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迎える

少々性的な部分も出てきますが、直接的な描写ではないので13Rあたりとしました。最後までどうぞ宜しくお付き合いください。


挿絵(By みてみん)


 使い慣れた墨を硯に垂直に置き、

 ゆっくりと磨る。

 硯は長年愛用の雨畑硯。墨は鈴鹿墨。

 ほんの少量の水を落とし、墨を二、三往復させただけでもう真黒な闇が湧き上がる。

 なめし皮のようにすべらかな硯と墨は、ひたと触れ合うとお互い吸い付くようになじみあい、こすれあう音さえ立てない。

 墨の底からにじみ出る漆黒が、水の中に深色の帯をくねらせる。


 子どものころ、女はこの墨の渦を見るのが好きだった。

 墨に金粉で文字が掘ってあると、磨るにつれ虹の中に金粉が散ってさらに美しかった。

 その渦を追うのが好きで、その流れの先を追っているうちに、書の道に入ったのかもしれないと思う。

 今日の文字は、「迎」。

 墨をたっぷりとくぐらせた熊野筆を、磨いた雨畑真石の文鎮で抑えた半紙に、どしりと置く。

「ものには形が与えられる前に、与えられた名があるのですよ」

 銀髪の恩師の口調は、仏門にあるひとのようにいつも静かだった。

「人間がたまたま、形あるものに名をあつらえたのではない。すべてのものにはもともと名があったのです。天才とよばれる彫刻家が、木の中に本来あった姿を削り出しているように、古代、ひとはものの名を正確に見つけ出し、そしてあるべき形を与えたのです。

 たとえば、風。

 たとえば、華。

 たとえば、流。

 どうですか。うつくしく、あるべきかたちをしているでしょう。

 漢字という芸術は真実を内包しています。その名がまずあって、形の中にすべての意味が香しく用意され、それを書くことで私たちはそのものの真実に触れるのです。ほんとうの書家とは、そのことを、言葉にせずとも魂に打ち知らせてくれる、そういう筆遣いのできる人のことです。

 そのことばには、まさに、そのかたちしかなかったのだと」

 迎という字は、卯に似た字が之繞(しんにゅう)に乗っている。だから、上物の筆遣いはかわいらしく、どこか軽く、軽快に。

 之繞は、それを乗せる船。

 お客をのせて、あるべき場所に運んでいく船。

 乗せたお客と、船との間の親しい関係が、ひとつの文字の中で結ばれるように。

 三枚、四枚、五枚目。彼を「むかえにいく」まで、あと十五分。

 まだかけていない、まだ。

 筆先をすっと上げる。「お客」が、楽しそうに尻を撥ねた之繞に踊るようにおさまっている。よし、これだ!

 作品保護のために、書きあがった作品に蠅帳(はいちょう)を被せてふたをした。時間がない。

「いってくるよ、シャラ」

 茶色の皮袋のようなショルダーを肩にかけ、廊下に寝そべる白黒ツートン猫をまたぎながら挨拶をすると、ねこは伸びをしてぐるりと体を回転させた。


 アクセルを踏んで、長い付き合いのプレーリーを七月の街路に発進させる。

 口の中で、これから迎えに行く少年の名前を反芻する。

 柚木晶太、十四歳、中学二年生。その名を何度も何度も聞くことになったあの電話は、半月前にかかってきた。かけてきたのは、姉の貴美子だった。


『かわいそうとか、不憫だとかね、そんなもんじゃないのよ』

「ええ」

『受け入れるときはまあ、そう思わなければやっていけないわよね。あなたもそうだと思うけど』

「……」

 女は受話器を左手に持ち替え、右手の鉛筆でメモ帳に無花果の絵を描き始めていた。

『まだ中二だし、さだまさしじゃないけどあれよ、たやすいことだ、愛すればいい。そう思うわよね。無責任な歌よ、そんな気持ちじゃじゃすまないわ。必要なのはただ、忍耐、そして忍耐、また忍耐。特にあの子に関してはねえ……』

 無花果の輪郭に何度も鉛筆の線を重ねる。身が細って、枇杷のようになる。

『なんていうの、早熟っていうか、生意気っていうか。こどもの癖に常時上から目線で、理屈が通じないのよ。こちらもお説教しすぎたと思うんだけど、目線も合わせてくれなくなっちゃってね。世間様とか近所とかはいいのよ、わからないことだから、預かってみなければ。でも身内にああだこうだ言われるのが一番辛くてね。あなたもわたしと同じ立場に立てばきっと、わかってくれると思うわ』

