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私の幸せを勝手に決めないで!

作者: 唯乃
掲載日:2026/05/02

 知らせは、秋の終わりに届いた。


 羊皮紙の上に記された文字は、どれほど目を凝らしても同じことを告げ続けた。隣国との国境紛争における激戦。騎士団第三隊の壊滅。生存者なし。


 エルゼ・フォン・クラインフェルトは、その紙を両手に持ったまま、どのくらいの時間を過ごしたのだろう。日が傾き、部屋が藍色に染まるまで、彼女はただ座っていた。涙は出尽くしてしまった。


 アルベルト・ヴァイス。婚約者の名前を声に出してみると、舌の上でひどく軽く転がった。こんなにも軽い音のなかに、あの人の全てが収まってしまうのか。日差しのような笑顔も、鍛え上げられた大きな手も、「エルゼ、君は俺の自慢だ」と照れくさそうに言い放った、あの不器用な告白も。


 全部、この薄っぺらな紙切れ一枚に。


 父に書斎に呼ばれたのは、それから三日後のことだった。


 父、フリードリヒ・フォン・クラインフェルト伯爵は、老いてなお威厳のある人物だった。


「エルゼ。お前に話がある」


 いつも冷静沈着な父の声が震えていた。


「ジークハルト・フォン・ブルームベルク公爵から、縁談の申し入れがあった」


 その名前を聞いた瞬間、エルゼは思わず顔を上げた。


 鮮血公。


 ブルームベルク公爵家の当主であり、北方辺境を統べる領主。戦場では敵を一人残らず屠ると言われ、政では冷酷非情の判断を下し続ける男。三十にも満たないのに、すでに「公爵」ではなく「鮮血公」と呼ばれることの方が多い。


 彼に嫁いだ貴族の娘が、一年と経たずに行方不明になったという噂も聞いていた。


「……私に、断る権利はありますか」


「ない」


 父の返答は早かった。早すぎるほど早くて、逆に清々しかった。少なくとも父は、嘘をつくことを選ばなかった。


「王家からの命令だ。ブルームベルク公爵が戦果に対する褒章としてこの婚姻を望んだそうだ」


 エルゼは少し考えた。が、考えたところで、何も変わらなかった。


「わかりました」


 返事をしながら、自分の声が遠く聞こえた。アルベルトが死んで、自分の中の何かも一緒に死んでしまったのかもしれない。だとすれば、残った抜け殻をどこへ差し出そうが、大した違いはなかった。


「すまない」


 父の姿はいつもより小さく見えた。





 結婚式は質素なものだった。


 ブルームベルク公爵邸の礼拝堂に、司祭と最低限の証人だけが集められ、儀式は三十分と経たずに終わった。エルゼは白いドレスを着て、隣に立つ男の横顔を横目で盗み見た。


 背が高い。それが第一印象だった。次に、冷たい、と思った。彫刻のように整った顔立ちをしているのに、そこには何も宿っていないように見えた。


 そして、初夜。ジークハルトはエルゼの寝室の前まで送り届けると、扉の前で立ち止まった。エルゼが振り返ると、彼は彼女を見ていなかった。どこか遠い、別の場所を見ていた。


「言っておくことがある」


 声は低く、感情がない。


「君を抱くつもりはない。この邸では自由に過ごせ。使用人に何か必要なものを言えば、全て用意させる」


「……それは」


「ただし」


 彼は続けた。エルゼの言葉を遮ることへの謝罪も、それを意識していることへの気配もなく。


「私の心に踏み込むな」


 それだけ言うと、彼は踵を返した。廊下の先に消えていく後ろ姿を見ながら、エルゼは小さく息を吐いた。


 嫌われているのだ、と思った。あるいは、哀れまれているのか。どちらにせよ、この結婚が愛情とは無縁の政略であることを、彼は最初から隠す気もなかった。


 それならそれで、構わなかった。


 エルゼは部屋に入り、広すぎる寝台の端に腰を下ろした。窓の外に月が出ていた。アルベルトは月が好きだった。満月の夜には必ず、二人で中庭に出た。


 今夜は欠けた月だった。


 エルゼは横になり、目を閉じた。声が出ないよう、静かに涙をこぼした。





 ブルームベルク公爵邸での生活は、エルゼが覚悟していたよりもずっと穏やかだった。


 拷問も幽閉もなかった。使用人たちは礼儀正しく、誰一人としてエルゼを蔑ろにしなかった。食事は豊かで、書庫には本が溢れており、庭には手入れの行き届いた薔薇が咲いていた。


