包む
「こっちだって殴りたかなかった。迷惑なんだぜ、目立つ顔は」
暗い車内で煙草をくゆらせながら男は言った。
「青タンだの痣だの、とにかくアイコンみたいなおまけはな。部屋から出るなとあれほど言っただろう、ちょっと目を離すとこれだ。強情張っても分かってるんだ、どうせ餓鬼かダチのところへでも行ってたんだろ」
俯いたままの隣席の女に手を伸ばすと、茶色い前髪をばさばさと顔にかける。
「こうしとけ。あまり上を向くんじゃないぞ。いいか、口を割らなければそれでもいいが、この後アシがついたらお前の息子に思い知らせてやるからな」
「……どうしてあの子なの」
震え声ににやりと笑って、男は火のついたままの煙草を窓から駐車場の床に投げた。
「ほのかちゃんよ。相変わらず正直だな。お前が東京滞在中にどうしても会いたい奴がいるならあいつしかいないだろう。ちょいとあいさつしにいっといてやるか、俺から」
「もうやめて、どこへでも一緒に行くって言ったじゃない。もう、わたしにできることはほかにないわ」
「お前、俺が逃げ切れないと思ってるだろ」
「……」
筋張った手で、女のあざだらけの頬をぺたぺたと叩く。
「なんだかんだいって、さっきも俺に貫かれりゃしまいにいい声で啼いてたじゃないか。ええ?
お前はそういう女だ。せいぜいかわいがってやる。追手がかかればお前も道連れだ」
「今すぐダムにでも突っ込んだら」
前髪に顔を隠したまま、女は固い声で言いきった。男はにやりと笑った。
「そういうことになるかもな。だが覚えとけ、決めるのは俺だ。お前の生も死も」
車は地下駐車場からゆっくりとスロープを上がり始めた。坂の上に、街灯の灯りが揺れている。青い光が、見ているうちに、水の中の風景のようににじんでいく。
なんて人生だろう。
これで助かる、これで陽の光の中へ出た、そう確信したことも何度かあったのに。こういう道しか残されなかったのは、自分の罪なんだろうか。
でも、守れたものがある。それを、最後の誇りにできる。
そしてこれからも守りきる。その誓いを胸に、残された時間を生き切ろう。
こんなはっきりした目的をもって、生きた瞬間はない。そう思えば、最後の最後に、自分の人生はほんのちょっと輝いたと言えなくもない。ほのか、よくやったわよ。そう叫んで、自分の終わりを全うできますように……。女は目の前のダッシュボードをただじっと睨み続けた。
「ん?」
スロープを上りきったところで男がブレーキをかけた。両手を広げた人影が、車の前に立ちふさがっている。
「お前は……」
ライトの灯りに照らし出された顔に男は絶句し、女は口を覆った。
蒼白な顔に茶色の髪が乱れ、まだどこか幼い、けれど鋭い瞳がこちらを睨んでいる。
……晶太!
「止まれ。ドアを開けろ!」
男はもの凄いとしか形容できない顔でにやりと笑ってつぶやいた。
「やっぱりここをばらしやがったな。手間が省けたぜ、お前の息子も道連れだ。くそガキが」
「違う、やめて! あの子は、あんたの……」
「だからなんだ。これで二人目の冥途送りだぜ」
「晶太逃げて!」
女が叫ぶと同時に、男はアクセルを踏み込んだ。車が少年に突っ込む、悲鳴を上げたその刹那、ガシャッと音がして何かがフロントガラスに叩きつけられ、一面にひびが入った。視界が真っ白になった次の瞬間、少年は体ごとボンネットに飛び上がっていた。フルスイングした拳がひびの中央に叩きつけられる。血しぶきが飛ぶ。いびつな穴が開き、そこから叫び声が飛び込んできた。
