本当のことを
冷房の効いた白い部屋で、カーテンの向こうで足音がぱたぱた行きかうのを、少女は天井を見ながら聞いていた。
ぴっぴっぴっと、何かのモニターの音がする。看護婦さあん、看護婦さあん、誰かいませんかあとお年寄りの声がする。もう十分も続いているのに、誰も相手をしない。
あたまの中で、呪文のようなフレーズが繰り返していた。だれか餌くれ、餌くれ、餌くれ、餌くれ………
ふわっとカーテンが開いた。
入ってきたのはここのところしばらく見ていない顔だった。
疲れた様子で、髪も薄化粧も乱れているけれど、理知的で端正な顔立ちだ。最後に見た四年前と、ほとんど変わらない。
「具合、どう?」
「……」少女は思わず叔母から目をそらした。
「晶太に会ってきたわ。姉……あなたのお母さんからは携帯に電話があって、あと三時間ぐらいでここに着くって」
「……晶太、どこにいるんですか」
「今、わたしの家」
女は丸椅子に座ると、鞄を窓辺に置いた。
「とりあえず書類にサインして、病院の売店で必要なものかっといたわ。ティッシュ、コップと歯ブラシ、下着。そのパジャマはレンタルだそうね。あとは姉に買ってもらって」
「……どこかいっちゃわないかな」
瑠梨のつぶやきに、微笑しながら女は答えた。
「晶太なら、吐き気がひどくて動くどころじゃないって転がってたわ。それに猫のご飯とトイレの掃除、頼んできたから」
「……トイレ掃除なんて、するんだ」わずかな微笑みが口元に浮かんだ。
「晶太に会いたかったの?」
少女は額に片手を置いたまま、黙っている。
「会えて、よかった? それとも、いま、気持ち悪いだけかな?」
「吐くだけ吐いたら少しましになったけど、頭が死ぬほど痛いし、視界がぐるぐるする」
女はふっと息をついた。
「ね、瑠梨ちゃん。晶太とホテルで何があったの。話せることだけでいいから、教えて。どういう話をしたか、なぜ会いたかったのか、あの子をどう思ってるのか、それだけ知りたいの」
「悪いけど、あまり言う気ない」
瑠梨は天井を見たままぽつりと言った。
「そうか、……そうよね」
それが普通なのだ。むしろ晶太はしゃべりすぎるほうかもしれない。
しばらく黙ったのち、少女は言った。
「……歌を歌ってくれたな」
「ホテルで?」
「ギター背負ってきてて、何それって言ったら、なんで持ってきたのかよくわかんねえって。なんか最初からふらふらしてた」
「で、いきなり歌い出したの?」
「お酒とか、変な緑色の汁とかジュースとかごちゃごちゃにして飲んで、気持ちいいんだか悪いんだかよくわかんなくなったの。で、吐きそうって言ったら、気分なおしてやるって言ってね。ギターかかえて変な歌うたいだした」
「どんな?」
少女は少し考えるようにすると、ふらふらしたメロディーで歌い始めた。
……渡ろとするたび底が抜ける。おれをあっちに行かせろ。虹かと思えば太鼓橋。虹かと思えば眼鏡橋。虹かと思えば錦鯉。世界を変えろ、役立たず。お前らなんて綺麗じゃない。ぎらぎら光って口開けて、誰か餌くれ、餌くれ、餌くれ、餌くれえええ……
女は思わず噴き出した。最初の夜に聞いたタイトルがそんな歌だったとは。
「なんか、悪夢みたいな歌じゃない」
「うん。
それでなくても見たものとか音とかが目に見えるような変な幻覚が始まってたのに、歌のせいで目の前がおっきな口ぱくぱくしてる錦鯉だらけになって、やめてっていったのにやめてくれないの。聞いてるうちに錦鯉に取り囲まれて、気持ち悪くてげーげー吐いちゃった」
「お気の毒。半分はあの子のせいなのね」
笑いながら、女は瑠梨の、大きな目を見た。下手な化粧が落ちかけた目の周りは薄墨でこすったようだ。ファンデもまだらでひどいご面相だが、よく見れば素直そうなかわいい顔立ちをしている。多少彼より年上ではあるけれど、同年代の若さが、女にはまぶしかった。
「……わたしね、あの子をひっぱたいたのよ。警察で」
「へえ」
少女は目を丸くした。
「学生の頃ね、命がけの恋みたいなのをしたのよ。その時はその人しか見えなかった。でも、妊娠してるとわかったとたん、彼は留学するとか言い出して外国に逃げたの。きちんと連絡くれるものだと思って待っていたのに、送ってきたのは別れの言葉とお金だけ」
