出会い
背の高い草が生い茂る小高い丘の頂上に一本の巨木が聳えていた。
巨木の根元には小さな掘建て小屋があり、そこには一人の少年が住んでいた。
少年はいつも通りに朝日が昇る時間に起き、家の外へ出ると野菜と果物を今日食べるぶんだけ刈った。それに近くの井戸から水を汲み上げてくると、小屋の側にある岩の上に座った。岩はちょうど巨木が落とす影に隠れており、そこで食事をしながら遠くを眺めるのが少年の日課だった。
見渡す限りの草原は風に揺れて緑に輝く波を作る。
昨日より少しだけ風が強いだろうか、と少年は思う。
少年はこうして殆ど変わらない景色をずっとずっと一人きりで眺めてきた。
しかし少年は寂しいとも悲しいとも思わない。これが日常だったから。これ以外の日常を知らなかったから。
野菜を食べ終わった少年は巨木の枝をくり抜いて作ったコップに入れた水を飲み干した。そしてまた岩の上から辺りを眺め始めた。何一つ変わらないその風景を。
そのまま時間は過ぎ、太陽が空の真ん中へ昇ったのを目安に少年は昼食を用意しようとしたのだが、そこで変わらぬはずの景色がほんの少しだけ変わった。
緑の絨毯を割るように黒い影がスーッと動く。そしてその影は少年のほうに向かって来ていた。
少年は上を見上げる。太陽の眩しさに目を細めずにはいられなかったが、確かにその影はこちらに向かってきており、巨木の枝に止まった。
枝に止まった影は少年を見下ろしながら言った。
「こんなところに大きな木があって助かった。どうにも今日は暑くてねえ」
少年はその影を見上げる。
「あなたは何?」
影は少し間を置いてから答えた。
「ワタシは渡り鳥だよ。ずいぶんと長い距離を飛んできたんだ」
「渡り鳥?」
まるで知らない単語を聞いたかのように聞き返してくる少年。
渡り鳥は一応確かめてみることにした。
「君は鳥を知らないのかい?」
「うん」
やはりこの少年は鳥というものを知らなかった。確かにこの渡り鳥も道を間違えてこちらへ飛んできてしまっただけで、この辺りを他の鳥が飛んでいるところは見た事がない。
渡り鳥が唖然としていると、今度は少年のほうが質問を投げかけた。
「鳥っていうのはあなたみたいに空を飛べるの? それは僕にもできる?」
本当に鳥というものを――いや、それだけではなく、この少年はこの大きな木の周りにあるものしか知らないのかもしれないと思った渡り鳥は丁寧に答えた。
「ああ、そうだよ。なかには殆ど飛べないものもいるけどね。ただ、君は飛べないよ。だって君は人間だから」
「人間……? 僕は僕だよ」
「ああ、そうだね。とにかく、君は飛べないんだ、残念だけどね」
人間や鳥などという事をこの少年は知るはずもないのだ。名称はそれぞれが共生しているからこそ区別するために必要なのであって、この少年にはそれが必要ないのだ。少年にとっては自分も野菜も鳥も巨木もただそこにあるもの、というだけなのだ。
少年の事を少しかわいそうに思いながらも、十分に羽を休めた渡り鳥は、ちょうどいい感じに吹いてきた風に乗って飛ぼうと羽を広げた。
「ワタシはもう行くよ。きっとこんな辺境へ迷い込むことはもうないだろうから、さようならだね」
「うん、さようなら」
少年は表情一つ変えずにそう言った。おそらく、少年にとってこの別れは折れた木の枝が丘の下に落ちることや、組み上げた水が零れて地面に染み込んで消えてしまう事と同義なのだろう。
少年は飛び立つ渡り鳥を見送ると、昼食を食べながら草原を眺め始めた。緑色に輝いていた草原は茜色に染まり、やがて闇に沈むと、少年も小さな家に戻り就寝した。
そして次の日もその次の日もいままでと同じように草原を眺めて過ごした。その次の日もまたその次の日も……あの渡り鳥が戻ってくることはなかったし、他に何も訪れては来なかった。
そんな日が続いたある朝、少年は陽が昇る前に目覚めてしまった。今まで一度もこんな事はなかったのに。
少年はぼんやりと丘の下を眺めると、しばらく立ち止まり、無表情のまま踵を返すと、丘を下り始めた。
気付けばこの丘の上で暮らしており、またそこで困る事もなかった少年は一度も巨木の下にある掘建て小屋から離れたことはなかった。
そんな少年が初めてずっと生きてきた場所を離れた。
生い茂る背の高い草をかき分けてどんどんと進んでいく。丘の上で見るよりもずっと高く感じる草は少年の背よりも高く伸びていた。いったい自分がどこを、そしてどちらに向いて歩いているのかわからない。
それでも少年の気持ちは少し高揚していた。天気や季節の移り変わりを待っていただけの今までとは違い、自分が進むたびに景色は少しずつ変わるのだ。きっとあの鳥はもっと速い速度で景色の移り変わりを見てきたのだろう。
暫く歩いたところで、少年はふと振り返ってみた。
すると、自分が暮らしてきた丘が遠くに見えた。ずっと世界で一番大きいと思っていた巨木も自分の指程度の大きさにしか見えない。
とても狭い世界で暮らしていたのだな、と少年は思う。
それから丘が見えなくなるまで歩いた少年は、急に眠くなり、草原の真ん中で寝転んでみた。見上げた空はとても広く、太陽も少し小さく見える気がした。
そして少年はそのままウトウトしてしまい、目を瞑って寝てしまった。掘立小屋のなかにあるボロボロのベッド以外で寝るのも初めてのことだった。
解放感を感じながら夢路を辿る少年はあの渡り鳥の事を思い出した。
彼は自分の事を、人間、と呼んだ。もしかしたら人間というものは自分以外にもいるのかもしれない。あの渡り鳥だってきっと、同じようなのが沢山いるんだ。
少年は未知の世界に憧れを抱きながら深い深い眠りへと落ちていく。
――――結局、少年が目覚めることはなかった。
それから数年後。ガスマスクと防護スーツを被った人間達が、ずっと前にとある兵器によって広域汚染されてしまった土地に足を踏み入れた。
そこで男達が見付けたのは奇跡的に汚染されていなかった小高い丘。なぜかその丘とその周辺数キロだけは無害であった。そこには野菜と井戸水もあり、これらも全く汚染されていなく、またそこにあった小屋には人が暮らしていた形跡があった。
しかし調査に来た人間達はそれが汚染される前のものであったのだと決めつけて、その場を離れた。そしてその帰り道、生い茂る草のなかで一カ所だけ花が咲いている場所を通りかかった。
調べてみると、その場所だけはなぜか汚染されていなく、栄養価の高い土があったのだ。
人間達は調査の為にその土と花を持ち帰る事にした。
その遥か上空を一羽の渡り鳥が横切る。
渡り鳥は緑の草原のなかに出来た小さな花畑を見て呟く。
「ああ、君はワタシと出会って、知ってしまったんだね。言葉を――心を交わす、という事を。君は……一時でも幸せだったかい? それとも君はあのまま何も知らない方が幸せだったのかな……」
渡り鳥は風に乗って雲の彼方へと消えて行った。