「要するに手強い相手ってことでしょ、よく聞いたからわかったわ。あまり脅して、わたしが断ったらどうするの」

 延々と続く言い訳にうんざりして、女は少し意地の悪い物言いをしてみる。姉は一瞬沈黙し、そしてどもりながら付け加えた。

『奈津子ちゃん、あなたには悪いと思ってるのよ。夫婦で教職についてるうちがひと月ももたずに、独身のあなたに甥っ子の世話をパスするなんてね。でもわたしたち、夏の間、部活の指導でろくに家にいないの。それに娘の瑠梨は高二で微妙な年ごろでしょ、精神的にアレな男の子と家でずっと一緒っていうのがちょっと……。

 それに、当の親、賢治兄さんがあれだもの。離島医療の仕事は投げられない、妻の突然の家出は自分の責任じゃない、今更単身赴任先に一人息子を呼ぼうにも本人が島を嫌がってる、おまけにわたしたちの両親は早くに他界してるでしょ。頼る祖父母がないとなれば、晶太君を任せられるのはあとはあなたしか……』

「だったら四の五の言わずに任せて。仕方のないことでしょう。わたしだって自信があるから引き受けるわけじゃないのよ。それにどうせ暇な書道教室しかしてないしね」

 もともとあまりきょうだい仲がいいほうではなかった。土地持ちの両親が早くに他界して、遺産相続でごたごたしたのを境に、よほどの必要に迫られない限り、連絡を絶っていたのだ。

 女は子どもの生めない体だった。学生時代からひっそりと文字オタクとして生きてきた女を憐れんでか、両親は広大な家とかなりの動産を遺言で残した。兄は施設育ちの混血(白人系らしいが詳しいことはわからない)の女性と大恋愛の末家を飛び出し、離島に渡って医者になっていた。三年前、一人暮らしの父が亡くなったとき、結婚に大反対していた父親からの遺産の相続を兄は放棄し、それがきっかけで妻と不仲になった。その妻、……晶太の母親は教育環境の不備を理由に二年前彼を連れて島から故郷の九州に戻ったものの、俗世離れした美貌の故に恋人の存在が絶えず、とうとうこの六月、息子を置いて行方をくらましてしまったのだ。

 両親の持っていた土地のほとんどを引き継いだ裕福な姉夫婦は、晶太母子と同じ宮崎住まいとうこともあり、甥っ子の世話を引き受けたが、意思疎通の難しい彼にひと月で手を上げてしまった。

 少年は夜の街をさまようようになった。

『ごめんね。手に余るようなら言って。なんていうかとにかく一方通行な子で、人の意見を受け入れないの。わたしたちついついねじ伏せようとして強引になりすぎたかもしれないわ。けど、あなたは理性的だし言葉数も少ないし、ああいう子にはいいかもと思うの。もしなにかあったら、施設に一時的に預けるという方法も、ないではないんだから。兄さんがどういおうと、ね』

 電話を切ると、ため息をつき、女は鉛筆描きの無花果の絵を見た。

 それだけ屈折した十四歳の少年を、独身の自分がどうしてうまく扱えるだろう。

 だが何の波乱もなく、自分のためだけに時間を使ってきた人生をおもえば、ここいらで不遇な子どもの世話を引き受けるのも、ひととしての一つの役目と思えないでもなかった。

 花を見せず、実を結ぶ果実。夏の風を含む気だるい甘さ。あの子にあったら、これを買って帰ろう。女は自分のスケッチを見ながら何となくそう決めていた。


 K駅近くのデパートの駐車場に車を止め、待ち合わせに指定したガード下のリムジンバスのバス停に向かう。

 薄暗い、ざわざわとした人ごみに、俯いてぽつんと立つ少年の人影があった。

 近づくと、こちらに顔を向けた。

 頭上を渡る電車の轟音を聞きながら、女はかけようとした声を飲み込んだ。

 

