私の幸せを勝手に決めないで!
知らせは、秋の終わりに届いた。
羊皮紙の上に記された文字は、どれほど目を凝らしても同じことを告げ続けた。隣国との国境紛争における激戦。騎士団第三隊の壊滅。生存者なし。
エルゼ・フォン・クラインフェルトは、その紙を両手に持ったまま、どのくらいの時間を過ごしたのだろう。日が傾き、部屋が藍色に染まるまで、彼女はただ座っていた。涙は出尽くしてしまった。
アルベルト・ヴァイス。婚約者の名前を声に出してみると、舌の上でひどく軽く転がった。こんなにも軽い音のなかに、あの人の全てが収まってしまうのか。日差しのような笑顔も、鍛え上げられた大きな手も、「エルゼ、君は俺の自慢だ」と照れくさそうに言い放った、あの不器用な告白も。
全部、この薄っぺらな紙切れ一枚に。
父に書斎に呼ばれたのは、それから三日後のことだった。
父、フリードリヒ・フォン・クラインフェルト伯爵は、老いてなお威厳のある人物だった。
「エルゼ。お前に話がある」
いつも冷静沈着な父の声が震えていた。
「ジークハルト・フォン・ブルームベルク公爵から、縁談の申し入れがあった」
その名前を聞いた瞬間、エルゼは思わず顔を上げた。
鮮血公。
ブルームベルク公爵家の当主であり、北方辺境を統べる領主。戦場では敵を一人残らず屠ると言われ、政では冷酷非情の判断を下し続ける男。三十にも満たないのに、すでに「公爵」ではなく「鮮血公」と呼ばれることの方が多い。
彼に嫁いだ貴族の娘が、一年と経たずに行方不明になったという噂も聞いていた。
「……私に、断る権利はありますか」
「ない」
父の返答は早かった。早すぎるほど早くて、逆に清々しかった。少なくとも父は、嘘をつくことを選ばなかった。
「王家からの命令だ。ブルームベルク公爵が戦果に対する褒章としてこの婚姻を望んだそうだ」
エルゼは少し考えた。が、考えたところで、何も変わらなかった。
「わかりました」
返事をしながら、自分の声が遠く聞こえた。アルベルトが死んで、自分の中の何かも一緒に死んでしまったのかもしれない。だとすれば、残った抜け殻をどこへ差し出そうが、大した違いはなかった。
「すまない」
父の姿はいつもより小さく見えた。
◇
結婚式は質素なものだった。
ブルームベルク公爵邸の礼拝堂に、司祭と最低限の証人だけが集められ、儀式は三十分と経たずに終わった。エルゼは白いドレスを着て、隣に立つ男の横顔を横目で盗み見た。
背が高い。それが第一印象だった。次に、冷たい、と思った。彫刻のように整った顔立ちをしているのに、そこには何も宿っていないように見えた。
そして、初夜。ジークハルトはエルゼの寝室の前まで送り届けると、扉の前で立ち止まった。エルゼが振り返ると、彼は彼女を見ていなかった。どこか遠い、別の場所を見ていた。
「言っておくことがある」
声は低く、感情がない。
「君を抱くつもりはない。この邸では自由に過ごせ。使用人に何か必要なものを言えば、全て用意させる」
「……それは」
「ただし」
彼は続けた。エルゼの言葉を遮ることへの謝罪も、それを意識していることへの気配もなく。
「私の心に踏み込むな」
それだけ言うと、彼は踵を返した。廊下の先に消えていく後ろ姿を見ながら、エルゼは小さく息を吐いた。
嫌われているのだ、と思った。あるいは、哀れまれているのか。どちらにせよ、この結婚が愛情とは無縁の政略であることを、彼は最初から隠す気もなかった。
それならそれで、構わなかった。
エルゼは部屋に入り、広すぎる寝台の端に腰を下ろした。窓の外に月が出ていた。アルベルトは月が好きだった。満月の夜には必ず、二人で中庭に出た。
今夜は欠けた月だった。
エルゼは横になり、目を閉じた。声が出ないよう、静かに涙をこぼした。
