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ボール

『おはよう、奈津子先生。今いいかな?』

 由紀からのその電話は翌々日の午前中にかかってきた。女はダイニングテーブルを片手の布巾で拭きながら答えた。

「電話でまで先生はやめて。いいわよ、なんの話?」

『少年は今どうしてる?』

「まだ寝てるわよ。なに、あの子の様子を聞くためにかけてきたの?」

 それならついでに愚痴でも聞いてもらおうかと思っていると、由紀は若干声をひそめて語りだした。

『あのねえ、一応耳に入れておいたほうがいいと思って電話したんだけど。伝聞でね、確かなことじゃないんだけどね……』

「……なに?」

 あまりいい話ではなさそうだ。女は布巾をテーブルに置いた。隣でシャラが、女がダイヤルを閉めなおしたままの出入り口をかりかりとひっかいている。

『葉月ちゃんのことなのよ。あの子、手を怪我したって言ってたわよね』

「ええ、一輪車で転んだって」

『ボールがぶつかったってことは聞いてるわよね?』

「そうらしいわね」

『単刀直入に言うとね、そのボール、……サッカーボールをぶつけたのは、お宅の甥っ子さんのようなのよ』

「えっ……」

 女は電話口を手で覆った。そしてゆっくりとダイニングチェアを引くと、そのまま腰を下ろした。

「……それ、誰から聞いたの?」

『お教室で一番年少の子、いるでしょ。真央ちゃん。あの子のお母さんとわたし、ご近所なんだけど、昨日スーパーで会ったら、困った顔して、ちょっと聞いてほしいことがあるっていうのよ。で、近くのカフェでちょっとお話したの。真央ちゃん、先週の土曜に公園で葉月ちゃんが一輪車で遊んでるのを偶然見たんですって。そのときにね、子ども広場でサッカーしている迷惑な集団がいて、その一人が、おたくの甥っ子さんそっくりだったっていうのよ。どうかしら、その日、彼公園に出かけてない?』

 先週の土曜。……出かけている。

 ロックバンドのギグ聞いて、その連中とサッカーして……。

 女は声の震えを抑えながら答えた。

「これから聞いてみるわ。先を聞かせて」

『でね、その茶髪の、ラガーシャツの少年が蹴ったサッカーボールが一輪車を直撃したっていうのよ。葉月ちゃん凄い勢いで倒れてね、手首をひねって痛みで起きられないぐらいで、号泣状態で、その彼が、まあ、携帯で救急車を呼んでくれたっていうんだけど……』

 聞いていない。彼はそのことについては何も言わなかった。……どうして? 

「それで彼が、その子が、一緒に病院に行ったの?」

『いいえ、呼ぶだけ呼んで救急車が来たころにはほかの連中と一緒に消えてたって。呼んでくれただけましだけどね。お教室に行ったらあのお兄ちゃんがお手伝いをしていて驚いたって、真央ちゃんそうお母さんに言ったっていうのよ。先生は知っているのかなって』

「……」

 ふと背後に気配を感じて女は振り向いた。

 ダイニングの入り口に、薄汚れた白いTシャツにサスペンダーをひっかけた晶太が突っ立っている。

 女は少年の暗い目を見つめたまま低い声で答えた。

「一刻も早く本人に確かめてみるわ。教えてくれてありがとう。じゃね」

『あの、あのね、あまり……』

 電話の向こうの由紀の声をそのままにぷつりと通話を切った。

 

「……何の話か分かる?」

 感情を抑えて、女は言った。

「わかるよ」低い声で、晶太が答える。

「あなたがやったの?」

「そうだよ」

 声にならないため息が漏れる。

「……どうして何もいってくれなかったの」

「来たばかりの餓鬼が面倒起こしたって聞いたら、いらない心労の種になるだろ。それにあの子が、書道教室の子だなんて知らなかった」

 自動音声のように、抑揚のないしゃべり口調。

「おととい、気づいたのね?」

「怪我の話を聞いてて、わかった」

 晶太はそれだけ言うと、どさりと向かいのダイニングチェアに座った。

 それだけのことをしたなら、シャラの件に対してももう少ししおらしくなれたのではないか。自責の念というものはないのだろうか。あれこれの方向に飛ぶ苛立ちを抑えながら、女は気持ちを整理した。この子に向き合う時は、とにかく冷静にならねばならない。

