今は名もなき溝鼠
すえた匂い。
カビ臭く、泥臭く、そして何かが腐っているような、すえた匂い。
今にも鼻が曲がりそうな空間を、意識して口呼吸をすることでなんとか耐える。
触れれば壊れそうな、あちこちに穴が空いたボロボロの壁。きっと屋根にも穴が空いているだろうそんな場所に、イザークはいた。
胡乱げに向けられる生気のない視線もどこ吹く風。迷いのない足取りで、ただこの場のより深い場所へと足を向ける。
そろそろか。そう心中で呟いた時、背後から感じていた複数の足音が駆け足に変わって迫るのを感じた。
それに合わせて正面にある壁から、3人の少年が道を塞ぐように立ち塞がる。
「おいお前。良い所の坊ちゃんがこんな所に何の用だ?」
声を掛けてきたのは地毛ともただこびりついた砂のようだともとれるくすんだ茶髪の少年。
この場では最も体格が良いが、それはあくまで年齢によるものだろう。破れた服から覗くあばらは骨が浮き出ており、長期間ロクに物を食べていなかった事がうかがい知れる。
その声を合図に、計8名の少年がイザークを中心に包囲する。
だれもが辛うじて衣服としての体裁を保っているかのような襤褸切れを纏い、手にはそれぞれ得物として木の棒や石を持っている。
来た。
そう思うと、笑みを隠しきれずに自然と口角が上がった。
それに気圧されたかのように正面に立つ少年が半歩下がり、しかし再び半歩進んで睨みつける。
「ここはお前みたいな坊ちゃんが来ていい場所じゃないんだよ。大人しく金目の物を置いて失せな!」
目前に立つ少年が先程の怯えを隠すかのように、より強めの口調で言う。
だが、素直に引き下がるわけがないのだ。
何せ、ここに来た目的は彼らなのだから。
「何の用、と言ったな。それに答えるなら俺はお前達に用がある」
「なっ!?」
その返答を予想していなかったのだろう。
リーダー格の少年に走った動揺はすぐさま他の少年達にも伝播した。
そしてその隙を逃す手はない。
「こんな真似をせずとも生きていける方法を教えてやろうか? その日食べる物にも苦労せずにすむ方法を」
その動揺で生まれた傷口を、さらにこじ開ける。
「そんなこと――」
「あるわけがない、とでも? ああ、そうだ。普通に考えればないだろう。お前達孤児だけでなく、毎日一生懸命に働いている大人たちでさえ食べ物に困る世の中だ。立場的には最弱の孤児を、都合よく助ける人間はいない」
「だったら――」
「だが、そんなのは理由にならない」
反論など許さない。主導権を握ったまま押しきることが、現在では最も有効だから、可能性なら何パターンも予想してきた。
「俺の身なりをみればある程度察しがつくだろうが、俺は金を持っている。お前達を養う事くらいは余裕だ。だから俺の部下になれ。俺に忠誠を尽くし、どんな命令にも従う有能な部下に。そうすれば使い捨てにもしない。ちゃんと訓練を積み、生き残る機会もあたえる。どうだ?」
「…………」
彼らの動揺は手にとるように分かる。
まったく予想していなかった展開であり、空腹時にニンジンをぶら下げられた馬のようなに、他の事には目がいかなくなる。ましてそれが罠かもしれないと思っていても、跳び付くより他ないのだ。
それに俺の事を貴族の息子とまでは気付いてないようだが、それなりの身分である事くらいは一目瞭然。そんな相手に手を出して、後から復讐される可能性も零ではない。
ハイリスクハイリターンに懸けるよりも、ぶら下げられたニンジンをとる方が遥かに安全だ。
事実、迷っているリーダー格の少年に対し、取り囲む何人かは期待するような眼差しを向ける。
「それが……この場を言い逃れるための嘘だという保証は?」
「まっすぐにここまで足を運んできたのは見ていただろう。気付いていないとでも思ったのか? それにそもそも、前提条件が違う。俺が、お前達に、負けるとでも?」
「っ! なめるなよ。だったら試してみようじゃないか!」
「いいぞ、掛かって来い」
そしてこういった世界の原理は単純だ。
力あるものが強く、正しい。
だから分かりやすく挑発したし、目の前の少年もその挑発に乗るしかない。
言うや否や突っ込んでくるリーダー格の少年だが、それがフェイクである事くらいは状況からお見通しだ。
石を持っている少年がいる以上、それは混戦になる前に投げなければ同志討ちの危険性がある。
故に今、既に背後で石を投げるためのモーションに入ったであろう少年がいる事くらい分かっているから、即座にリーダー格の少年に背を向けて走り出した。
振り返った先にいるのは、意表を突かれた事による焦りを如実に表した、乱れたフォームで石を投げようとしている少年。
そんな半端な投げ方で投げられた石もまた、狙いも勢いも半端なもので、当然ながらそんなものがあたるはずもない。
