小説 祈り
祈り
「そういえば、私の『神様仏様』は結構あたるんだよ」
とりあえず私のジンクスを自慢してみる。へえーっていう素っ気ない返事が返ってくる。
お弁当を食べ終わった昼休み。私の友達が委員会で教室にいないから私は後ろの席の――に話しかけた。――は読書をしていたが、私が席に着くと顔を上げたので、言ってみたのだ。『神様仏様……』って祈ると本当に良くあたるのである。ちょっとした超能力でないかと少し自分でも疑っていたりする。
「ホントに結構あたるんだよ? 昨日の国語の小テストだってよかったじゃん。あと先週の小テストもよかったしね」
「それはただ国語が得意なだけじゃないか?」
それは一理あるかもしれない。じゃあ、と私は言って、
「先週の金曜は雨が降ったし、木曜は国語の時間教科書を使わなかったし。水曜は、先生が順番であててるのに、私だけ飛ばされることもあったし」
「そうかい、そうかい」
流された。本に目線を落とされる。
ちなみにこいつは昼休み一人でいるけど友達がいない訳じゃない。今も教室の片隅で読書をしてる友人がいる。本当にご飯を食べている間だけ一緒にいて、その友人は食べ終えると自分の席へ戻って読書をする。そうするとこいつも読書をする。移動教室の時よく話しているようだから、仲が悪いってわけじゃなさそうだけど。
「そのジンクスにはね、一つ制限があるのですよ」
ほう、と――は言って視線を上げて、私の目と合った。
「その心は?」
「一日一回しか使えないのです」
私は少し含ませた言い方をしてみた。
「どこかのアニメの誰かにいつだか使われてそうな何かのような気がなぜかするね、そりゃ」
苦笑交じりの返答だった。私はさっきと同じ口調で、
「じゃあ、何か祈ってみせましょう」
「ふむ、では何かお願いをしましょうか」
――が同じノリで相手の手を入れてくれる。
思いついた私は、あ、と言って、
「今日、――が足の小指をぶつけるって祈っとくわ」
なんだかとってもあたる気がする。
「はっ、それは上等だねえ」
口端を上げて、――が答える。瞳が活き活きしている。
「それならどっちの足の小指だい? 右、左?」
――が条件を厳しくしようとする。意地の悪いやつだ。
「私としては、――が小指ぶつければいいのよ。それだけ」
「でもどっちかって言うとどっち?」
なおも――は食い下がってきた。私はふん、と鼻を鳴らして言ってやった。
「思いっきり強くぶつけるわ」
次の日の朝。席にいた私に、――は荷物を机に掛けながら言った。
「おい。あたったよ、あたった。ドアにぶつけちまったよ」
喜々として話しかけられる。本当にあたっちゃったのかと私は内心驚いた。――は私が何か言う前に続けて言った。
「思いっきりぶつけた時、マジ笑ったよ! まじで。ホントに笑えたなあ。ヤバいほど笑った。あんなに笑ったのは二週間ぶりくらいかな」
そう言う――はすっごい笑顔で笑ってた。私は小指をぶつけてそんなに嬉しいものかなと疑問に思った。
「どっちの足だったの?」
私は聞いた。
「右だよ、右。右って祈ったのか?神様仏様に」
「別に。ただ強くぶつかれって祈っただけよ」
それにしても――は嬉しそうにしている。気持ちが悪い。そんなに嬉しいなら毎日指をぶつければいいのにね。
「なんでそんなに嬉しそうなのよ?」
「え? ああ。そりゃあ普通じゃありえないからだよ。確率が低いことが起きると無条件で笑えて仕方ないんだ。言ってもわからんだろうけど」
ふーん、と私は相槌を打つ。本当によくわかんない。
「じゃあ、もっかいやってあげようか?」
私の提案を――はあっさり断った。
「いや、いいよ。一回だけやってくれりゃあ十分。それに二回目は無さそうだし」
「そうね」
