忌み子
気付けば目前まで迫っていた剣を、慌てて全力で弾く。
が、そんな大振りの防御で出来た隙を見逃す相手ではない。
弾かれた勢いそのままに一回転し、胴体に叩き込まれる直前で止められた剣を防ぐことはかなわなかった。
「……今日はずいぶんと調子が悪いですね。集中力を切らしているというか精彩に欠けているみたいです。やめときますか?」
何度も考えるのをやめようとはしたが、それでもハイエルフの少女の事がどうしても気になってしまいどうにも身が入らない。
いざ始めたらその事も気にならなくなると思ったが、そんな気配もない。このままでは大きな怪我にも繋がりかねないから危険だろう。
今回は素直に忠告に従おう。
「…………なあ、クレイ。みんな、そうなのか。他の貴族も、父上のように亜人を奴隷にしているのか?」
「ええ、まあライル様は特にひどい方ではありますが、だからこそ典型とでも言うべきですかな」
「…………そうか。……今日は調子が悪いみたいだからやめとくよ。それと外出許可を得たんだ。悪いが気分転換に付き合ってくれるか?」
「仰せのままに。ま、たまにはそんな日もありますよ」
クレイのいつも通りの陽気な声も、気遣われたように感じてよそよそしく思える。
そう思ってしまう辺り、やはり自分は相当重症のようだ。
「はぁ、まいったなあ」
胸の内に巣食うもやもやを吐き出す様に呟くも、結局出ていくことなく変わらずに巣食うままだった。
家を出て、上流階級の者が住む地区、中級階級の者が住む地区を抜け、平民街へと足を踏み入れた。
先の二つは人通りが少なく、また家の数もそう多くはなかったため、そう見る物もなくあっという間に通り抜けてしまった。
だがここは違う。恐らくは人口の九十パーセント以上が集まる場所だ。
使い古されたような、日本人の視点から見れば住めるのか疑ってしまうほどの家も趣を感じてしまう辺り、何とも現金なものだと思わず苦笑する。
だが、どうにも期待したほどではない。
すれ違う人の誰もかれもがくたびれたような顔。
しかし、じっくり観察しようにも皆が顔を逸らし、避けるように早足で過ぎ去っていく。自分の身形と横にいる騎士、クレイの姿を見て、おおよその見当はついたのだろう。
正直まいった。
変装か、せめて全身を隠す為にフード付きのマントでもあればまた違ったのだろうが、そう思い至ったのも後の祭り。
「なあ、ここでマントを買ってから顔を隠したら、もう少しマシな対応になると思うか?」
「まあ、そうでしょうね。どの道私がいる時点でそう変わらないでしょうが、少しはマシになると思いますよ」
「……ちなみに、お前のマントを借りたらどうなる?」
「私が騎士だと言う事が一目で分かるでしょうね」
「……今度からはそうするか。次があったら準備しといてくれ」
「分かりました」
そんな会話をしながら歩いていると、どこからか肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
匂いに釣られるように行けば、幾つかの露店が固まって、様々な食べ物を出している場所へとやってきた。
食欲をそそられる匂いに、最近はあまり食べていない事を思い出したのかお腹が空腹を訴える。
その中の一つに、何かの練り物を平べったくつぶして、串に刺して焼いている店があった。
「おじさん、これ一本いくら?」
「へ、へい! あ、勿論タダで構いませんよ!」
やっぱりマントである程度変装するべきだったか。
どう見てもビビっている。
どうせ碌な政治をしていない親の事を恐れたのだろう。
「物を買うにはお金が必要な事くらい分かってますよ。立場上難しいかもしれませんが、下手な気は遣わないでください。それで、いくらですか?」
「あ……い、一本小銅貨十枚になりやす」
「…………」
元の世界でいう百円くらいか。
あり得なくはないが、よほど仕入れ値が安くないと利益は出ない値段のはずだ。
いや、この世界の流通や生産力、食料事情からすればどうやっても赤字になるのではないか。
「それでは二本ほど頂けますか? クレイ、大銅貨1枚で払え。お釣りはいらない」
「はいよ」
「お、大銅貨なんて受け取れませんよ!」