石はわざわざ避けるまでもなく数十センチメートル横を通り抜け、壁にあたって弾かれる。
まだ他の少年もロクに対応できないまま、まずは石を投げた少年の鳩尾に掌底を叩き込む。
「うぐっ」
崩れ落ちた少年の声でようやく他の少年も動き始めるがもう遅い。反射的に最も近くにいた少年が殴りかかってくるが、焦りによって単調になった攻撃を易々と手ではたき、再び鳩尾に一発お見舞いする。
この場では最も小さい俺があっさりと二人を無効化した事により、他の少年は警戒と怯えにより距離をとったままだ。しかしそのまま此方へと駆けて追いついたリーダー格の少年は、今更止まれないとばかりに背後からの強襲をかける。
だがそれも予想済み。
顔だけ後ろを振り返り、上段に構えた木の棒が振り下ろされるタイミングを見計らってバックステップをする。
「カハッ!」
相手の間合いよりも内側へ入り込み、勢いもそのままに体をぶつけ、呼吸器官へ強い衝撃を与える事で生じた一瞬の停滞。
勢いのまま、上段から振り下ろされている腕を掴んで引っ張り、そのまま前方へと放り投げる。
――背負い投げ。
イザークよりも数歳は年上の、三十センチは高い体が宙を浮く。
力ではなく技術によって成された、まるで魔法のような光景に目を奪われ、時間が止まったかのように動きを止めた残りの少年達。
だがそれも数瞬の事。
ドン、という衝撃と、再び肺の酸素を吐きだす声。
ロクに受け身もとれずに溜めていた空気を全て吐き出し、せき込むリーダー格の少年。
今まで本気で訓練を積んできたのだ。
冷静なままで全員が同時にかかられたらこうも上手くはいかなかっただろうが、思考を限定され、焦って冷静さを失った相手では敵じゃない。
「さて、まだやるか?」
「…………ゲホッ、ゴホッ。…………いや……降参だ」
そのまま力を失ったかのように、地面に横たわったまま両手を頭の横に上げ、降参の意を示す。
体力的にはまだ余裕があるだろうし、沽券にかかわる問題だからまだ突っかかってくる可能性もあったが、先ほどの光景を見れば戦意も喪失するだろう。そのためのデモンストレーションも兼ねていたのだが、正直最後のは賭けでもあったので上手くいって助かった。
リーダー格の少年の降参を受け、他の少年達も戦意を喪失したのだろう。それぞれが手に持っていた武器を落とした。
これで、決着はついた。
「それで、お前は俺の部下になるのか?」
回復するまで少しだけ時間を置き、頃合いを見計らって再び問いかける。
「……ひとつ聞きたいが、なぜ俺達孤児なんだ? お前なら平民の子供を子分にするか、奴隷を探せばいいだけだろ」
「それじゃダメなんだよ。お前たち孤児は良い意味で生き汚い。生きるために必要な事が何なのか分かっている。最後まで諦めず、貪欲に生きようとする。一人じゃ生きられない事を知っているから、身内を大切にする。そして、外敵には容赦をしない。俺の求める人材というのはそういう奴らだ」
人間の平民や奴隷身分の多くは自分さえよければそれでいい、という考えが根付いているだろう。そして、貪欲さを知らない。そんな奴らを信頼なんて出来るはずがない。
その点、孤児たちは弱いから集団を作るし、他の知り合いがいないから余計なしがらみがない。そして彼らは劣悪な環境を生き抜いたという実績が既にある。
その貪欲さが何よりも必要なのだ。
「…………本気で言っているのか? 俺達をおびき寄せた所を奴隷商人にまとめて売り払うという可能性は? お前の言う事が本当だと信じるに足る証拠はないのか?」
「ない。強いて言うなら二束三文の金稼ぎをわざわざするだけのメリットがないことくらいだが、俺からは信じてくれとしか言えない。ただ、言うまでもなく分かっているだろう。今のままじゃ未来がない。無能な豚の支配はこれから先、もっと酷くなるだろう。ただでさえギリギリのお前たちが何人生きていける? 生き残ったとして、その後どう生きていく? つまり俺に従ってほぼ全員が生きていける道をとるかどうかの問題だ。まあ仮に俺が裏切っても、お前達が死ぬのが早いか遅いかの差だけだ。だから伸るか反るかはお前次第だ」
「…………ッ! 本当に最悪だな。悪魔みたいなやつだ。……でも、認めたくはないがお前の言うとおり、信じるしかないんだろうな……」
諦観に包まれながらも、その声は分かっていながらも中々認めない自分に言い聞かせているようでもあった。
「ああもう! 分かった。いいだろう。お前を信じてやる。だがその代わり、裏切ったなら何が何でもお前を殺してやるから覚悟しとけ!」
「ああ、その時は好きにすればいい。まあ捨て駒として扱うような真似は絶対にしないし、可能な限り一人でも多くの人間が生きていけるよう善処するつもりだから、そんな覚悟なんてする必要もないがな」