突然の身の上話に引き込まれるように、少女は身を乗り出していた。
「それでもあきらめきれなくて、ぎりぎりまで病院にはいかなかった。親にも言えなくて、結局もらったお金は捨てて自分の貯金で子どもをおろしたの。愚かだったのは二人とも同じ、わたしにも責任はある。でも彼は逃げた。わたしは逃げられなかった。すべてはわたしに残ったの。二度と子どもが産めないという報いが」
「……」
「もぐりこんだ病院がやぶだったのね。ひどい手術だった。それからはもういろんなことをあきらめて、憎むのも恨むのもあきらめて、でも……」
少女は大きな瞳で一心に女を見つめている。
「警察で晶太が、避妊なんて女がやりゃいいみたいなことを言い捨てたとき、頭に血が上ったの。もういっぺんにいろんなことが噴出したのよ、このバカガキが!って。それで、ぱっちーん。そうとう、体重と恨みが乗ってたと思うわ」
少女はけらけらと笑った。
「お姉さん、すごい、最高。見てみたかった」
「それなのに、わたしが嫉妬で叩いたんだとか、さらに傲慢なこと言われて呆れかえったわ」
「あの子、人を怒らせるの上手いよ。だいいち避妊も何も、あたしたちホテルではなにもしてないし。 変なもの飲んで気持ち悪くなって、あいつが歌うたって、さらに気持ち悪いのと暑いのとで服脱いじゃって、それだけだもん」
「……やっぱりね」
女はため息をついた。そんな気がしていたのだ。
「でもあたし、あの子いい男だと思う。なんていうか、すごく冷めてるみたいに見えるけど、熱いし、まっすぐだもん。それにすっごく綺麗な目してる。かなりヤバい部分もあるけどそれはそれでドキドキするし。ないものをあるように、あるものをないように、言ったりしない。少なくとも、うちの親みたいな人種よりは何倍もまし」
それはその通りだ。
……これはなかなか手強いわよ、晶太。心の中で苦笑しながら女は呟いた。
そして、ふと尋ねた。
「夕べ、うちに電話くれたのは瑠梨ちゃん?」
「電話?」
「無言電話。午前一時ぐらいかな」
「電話なんてしてない、ちょうど二人でぐるんぐるんになってたころだし」
「そうなの?」
「無言電話ならうちにもあったよ、晶太がいる間」
そして二人、顔を上げて目を合わせた。
「なんとなく、わかる気がするんだけど」瑠梨が言う。
「わたしも。……考えてること、きっと同じね」
……母親。
彼の印象では多分、長い髪の、化粧の濃い……
「お姉さんは、晶太のママの顔、知ってるの?」
「あの結婚は周り中に反対されていたからね。家をでてどこかお友達の家で挙式したとかで、そのあと二人ですぐ島に行っちゃったし、よくは知らないのよ。それでもわたし、一度島に訪ねて行ったことがあるの。
色白で日本人離れしててモデルさんみたいで、よくも悪くも周囲から浮いてたわね」
「晶太は、ママ似?」
「まあ、お父さんよりは」
「お父さんて小笠原の? そうじゃなければそれなり……」
そこまで言うと、瑠梨はしまったというような顔をして、黙った。そして逆に聞いてきた。
「お姉さんはどこまで知ってるの? 晶太の、その、お父さんのこと」
「……確かなことは何も知らないわ」
女は内心どきどきしながら少女の次の言葉を待った。
瑠梨は茶色い前髪をかきあげると下を向いて言った。
「あたしもあんまり。聞いた話では、三年前に刑務所出たらしいけど」
女はぎゅっと唾を飲み込むと、思い切ったように口を開いた。
「ね、……瑠梨ちゃん。その人について聞いたこと、言えることだけでいいからちょっとだけ教えてくれない?」
外から見る柚木家は、手入れをしていない松の木やニワトコや桐の木に囲まれて、そこだけ神社仏閣のようにうっそうとしている。のっしりと暗い夕闇が、不機嫌な顔をして庭のそこここに降りている。
雪見障子を開け放した部屋の灯りが、低い垣根越しに見える。何か昔話のようにほんのりとした、籠の中の日向夏のような灯りの色。
部屋の中央で、俯いて突っ立っている少年の姿が見える。
車内灯を落とした暗いタクシーから見る彼の姿は、何かスポットライトを浴びた、舞台の上の役者のようだ。
見慣れた背格好、その風情。掌の何かを見ている。呼び出し音を聞いているのだろうか。
取る? 取らない? 取る? 取らない?
