永遠
夜間救急外来では大した治療は受けられない。担当医はだいたいの検査をしたのち、環境の変化やストレスによる発熱と診断した。
「熱中症、ではないですよね? リモコンの分解に熱中するあまり、昼間エアコンをずっとつけてなかったらしいんですが……」
「そりゃあ、別の意味での熱中症だね」肥り気味の医師はてかてか頭を揺らして笑った。
「白血球が少し多いのは一応感染症だからでしょう、ま、体力が落ちてる時に悪い風邪に捕まるようなもんですね。過去にもこういうことはありましたか?」
「いえ、わたし、過去のことはちょっと……」
「どうかな、ご当人」
「ときどき」
「それで自然に下がる?」
「じっとしてたら」
どれだけそれを繰り返してきたのだろう。環境の変化のたびにというなら、それこそきりがない。それが晶太の日常だった。
結局抗生物質だけを処方され、そのまま帰された。
夜更けの街は、異次元のようにぼうとした霧にかすんでいた。女はスピードを落とし気味にして、助手席の晶太に語りかけた。
「ねえ、わたしあなたと余計ないさかいを起こすつもりはないの。平和にうまくやりたいのよ。今まであなたがしてきたことはもうどうでもいいわ。だから冷静に話し合いましょう」
一定距離を置いて差し込む街灯の灯りが、助手席の少年の横顔を浮かび上がらせては闇に落とす。
「正直、わたしもシャラを閉じ込めるのは嫌なの。あの子は拾ってきたときから野性で、人に寄り添わずに生きてきたから、いきなり24時間監禁されるのはすごくストレスだと思う。だからここは、ドイツ式で行かない? 聞いた話では、ドイツの一部では、日暮れから翌朝までねこちゃんは外出禁止なんですって。眠っている野鳥を守るためにね。これがぎりぎりの妥協点よ。頭を下げてお願いするから、ダイヤルを直して。そして、この地区でこれからも生活するわたしの譲歩を、受けてちょうだい」
すでにダイヤルは彼の手で完全に破壊されていた。少年は車のウィンドウを開けた。ぬるい風と、夜の匂いが入ってきた。雑多なものを含んで流れる空気、シャラの好きな空気。
「いいよ」
意外なほどあっさりと少年は答えた。
「ありがとう」
女は心からほっとして、素直に言った。
……ひとつ、塊がほぐれた。
晶太は翌週、教室にまた顔を出すようになった。そのころ、遊佐葉月も教室に戻っていた。葉月は再びお教室で見る「親切でかっこいいお兄ちゃん」に、あからさまに頬を紅潮させていた。
女はと言えば、もう少年が脅しじみた言動はしないと確信しながらも、少女が彼のもとに嬉しそうに寄っていくのを落ち着いて眺める余裕はなかった。
「はづきちゃん、もう手は治った?」まず、仲良しの真央ちゃんがそばによって話しかけた。
「うん、でもね、まだちょっと痛いから、左手で書く」
「左手で書いたことあるの?」
「うちでひまだからやってたの。けっこう、面白いよ」
晶太が、近づいてきた葉月に半紙を渡した。少女は黙って受け取った。女は前に立って見ながら、胸の中で祈った。なにか言って、晶太。ここはあなたから言って。いろんなものと戦いながら、言って。ひととして、まともなことを。
「……ごめんな」
小さな、でもはっきりとした声だった。
「ううん」
「まだ痛いんだ?」
「動かすと、ちょっとだけ」
少女は周りを見ながら言った。
「お兄ちゃんの字、貼ってないの」
優秀な字を張り出すボードには、いつも葉月の字と、年配のベテランの字ばかりがあった。
「恥ずかしいから外してもらった」
「そんなのずるいよ。葉月も見たかった」
「君のほうがずっと上手だから」
「そんなことない。お兄ちゃん、一緒に書こう。休憩時間でいいから、書こう。左手で、一緒に書いてみようよ、葉月と」
「……うん」
「わたしもやる!」
周りから子供たちが集まってきた。
今日を「左手の習字」の時間にすることはできる。だが、全員参加の和やかの押し売りのようなイベントにしてしまったら、晶太はきっと参加しないだろう。女は手をぱんぱんと叩くと、さらっと呼びかけた。
「お教室が始まりますよ。みんな、席について」