私も成功しそうな気がしないし。そして、そういうときはあたらないのだ。あたりそうもないなあとか思っちゃうと祈っても決してあたらない。その時の感情というかノリがないとあたらないってこともなんとなく実感してるし。
「いやー、それにしてもすげえなあ。まじあたっちゃうんだもんなあ」
なんだろう。褒められてるのか、どうなのかだけど、ここまで言われると微妙に恥ずかしくなってきた。
私は話をそらすことにした。
同じ日の昼休み。私はひとしきり友達と話をしちゃって、昼休みも終わりに近いから使っていた席を戻して、自分の席に戻った。なにかのお菓子を食べながら本を読んでいる――に話しかける。
「なに食べてるの?」
何か分かってるけど、とりあえず聞く。
「トッポ」
短い答えが返ってくる。そう、と答え、一拍置いて私は尋ねる。
「一本食べていい?」
うい、と――は本に目を落としたままうなづいた。
私はホイホイとトッポを一本つまんで、ポリポリかじる。かじっていてふと思いつく。
「そういえば、この前すごいおいしいお菓子食べたんだ」
「ふむ」
「明日持ってきてあげようか」
そこで――はやっと顔を上げた。耳がぴくって動いた気すらするけどね。私は魚を釣りあげたような気になった。
「おお、そりゃありがたい」
「じゃあ、持ってきてあげるよ。お楽しみに」
ははー、よしなによしなにー、と――が言う。前と後ろ合ってないから。
学校から自転車で帰っていると、そういえばお菓子の約束があったことを思い出した。少し道を外してコンビニに向かう。あるといいなあ、と思いつつ、こういう時こそ神様仏様だね、と一人で勝手に納得する。そして自転車をこぎながら、祈るのだ。
果たして、コンビニに目当てのお菓子は置いてあった。やった! ラッキーと心の中で手を合わせた。
良い気分でコンビニを出て、軽快に自転車を飛ばして家に帰った。
少しして、我が家が私の目に入ってきた。ふーと息をついていると、家の前に一人女の人がいる。タクシーもある。近くに寄ると近所のおばさんだった。なにかそわそわしている。そして私を見つめているようだ。
私は自転車で近づきながら、少し遠かったけれど声をかけた。
「どうかしましたか?」
おばさんはとても落ち着きがなく、それでいて口から言葉を出すのに戸惑っていた。私はおばさんの近くで自転車にまたがったまま口が開くのを待った。おばさんは躊躇いながら、言いにくそうに言った。
「あのね、――ちゃん。あの、お母さんがね、事故に遭ってね。今病院で、重症らしいって。だから、このタクシーで病院にいきましょう」
はっ!? 頭の中は一瞬でクラッシュしたけど、私は迅速に動いていた。自転車を私の家の敷地の中に停めて、鍵をかけて、タクシーに乗り込んで、病院に行った。
車のなかではなにも考えられなかった。そんな、まさかって考えがくるくる回って、頭が真っ白だった。車の外の景色も、車の中の臭いも、隣のおばさんも、なにもかもが私を刺激しなかった。病院の建物がちらっと視界に入った時、はっとした。ざわざわっとした胸騒ぎが下の方から湧いてきて、病院につくまで私を浮足立たせて、時間を長く感じさせた。病院に近づくにつれて、私は焦り出して、その焦りはどんどん私の中で大きくなっていった。タクシーがどこに停まるの、どこに着けるの!って声にしないで叫んだ。
タクシーが停まって、支払いは後でしますのでとおばさんが断って先に降りて、こっちと、言った。私はおばさんの後について、小走りで外来用の入り口に向かった。おばさんが案内係に場所を聞くと、ナースさんが出てきて速足で道案内をしてくれた。病院の臭いが私の中のざわめきをひどく大きくさせた。
緊急の手術室の隣の部屋に案内されて、そこにはおにいちゃんがいた。三つ並んだベッドの一つの傍のパイプ椅子座っていて、私を見ると立ち上がった。私は駆け寄って、聞いた。