◇
ブルームベルク公爵邸での生活は、エルゼが覚悟していたよりもずっと穏やかだった。
拷問も幽閉もなかった。使用人たちは礼儀正しく、誰一人としてエルゼを蔑ろにしなかった。食事は豊かで、書庫には本が溢れており、庭には手入れの行き届いた薔薇が咲いていた。
ただ、夫がいなかった。
いや、正確には存在していた。朝食の席に時折現れ、無言で食事をとり、無言で去る。廊下で擦れ違えば小さく頷く。それだけだった。エルゼが話しかけようとすると、彼は必ず短い返事でそれを終わらせた。
嫌われているにしても、徹底していた。
だから最初、エルゼは使用人の老婦人ヘルタの言葉を信じられなかった。
「奥様が熱を出された夜のことでございますが」
秋が深まった頃、体調を崩したエルゼは二日ほど寝込んだ。回復した翌朝、ヘルタがお茶を持ってきながら、ためらいがちに口を開いた。
「旦那様が、夜通し扉の外にいらっしゃいました」
「……え?」
「私が夜中に様子を見に廊下へ出ますと、旦那様が壁に凭れておられて。夜明けまで、ずっとそこに」
エルゼはしばらく言葉を失った。
「それは……何かの用事があったのでは」
「旦那様のお部屋は、この廊下の先ではございません」
ヘルタは穏やかに言って、それ以上は何も言わなかった。
エルゼは一日、そのことを考え続けた。考えれば考えるほど、わからなくなった。
使用人たちは、皆がジークハルトを敬愛していた。それは最初から気づいていた。恐れているのではなく、慕っている。長く仕えた者ほど、その傾向が強かった。鮮血公と呼ばれる男が、なぜこれほど使用人たちに愛されているのか、エルゼには見当がつかなかった。
答えの欠片を見つけたのは、初雪が降った日の夕方だった。
エルゼが廊下を歩いていると、使用人棟の方から子供の泣き声が聞こえた。珍しいと思いながら近づくと、厨房で働く若い女中が赤ん坊を抱いてうずくまっていた。傍らで、ジークハルトが立っていた。
エルゼは咄嗟に柱の陰に身を潜めた。
あの冷酷な公爵が、使用人の部屋の前に、なぜ。
「具合が悪いのか」
ジークハルトの声は、いつもと同じ低い声だった。だが、何かが違った。詰問ではなかった。
「……申し訳ございません、旦那様。子が熱を出してしまって、でも仕事を休むわけには」
「休め」
「でも」
「給金は出る。医者を呼べ」
それだけ言うと、彼は踵を返した。エルゼの方へ歩いてくる。エルゼは慌てて身を引いたが、間に合わなかった。廊下の角でぱったりと鉢合わせた。
一瞬、沈黙があった。
ジークハルトの顔は、いつもと同じだった。無表情で、何も読み取れない。だが、エルゼが見ていたことに気づいているはずだった。
「……盗み聞きは趣味が悪い」
「失礼しました」
エルゼは素直に謝った。謝りながら、しかし目を逸らさなかった。
ジークハルトはしばらくエルゼを見た。何かを言いかけて、やめた。そのまま廊下を歩き去った。
エルゼは彼の背中を見送りながら、胸の中で何かが小さく動く感覚を覚えた。この男は、自分が思っていたものとは違う。その確信だけが、じわりと広がった。
◇
冬の最初の頃、ジークハルトが馬の世話をしているところをエルゼは見かけた。
早朝、眠れずに中庭へ出たのがきっかけだった。厩舎の方から物音がして近づくと、彼が一頭の老いた馬の首筋をゆっくりと撫でていた。戦馬ではなく、もう役目を終えたとわかる白髪混じりの栗毛。声はかけなかった。ただ見ていた。
その手つきが、やたらと穏やかだった。
気づかれたのは、すぐだった。
「……また盗み見か」
「今度は偶然です」
言い返すと、ジークハルトはわずかに眉を上げた。反論されるとは思っていなかったらしい。
「この馬は」とエルゼは聞いた。「随分と歳を取っていますね」