そして、安堵のあまり浮かんでいた薄い涙を、そっと小指で拭った。
銀座の画廊の個展には、奈津子の車で行くことになった。同乗者は、晶太と、相良由紀と、葉月ちゃんだった。
「必ずお宅まで送り届けますから」
体調を崩している母親に、そう約束して少女を借り受けた。ちいさな少女といるときの晶太は、一番健康に、そして自然に見えた。後部座席で言葉少なに葉月の毛糸で綾取りをしているのが、ミラー越しに見える。
二人で休憩時間に好き勝手に書き殴った字は、大森氏に気に入られ、ゲスト作品として展示されることになっていた。
『心小口大』
『雑魚放流』
『葉月無敵』
どれも二人が好き勝手に作った造語だった。
「あんなふざけたことばでいいのかなあ」
葉月が心配そうに言うと
「一番目立つのは二人の字かもしれないなって大森先生は心配していたそうよ」
由紀がふざけた様子で言った。
「弟子の教室の教え子の参考作品として出すんだから、多少の遊び幅は許されてるわよ。心配しないで」 運転しながら女は答えた。
「弟子の作品はないの」晶太が聞くと
「わたしのも一点だけあるわ」
「奈津子先生は、昔から大森犀雨先生のお気に入りだったからね」由紀が言葉を挿んだ。
「変なこと言わないでよ」
「本当よ、大森先生の書道教室で、いつも特別に目をかけられてたわよね。いまだって、奈津子が呼べば大森先生は遠くからでもいらっしゃるじゃない。柚木奈津子さんは大森先生にとっての特別な存在だって、お教室にいた人はみんな言ってるわよ」
「もう、からかうのやめてったら」
「お兄ちゃん、また間違ったよ」
「ごめん」
後部座席で、中途半端に指を抜いた晶太がぐしゃぐしゃになった糸をほぐしていた。
ギャラリーばかりが並ぶ銀座の通りの中の、ひときわ豪華な展示場が、個展会場だった。通りに面したガラス張りのウインドウの外にはずらりと花が並び、豪華な着物を着こんだ年配のお客がひっきりなしに出入りしている。
「おお、来ましたね」
来客の相手をしていた大森犀雨氏は、奈津子たち一行の姿を見ると、奥から手を上げた。
銀鼠色の大島紬の着物を着た大森氏は、スーツ姿の時にはない威厳と上品さを漂わせて、何か近寄りがたい空気があった。
傍らには、車椅子の夫人が寄り添っていた。水柿色の上品な着物を着こみ、いつものフィッシュボーンをそのままアップにして織り込んだヘアの、鹿の柄の革製の髪留めがおしゃれだった。
「お久しぶりです。すてきな髪留めですね」思わずいきなり女が髪留めを誉めると
「ありがとう、娘の手作りなのよ」白い頬を赤らめて髪に手をやった。傍らで付き添う四十がらみの娘さんは、濃紺のスーツ姿で穏やかに微笑んでいる。
晶太は大森氏のまわりのひとびとの姿を見ながら、近寄っていいものかどうか、目をうろうろさせて所在なさそうにしていた。
「こんにちは、あなたの話はよく聞いていますよ」
いきなり大森氏にあなたと呼びかけられて、少年はまごついた。
「はい、あの、……えと」
「まずは作品を見ていらっしゃい。ほかの字と一緒にあると、自分の字の特徴もよくわかってくるでしょう。きみが葉月ちゃんだね?」
「はい、こんにちは」
ギンガムチェックのワンピースの少女は、ちょこんと頭を下げた。
「お下げのリボンが可愛いね。服とお揃いだね」
「どっちもおかあさんが作ってくれたの」
「それはいいね。じゃ、お兄ちゃんとゆっくり書を見ていらっしゃい」
二人は小さく頭を下げると、兄弟のように寄り添って作品の前をゆっくりと歩き始めた。
会場には、外の無慈悲な熱気とは違う、ひんやりと落ち着いた空気が漂っていた。それはいつも大森氏の周りに香る、森の中のような親しい空気だった。それでも、女は少年の言葉を思い出し、ふと不安になった。カバーがかかってるやつは中身をみるまで信用ならない。笑ってるやつは怒らせてみたくなる。ムカデだって一度転んでみたら自分の体がわかる……
一番大きな作品、永永無窮、の字の前で、少年は長いこと立ち止まっていた。
大森氏が背後に立った。
