鬼ごっこ
感想くださった方、ありがとうございます。
扱いに関しては活動報告と作者自己紹介に書いているので、よろしければそちらの方をご参照ください。
激しく脈打つ心臓がもっと酸素を寄越せと暴れ狂う。
浅く、激しくなりがちな呼吸を必死で抑え、なるべく深く、静かに深呼吸を重ねることで音が外部に漏れないよう細心の注意を払う。
追跡者の姿はない。が、ピリピリとした圧迫感が辺り一帯に漂い、未だにここは死地なのだと雄弁に語る。
身じろぎひとつせず家の壁に寄りかかり、周囲に追手の気配がないかと耳を澄ます。
夜の闇に紛れる黒一色の衣装は景色に溶け込み、鍛えられた狩人が正面から見ても尚、そこにいる事に簡単には気付かないだろう。
そこにトッ、と、頭上で僅かに軽い音が一つ。
それだけで弾かれたようにもたれかかっていた壁から離れ、再び黒い影は疾走を開始する。
直後、先程までいた場所に同じような陰が二つ。
それだけ確認すれば、もう振り向かない。
正面にある壁に向かってただただ真っ直ぐに駆ける。そのまま勢いを一切減速させることなく、体重を感じさせない程軽やかに跳び、三角跳びの要領で四メートルの壁の頂にあっさりと手を掛け、勢いそのままに跳び上がる。
それだけではない。そこで止まらず、不安定な屋根の上をまるで地上のように、それもほとんど足音を立てずに走り、密集している家から家へと軽やかに飛び移る。
中には三メートル近く高さに差がある家もあるのだが、それさえもあっさりと越えて見せる。
その光景をもし第三者が見ていれば、きっと己の目を疑っただろう。それほどに驚異的な身体能力だ。
「クソっ!」
それでも尚、振り切れない。
追跡者もまた遅れることなく追走している事くらい、振り返らなくても理解できた。
逃走を開始してかなりの時間が経つ。
あとどれほど逃げ切ればいいのか。
現在の状況は。
二人しか追跡者がいないと言う事は、他にもまだ逃げている仲間はいる筈だ。
背後に気を配りつつ幾つかの情報を整理しながら、未だに終わりの見えない逃走劇を続ける。
背後の足音が僅かに乱れる。直後に感じる悪寒。
その勘に従って進行方向を真横に変更し、一切スピードを緩めることなく四メートル程ある屋根から地上へと勢いよく身を捻りながら跳び下りる。
虚空を貫く音が、既に空中にあった体のすぐ後ろを通り抜ける。
視認こそ出来なかったが、何かを投擲したことだけは分かった。
そして身を捻った勢いをそのままに空中で後ろを向き、同じように暗器を追手の二人へと投擲する。
一人が足止め、もう一人はその間に距離を詰めようとしていたのだろう。
二人ともただ単純に、地上へと逃走するだけだと思っていたはずだ。まさかこの状態で反撃が来るなどと思っていなかった。僅かながらの体の硬直が、その思い込みから来る油断を見てとれる。
先に暗器を投げつけた方は投げた際の崩れかかった体勢を利用し、自ら倒れ込むことで辛うじて回避が成功したようだが、此方へと接近していたもう一人は防ぐ間もなく胴体に命中したのを確認。
そこから更にもう半回転体を捻って正面を向き、地上へ着地と同時に両足を曲げ、前回りに転がって勢いを殺す事なく立ち上がり、その先の闇へと駆け込んだ。
背後から迫る足音はもう聞こえない。
もう一人の追跡者も、足を止めたようだった。
「ふう」
なんとか振り切った事を確認して息を吐いた。
あの時から五年。
初めて会った時からすでにそうではあったが、我らが主、イザークの訓練は本当に性格が悪かった。
今にも死にそうな程に過酷な訓練を施しながらも、実際に人死には出ないように加減された絶妙な訓練。意外と人間というのは丈夫に出来ているのだと、その時初めて思い知らされた。
教わった当初は、鬼ごっこなどと呼ばれたどこまでもシンプルなただの遊びだったが、今や誰もが必死に取り組む地獄の訓練へと変貌していた。
殺傷能力のないものであればどんな妨害もあり。
タッチではなく武器を当てれば当たった人間は脱落。
人数は等しいチームを組んでおきながら、鬼は常に二チーム制のために逃走者が自ら鬼と対峙する事は最低でも二対一を強要され、圧倒的不利なのだ。
しかし、ただの二対一じゃない。
その時々によって、攻め手側はもう一チームを裏切る可能性もある。
それをどこかのチームが始めたのはゲームが何周かしてからだったが、それはもう片方を勝たせないためであったり、負けてもらっては困るからであったりとその時々で理由は変わるが、その辺りの駆け引きもまた訓練の一環だと言って容認された。
それに逃走者側のボスである自分が負ければゲームも負け。そのために仲間が囮となってくれているはずだが、やはり襲撃されるのは仕方がないだろう。
これで負ければ相手側の内、一チームが累計十勝。
最も早く十勝したチームにはささやかながらお小遣いを。
そしてその時点で最下位のチームには恐るべき罰ゲームが待ち受けていた。
つまり、現時点で最下位である自分のチームがその罰ゲームを受けるという事。
もうあんな苦渋は味わいたくない。それがこのチームの、いや、例外なく全チームの共通認識だった。
初めての罰ゲームは今までの訓練を上回る拷問染みた訓練だった。
その時は回避できたから良かった。訓練を受けさせられたグループは喋る気力も奪われるほどだったが、きっと心の中で思いつく限りの罵詈雑言を浴びせていただろう。だが、そっちの方がマシだったと皆が後になって悟った。
全員がその訓練にも耐えられるようになると、今度は精神的に攻めてきた。
一チームからただ一人、ランダムで選ばれた生贄が実戦訓練の名の下に、受ける人に合わせた罰ゲームを用意する。
初回、恥ずかしがりやのアズは、少し見れば分かる程度の女装をして街中を一周するという苦行だった。そのダメージは計り知れないものがあるだろう。
だが皮肉にも、あの瞬間のアズは間違いなく誰よりも凄かった。人影から人影へと移動するタイミングや速さなど、常に死角を選んで移動し、誰にも見咎められる事無くやってのけたのは伝説として語り継がれている。
もっとも、そのせいで訓練説を裏付けることにもなったが。
そのせいか、終わった後でしばらく悶えながら地面を転がっていたアズの姿を見て皆が同情と憐憫の視線を向けていたが、声を掛けるものはとうとう現れなかった。
その後はチーム一丸となってもっと厳しい訓練の方でお願いしますと頭を下げたのは、苦い思い出だ。
『ピーッ!』
と、甲高い、鳥の鳴き声に似せた音が響いて、現実に引き戻される。
夜間訓練も兼ねた『鬼ごっこ』終了の合図があちこちで鳴り、エミリオも同じように一吹きしてから中央へと戻っていく。
未だ崖っぷちである事は変わりないが、一歩でも最下位から脱する機会を得た事に今はただ、安堵の息をつくだけだった。