ある程度の警戒心を解いたのか、険のとれた顔で叫ぶ。
「ああ、それと自己紹介がまだだったな。この地方を治める貴族の息子、イザークだ。よろしく」
「なっ!? おまっ!!」
「言っておくけどあんな豚野郎と同類にはしてくれるなよ」
「…………いくらなんでも貴族の息子とは思わなかった。早まったかもな。ほんと、お前には驚かされてばかりだよ。俺はエミリオ、こいつらと、ここにはいないが他にも十人程、合計十七人の孤児達のリーダーをやっている。これからよろしく頼む。あと……そういうことは早く言え!!」
「いや、言ったらお前、話聞かずに逃げてただろ」
「当たり前だ! 領主の息子と関わるなんて厄介事の匂いしかしねえ」
「安心しろ、もうどっぷり漬かっているから逃がさない」
「どこを安心しろって言うんだ!?」
「引き返せないから返って気が楽だろ?」
「もういい、きっと今日が人生最大の過ちを犯した日として、俺の歴史に刻まれるだろう事は分かった」
「まあ長い付き合いになりそうだから、これからよろしく頼むよ」
エミリオは返事を返さず、ただ深い溜め息を吐いただけだった。
「さっそくだが、この街に孤児はおよそ何人くらいいる?」
「さあな、多すぎて分かんねえ。でも、俺が知る範囲でおおよそだが最低でも三百人はいるだろうな」
「三百……か。俺が言った条件をそのままに伝えたとして、何人集まる?」
「そうだな……。やってみなきゃ分かんねえが、かなり低く見積もっても百は固いだろうな」
「それだけ集まれば充分だ。三日以内に人を集めておいてくれ。最低百、最大で二百だ。それと、この辺りで直径二キロ程の……あー、お前の歩幅で二千歩くらいの広さを確保できるか?」
「二千!? いや、それはさすがに厳しいぞ……。俺達の拠点とその周辺を何とか確保してもせいぜい百歩くらいだろうな。それ以上となると無理だ」
百が限度か……。
今ならそれでも構わないが、将来的な事を考えるとどうしても一キロくらいのスペースが必要になるだろう。そして、最終的に運動スペース等を考えればやはり二キロくらいの広さが理想なのだ。
「仮に周辺の人間に一世帯銀貨五枚で立ち退けといったらその条件で従うと思うか?」
「ああ、それなら問題ないだろうな。基本的にどこからともなく住み着いた連中だ。住む場所にはこだわらないから、それだけの金額を払えば素直に明け渡すだろう」
「だったらその方向で話を進めておいてくれ。それと、銀貨は二枚でな。多分それでも大丈夫そうだし、それでも渋る奴がいれば他には知られないようこっそり、最大五枚まで釣り上げろ。それだけやってどうしても立ち退きそうになければ、そいつが立ち退かないからこの話はなしだ、と周囲の人間に伝えろ。そいつらが勝手に排除してくれるだろうからな。あと、くれぐれも俺の名前は出すな」
「……お前、やっぱり最低だな」
「使える手段はなんでも使うさ。それに、温情を与えているうちに退かないそいつも悪い」
エミリオがジト目をして見てくるが、軽く受け流す。
エミリオも本気で言っているわけではないだろう。汚いことをしなければ生きていけない世界にいたのだから、その辺りは理解があるはずだ。
銀貨五枚で引かないとなると、本当の意味で引けない事情があるか、欲張って釣り上げようとしているだけだろう。ただ、どう考えても前者はないだろうから、後者であれば痛い目を見てもらうだけだ。
「それじゃあ俺はもう行く。また三日後に来るから、そのつもりで頼む」
「まかせとけ。それまでに話はつけておく」
「ああ、それとこれは前金だ。腹が減っているんだろ? 遠慮なく使え」
懐から出した革袋ごとエミリオに投げ渡す。
中に入っているのは銀貨二十枚程。
一ヶ月辺り銀貨二枚で農民の成人男性一人が生活していると言われているから、三日分としてなら充分だろう。
「おいおい、本気か? これもってばっくれても知らねえぞ?」
「そういうやつは何も言わずにばっくれるさ。それに、逃げるならその程度の奴だってことだ。選別にはちょうどいい」
「まいったな、そう言われると余計に逃げられなくなるじゃないか。本気で嫌な奴だよ、お前は。でもとりあえず礼は言っておく」
「言っただろう、前金だ。死なれても困るし、正当な取引の対価なんだから気にするな」
「それでもだよ。皆腹空かしてたから助かった」
「硬い奴だなぁ。ま、嫌いじゃないけどね。働きで返してくれればそれでいいよ。ああ、買い物はベルトランって人がやってる商会にしとけ。融通が利くからな」
イザークはそう言ってニヤリと笑う。
「分かった、期待しとけ。それ以上の働きで返してやる」
そしてエミリオもまた、同じように歯を見せて笑った。