「意味は分かりますか?」
「いつまでも永遠に、果てしなく続くとか、そういう……」
「あなたは何でも知っているんですね。まだ若いのに」
「え……」少年は困ったように言葉を濁した。
「永という字はね、永字八法といって、毛筆で必要な技法八種がすべて含まれているんですよ。止めはね払い、点に縦横。よくお習字でこれがマスターできれば、と指標にされています。
だが、本当はそんなことはどうでもいい。私はね、あなたの『永遠』の字を見たとき、そう思いましたよ。筆遣いは未熟ではあるが、あそこには、私には、永遠が見えました」
「………」
晶太は頬を紅潮させて黙り込んだ。
大森氏は、背後で談笑している妻と娘と奈津子の姿を見やりながら言った。
「私の妻は、がんの手術を受けたんですけどね、どのみちもう時間の問題と言われています。本人も知っていることですけれどね。
それから、私はやたら永の字を書きたくなった。書ききりたいと思ったんです。だが奥の深い字でね、なかなか、到達できない。
だが、あなたがひょいと書いたという、あの字。
あれを見て、私はすとんと思ったんですよ。
この世界に、永遠はあるのかもしれない。
ここに、この字の中にあるような、突き抜けた、何か詩のような、救いのようなものが」
少年の頬は、どんどん赤みを増していった。逃げ出したい、という思いが、足元から這い登ってくる。
「それで私は今日あなたに会って、お礼を言いたいと思ったんです。
ありがとう、晶太君」
女は晶太を振り向き、師が少年に頭を下げているのを見て仰天した。
まさか、またなにかやったの?
晶太は頬を赤らめて、何か小声で言っている。女は人ごみに紛れてそっと二人に近づいた。
「あの、おれ、いやぼくなんか、ぜんぜん、ほんとに……
ここにきて、ほんものの書を見て、すごく、わかりました。
威厳ていうか、怖さっていうか、何かすごく遠くて確実なものが、ちゃんとここにはあるっていうか、すごいっていうか……
……ホンモノは、すごいです。とても、次元というか、違います」
「奈津子さんに習って、書を続けるつもりはないのですか?」
「いや、それはあの……」
「教わったらいいわ。奈津子先生は、主人からひととおりのものは受け取っている方だから」
いつの間にか車いすごと背後に来ていた夫人がやさしく声をかけた。
「とんでもない。受け取りようもないです、わたしなんか」女が答えると
「でもあなたは主人の一番弟子だったわ。いちばんの、お気に入りだったわね」
夫人は静かに女を見上げた。どきり、と音を立てて胸が鳴る。夫人はすっと視線を落とし、車いすを押す娘を振り向いた。
「わたしもう、なんだか疲れたわ。香ちゃん、あなたも十分見たでしょ?
あなた、悪いけれどわたしこれでお暇します。先に娘の運転でホテルに帰らせていただくわ。お客様のお相手を最後までできなくて悪いけれど」
「そうしなさい、疲れが出ないうちに帰ったほうがいい」大森氏は夫人の肩に手を置いた。
「みなさん、ゆっくりしてらしてね。東京のお友達と積もる話もおありでしょう。お酒でも飲んで、旧交を温めてくださいね」
車いすを押されながら、夫人は帰って行った。
大人同士の談笑に飽きてきた葉月がごそごそし始めたころ、由紀が女に声をかけた。
「せっかくだからお茶とかするんでしょ。葉月ちゃんと晶太君は私が送り届けるから、ゆっくりお話ししてきたら」
「由紀だってお話ししたいでしょ、同じ大学で講義受けた生徒だし」
「わたしは劣等生でしたからね。奥様もああいってらしたじゃないの、さ、キーちょうだい」
キーホルダーをちゃらちゃら鳴らしながら、じゃあいこうかと由紀は晶太の背中を押した。少年はさっと手を上げて由紀の手を振り払った。
「一人で帰る」
「あら、どうして。電車代持ってるの?」
「持ってる」
「帰り方わかる? 地下鉄の……」
晶太はそのままポケットに手を突っ込むと、師と楽しげに語る若い叔母を振り向き、尖った目線で刺すように睨んだ。
そして葉月の顔も振り返らず、自動ドアの向こうの夜の街に早足で消えた。