理解分解再構築
帰宅してダイニングに入る。小窓から入る西日が夕暮れの部屋をオレンジに染めている。日向夏のゼリーの入った紙袋をテーブルに置く。
日向夏は少年が二年を過ごした、母の出身地の特産品だ。喜ぶかどうかはわからない。冷蔵庫に二つ入れ、ひとつだけ皿にあけて、女は庭に面した和室に向かった。締め切った窓の外から風鈴の音がする。まだ暑い。今日は夕食の時間に帰るだろうか、どこへいっているのだろう。薄暗い部屋に入ったとたん、女は小さく声を上げた。
「きゃっ」
いないと思った晶太の足に、危うく躓くところだった。
「びっくりした、いるとは思わなかったわ。悪いけど灯りつけるわよ」
青海波紋様の和紙のペンダントライトをつける。
少年は女の足元、樫のテーブルの脇で、シャラと一つの座布団に頭を乗せて目を閉じていた。
シャラは晶太の額に額をつけるようにして、前足を彼の頬に当てている。まるでそれは、……まるで、恋人同士の添い寝のように。
長い睫を閉じた晶太の横顔は、日頃よりずっと幼く、あどけない子供のように見えた。起きているのかいないのか、灯りをつけてもその体はびくともしない。
エアコンも動いていない部屋の中は、ただ蒸し暑かった。部屋の隅で、古い重たい扇風機だけがゆるゆると首を回している。
「シャラ。……シャラ。動かないでね」
女は小声で言うと、あたふたとポケットをまさぐり、携帯を取り出した。こんな珍しい光景は二度とみることができないだろう。普通のねこはともかく、他人の膝に抱かれるのも拒否するシャラが、自分から人に寄り添うなんて。
シャッターを切ると同時に、晶太は片手をあげて顔を隠した。シャラは頭を上げて迷惑そうにこちらを見た。
「ああ、……残念」
「ふざけんなよ」
かすれた声で言うと、晶太はゆっくりと起き上がり、ごしごしと目をこすった。
「どうしてエアコンつけないの」
「今無理」
「無理じゃないでしょ」
「リモコン分解中」
「ええっ」
樫のテーブルの上には、何やら自前らしい工具類と、ほぼ完成形のリモコンがあった。だが外側のケースは外され、中身がむき出しのままいくつかの部品が放置してある。
「なんでこんなことするの」
「理解分解再構築」おまじないのように言うと、晶太はリモコンに手を伸ばした。
「あとちょっとなんだ。お姉さんが帰ってくる前にはできてる予定だった」
その隣には小さな紙箱があった。中をのぞくと、ごろりとした玉サボテンがはいっている。
「こんなもの買ったの? 棘がないけど、サボテン?」
「鑑玉植物」
「何のためにサボテンなんか……」
「だからタマを鑑賞すんだよ」
「……」
冗談なのか本気なのか、この子の言うことは時々わからない。
晶太は工具を手に取り、がちゃがちゃといじり始めた。
「晶太、話があるの」
女はそのまま少年の横に座布団を引っ張ってきて正座した。
「来月の初め、わたしの恩師の書の個展があるの。一緒に行かない?」
俯いている少年の横から、一枚のはがきを目の前に翳す。
『永永無窮』
薄墨をにじませた、流れ落ちる滝のような文字ばかりが目立つ、案内状。見ているのかいないのかわからない。だが、はがきをぶら下げた手が、強い視線にぐいと押されているような感触があった。
「史記の、文帝紀……」小さくつぶやくと、
「手元が見えない」といって晶太は女の手を払いのけ、リモコンにカバーをかちりと被せた。エアコンに向けて手を伸ばし、ピッとスイッチを入れる。本体の小窓に赤い灯りが付き、ごおーと音を立てて冷気が噴出してきた。
「完成」
そのまま前かがみになってテーブルに頬をつけ、また寝ようとする。
「晶太。たくさんのことを知ってるのね。一人で勉強してきたの?」
女は静かな声で尋ねた。背後から稼働しはじめたエアコンの冷たい空気が当たる。
「することがないときは本を読んでた」