「母さん、降りて!」
「この野郎ふざけやがって」
男はわめくと狂ったように車を暴走させた。ミラーにしがみついた晶太の体が大きく外側に振れる。車は深夜の通りに飛び出した。男は片手でハンドルを操作しながら体を大きく傾け、グローブボックスから拳銃を取り出すと、目の前の晶太に向けた。
「そんなに死にたきゃ死ね」
女は飛びつくようにその手に両腕でしがみつき、絶叫した。
「降りて、飛び降りるのよ、晶太!」
激しいクラクションとブレーキと、そして一発の銃声が夜空に響いた。
『おい奈津子。どういうことなんだ』
「今忙しいの。運転中」
ハンドルを握りながら、膝に転がした携帯に向かって大声で怒鳴る。
『今警察から電話があったぞ。奥様の柚木ほのかさんから何か連絡はありましたか、今どこにいるかご存知ですかって。あいつ、あの指名手配中の糞野郎と一緒にいるのか? いったい何が起きてるんだ?』
「だから兄さんも警察から聞いたでしょ」
『質問に答えろよ。ほのかも今、犯罪者扱いなのか? でなんだ、晶太も一緒か?』
「ほのかさんは、好きで一緒にいるんじゃないわ。晶太の命を盾にとられて、行動を共にしてるのよ。もし罪に問われるなら、犯人隠匿罪とか、やっていたなら薬物使用とか、そこらへんかしら」
『……出所してもまだ付きまとってたのか、あの野郎……』喉を磨り潰すようにして兄は呻いた。
「ほのかさんは今日、わたしの留守中にタクシーでうちに来て、晶太の様子を見てたらしいの。晶太は多分それに気づいてお母さんを追って飛び出して、今行方不明。それをわたしが警察に通報したのよ。これから捜索願いがてら、説明に行くところ」
『おい。あのろくでなしが何の罪での指名手配中か知らないが、それだとほのかが一緒に逮捕される可能性もあるんだな』
「ほのかさんが乗ってたタクシーの会社はお向かいのおばさんが見てたし、時間も警察に言ったから、じきに足がつくでしょうね」
『じゃああいつ、逮捕されるのか、で、犯罪者として実名入りで新聞に出ると』
「ポイントはそこなの? そりゃ自分の妻が犯罪者として逮捕されちゃ、島では不名誉この上ないわよね。でも、わかる? 晶太も行方不明なのよ。あの子が一緒にいるのなら、あの子ごと警察に保護されたほうが安全だわ」
『おい、結果がわかってるのか。あいつは刑務所に入るんだぞ、晶太は母親を失うも同然だぞ』
「兄さん。いろんなことから考えて、わたし、ほのかさんは死ぬ気でいると思うわ。あの男と刺し違えるつもりでいるかも。とにかく、保護するのが先よ」
『差し違えるならとっととやってもらいたいもんだ。あのバカ男が射程距離内にいるんなら』
女は以前晶太が吐き捨てたと同じ言葉を声に出さぬまま吐き出した。
……糞ったれ。
「じゃあせめて晶太くんの無事だけでも祈っててあげて」
『晶太とほのかの行き先に、心当たりはないのか』
「あれば警察に言ってるわ。というより、わたしがそこに行ってるわよ」
『わかった。……すまん、苦労かけるな。できるだけ早くそっちに行く。何かわかったら連絡くれ』
ぶつり。
女は唇をかみしめてアクセルを踏み込んだ。
何もかもが呪われたようにいっぺんにやってくる、こんな時が人生にはあるんだ。晶太、あなたもこんな中をひとりで駆け抜けてきたの?