 ただ、夫がいなかった。


 いや、正確には存在していた。朝食の席に時折現れ、無言で食事をとり、無言で去る。廊下で擦れ違えば小さく頷く。それだけだった。エルゼが話しかけようとすると、彼は必ず短い返事でそれを終わらせた。


 嫌われているにしても、徹底していた。


 だから最初、エルゼは使用人の老婦人ヘルタの言葉を信じられなかった。


「奥様が熱を出された夜のことでございますが」


 秋が深まった頃、体調を崩したエルゼは二日ほど寝込んだ。回復した翌朝、ヘルタがお茶を持ってきながら、ためらいがちに口を開いた。


「旦那様が、夜通し扉の外にいらっしゃいました」


「……え?」


「私が夜中に様子を見に廊下へ出ますと、旦那様が壁に凭れておられて。夜明けまで、ずっとそこに」


 エルゼはしばらく言葉を失った。


「それは……何かの用事があったのでは」


「旦那様のお部屋は、この廊下の先ではございません」


 ヘルタは穏やかに言って、それ以上は何も言わなかった。


 エルゼは一日、そのことを考え続けた。考えれば考えるほど、わからなくなった。


 使用人たちは、皆がジークハルトを敬愛していた。それは最初から気づいていた。恐れているのではなく、慕っている。長く仕えた者ほど、その傾向が強かった。鮮血公と呼ばれる男が、なぜこれほど使用人たちに愛されているのか、エルゼには見当がつかなかった。


 答えの欠片を見つけたのは、初雪が降った日の夕方だった。


 エルゼが廊下を歩いていると、使用人棟の方から子供の泣き声が聞こえた。珍しいと思いながら近づくと、厨房で働く若い女中が赤ん坊を抱いてうずくまっていた。傍らで、ジークハルトが立っていた。


 エルゼは咄嗟に柱の陰に身を潜めた。


 あの冷酷な公爵が、使用人の部屋の前に、なぜ。


「具合が悪いのか」


 ジークハルトの声は、いつもと同じ低い声だった。だが、何かが違った。詰問ではなかった。


「……申し訳ございません、旦那様。子が熱を出してしまって、でも仕事を休むわけには」


「休め」


「でも」


「給金は出る。医者を呼べ」


 それだけ言うと、彼は踵を返した。エルゼの方へ歩いてくる。エルゼは慌てて身を引いたが、間に合わなかった。廊下の角でぱったりと鉢合わせた。


 一瞬、沈黙があった。


 ジークハルトの顔は、いつもと同じだった。無表情で、何も読み取れない。だが、エルゼが見ていたことに気づいているはずだった。


「……盗み聞きは趣味が悪い」


「失礼しました」


 エルゼは素直に謝った。謝りながら、しかし目を逸らさなかった。


 ジークハルトはしばらくエルゼを見た。何かを言いかけて、やめた。そのまま廊下を歩き去った。


 エルゼは彼の背中を見送りながら、胸の中で何かが小さく動く感覚を覚えた。この男は、自分が思っていたものとは違う。その確信だけが、じわりと広がった。





 冬の最初の頃、ジークハルトが馬の世話をしているところをエルゼは見かけた。


 早朝、眠れずに中庭へ出たのがきっかけだった。厩舎の方から物音がして近づくと、彼が一頭の老いた馬の首筋をゆっくりと撫でていた。戦馬ではなく、もう役目を終えたとわかる白髪混じりの栗毛。声はかけなかった。ただ見ていた。


 その手つきが、やたらと穏やかだった。


 気づかれたのは、すぐだった。


「……また盗み見か」


「今度は偶然です」


 言い返すと、ジークハルトはわずかに眉を上げた。反論されるとは思っていなかったらしい。


「この馬は」とエルゼは聞いた。「随分と歳を取っていますね」


「十八だ」


「名前は」


「……ゲルト」


 答えてから、彼はまた馬の方を向いた。話は終わり、という背中だった。だがエルゼは帰らなかった。隣に並んで、同じように馬を眺めた。


 しばらく、二人とも黙っていた。朝の空気が白く、馬の息が湯気になった。


「乗るか」


 唐突にジークハルトが言った。


「え?」


「乗馬はできるだろう」


「……できますが」


「ゲルトは穏やかだ。乗り手を選ばない」


 それは誘いだったのか命令だったのか、エルゼにはわからなかった。ただ、彼が自分から何かを申し出るのは初めてのことで、断る気になれなかった。


 その日から、早朝の厩舎がひそかな習慣になった。


 毎日ではなかった。二日に一度、あるいは三日に一度。ジークハルトがそこにいるときだけ、エルゼも立ち寄った。言葉は少なかった。馬の話、天気の話、それだけ。だが沈黙が、少しずつ柔らかくなった。