「それと、分解?」
冗談交じりに聞き返すと、晶太は目を閉じたまま言った。
「分解っていうか、外を見ると、中身が知りたくなるんだ。外側より、断面が見たい。でもそれでずいぶん怒られてきた」
「そりゃあ今日だって、成功してくれなきゃわたしだって怒ってたわ」
「カバーがかかってるやつは中身をみるまで信用ならない。笑ってるやつは怒らせてみたくなる。走ってるやつには足をひっかけたくなる。ムカデだって一度転んでみたら自分の体がわかる」
女はふと思った。この子は無花果に興味があったのではない、いちじくの断面に興味があって、切って眺めてその構成を調べたのだ。そしてたぶん、本体は食べずに捨てたのだろう。そして、
『走ってるやつには足をひっかけたくなる』
おそらく、一輪車にボールを当てたのも、無意識のうちに……
少し考えてから、女は質問してみた。
「貴美子おばさんの家であなたがした、一番ひどいことを教えて」
シャラは机に上がり、大きな目をして晶太の目の前に座り込んだ。晶太は手を伸ばして、その前足を撫でた。
「知ってどうすんの」
「わたしも覚悟しておかなくちゃ」
テーブルに頬杖をついて考え込む晶太の前髪がエアコンの風にふわふわとそよいでいた。
「時計や卓上扇風機分解とかは……」
「そういう小物は抜き」
少し考えてから、晶太は言った。
「おじさんのアウディのフロントガラスを粉砕した」
「……それは、派手だわね」
「あと車の外側に一周線引きした」
「何を使って?」
「おじさんのコレクションのアンモナイト」
義兄は社会科教師でアンモナイトのコレクターだった。追い出されるはずだ。女はため息をついた。 姉がこんなことを話すはずがない、聞いていれば自分だって受け入れていなかっただろう。
「嘘くさい七福神の布袋おやじみたいな顔したおじさんが大魔神みたいになってくのが、みててシュールだったな」
「つまり、フロントガラスの断面が見たかった?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、どうしてそこまで大暴れしたのか、よければ参考までに教えてくれない?」
晶太はしばらく黙った後、
「ひとを犯罪者扱いしやがった」吐き捨てるように言った。
「犯罪者?」
「最初は、下着泥棒」
あらまあ、と女は思った。あの平和な家でたった一か月の間に少年のばらまいた騒動の濃さは相当なようだ。
「どうしてそんなことになったの?」
少年はだるそうに瞬きして、視線を遠くに投げ、しばらく黙っていた。
「……あそこに、あの家に行ってしばらくして、いとこが、……瑠梨がなんだかんだ口実つけて人の部屋にはいってくるようになったんだ。何度言ってもいきなりドア開けるんで、いらいらしてしまいに怒鳴りつけた」
女は最初に友人がくれたアドヴァイスを思い出しながらふうん、と相槌を打った。
「多少乱暴なこと言ったかもしれない。ブスとかバカとか死ねとか。そしたら、翌日から自分の下着がなくなってるとか騒ぎだして。全部乾燥機だから外部の人間が盗るはずないって」
「ははーん」
「おふくろさんが勝手におれの部屋調べて、そしたら引き出しからあいつの悪趣味なパンツがぞろぞろ出てきた」
「仕返しされたわけね」
「きちんと認めて謝るならもう責めないって布袋おやじが上から目線でぬかすんだ。やってないものはやってない。でも多勢に無勢でさ。いろいろ小物分解しちゃってたんで印象も悪かったし。謝らないって言ったら、謝るまで小遣い抜きとか犬のしつけみたいなことをはじめやがった」
「で、がっちゃーんとやっちゃったわけ」
「それは最後」
「まだ何かあったの?」
少年はシャラの背を撫でた。シャラは気持ちよさそうに目を閉じている。
「取引しようって瑠梨が言うんだよ。このままじゃアンタは変態扱いだし、気の毒だから、自分が洗濯の仕分けをしたときに間違ったかもって言い直してあげるって。で……」