慌てたように首と両手を大袈裟に振るが、それは通用しない。
「店主殿、本当ならこの串焼きは一本小銅貨四、五十枚程するのではないかな? であれば、大銅貨一枚と言うのは正当な対価だと思うが?」
「…………」
無言ではあるが、驚いた表情が推測は間違っていない事を告げる。
どうせ減るのは事前に渡されているであろう無駄に多い小遣いで、自分の懐からじゃない。
それに元は庶民の金なんだ。
ここで還元しておいてもバチはあたらないだろう。
「諦めた方がいいですよ。こういう時の坊ちゃんは中々頑固なんで」
「お前、もう少し主に対する敬意を持ったらどうなんだ?」
「それはもう充分に持っているのでご安心を」
敬意の欠片も感じられない似非スマイルを浮かべるクレイに、少しでも厭味ったらしく聞こえるように溜め息をついた。
「それにしても初めて食べるモノを二本とは思い切りましたね」
結局、あの後店主は素直に大銅貨一枚を受け取り、過剰なまでに頭を下げてお礼を言っていた。
地球生まれの俺にはあまりにも過剰な反応にしか思えなかったのだが、どうにも店主がおかしな行動をとったというわけではなさそうなので、その辺りの常識の差もなるべく早くに埋めないとまずいだろう。
「一つはお前のだ」
「……それはどうもありがとうございます」
「どうした。何かマズイことでもしたか?」
クレイは素直に受け取ったのだが、一瞬驚いた表情を浮かべたのが気になって問いかける。
「……ええ、まあ、普通は従者に分け与えるなんて真似をする人はいませんよ」
常識の差を埋めよう、なんて思った直後にさっそくやらかしたようだった。
「……それじゃ次からはそうするか」
「いえ、今のままでもよろしいと思いますよ?」
「そう言われると逆にあげたくなくなるな」
「そいつは残念」
肩をすくめておおげさに残念そうにするあたり、芝居がかっているせいで疑いたくなる。
まあ尤も、街の端っこにあたる門まではまだそれなりの距離があるのだ。ただ歩いていくだけでは何とも味気ないものになるだろう。
かと言って一人で食べ歩くのもなんだかそれはそれでつまらないものだから、きっと次の機会があれば普通に奢るのだろうが。
それよりもクレイに構ってないで熱いうちに食べるべきだろう。
そう思い、口をつける。
竹輪に近い味だが、何かのミルクが混ぜてあるのか、柔らかくて優しい味付けだ。
味付けは素材を生かし僅かにアクセントで塩が振ってあるだけだが、自宅で出る料理は無駄に凝った造りの上品なものばかりで、それなりに美味しくはあるのだが、口に合わないというのが正直な所だった。
やはり自分には庶民の味、という簡素な味付けの方が随分とおいしく感じる。
気付けばあっという間に一本食べ終わった。
帰り際にまた買おうと誓い、この街の果て、門まであと少しの所で衝撃を受けた。
「…………え……?」
呑気な観光気分で外を歩き回り、精神的にはあまりも無防備過ぎた。
転生だ、などと無邪気に喜んでいた自分を呪いたい。
地球にいたころは貧困も、紛争も、どうでもよかった。自分には関係もないのだから、知らない人が何人死のうが構わなかった。
他人事だと、簡単に割り切れた。
知らなければ良かったと思っても、もう遅い。いや、これは生きていれば必ず、そう遠くない内に知ってしまっただろう。
テレビ画面の向こう側、手を伸ばしても届く事のない距離の出来事であり、自分は無関係であった場所が今、目の前にある。
あの時のように他人事だと、割り切れない。
「…………ぅ……あ……」
口から零れた声とも呼べない声は、自分のものかそれとも視線の先にいる少女から出たものか。
生きているのが不思議なほどに、ボロ雑巾のように打ち捨てられた人とも呼べない人。
真っ白な肌、真っ白な髪が土に塗れ、薄汚れた土色に染まる。
色々な部分が破れ、ほつれた服とも呼べないぼろ布を辛うじて纏っただけの、今の自分とそう変わらない幼い少女。
そんな少女を、多くの人は見向きもしない。いや、見る人も、たしかにいるのだ。だがそれは、憐れみなどでは決してない。
ただただ汚い物を見るかのような、人ではないモノに対して向けられる眼。
