身体能力を有していようと追いつけないクレスタの速さ、迅速果断な判断力の良さは驚嘆に値するものだった。


 だからそこを素直に認め、しかしやはり拭いきれない恐怖から動きが直線的になっているクレスタに向けてロザンが手に持った剣を投擲しようとした時――



 クレスタの逃走を助けたのはこの場にいないベルガだった。



 ロザンは投擲しようとした剣を握り直し、急速に体を反転させて防御態勢をとった。


 敵が傍にいないことは察している。だが、その程度では油断出来ない程あまりにも明確な殺気が飛ばされてきたのだ。


 牽制であることは、数秒間なにもされなかったという事実で充分に察した。

 しかしそれだけの時間があれば、クレスタがロザンから逃げ切るのには充分な時間だった。



 一瞬だけやったロザンの視線の先、五メートルはあろう屋敷の塀をあっさりと乗り越えられるのを見て、すぐに追跡を諦めた。そしてクレスタが姿を消すと同時、殺気を飛ばしたベルガもまた気配を殺す。



 同じ真似なら出来るだろう。しかし、彼女のように速く、あっさりと飛び越える事が不可能なことくらいは分かる。ならば追跡したところで結果は見えているからだ。


 遠くでメイドや衛兵の騒ぐ声が聞こえるが、もはや一度姿を見失った以上彼女たちは逃げ切るだろう。


 そしてその状態からの捜索は骨が折れる。ああ、だが、このまま逃すのは少々惜しい。

 久しぶりに敵を逃がしてしまったと、内心で湧き起こった手応えのある敵に対する僅かな興奮は押し殺し、ただ淡々と駆けつけた兵士たちに応対した。



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