「で?」
「最初はキスしてくれって、そんだけだった」
「……あらら」
「こっちも好奇心はあるし、まあもうあいつらと戦うの面倒だったからいいかなって。だけど、今夜は親は結婚記念日で帰りが遅いからって、あいつがだんだん図々しくなってってさ」
女はあわてた。姉の立場を思えば、もう、自分が聞いていい範囲の話とも思えない。なんといっても、いとこ同士の話なのだ。
「ちょっと待って。姉は、貴美子おばさんは、その先のことを知ってるの?」
「まだ最後までしゃべってないよ」
「……じゃあ、しゃべって」
困ったことになってしまった。
「なんか調子に乗って勝手に服とか脱ぎだすんで、気持ち悪くなっていったんだ。それじゃ変態だろ、ショタコンかよ、一応いとこだろって。そしたら、別に血は繋がってないからいいじゃないって言うんだ」
「え?」
「あいつのおふくろがそう言ってたって」
「……」
「夜中に夫婦でお酒飲みながらさ。なんかおれの母親はもてまくりだったから、時期的に父親候補はたくさんいたらしい。だからあそこはうまくいかないのねって噂し合ってたの、偶然立ち聞きしたっていってた。
なんかわかってはいたんだ。おれとおやじ、全然似てないし。身長もおれのほうが全然高い。おやじも多分、知ってたんだと思う」
こいつにはろくでなしの血が……。少年の記憶の中の言葉の本当の棘が今見えた。女は身震いした。
「で、あんた知らなかったのって瑠梨がいうから、いやまあ知ってるよって答えて、それで」
「それで、引っ込みがつかなくなったの?」
「引っ込むも何も、あっちが勝手に服ひんむいて乗っかってきたんだよ」
「……もういいわ」
頭がくらくらする。事情が分かった以上、これ以上具体的なことが聞きたいとも思わない。だが、何かのスイッチが入ったように、晶太は止まらなかった。
「あの時も熱があったんだ。言い訳にならないけど。何もかもがどうでもよくて、そうだ熱のせいにしちまえって、流れにまかせた。でも、終わった後、すごいのが来て」
「すごい何が来たの?」
「賢者タイム。ていうか、ハイパー賢者タイム」
「何それ」
「やった後に来るしらけた気分だよ。男だけにあるらしい。もう欲望の対象が何もかも鬱陶しくなるってやつ。あのバカが気持ちよさそうに横で寝てるの見てたら、いきさつも全部含めて、なんでこんなことにってめちゃくちゃに腹が立ってきて」
女は息の詰まる思いで次の言葉を待った。
「あいつの髪の毛を引っ張って起こして、出てけってわめいて」
晶太はがりがりと頭を乱暴に掻いた。
「そっちこそいくところもないくせにって怒鳴り返されたんで、ひっぱたいて鋏で髪の毛を切った」
「………」
その騒ぎは予定より早く帰宅した両親の知るところとなった。少女は被害者として開き直り、少年は下着泥棒+暴行犯扱いになったのだ。せめて彼女の自慢の髪の毛を切らなければ、そこまでいかなかったかもしれなかった。
「布袋おやじ」は、少年の眼前で彼の生い立ちをあからさまに罵った。その返礼が、アンモナイト攻撃だったのだ。
「やっぱりおれ、ろくでなしの血が流れてるって思った。あの時あとひと息で、鋏で髪じゃないところを切ってたかもしれない。ホントに一歩手前だった」
もう、やめよう。もう十分だ。女はそれ以上の言葉を遮るように言った。
「わかった、もういいわ。ごめんね、いろいろ聞いちゃって」
そしてひと呼吸置くと、はっとしたように顔を上げた。
あの時も熱があった? あのときも?
「晶太、ちょっと」
少年が逃げる間もなく右手を伸ばして手首をつかむ。左手を額に当てる。かんかんに熱い。
シャラだけがわかっていたのだ。
「これ、いつからなの!」
「さあ……」
晶太はよろりと体を傾け、そのまま畳に転がった。