だがそれでも、その少女の鮮血のように紅い瞳だけが未だ意志を宿して生きたいのだと訴える。
もはや枯れ果てたのだろう涙の跡だと、そこだけがほんの僅か、少しだけ土で汚れていないからすぐに分かった。未だに希望を捨てていない事を、生きる意志を秘めている事を切実に訴える。
「…………クレイ」
「坊ちゃんにはまだまだ刺激が強かったですかね。ダメですよ。仮に連れて帰った所で、それじゃライル様が、いや、顔を会わせる前に他の騎士が殺すでしょう。白い髪は忌子の証、不吉の象徴であり、触れた者に呪いをもたらす、呪われた子供だと言われていますからね。坊ちゃんの立場もなくなる」
クレイが揶揄するように、所詮俺は世間知らずのお坊ちゃんなのだろう。
あの屋敷の中が全てで、そこだけが俺の世界だった。
前世の記憶があると言っても、知らない事も出来ない事もあまりに多い。
平民のように自分の事を全て自分だけで賄えるわけでもない。でも、大切な事だけは間違っていないと信じたいんだ。
この世界は前世と違って命の価値は限りなく安いし、自分が見ているモノの価値観はこの時代の人間と大きく違うだろう。でもやっぱり、俺にとっては命の価値はやっぱり掛け替えのないものだから――
「そんなことはどうでもいい」
転生した事で、少しは神様なんて空想の存在を信じていいとは思ったけど、やっぱりまだ、そんな直接出会ったわけでもないモノは信じられない。
アルビノは確かに、数は少ないし突然変異に近いものではあるが、別にそうだからと言って特別ではないはずだ。
だから呪いなんてくだらないと思ったし、もし僅かながら魔法が存在するこの世界において それで呪われるのならばそれでも構わないと思った。
ここで目を背けて逃げ出してもその姿が目に焼き付いて、掠れて消えてしまいそうなほどに小さな声が耳にこだまして忘れられそうにないのだ。
自分を、自分の事以外はどうでもいい冷めた人間だと思っていた。
でも、きっとそれは違ったんだ。
心の奥底で燻っていた何かが、ただ静かに火を灯した。
「呪われるのが怖いっていうのなら、俺が担いで連れて行く。近くの宿屋まででいいから案内しろ」
「聞いてませんでした? そういう問題じゃないんですよ。どこの宿屋だろうと、たとえこの土地を治める侯爵家の長男であるあなたが頼み込んでも、何倍もの金額を積まれたとしてもお断りするでしょうね」
「…………だったら一先ず、近くの店から食べ物と水を調達して来てくれ。今すぐにだ」
「……はあ、言っても聞かないんでしょうね。了解しましたよ。ただ、ここから離れないようにしてください。それと、このマントを被せて見られないようにお願いします」
一応、心配はしてくれているのだろう。
この少女ではなく、俺自身の方を。
「すまない」
だからこそ、今ここでこの少女を殺しにかかる可能性も考えたが、今の所はそのつもりはないようだ。二、三度振り返ったものの、その姿は駆け足で雑踏の中に消えていった。
「もう少しだけ耐えろ。すぐに助けてやる」
「…………ぁ……」
握った手に力はない。
それでも、触れていてようやく気付くか気付かない程微かに指先動いた気がした。
道の脇にある家と家の間、少しでも人目のつかない所まで運びこみ、上からマントを被せて見られないようにする。
お互いが同じくらいの年齢か。
この体で背負うのは厳しいと思っていたが、その子供の体は拍子抜けするほどに軽かった。
餓死寸前なのは見ていて分かる。
何日もロクに物を口にしていないのだろう。
今にも消えそうな命の灯火を前に、クレイを待つしか出来ないのがどうしようもなく焦燥感を駆り立てる。
クレイがここを離れてどれほど経っただろうか。
それほど経っていないようにも、もう数十分は経っているようにも感じる。
焦った所で何も出来ないのに、今にも消えてしまいそうな命のせいで、気が気じゃない。
ただ何もせずにクレイを信じて待つのは辛い。途中で自分も水や食料を確保するために動くべきじゃないのかとも思った。
それでもここを動けなかったのは、握った手がどうしても離せなかったのもある。まだ生きているという熱が伝わって、それと同時に離さないで欲しいという思いが伝わってくるような気がした。