「十八だ」
「名前は」
「……ゲルト」
答えてから、彼はまた馬の方を向いた。話は終わり、という背中だった。だがエルゼは帰らなかった。隣に並んで、同じように馬を眺めた。
しばらく、二人とも黙っていた。朝の空気が白く、馬の息が湯気になった。
「乗るか」
唐突にジークハルトが言った。
「え?」
「乗馬はできるだろう」
「……できますが」
「ゲルトは穏やかだ。乗り手を選ばない」
それは誘いだったのか命令だったのか、エルゼにはわからなかった。ただ、彼が自分から何かを申し出るのは初めてのことで、断る気になれなかった。
その日から、早朝の厩舎がひそかな習慣になった。
毎日ではなかった。二日に一度、あるいは三日に一度。ジークハルトがそこにいるときだけ、エルゼも立ち寄った。言葉は少なかった。馬の話、天気の話、それだけ。だが沈黙が、少しずつ柔らかくなった。
ある朝、エルゼが厩舎に入ると、ジークハルトがゲルトの蹄を丁寧に手入れしていた。その集中した横顔を見ながら、エルゼはふと口を開いた。
「あなたは、どうしてこういうことを自分でするのですか」
「こういうこと?」
「馬の世話。使用人に任せればいいでしょう」
ジークハルトは手を止めずに答えた。
「任せている。俺がするのは、俺がしたいからだ」
「……それだけですか」
「それだけだ」
そっけない答えだった。だがエルゼは、それ以上聞けなかった。その「したいからする」という言葉が、何かひどく素直なものに聞こえたから。
鮮血公という名前からは、およそ想像のつかない素直さだった。
一方でエルゼは、この穏やかな時間に慣れていく自分を、どこかで怖いとも思っていた。アルベルトへの哀悼が薄れていくような気がして。いや、薄れているのではなく、重なっていくような、正確には言葉にできない変化が、自分の中で起きていた。
彼となら、新しい時間を積み重ねられるかもしれない。
そう思いかけたとき、ジークハルトの様子が変わった。
ある夜、彼の執務室の前を通りかかったエルゼは、扉の隙間から漏れる声を聞いた。内容は聞き取れなかった。だがその声が、珍しく緊張を孕んでいることは感じた。翌朝の厩舎に、彼は来なかった。その翌日も。
エルゼは何も聞かなかった。
◇
報告が全邸に知れ渡ったのは、それから数日後のことだった。
隣国との国境での戦闘が激化し、領地を一部放棄して撤退戦に移行するらしい。
そして、ジークハルトが「殿軍」を志願したという。
殿軍とは、退却する自軍を守るために最後尾に残る部隊のことだ。敵の追撃を一身に受け止め、味方が逃げ延びる時間を作る。生還率が最も低い、文字通り「死に場所」を求める者が就く任務だった。
なぜ、と聞こうとしたとき、ジークハルトはすでに出立の準備を整えていた。
中庭で、エルゼは彼の前に立った。鎧を纏った彼は、いつにも増して大きく見えた。冷たく、遠く、手の届かないところにいるように見えた。
「……必ず帰ってきてください」
エルゼは言った。自分でも驚くほど、真っ直ぐに。
ジークハルトはエルゼを見た。その目が、一瞬だけ揺れた。気のせいかもしれなかった。
彼は答えなかった。
馬に乗り、門を出て、彼の姿は冬の道に消えた。エルゼはその背中が見えなくなるまで、中庭に立っていた。胸の中に、名前のつかない感情があった。恐れに似て、しかし恐れよりも切実な、何か。
封書が届いたのは、それから二日後の朝だった。
老いた家臣のヴィルヘルムが、ひどく申し訳なさそうな顔をして差し出した。
「旦那様より、奥様へ。出立の際に預かっておりました。旦那様に何かあった時に渡すように言われていたのですが、奥様は知っておいた方が良いかと…」
言葉を途中で飲んだ。エルゼは封書を受け取った。