 ある朝、エルゼが厩舎に入ると、ジークハルトがゲルトの蹄を丁寧に手入れしていた。その集中した横顔を見ながら、エルゼはふと口を開いた。


「あなたは、どうしてこういうことを自分でするのですか」


「こういうこと?」


「馬の世話。使用人に任せればいいでしょう」


 ジークハルトは手を止めずに答えた。


「任せている。俺がするのは、俺がしたいからだ」


「……それだけですか」


「それだけだ」


 そっけない答えだった。だがエルゼは、それ以上聞けなかった。その「したいからする」という言葉が、何かひどく素直なものに聞こえたから。


 鮮血公という名前からは、およそ想像のつかない素直さだった。


 一方でエルゼは、この穏やかな時間に慣れていく自分を、どこかで怖いとも思っていた。アルベルトへの哀悼が薄れていくような気がして。いや、薄れているのではなく、重なっていくような、正確には言葉にできない変化が、自分の中で起きていた。


 彼となら、新しい時間を積み重ねられるかもしれない。


 そう思いかけたとき、ジークハルトの様子が変わった。


 ある夜、彼の執務室の前を通りかかったエルゼは、扉の隙間から漏れる声を聞いた。内容は聞き取れなかった。だがその声が、珍しく緊張を孕んでいることは感じた。翌朝の厩舎に、彼は来なかった。その翌日も。


 エルゼは何も聞かなかった。





 報告が全邸に知れ渡ったのは、それから数日後のことだった。


 隣国との国境での戦闘が激化し、領地を一部放棄して撤退戦に移行するらしい。


 そして、ジークハルトが「殿軍」を志願したという。


 殿軍とは、退却する自軍を守るために最後尾に残る部隊のことだ。敵の追撃を一身に受け止め、味方が逃げ延びる時間を作る。生還率が最も低い、文字通り「死に場所」を求める者が就く任務だった。


 なぜ、と聞こうとしたとき、ジークハルトはすでに出立の準備を整えていた。


 中庭で、エルゼは彼の前に立った。鎧を纏った彼は、いつにも増して大きく見えた。冷たく、遠く、手の届かないところにいるように見えた。


「……必ず帰ってきてください」


 エルゼは言った。自分でも驚くほど、真っ直ぐに。


 ジークハルトはエルゼを見た。その目が、一瞬だけ揺れた。気のせいかもしれなかった。


 彼は答えなかった。


 馬に乗り、門を出て、彼の姿は冬の道に消えた。エルゼはその背中が見えなくなるまで、中庭に立っていた。胸の中に、名前のつかない感情があった。恐れに似て、しかし恐れよりも切実な、何か。



 封書が届いたのは、それから二日後の朝だった。


 老いた家臣のヴィルヘルムが、ひどく申し訳なさそうな顔をして差し出した。


「旦那様より、奥様へ。出立の際に預かっておりました。旦那様に何かあった時に渡すように言われていたのですが、奥様は知っておいた方が良いかと…」


 言葉を途中で飲んだ。エルゼは封書を受け取った。


「わかりました」


 自室に戻り、窓際の椅子に座って、封書を開いた。筆跡は整っていたが、所々に力が入りすぎた跡があった。




 エルゼへ。


 これを読んでいるということは、俺が無事に帰れなかったということだ。


 俺はアルベルト・ヴァイスの学友であり、戦友であり、そして、唯一の親友だ。


 あいつは死んでいないかもしれない。敵国の辺境で、あいつに似た男が生存しているという目撃談を、先日入手した。確証はない。だが、俺はあいつのことをよく知っている。あいつは、そう簡単に死ぬタマではない。


 縁談を申し込んだのは、あいつとの約束があったからだ。「もしものことがあれば、エルゼを頼む」と。あいつは戦地でもお前のことばかり話していた。照れ屋のくせに、そういうところだけ正直だった。