わたしも負けないからね。ぐちゃぐちゃになんてならないから。泣かずにほどいて見せるわ。最後には、すべて。
お願い、無事でいて。二人とも、どうか。
「本日未明、M区Sホテル前の交差点で乗用車とトラックが衝突し、乗用車の運転手は死亡、同乗の女性が重傷を負う事故がありました。
調べによると、運転していたのは暴行・恐喝、薬事法違反等で指名手配犯中のY組構成員、前科三犯、郷田秀夫で、所持していた銃で肩を撃たれており、同乗の女性が自分が撃ったと証言していることから、直接の死因も含めて現在取り調べ中です。
また、女性の十四歳の長男が車の進行を阻止しようとボンネットに飛び乗り、衝撃で振り落されましたが、軽傷で済んだ模様です。
女性は六月はじめから家を出たままになっており、家族が行方を探していました」
細い目をした陰惨な顔つきの男のぼけた写真が、ニュース画面に大写しにされている。
ひと通り外来患者がはけた総合病院の談話室は、斜めに入る夕方の日差しを受けて閑散としていた。
目より少し上ほどの高さに設置されたテレビモニターを消そうとした職員は、誰もいないソファに座り、顔を上げて画面を眺める包帯姿の少年の姿を見て、そのまま戻っていった。
「ちょっとだけ、会えるそうだよ」
自販機のジャスミンティーを持ってきた刑事が、頭上から声をかけた。少年は包帯を巻いた手で受け取ると、無言で年配の刑事を見上げた。
「重症とか報道されてるけど、お母さん、結局骨折だけで済んだようで、良かったな」
「……」
「行こうか。膝は大丈夫?」
「擦りむいただけだから」
「きみも強運だね。あの状況でその程度の傷で済んでるのは奇跡に近いよ」
壁一面のガラス窓はゴーヤのグリーンカーテンに覆われ、薄緑の光が広いホールを満たしている。花を抱えた見舞客や、寝間着姿で点滴台を引いた人たちが、入り口のガラスドアにりすやくまのシールの貼られた売店に出入りしている。売店の入り口には、松葉づえや病院のロゴ入りのTシャツ、タオル、見舞い用の花などが並べられている。ほのかに甘い香りが漂い、何か混声合唱の聖歌のようなものがどこかから流れてくる。周りの空気は優しく、静かで平和だった。
これは都合のいい夢で、自分はもう死んでいるのではないのだろうか。
誰かが今頃、自分の顔の周りに花を並べているのではないだろうか。
そんなことを考えながら足元のタイルの敷居の数を数えていると、刑事が振り向いた。
「ここだよ」
二人は個室の白い引き戸の前で立ち止まった。名前のプレートはなく、扉の脇にただ番号だけがあった。
こんこん。
刑事のノックの音が響く。
明るい表情の看護婦が引き戸を内側から開け、どうぞと言った。
陽当たりのいい部屋のベッドの中で、茶色い髪を枕に広げて、懐かしい、痩せた顔がこちらを見ていた。額と片腕に包帯が巻かれ、いくつかの点滴と計測器に、体のあちこちから出た管が繋がれている。
畏れるように、ゆっくりと、傍らに立つ。
女性は、そっと少年に手を伸ばした。そして包帯を巻いていないほうの手をぎゅっと握ると、その手をそっと自分のほうに引いた。
少年は自然に背をかがめるかっこうになった。
かすれた声が、耳元にささやいた。
「自由よ、晶太」
少年は声を一瞬詰まらせると、耳元に口を寄せ、同じぐらいささやかな声で答えた。
「……お母さんもね」
母親の茶色い瞳が、涙の中で震えながら少年を見上げていた。
「これは夢じゃないわよね」
「……おれもさっき、そう思ってた」
カトリック系の病院の聖堂から流れてくる合唱が、抱きあう二人の周りを、静かにたゆたっていた。
車窓を流れる景色を見ながら、無言の少年に、由紀は声をかけた。
「お迎え、奈津子じゃなくてごめんね。あなたさ、最初重傷って報道されたのよ。それで限度が来たのか、彼女、警察から自分の車であなたの病院に向かう途中貧血起こしちゃって。電話でSOS受けてわたしが家まで送ったの。今家で寝てるわ。心で頑張れる部分も限度ってものがあるからね。あなたも今まで相当なもんだったしね。そこはわかってるでしょ」
「……うん」
「怪我してるのに取調べとか大変だったね」
「うん……」
それ以上返事のない少年に向かって、由紀は続けた。
「警察の人に簡単に聞いたわ。お母さんは、脅されたうえであいつに強制的に連れまわされていたんだから、共犯とか犯人隠匿にはあたらないようよ。むしろ略取・誘拐罪の被害者ね。
発砲にしても、あなたに向けられた銃を奪ったうえでの暴発なんだから、正当防衛の可能性は十分にあるわ。