「とにかく、お見舞いに行くわ。あなたがしたことなら、きちんと謝らなきゃならないし。あなたも、行くわよね」

 そのまま立って冷蔵庫を開けると、女は牛乳を取り出した。そして琉球ガラスのコップを二つ、食器棚から出すと、両方に牛乳を満たし、ひとつを自分の前に、ひとつを少年の前に置いた。

「行ったほうがいいの?」

 少年は牛乳を見ながら答えた。

「当たり前でしょう。あなたがしたことでしょ。どうして知らん顔ができるの?偶然の事故だし、そこは仕方のないことでもあるし、一応救急車は呼んだのだし、きちんと謝ればそれでいい話よ。ちゃんと勇気を出してちょうだい」

「偶然じゃない」

「え?」

「偶然当たったんじゃない」

「どういうこと?」

「当てようと思って当てた」


「……」


 シャラがなあーおと声をあげた。少年は絶句している女の前で立ち上がり、ねこの横にかがみこむと、出入り口近くの陶器のえさ入れに自分のコップから牛乳を移した。ねこは少年の顔を見上げ、ぴちゃぴちゃと舐めはじめた。女は無意識に口に当てていた手を外し、そして尋ねた。

「……うそでしょう。信じられないわ。どうして、小さな女の子に、……わざと、ボールを当てたの?」

「わからない」

「わからないって、あのね……」

「見てたら当てたくなったんだ。そういうことがときどき、ある。

 こいつにはろくでなしの血が流れてるっておやじは以前お袋に言ってた。おれの知らない、おれには手のおえない血が流れてるって。そのうちとんでもないことをやるかも知れないって。

 謝りにいけと言うなら行くけど、そのかわり本当のことを言うよ。とくに理由はないけど、当てたくて当てましたってね。倒したくて、倒しましたってね。

 それでも、ほんとに、一緒に行ったほうがいい?」

「………」

 少年は手の中のコップに赤い唇をつけ、半分ほどになったミルクを飲んだ。

 シャラがまたなあーおといって出入り口をかりかりしはじめた。

 晶太はかがんで、当然のことのようにダイヤルを回した。

 シャラはドアを頭で押し開け、がこんと音を立ててまた、嬉しそうに外に出て行った。



 遊佐葉月の家は、階段状に並んだクリーム色のテラスハウスの一角だった。それぞれの玄関先に約束事のように各家庭のシンボルツリーのようなものが植えられており、女の頭上のアーチからは、ナツユキカズラの白い花が顔の両側にしだれ落ちている。夕暮れのぬるい風に吹かれて、白い花屑がほろほろと足元を流れていった。

「まあ先生、ほんとうにわざわざこんなところまで」

 驚き顔でドアを開けた母親は、鮮やかなグリーンのエプロンをしていた。家の奥からシチューの香りが漂ってくる。

「どうぞ、せっかくですからおあがりいただいて」

 女は大きな菓子折りを抱えたまま、片手を振った。

「いえ、こちらで失礼します。葉月ちゃんはおいででしょうか。大事な娘さんにおけがさせてしまって、本当に申し訳ありません」

 母親の背後のドアの陰から、お下げの少女がひょいと顔を出した。

「葉月ちゃん! 本当にごめんなさいね、痛かったでしょう。腕のほうは、いま、どう?」

「お電話でのお話でこちらはもう十分でしたのに。なんですか、レントゲンの結果では、ただの捻挫で済んだようですの。しばらくは動かせませんけどね」

「ごめんなさいね、うちの甥っ子がほんとうにこんな、……あの、連れてこようと思ったのですけれどなかなか難しい年ごろで……」

「いいんですよ、たまたまサッカーのボールがそれたぐらいであまり責めないであげてくださいね。わざわざ救急車も呼んでくださったんだし、それに、カッコいいお兄ちゃんだったってうちの子が、……ねえ、葉月」