 ……自分より十センチは、いやもっと背が高い。

 小麦色のひきしまった肌、固く結ばれた意志の強そうな口元。

 ざんばらに顔にかかる茶色い前髪。鼻筋の通った、表情の読めない顔。くたびれたラガーシャツにGパン、子ども離れした退廃の風情。とても十四歳には見えない。

「こんにちは。あの、……晶太君?」

 電車が通過するのを待って声をかけると、

「はい」と短く答えて、彼はそのまま足元のキャリーケースの取っ手を持った。

「はじめまして、柚木奈津子です。……いえ、はじめましてじゃないわよね。あなたが赤ちゃんの頃一度会ってるのよ、覚えてないだろうけど」

 晶太は黙って、切れ長の目で女のほうを見ている。女はハンカチでせわしなく汗を押さえると、彼の左肩のスポーツバッグに手を伸ばした。

「重くない? 疲れてるでしょう。家はここから車で十分ぐらいなんだけど、とりあえず、今日の夕食の買い出しに付き合ってくれるかな。なんでも好きな物作ってあげるわよ」

 少年は女の手もとからスポーツバッグを引っ込めるようにして

「荷物はいいです、どうも」といった。

 その手首の内側から外側にかけて、刃物で切ったような古傷がちらりと見えた。女はあえて見ないようにして視線をそらした。

 デパ地下の食料品売り場に二人で向かう。ほぼ初対面の十四歳と、話題もないままお茶を飲むよりは、買い物のほうがまだましだった。

 ひんやりとした冷気にほっと一息つきながら、果物や肉や野菜を見てまわる。

「何か食べたいもの、ある?」うれたトマトや鮮やかな緑色のゴーヤを手に取りながら尋ねると

「ゴーヤは嫌いです」こどもらしく、即座に答えた。思わず微笑が浮かぶ。

「ほかに何が嫌い? お肉は好き?」

「肉は好きです」

「わたしも好き。じゃあ簡単に焼肉と行こうか」

 好みがはっきりしているのはいいことだ。女は焼き肉用の牛肉やラム肉と、あとエリンギ、ピーマン、なす、かぼちゃなどの野菜をどんどん籠に放り込んだ。

「猫は嫌いじゃない? うちには一匹、野性に近い猫がいるんだけど」

「嫌いじゃないです」

「よかった。居候を迎えるにあたっては、連れ合いとの相性がまず一番大事だものね。家に帰ったらシャラとの面接があるからね」

 少年は意外そうな顔をした後、口の端でほんのちょっと笑った。

「無花果っていうけど、花がないわけじゃないわよね。花がないと実はならないもの」果物のコーナーで、女はいちじくを手に取って独り言のようにつぶやいた。

「変な名前」

「それ、花だから」

 意外な答えに、女は晶太を振り向いた。

「え。花? これのどこが花なの?」

「周りの袋が、肥大した花のうで、中でつぶつぶしてるのがみんな花です。外から見えないだけなんです。だから無花果っていうのは、実というより花の集合体を食べてるんです」

「へええ、そうなの? すごい、知らなかった」

 女は本気で感心して手の中の無花果を見た。そしてまた、彼に尋ねた。

「無花果は好き?」

「……食べたことないし」

「それだけ知ってるのに? じゃ、初体験ね」

 熟れた無花果をひとパック、籠に入れた。


 自宅の玄関を入るころ、夏の日はとっぷりと暮れていた。青い、霧臭い闇があたりを包み、庭の松の木でアブラゼミが陰気な声で鳴いている。

「なんか、蒸すわね」

 引き戸をがらがらと開けて玄関を上がる。薄暗い上がり框でシャラがにああああおと細い声を上げた。続いて上がった晶太を見上げ、鼻を寄せてクンクンと匂いを嗅ぐ。

「どうですか、シャラ先生」

 晶太は困ったように突っ立ってねこを見下ろしている。シャラは尖った鼻さきを下ろすと、すたすたと奥に向かった。

「一次面接、合格。嫌なお客には低い声で威嚇するのよ。で、上がると後ろからついてくるの。監視するみたいに」

「……へえ」

 シャラはこちらを振り向いて、また、にあお、と言った。

 後ろからついてくる晶太からかすかに汗のにおいがする。自分を見下ろすような背丈の少年のたたずまいになんとはなしの威圧感を覚えて、心のどこかが緊張していた。

 池のある和風庭園が見渡せる広い和室のテーブルの上にホットプレートを置き、晶太と女は二人の食卓を囲んだ。シャラは晶太の脇で丸くなり、細目を開けてふたりの様子を見守っていた。