だからだろうか。ここで手を離せばすぐにでも死んでしまうような気がしたから。
未だ焦りはなくならないが、それでもここから離れようという気は起きなくなった。
それからおよそ十分後、人ごみを縫うような足さばきでクレイが早足に駆け寄ってくるのを確認した。
あくまで目立たないよう、近くに来た時に軽く声を掛け、すぐに少女の元へと近寄る。
「まずは口元を拭くからじっとしてろ」
泥まみれの口元は、そのまま物を食べれば確実に砂も呑み込むことになるだろう。今の状態で少女がそれを気にするとは思えなかったが、だからこそ自分がそう言った部分を気にしなければならない。
クレイが持ってきた水でハンカチを濡らし、口元を拭う。
抵抗する意思も力も残ってないのだろう。されるがままに、ただ漠然とどことも知れない目の前の空間を見ているだけだ。
「まずは水からだ。慌てずにゆっくり飲め」
鈍色の使い古された鉄製のコップに注がれた水を口元まで持っていき、ゆっくりと傾ける。
「……んッ! ケホッ、ゴホッ!」
それでも気管に詰まらせ、せき込む。
相当喉が渇いていたからか、それとも久しぶりに何かを飲み込んだからか。
しばらくせき込んでいたがようやく落ち着いた後、ゆっくりと手を伸ばし、再び水を催促する。
そして今度こそ一度もむせることなく最後まで飲みきった。
「急いでいたからこれしか用意できなかったが食べれるか?」
「…………」
返事こそなかったものの、辛うじて頷いたのが見て取れる。
まともに使わなかった消化器官がきっと悲鳴を上げるであろうが、一刻も争う今は選り好みもしていられない。
ここに来るまでに程良く冷えていたからやけどの心配はしなくても良いだろう。
串焼きを僅かに開いた口の中まで持っていき、閉じられるのに合わせて一切れ分を口の中に残して引っこ抜く。
「クレイは今すぐに水のおかわりと、他に可能な限り消化に良さそうな物を探してきてくれ」
「いや、持ち運びできるモノがこの串焼きくらいだったんで、近くに他の露店はなかったですから厳しいと思いますよ?」
「……分かった。だったらとりあえずは水を2杯分頼む」
「りょーかいです。それじゃ、そこで待ってて下さい」
すぐに背を向けて駆けだしたクレイは、人ごみの中に消えて見えなくなった。
「…………グスっ……うぅ……」
噛む力もロクに残っていないのか、一切れ一切れゆっくりと時間をかけ、ただ一心不乱に涙を流しながら食べ続ける。
結局、2本の串焼きを食べた後で気絶するように眠ってしまった。
「……クレイ、本当にこの子を匿う場所を知らないのか?」
気絶した後も決して離そうとしない手を握ったまま、水を両手に戻ってきたクレイの目を見て問いかける。
「いや、無理ですって。て言うか、なんでそんなに気になさるんです? 所詮は呪われた子ですし、ここまでとは言いませんが、餓死する孤児なんていくらでもいますよ?」
「……そうだろうな。でも、それがこの子を見捨てていい理由にはならないはずだ。それに、俺が見捨てたくないんだ」
初めて見る、クレイのキョトンとした顔。
そして溜め息一つ。
「いや、まいりました。降参です。前から思ってたんですが、坊ちゃんは不思議な人ですね。ふとした瞬間に大人と同等かそれ以上の見識と冷徹さを持ちながら、時には年相応に子供のような行動をとる」
「気のせいだろ」
下手に怪しまれないように生活してきたつもりだったが、クレイにはバレていたようだ。それがクレイだけならまだいいが、他の人にまでバレているようだと少し改めなければならないだろう。
今まで以上の強い警戒心が必要になるだろう事に胸の内で溜め息を吐く。
現に今も、受け流そうとしたが無駄な足搔きだった。クレイも何らかの確信を抱いて発言した以上、この程度で流しきれるものでもない。
もっとも、これ以上追及するつもりもないようだし、何らかの秘密は抱えている事は分かっていても、転生などといった突拍子もないことに行き着く事はないだろう。
「知り合いの宿屋にかけあってみます。ただし、他の人に見付からないようにそのマントで隠してから背負いましょう」
「分かった」
追及はされなかった。