 もし生きているなら、必ず君の元へ連れ帰る。俺の命に変えてでも。それが君への唯一の誠実だ。


 ……一つだけ、許してほしい。


 君を愛しながら、君を別の男に返そうとする、俺の独りよがりを。


 言わずに済めばよかった。君を混乱させるだけだとわかっている。それでも書かずにはいられなかった。俺はどこまでも、不器用にしかなれない。


 どうか、幸せになってくれ。


     ジークハルト・フォン・ブルームベルク




 エルゼは手紙を最後まで読んだ。


 もう一度読んだ。


 三度目を読もうとしたとき、手が震えていることに気づいた。


 震えは、すぐに怒りに変わった。


 燃えるような、身体の芯から湧き上がる怒りだった。悲しみとも哀愁とも違う、純粋で真っ直ぐな怒りだった。


「どいつもこいつも」


 エルゼは声に出した。誰もいない部屋で、誰に向かうでもなく。


「死ぬ覚悟だの、返すだの、約束だの」


 手紙を持ったまま立ち上がった。椅子が音を立てた。


「勝手なことばかり言って!」


 アルベルトも、そうだった。「君を頼む」と言い残して死んで、ジークハルトに全部押しつけて。ジークハルトは、その「頼む」を律義に守って、今度は死にに行こうとしている。


 二人とも、エルゼを「守るべきもの」としか見ていない。彼女がどう感じているかを、誰も聞いていない。


「私の幸せを」


 エルゼはドレスの裾を掴んだ。分厚いウールの裾は、動き回るには邪魔だった。迷わず引っ張った。縫い目が盛大な音を立てて裂けた。足首まで裂けたところで、彼女は満足して手を放した。


「男同士の約束で、勝手に決めないでちょうだい」


 扉を開けると、廊下に複数の足音が聞こえた。ヴィルヘルムと、女中のヘルタと、護衛の兵士が二名。全員が、奥方の変貌ぶりに言葉を失っていた。


「奥様、どちらへ」


「厩舎」


「な、なりません! 今は戦時で、危険です!」


「危険なのは知っています」


 エルゼは振り返らずに歩きながら言った。声は落ち着いていた。自分でも驚くほど、落ち着いていた。


「だからこそ、行かなければなりません」


「奥様!」


 足音が追ってくる。エルゼは気にせず廊下を抜け、裏口から中庭へ出た。冬の空気が頬を刺した。走った。裂けたドレスの裾が足にまとわりつく。それでも走った。


 厩舎には、ゲルトの隣に若い鹿毛の馬がいた。エルゼは手早く鞍をつけ始めた。慣れた作業ではなかったが、父の邸にいた頃に覚えた。時間はかかっても、できた。


「奥様、おやめください!」


 ヴィルヘルムが厩舎に飛び込んできた。息を切らしている。白髪の老家臣は、明らかに困り果てた顔をしていた。


「お気持ちはわかります。ですが、戦場は」


「ヴィルヘルム」


 エルゼは振り返った。


「あなたは、旦那様を信じていますか」


「……それは」


「私も信じています。だから、行きます」


 老家臣は目を見張った。


「旦那様が生きているならば、私が行かなければ意味がない。旦那様が死にかけているならば、なおさら私が行かなければ意味がない」


 エルゼは鐙に足をかけた。


「選ぶのは私です。アルベルトでも、ジークハルトでもない」


 馬が嘶いた。


「二人とも、勝手に決めすぎです。私は自分の運命を、自分で掴みます」


 手綱を引いた。馬が前に出た。ヴィルヘルムが何か叫んでいる。ヘルタが何か言っている。兵士たちが慌てて道を塞ごうとしている。


 エルゼは気にしなかった。


 厩舎を抜け、中庭を横切り、大門へと駆けた。門番が驚いて飛び退いた。門は半開きだった。それで十分だった。


 馬蹄の音が響いた。冬の街道は、凍った土が固く、馬の足音がよく通った。北へ。北西へ。国境へ向かう道を、エルゼは知っていた。ジークハルトが出立した方向を、彼女はちゃんと見ていた。


 風が顔を叩いた。冷たかった。


 でも、頬が熱かった。


 いつから泣いていたのか、わからなかった。泣き方を忘れたはずなのに、頬に伝わるものは確かに涙だった。怒りの涙か、哀しみの涙か、それとも別の何かか。判別のつかないまま、エルゼは馬を走らせ続けた。


 アルベルト。


 生きているのなら、会いたい。もう一度あなたの声を聞きたい。あなたに、伝えなければならないことがある。


 ジークハルト。


 死ぬな。死ぬな、死ぬな、死ぬな。


 私がまだ何も伝えていないのに、勝手に決着をつけるな。私の気持ちを、私が言葉にする前に、終わりにするな。


 あなたが選んでくれなくていい。あなたが決めてくれなくていい。


 ――選ぶのは、私だ。


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