自分の手の中の携帯が汗でじっとりと湿ってゆく。……お願い、出て。もう、時間がないの。
『……もしもし』
ああ。
やっと出た。声が聞けた、晶太。あたしの晶太。
携帯は機種を変えた、設定も非通知だ。それでもとってくれたこのチャンスを逃したら、もう……
『どなたですか?』
低い声。電話を通すと、さらに大人っぽく思える。
声変わりしたのはほんの二年前なのに。
『……誰だよ、この暇人。おいシャラ、こっちきてなんか答えてやれ』
「にゃあ」
ああ、声出しちゃった。
『………?』
もういい、言おう。お酒の力が後押ししてくれる、今のうちに。赤い爪につかまれた左手の中のカップ酒を見ながら、続けて言った。
「晶太。……おうちのひとに、大事にされているのね」
ややあって、固い声が帰ってきた。
『……生きてたのかよ、ババァ』
「ごめんね。声だけ聴きたかったの。ごめんね」
『いまさら、なににあやまってんだ』
「晶太。ちゃんと食べてる? 元気?」
『……ふざけんな』
手元の酒をひとくち、飲んだ。
「奈津子さんを、困らせないでね。あのひと、いい人だね」
『お前より数百倍上等だよ。そっちはどうしてんだ』
「ごめんね。何もいえないの。
ただ、声が、……聞きたくってさ」
『………』
「こんなあたしでごめんね。あんたのそばに、ほんとうはいたかった。信じてくれないよね、いまさら」
そのまま会話が途切れる。いろいろな音、遠いクラクション、近くの修道院の夕方の鐘、蝉やアオマツムシの声がかすかに響いてくる。
「……これで最後にする。もう電話しないわ。いろいろひきずりまわしてほんとうにごめんね、晶太。あたしなんていないほうが、あんたはちゃんとした大人になれるから……」
電話の向こうで晶太が息をのむのがわかる。強がってはいても、あの子が持っていたかすかな希望を、今、自分が粉々に砕いているのがわかる。
晶太の立場から、わかる。
『十四年……』
しばらくたって、晶太が静かに言った。
『十四年。おれが生まれて、いままで。
夏の前にいなくなるまで、それだけの間、いちおうあんた、母親だったよね。
おれの手にこの傷をつけたクソ野郎から、体を張ってかばってくれたのも、母さんだったよね』
「………」
『おれがどんなバカ息子でも、おやじが最低のろくでなしでも、あんたが男好きでも、十四年はおれの今までの全部だ。母さんは、たったひとり、あんただけだ。
でも母さんにとって、おれは、そうじゃないのか。
おれって、母さんにとって、それだけのものなのか。
これが最後よ、さよならって、電話でおわりにできる、
……たったそれだけの』
口を押さえる。
堰を切ったように涙が、熱塊のような涙が、膨れ上がってはとめどなく、頬を流れ落ちる。
泣き声は出せない。そんな資格はない。
喉を押しつぶすようにして、声を平坦にして、しゃべる。
「何を言われても、仕方ないけれど。
……晶太。
あたしがいままで、心から大事に思った人間は、あんただけよ」
数秒の沈黙。
『まだあいつと一緒にいるの?』
彼の声も震えている。
『……好きで一緒にいるんじゃないだろ、あいつに脅されてるんだろ。なんで泣いてるんだよ。
ほんとのこと言えよ、母さん。最後ぐらい、息子には、本当のことを!』
ああ、自分にはもったいない言葉だ。もったいなすぎる言葉だ。
「元気でね、晶太。どこにいっても、あんたなら生きられる」
『どこへ行くんだ。何する気なんだよ!?』
涙をぬぐって、片手の酒をぐいと空けた。
「晶太、あんたは誰の子でもない、あんたとしてこの世に生まれてきたのよ。あんたは最初から、あんた自身なの。
親のことなんて、もう忘れて生きなさい」
ぷつりと携帯を切る。
「出してください」
「……いいんですか?」
ミラー越しに初老の運転手が、哀れむように細い目をしてこちらを見ている。
搾り出した声は、絶叫に近かった。
「いいから出してください。
……はやく。出して!!」