呪われるから触りたくないなんて言っておきながら、自分から少女を背負おうとするクレイを手で止める。
この少女は俺が助けたのだし、クレイも何でもない風を装ってはいるが、未だに抵抗があるはずだ。だったら、俺が背負っていかなければならないだろう。
強く繋いだ手をとぎほぐす様に、一本一本の指を外していく。
先程は拍子抜けするほどに軽かった体。今は僅かだけ重みの増した体が、とても重たく思えた。
「それではついて来て下さい」
「クレイ……」
「どうしました?」
先導する背中に声を掛ける。
「助かった。ありがとう」
「いえいえ、坊ちゃんの頼みですからね。それに貸し一です。適当な時に返して頂ければ構いませんよ」
ただ、クレイが振り返る事はなかったからどんな顔をしていたのかまでは分からなかった。
「…………ぅ……ん……」
「ようやく目を覚ましたか……。正直、このまま起きないんじゃないかと思って心配したよ」
少女が目を覚ましたのは、既に陽が傾き始めた頃だった。
実際、あまりにも静かに眠る姿はまるで死んでいるようで心配になって、何度も手の脈を確認したくらいだ。
「…………ぁ……」
「ああ、無理に起き上らない方がいい。頭がすっきりするまでは、もう少し寝たままの方がいいだろう。あの後すぐに気絶したんだが、覚えているか?」
「…………あ……はい……」
「それは良かった。それと、倒れたのは考えるまでもなく栄養失調が原因だ。起きて早々になんだが、今スープを用意させている。あの時は他にものがなかったからとはいえ、肉ばかりでは体に悪いだろう。そろそろ出来上がる頃だろうからもらって来ようと思うが、食べられるか?」
「……はい」
「それじゃあ、少し待っててくれ」
「あ……あの……」
席を立って、部屋を出ようとした時に零れ出た声に反応して振り返ると、縋りつくような視線に延ばされた手。
「……すぐに戻るから、安心して待っててくれ」
振り返らなければ良かった。
これを振り切って行くには正直心が痛むが、大声を出して下手に注目されるわけにもいかない以上、自分がとりに行くしかない。これ以上ここにいると去り時を失ってしまいそうで、一言だけ残してすぐに部屋を出る。
築数十年は経つ古臭い宿屋の階段を一段一段下りる。その度にたかが5歳児の体重でキイキイと軋む音が、今にも穴が開くのではないかと不安にさせる。
「起きましたか?」
「ああ」
階段を下りた先でカウンターに腰かけ、此方を見ていたクレイと目が合う。
「スープをとりに来た。悪いけどすぐに戻ると約束したから今すぐに用意してくれ」
「分かりました」
クレイが席を立ってすぐに用意した、少し欠けたお椀になみなみと盛られたスープとスプーンを渡され、再び階段を軋ませながら登っていく。
「入るぞ」
ノックをして返事も待たずに開けた扉の先には、安堵の表情を浮かべる少女がいた。
「あの……どうして私なんかのためにここまでしてくれるんですか?」
スープを食べ終わり、空になった器の底を見つめながらに問いかける。
それは、まるで視線を交わすことで何かを悟られるのを、そして悟ってしまうのを恐れているかのようだった。
それでも、だからこそせめて自分からは視線を逸らさない。
今はただまっすぐに少女の横顔を見つめる事しか出来ないから。
「放っておけなかった。それだけだ」
「……でも、私、嫌われてて…………呪われてて……化け物だって……みんなが……」
荒い呼吸の合間に、一言一言絞り出すように喋り、震えを少しでも抑えるために強く服の胸元を握りしめている。
前世も現世も、恵まれた環境で育つ自分には生まれながらに全てを否定され、忌み嫌われるのがどれほどの辛い記憶なのだろうか想像しか出来ない。
そしてそんな少女が今まで生きてきたのは、恐らく誰か一人でも助けてくれたからであり、今一人ぼっちだというのならその誰かに何かがあったからだろう。
「生憎キミの言う皆なんて俺は知らないし、呪いなんて信じてないんだ。現に、キミに触れたけど何も起こっていない。だからそんな事は気にしなくていい」
「でも……もし、近いうちに何か起こったら……」