「お母さん、どうなの?」
おにいちゃんは顔を苦くして、
「よくはわからない」
とだけ答えた。
私は治まらず、もう一度聞いた。
「お母さん……どうなのよ」
厳しい顔のお兄ちゃんが私の目をじっと見つめて言った。
「……状態が良くないってことと、危ないって事以外、分からない」
私はふっと脱力したようにこわばってた頬が緩んで、目尻に涙が浮かんだ。息を呑み込めなくなって、体はこわばって動かなくて、私はその場に立ちすくんだ。
しんと静かな部屋の中おもむろに、お兄ちゃんはまた元のパイプ椅子に座り、腿に肘をついて手握り合わせ、額をのせた。おばさんは私の背に手をそっとあてて、おにいちゃんとベットを一つ挟むようにしてもう一つのベッドに私を座らせた。私をベッドに座らせてからおばさんは少し離れた場所で、うつむいていたが、しばらくして部屋を出て行った。
部屋の中はしんと静まり返り、病院の独特の臭いがしていた。私はただ、うつむいて、自分の靴下とローファーの間の辺りを見つめていた。何も考えていなかった。頭の中は真っ白なホワイトボードをずーっとただ見つめているような状態だった。まるで血の流れる音が聞こえてきそうな空虚さの中に私はいた。
ガシャンと大きな音が隣でした。私はビクッと身を縮め込ませた。顔を手術室へのドアに向けて、そこで意識が戻った。いろいろな思考が溢れ出し、不安が頭の中を埋め尽くした。感情が吹き荒れて、私は頬がこわばり、涙が眼に溜まった。
お母さんが死んじゃったらどうしようって、私は手をぎゅっと握り合わせて、お母さんが生きてくれる事を祈った。おかあさんの事だけをただただ、祈った。不安なんて無視して祈り続けた。お願いです、お母さんが無事でありますように。お願いします。お医者さんがんばってください、お母さんを助けてください。お母さん生きてください。神様仏様、どうかお母さんが一命を取り留めるようにしてください。お願いします。どうか、死なないようにしてください。どうか、一命を取り留めるますように。お願いします。生きてください。お母さん、お母さん、お母さん。だれか、神様仏様、助けてください。神様仏様――。
ここでジンクスを思い出した。くだらないって私は一蹴した。しょせんくだらない考えだって、どっかに放り捨てた。でもいくら必死に祈ってもしこりが残って、それが不安をどんどん大きくしていった。しょせんジンクスだって言ったって、一日一回とお母さんの生き死になんて関係ないって。でもそう言い聞かせても言い訳じみていて。なにか私はどうしようもなくなってきて、お母さんの事を祈ろうとしても、なんか上手くできなくて、私は混乱していった。そのうち後悔し出して、どうしてあの時祈ったんだろうって思いだして、でもそんなの下らないって否定もして、ジンクスなんて嘘だって、まやかしだって必死に思いこもうとして、それで祈って。でも、混乱しちゃって。あんなお菓子の約束するんじゃなかったとか後悔までして、そういうのが嫌で嫌で、関係ないのに思っちゃって。でも、どうしようもなくて。それでも祈ろうとして。不安で、不安でたまらなくて、体中がぞわぞわしてきて、重いものを強く強く押しつけられたような気がして、私はくしゃくしゃになっていった。
泣きだしたくなって、頭をくしゃくしゃに掻きむしりたくなって、体中汗ばんで、手なんてべとべとで、もうなにがなんだか全くわからなくて、そんな状態でいて……。その時にお兄ちゃんが私の前でしゃがんで、私の手をそっと両手で包みこんで切ない笑顔を見せてくれて、それで私は全てがすっと引っ込んで、ひっくって一回しゃくって、泣きだした。涙がボロボロ溢れてきて、何度もしゃくりあげて泣いた。それからしばらく泣いて、嗚咽もだいぶ治まってきた時、手術室のドアが開いて――。