 晶太はよく食べた。とりあえず買い込んだ様々な肉のどれも好き嫌いすることなく、野菜と順番に次から次へと口に入れ、咀嚼し、呑み込み、冷たいお茶を飲んでまた食べた。女は目の前で若い男の子がものを食べている風景を、そののど仏の動きを、なにか新鮮な気分で眺めていた。外に出ればいくらでも眺められる若い男の子、その単体が目の前にいると、こんな感じなのだと。

「知っての通り、わたしは独身だし、まだ三十の若輩者だし、子育ての経験もないの」

 肉が残り少なくなったころ、缶ビールを自分のコップに傾けながら女は言った。縁側で金魚の絵柄の江戸風鈴がころんころんと鳴った。

「仕事と言えばこの自宅で地味な書道教室を開いてるだけ。あとは、お茶やお花の免許状の筆耕とか、お寺の納経帳の記帳とか。とにかく、年寄り臭い仕事ばかり引き受けてるの。あなたには退屈な夏になるかもね」

 少年は黙って、ご飯と手作りのカクテキキムチを口に放り込んでいる。

「正直、子どもの心理とかわからないから、お世話も十分にはできないと思うわ。でも、日ごろのモットーとして、疲れないでいいことだけをして、気分が暗くなることは考えないで、自分だけの為に、気持ちよく過ごそう。って決めてるの。あなたにもこれは勧められると思う。どう?」

 晶太は麦茶をごくごく飲むと、口元を拭いて言った。

「それなら、付き合えるかも」

「よかった。お互い、ラフにいきましょう」

 晶太はのこりの麦茶を茶碗のご飯の上にかけた。

「この家の印象、どう? 上がった時どう思った?」

 晶太は冷たいお茶漬けをすすると、あたりを見廻し、ぼそりと言った。

「すごく、広い。で、古い」

「亡くなった両親が土地持ちだったの。わたしは生家を相続したんだけど、まあ、一人の身には確かに広すぎるわね」

 女はひと呼吸置くと、今度は別の質問をしてみた。

「で、わたしの印象はどう、うまくやれそう?」

 少年はとまどったように女をちらりとみて、俯きがちに答えた。

「髪が短いのがいい」

「それだけ?」

「あまり化粧してないのも、ちょっといい」

 女は噴出した。

「お色気がないのが幸いしたか、よかったわ」そして続けて言った。

「ひとつお願いがあるの。わたしはあなたから見て実際に叔母にあたるわけだけど、この年でオバサン呼ばわりはちょっとつらいものがあるの。図々しいけど、ここにいる間はおねえさんって呼んでくれる?」

「はい」少年は素直に答えた。

 酔いがゆるゆると程よく全身に回り、女はなにかほどけた優しいこころもちになっていた。

「ね、晶太君は、今までどんなクラブに入ってたの。サッカーとか、してる?将来なりたいものはある?」

「サッカーはしてます。けど、部活は入ってない。だいいち、これからどこの中学に通うことになるのかも、わかんないし」蚊に刺されたのか、晶太は俯いて右腕をぽりぽりと掻きながら答えた。

 そうなのだった。東京のここでの暮らしも、決心して父親の島に渡るか、父親が赴任する新しい本土の場所が決まるまでのつなぎに過ぎない。その先のことは何もわからないのだ。それは彼にとって、どれほど不安な状況だろう。

「でもその顔だと目立つし、もてるでしょ。ガールフレンドとかいる?」

「別にもてない」あっさり言い切ると、晶太はすこし迷いながら付け加えた。

「でも、将来、やりたいことはある……かな」

「うん、なにがしたいの?」

「友だちからギター教えてもらったら結構弾けるようになったんで、いつか金ためてギター買いたい。で、バンド組みたい」

「いいじゃない。コピーバンド? オリジナル?」

「オリジナル。おれが作詞も作曲もする。バンド名も決めてあるんだ」

「なんて名前?」

「もげたアリの首」

 女は思わず咳き込んだ。

「略してもげアリ」

「それはね、バンド名だけでずっこけるわよ」

「最初の曲も作ってあるし」

「なんて曲?」

「虹かと思えば錦鯉」

「……」

 食後のデザートに、むいた無花果を刻んでヨーグルトをかけたものを出すと、晶太は三口ぐらいで平らげてから、今度は丸のままがいいと言った。

 思ったよりおもしろい、しゃれっ気のある子じゃないと女は内心安堵していた。

 それなりに、楽しい夏になる予感がしていた。


 そのときは。



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