「その時はその時だよ。君が悪いんじゃなくて俺の運が悪かっただけだ。それに、俺はまだなにがあろうと死ぬつもりはない」
この行為がどうしようもないほどに偽善だということは分かっている。多くの人を見捨ててきたし、今もまだ、見捨てている。それでも、やらないよりはいいだろう。
やらなければ未練が残る。やらない後悔よりもやる後悔の方が何倍もいいと、一度死んでからようやく気付いたのだから。
「俺の名前はイザーク、よければこれからよろしく頼む」
「…………シエラ……です」
シエラがおずおずと名前を口にする。
それと同じくらいの躊躇いを抱えながら言いたくない事を口にする。
「そうか、ではシエラ。ひとつだけ聞きたいことが――」
「イザーク様、さすがにそろそろ帰らないとマズイですよ」
その言葉の合間に潜り込んできたのは、ノックの音と扉の向こう側から聞こえてくるクレイの声。
言われて気付いたが、確かに室内はもう暗い。
これ以上遅くなればさすがに親には怪しまれるだろうし、クレイの立場的にも良くないだろう。
正直な所言い難い事だったので、クレイに救われた形で話は中断する。
「分かった。すぐに行く」
クレイに返事をしながらシエラと向き合う。
「それじゃあもう行くよ。シエラも疲れているだろうから、今日はもう寝た方がいい」
「……あ、イヤッ!」
唐突に、悲鳴のような拒絶の声が上がる。
ロクに動かない体を、それでも必死に動かしたせいでシエラがベッドから落ちそうになるのを見て、慌てて駆け寄って抱き留める。
「あぶな――」
「いや……イヤッ!!」
胸に顔をうずめ、どこにそんな力が残っていたのかと驚くほどの力でしがみついてくるシエラ。
「おねがい……いかないで……!」
そしてそれほどの力で抱きつきながら、それでも肩が小刻みに震えているのがわかる。
まるで母親からはぐれた迷子の子供が、見付けた母親の傍から二度と離れないとするかのような必死ささえ伝わる光景。
そんなシエラを前に、ここにいる、とただ一言だけでも言えることが出来たらどれだけ楽だっただろうか。
それでも実際には、少しでも落ち着くようにゆっくりと頭を撫で、背中をさすることくらいしかできない。
叶うならこのまま傍にいてあげたいが、そうするわけにはいかない。今からこの手を振り払わなければならないせいか心が痛む。
「このまま傍にいてあげたいが、それをするには少々面倒な立場にいるんだ。俺と、一応クレイ以外の人間の多くは未だに呪いなんてものを信じている。そして俺の帰りが遅れ、疑われれば親がキミに辿りつき、殺すだろう。そうすれば今日助けた事の全てが無駄になってしまう。すまないが、解ってくれ」
ずるい言い方なのは分かっているが、このくらいは言わないと手を離してはくれないだろう。
「…………やだ……やだよぉ……」
しかしそれでも離れない。頭では分かっているのかもしれないが、ずっと独りだったせいで感情が、体が手を離す事を拒否しているのだろう。
ここで手を離せば二度と会えないかもしれないと、そんな恐怖が押し寄せている様が伝わってくる。
「さっきもちゃんと戻ってきただろう。約束だ。明日もまた来るからこの部屋で待っててほしい」
「…………でも……」
それでもまだ諦めきれない様子のシエラの頭をなでながら、ゆっくりと言い聞かせる。
「この指輪を預かっておいてほしい。また明日、とりに戻るから」
「……………………わかり……ました……」
日頃から貴族らしい身形をする必要がある、とのくだらない理由で身につけておいた指輪だから特に思い入れがあるわけじゃないが、こういった理由として使えたのなら初めて役に立ったと言えるだろう。
そんな、個人的には何の思い入れもない指輪を大事そうに両手で受け取って、絞り出すように返事をしながら強く握りしめる。
「それじゃあ、また明日」
「あ、あの……待ってます、から……!」
目いっぱいに涙を溜め、唇を一文字に引き結ぶ。
言いたいけど言えない、迷惑を掛けられないと、葛藤する想いが伝わってくる。
「分かってる。明日になればちゃんと来るから」
何があっても明日は来ないといけないと、強く思う。
ベッドの上で頭を下げる姿を最後に、部屋を出て、そのまま宿屋を後にした。