「うん、芸能人みたいだった。ステキだった」少女は無邪気に微笑んだ。右手の白い包帯が痛々しかった。

「うかがったところでは、お教室のお手伝いをしてくれているんですって?」母親は穏やかに問いかけた。

「ええ、でもしばらくは謹慎ですから」

「そんなことおっしゃらないで。ただの事故じゃないですか。すごく素敵な字をお書きになるんですってね。わたしもぜひ拝見したいわ」

「はづきも、ならいたい。教えてほしい」少女は無邪気な目を女に向けた。

「教えてるわけじゃないのよ、葉月ちゃんの字があんまり素敵で、それで感動して書き始めたんだと思うわ。だからはやくよくなって、お教室に来てね」

 女は包帯の上から、優しく少女の手をさすった。

 何度言っても、持参した治療費は受け取ってもらえなかった。女は菓子折りだけを置いて、ひたすら頭を下げ、遊佐家を後にした。


 街路に出ると、世界は薄青い闇に霞んでいた。赤い字で書かれた道路標識が暗色にくすみ、信号の青い光や青い屋根や青い花ばかりが遠目に鮮やかだ。逢魔が刻。プルキニエ現象。車の運転にも不安な精神にも危ない、青いひととき。そんな言葉や思いをふらふらと辿りながら、女はなんとなく、途方に暮れるの途方ってどこにあるのだろう、などと考えていた。

『はづきも、ならいたい。教えてほしい』

 あの白。目を責めたてるような清冽な包帯の色。

 少女は知らない。自分が会いたがっているあの「素敵なお兄ちゃん」が、最初から怪我させるつもりでボールを当てたというその事実を。謝りに行けと言うならすべての真意をぶちまけてやると言う、その黒い意志を。

 おれには手のおえない血。そのうちとんでもないことをやる……

 兄は何を感じているのだろう。それは、生まれのはっきりしないハーフの妻に当てつけた言葉だろうか、子どもの眼前で。兄はそんな人間だっただろうか?

 だがいくらどういう事情があろうと、人として晶太を許せない。当てたくて当てたことに対して、堂々と開き直る彼。あの場に引っ張っていって、少女の包帯を見せても、彼は謝りもせず頭も下げないのだろうか。

 胸が痛い。その痛みを、自分へのいら立ちが倍加させている。

 本来なら彼を連れて来るべきだった。が、万が一「本当のこと」を口にして開き直られたら、取り返しがつかなくなるのは自分の立場と、職だ。それがわかっているから、少年への怒りがまるでブーメランのように自分に帰ってくる。

 恥を表に出したくなくて、彼を本来の謝罪の場から遠ざけた。……ずるいのは、どっち?

 不安は粘着性を持っている、放っておくと次々くっついて団子になる。ひとつひとつ片付けなければ。女は歩きながらそっと目を閉じた。ひとつひとつ、塊になる前に数えて、ほぐして、憎しみやいら立ちを含んで大きくなり過ぎないようにしなければ。

 ひとつひとつ。


 K町から電車で二十分、大学や高校、文学記念館などが並ぶ静かなM町。緑陰の小さな洋館のようなプチホテルのカフェの窓際に、もう恩師の姿はあった。 

 女はその姿を外から認めると、小走りに煉瓦の階段を駆け上がった。クラシックな黒のチョッキ姿のボーイが、内側からドアを開けた。

「大森先生、お待ちになりましたでしょうか」

 グレーのサマースーツに身を包んだ、銀髪の初老の男性が、手元の本から目を上げた。

「やあ、お久しぶりですね。なに、いつもの習慣で十分ほど早めに来ておりました」

 女は黒いレースの日傘を手元で折りたたんで、鞄にしまった。

「突然お電話して、申し訳ありません。まさか今日お会いできるとは思っていませんでした」

「いえいえ。ちょうど東京での個展の打ち合わせで熱海から出てきてこちらに宿泊していたら、あなたからの連絡を受けて。お互い、運がよかったですね」

「ええ、本当に」

 女は向かいの席に座り、さっきのボーイに、焼き菓子付きのアイスロイヤルミルクティーを頼んだ。

「あの、奥様のご様子は、その後いかがですか」

 大森氏はかばんから竹の柄の京扇子を取出し、開きかけてまた閉じて、机の上に置いた。

「ひと月前退院しました。一応がんの除去手術は成功したのですが、体力が弱ってほとんど家から出られなくなりましてね。出戻りの娘が面倒を見てくれているのが、ありがたいと言えがありがたいですが。なんというか、今では、可哀想なことをしたと思っています」