これからのことは、あまり心配しなくていいわ。明日以降警察からまたなにかとお呼びがかかるようだから、まずはゆっくりと休みましょう」
少年は、薄く血のにじんだ手の包帯に視線を落とした。葉月と同じだと思い、彼女の包帯の色のほうが白かったなと、そんなとりとめのないことを考えていた。
玄関が開く音、そして由紀の声。
女は茶の間に敷いた八端版の座布団のきわから身を起こした。花模様のタオルケットの下のシャラが、薄く目を開いた。
廊下の足音、人の気配。やってくる姿の予感に、思わず知らず手を握りしめる。
「お連れしました」
廊下からひょいと顔を覗かせた由紀が、おどけたように言った。
背後から晶太が現れた。
最初にあった日の、ラガーシャツ。乱れた前髪、筋ばった細長い手足、切れ長の睫毛の長い目、つんとした口元。額に絆創膏、右手首から先を包む白い包帯、破れた膝。
……自分の足で立っている。それを確認しただけで、泣きそうになっていた。
「……お帰りなさい」
そう声をかけると、晶太は少し頭を下げるようにした。
「ただいま」
「ちょっと、疲れちゃって。ここにきて、座ってくれる?」
女がそういうと、晶太は静かに部屋に足を踏み入れ、素直に両膝を折って女の傍らに座った。
「がんばったね、晶太」
それだけいうと、女はいきなり両手でその頭を抱え込んだ。少年は黙って、犬のように頭をぐしゃぐしゃされるに任せた。表情の見えない女の、あたたかい体の震えが、まるで共振現象のように、少年の体をも震わせていた。
少年の大きな体を抱え込んだまま、女は静かに聞いた。
「おかあさんとは、会えた?」
「……ちょっとだけ」
「それで、どうだった?」
「……同じようにされた」
そして少し言い直した。
「もうちょっと、そっとした感じで」
女は微笑んで、少年を抱く手にいっそう力を込めた。
「もう、離れちゃだめよ。お母さんの手、ちゃんと捕まえておくのよ」
「うん」
ふと少年は視線を落とし、傍らのねこを見た。タオルケットからのぞく、シャラの小さい顔、その光のない目。そっと女から体を離し、布をめくる。弱々しく横たわるシャラの足と尻尾に、そして腹に、ぐるぐると包帯が巻いてある。
「これ、どうしたの!」
思わず声を上げた少年に、女は静かな声で答えた。
「あなたが出て行ったあと、たぶん後を追ったんだと思うけど、大通りで車にはねられてたのよ。近所の人が動物病院に運んでくれて、首輪の連絡先を見て病院からわたしの携帯に電話があったの。わたしは事情を話しに警察にいってたから、由紀にお迎えに行ってもらったの。で、まずは晶太の病院に行こうとしたら、なんだか気が遠くなっちゃって……」
「……ほんとうに、いろいろありすぎたのよ。そこで限度を超えたのよね」由紀が口を添えた。
シャラは細い目を開けて、一心に晶太を見上げている。晶太は唇を震わせると、小さな頭を撫でて、声を絞り出した。
「お前……おれのせい……」
「晶太、何も考えないで。シャラはきっと大丈夫よ。薬ももらったし、注射もしてもらったし、とにかくじっとしてあとは回復を待てばいいって言われたわ。
きっと大丈夫、女の子だけど、この子はとびきり強いから。
それにしても、よほどあなたが好きなのね。
この子見ててわかったわ。世の中には巡りあいってものがあるけど、この子はあなたのねこだわ」
晶太は言葉もなく、シャラの上に頭を垂れた。
そのとき、上をむいたシャラが、細い前足をゆっくりと上げた。そして、熱が出たときの晶太にしたように、震える前足でそっと晶太の頬に触れた。
晶太はびくりと体を震わせると、そっと、シャラの前足の上に自分の手を添えた。
その肉球の温かみ、シャラのやさしい感触が、女の頬にも伝わる気がした。
少年はそのまま体を静かに傾けると、ゆっくりとシャラの隣に体を横たえた。シャラは満足そうに眼を閉じると、ごろごろごろとかすかに喉を鳴らした。
女は由紀に目くばせすると、静かに立ち上がった。
部屋を出て行こうとしたとき、背後から少年の声がした。
「ありがとう」
女は振り向いて言った。
「ねむいでしょ。そのままおやすみなさい」
そのとき見た光景を、多分一生忘れまいと、女は思った。
S字型にうずくまるシャラのちいさな体、そして宝物のようにシャラを体の内側にいだく、晶太の大きな体。
……漢字という芸術は真実を内包しています。その名がまずあって、形の中にすべての意味が香しく用意され、それを書くことで私たちはそのものの真実に触れるのです。……
ああ、いまわかった。
…… 包む という字は、たぶん、こんな風に生まれたのだ。