 歳のわりには珍しく、灰色の髪をフィッシュボーンの一本編みにして後ろに流していた上品な夫人の笑顔が、女の脳裏に浮かんだ。

「奥様にはわたしも、大変お世話になりました。先生の個展を見にいらっしゃるのも、難しい状況でいらっしゃるんでしょうか」

「いえ、娘の運転で東京までは来られますから。

 家内があなたと初めてお会いしたのも、銀座の個展でしたね」

「ええ、そうでした」女は暑さと気恥ずかしさで少し頬を赤らめた。


 まだ大学生だったあのとき、初めての恋に破れて傷心のまま何とはなしに立ち寄った銀座のギャラリーで、女は書道家、大森犀雨(おおもりさいう)氏の字と巡り合ったのだった。

『回生』

『愛』

『豊穣』

 のびやかに優しく、また厳しく、無限に問いかけてくる字を放心したように見つめていると、自然に涙が流れてきた。

 文字。ただの物言わぬかたち。

 そこから与えられるパワーが自分に命の火をともすなど、思ったこともなかった。

 そのとき、背後から静かな声に呼びかけられた。

「どちらからいらっしゃいました?」

 振り向くと、萌葱色の着物を着た上品な年配の女性が微笑みかけていた。

「熱心に見ていただいて、主人が感激しておりますの。よければあちらでお話ししません?」

 背後のソファで、濃紺の紬を着た銀髪の男性が、こちらを向いて温かく微笑みかけていた。


「奈津子さんも、お教室のほうは順調ですか。もう四年目に入ったところでしたっけ」

 女は遠くなっていた眼を眼前の恩師の顔にあわてて引き戻した。

「はい、おかげさまで。

 先生が講師をなさっていた大学のお講義に潜り込んで、書道のお教室にも通わせていただいてご指導を受けて……本当にお世話になりっぱなしでした」ハンカチを取り出すと、女は頬の周りの汗をそっと押さえた。

「ところで、あの、今日わざわざお時間を割いていただいた、肝心の件についてですが……」

「ええ、私に見せたい作品があるそうですね」

「はい、……まったくの初心者で、中学二年の甥なんです。

 もともとは九州住まいで、義姉……母親が失踪中だとかで、今わたしが一時的に預かってるんですが……」

「ほう、それは……」大森氏はかすかに眉根を寄せた。女は大きめの紙袋から焦げ茶の筒を取り出すと、丸めた作品を丁寧に取出し、マホガニーの大きめのテーブルの上に広げた。

「これなんです」

 大森氏はコーヒーセットを丁寧にどけると、拝見します、と言って革の鞄から金縁の眼鏡を取り出した。そして舐めるように、一枚いちまい、顔を近づけ、また離し、目を細めてただ凝視した。


 相槌のような嘆息のようなかすかな声が、恩師ののど元から発せられるのを、女は自分でも意外なほどどきどきしながら聞いていた。

 ようやく紙面から目を離して、師は言った。

「……うん。これは。初めての字、でしたっけ?」

「よくは知りませんけれど、自由にどんな大きさの字でも書いていい、という状態で書き綴ったのは初めてなんだと思います」

「……いろんなものがありますね。いろんなものが見えてくる。勢いと悲しみと、独特の流れがある。力強さと、怒りとともに、祝祭感がある。いい字です。お教室には参加しているのですか?」

「いいえ、お教室の手伝いをしてもらっていて、いい字を書く小四の女の子の書を見せたら、しばらく見ていて、それから急に書き始めました」

 少女の腕のことを思うと、重苦しいものが女の胸を満たした。

「こういう字はいくら書の研鑽を積んだからと言って、手に入れられるものでもない。だが、書は押しつけてかかせるものでもない。この子次第です。だが、これほどのものを持っているなら、多分彼のほうからこの出会いを選んでくるでしょう」ひと呼吸置くと、水を口にして、付け加えた。

「それを教えてあげたあなたと、いい関係を保てるならば」

 女は思わず目を落とした。

「問題はそこなんです。いいものを持っていると感じることはできても、当人の信頼を得ないことには、どうにも……」

 顔を上げると、金縁の眼鏡の向こうに、あの凪いだ海のような目があった。女は小さく息を吸うと、少しお話を聞いていただけますか、と言い、思い切って今までの少年とのいきさつを簡単に語り始めた。

 さざ波のようにあちこちの方角から押し寄せてくる蝉の声が、周りをぐるぐるとまわっている気がする。ヘリが轟音を立てて一度頭上を取り過ぎた。ひと通り聞き終えると、大森氏はテーブルの上に置いたままだった扇子を手元でぱらりと広げ、心なしかこちら向きに傾けるようにして煽ぎ始めた。

「ご飯は、一緒に食べていますか」

「はい?」女は思いがけない言葉に戸惑い、そして斜め上を見るようにして答えた。

「朝は遅いのでたいてい朝食は抜きですし、おいておいた果物を食べるぐらいです。家にいるときは昼は出していますが、わたしと差し向かいはいやなようで部屋に持っていくことが多いです。夜もふらりと出かけてしまうので、なかなか……」

「朝食は、ぜひ作っておあげなさい」

「朝ごはん……を、ですか」

「おひたしとか、お味噌汁とか玉子焼とか、特に手はこんでいなくてもいいですから。そういうものをですね、少しずつでいいから、朝、小鉢に用意して、そうですね、おにぎりとかと一緒に置いといておあげなさい。起きて顔を合わせることがあったら、熱いお味噌汁をよそってあげて。猫ちゃんと一緒に食卓について、湯気を立てて、ね」

「……はい」

 それだけ、ですか? と言いたくなる気持ちを女はぐっと抑えた。だいいち、ろくに口もきいてくれないのにどうやって……

「出て行く母親の背中を黙って眺めていたと言っていましたね。父親との縁が薄く母親が家庭内に気が向いていなかったなら、きっとひとりの時間が長かった子でしょう。そういう子は手の込んだ朝食というものをほとんど知らないはずです。人間の本能として、どんな時にも愛情と、食は求めます。朝は一日の始まりですから、そこを明るく祝福された場にしてあげてください」

「はい」

 なるほどと思いなら、まだ埋められない思いがある。女は思い切って問いかけた。

「あの、……彼がそれを求めているならまだいいんですが……一番わからないのは、あの、やりたくてやったとか、そういうことがときどきあるとか、どうして堂々と……」

「そうですね。人の心は、こどもでもおとなでも、他人にはわかりません」

 はたはたと仰がれる扇子から、なにか焚き染めた香のかおりのようなものがかすかに漂ってきていた。

「でも、申し上げたでしょう。彼はたくさんのものを持っている。豊かなお子さんです。そのぶん、人より深く傷も残るかもしれない。けれどだからこそ、人の心を打つものがきっと、書ける。だがそのことはまだ彼は知らなくていい。あなたが知っていればいいことです。今はただ見つめて、おいしいものをたくさん、食べさせてあげてください。そして書きたいようならいつでも書けるようにしておいてあげてください。大事なのは、あなたの正直な気持ちを伝えることです。いい字だ、この字が好きだ、すばらしい、そう思うなら何度でもそう言ってあげてください」

「はい」

「人は様々な要素を持って生まれてきます。悪い要素を数え上げて責めたてても、消えません。周りにいる大人にできるのは、よいものを見つけて、育てることだけですよ」

 ふうっと、意識しないままに、自分が透明なため息をついたように、女には思われた。見透かすように、恩師は微笑を含んで語りかけてきた。

「どうです、彼が豊かな子だと知ることで、あなたもちょっとだけ幸せになれたでしょう?」

「……はい、そうですね。ちょっとだけ」女は思わずほろりと笑った。

「そう、それが大事です」

 師も柔らかく笑った。

「しかし肝心なのは、人は人の苦しみを思いやることはできても、結局理解などできないということです。それでよいのです」そういうとぱちりと扇子を閉じた。

「よければ私の個展に、彼もつれておいでなさい」


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