「わかりました」
自室に戻り、窓際の椅子に座って、封書を開いた。筆跡は整っていたが、所々に力が入りすぎた跡があった。
エルゼへ。
これを読んでいるということは、俺が無事に帰れなかったということだ。
俺はアルベルト・ヴァイスの学友であり、戦友であり、そして、唯一の親友だ。
あいつは死んでいないかもしれない。敵国の辺境で、あいつに似た男が生存しているという目撃談を、先日入手した。確証はない。だが、俺はあいつのことをよく知っている。あいつは、そう簡単に死ぬタマではない。
縁談を申し込んだのは、あいつとの約束があったからだ。「もしものことがあれば、エルゼを頼む」と。あいつは戦地でもお前のことばかり話していた。照れ屋のくせに、そういうところだけ正直だった。
もし生きているなら、必ず君の元へ連れ帰る。俺の命に変えてでも。それが君への唯一の誠実だ。
……一つだけ、許してほしい。
君を愛しながら、君を別の男に返そうとする、俺の独りよがりを。
言わずに済めばよかった。君を混乱させるだけだとわかっている。それでも書かずにはいられなかった。俺はどこまでも、不器用にしかなれない。
どうか、幸せになってくれ。
ジークハルト・フォン・ブルームベルク
エルゼは手紙を最後まで読んだ。
もう一度読んだ。
三度目を読もうとしたとき、手が震えていることに気づいた。
震えは、すぐに怒りに変わった。
燃えるような、身体の芯から湧き上がる怒りだった。悲しみとも哀愁とも違う、純粋で真っ直ぐな怒りだった。
「どいつもこいつも」
エルゼは声に出した。誰もいない部屋で、誰に向かうでもなく。
「死ぬ覚悟だの、返すだの、約束だの」
手紙を持ったまま立ち上がった。椅子が音を立てた。
「勝手なことばかり言って!」
アルベルトも、そうだった。「君を頼む」と言い残して死んで、ジークハルトに全部押しつけて。ジークハルトは、その「頼む」を律義に守って、今度は死にに行こうとしている。
二人とも、エルゼを「守るべきもの」としか見ていない。彼女がどう感じているかを、誰も聞いていない。
「私の幸せを」
エルゼはドレスの裾を掴んだ。分厚いウールの裾は、動き回るには邪魔だった。迷わず引っ張った。縫い目が盛大な音を立てて裂けた。足首まで裂けたところで、彼女は満足して手を放した。
「男同士の約束で、勝手に決めないでちょうだい」
扉を開けると、廊下に複数の足音が聞こえた。ヴィルヘルムと、女中のヘルタと、護衛の兵士が二名。全員が、奥方の変貌ぶりに言葉を失っていた。
「奥様、どちらへ」
「厩舎」
「な、なりません! 今は戦時で、危険です!」
「危険なのは知っています」
エルゼは振り返らずに歩きながら言った。声は落ち着いていた。自分でも驚くほど、落ち着いていた。
「だからこそ、行かなければなりません」
「奥様!」
足音が追ってくる。エルゼは気にせず廊下を抜け、裏口から中庭へ出た。冬の空気が頬を刺した。走った。裂けたドレスの裾が足にまとわりつく。それでも走った。
厩舎には、ゲルトの隣に若い鹿毛の馬がいた。エルゼは手早く鞍をつけ始めた。慣れた作業ではなかったが、父の邸にいた頃に覚えた。時間はかかっても、できた。
「奥様、おやめください!」
ヴィルヘルムが厩舎に飛び込んできた。息を切らしている。白髪の老家臣は、明らかに困り果てた顔をしていた。
「お気持ちはわかります。ですが、戦場は」
「ヴィルヘルム」
エルゼは振り返った。
「あなたは、旦那様を信じていますか」
「……それは」
「私も信じています。だから、行きます」
老家臣は目を見張った。
「旦那様が生きているならば、私が行かなければ意味がない。旦那様が死にかけているならば、なおさら私が行かなければ意味がない」
エルゼは鐙に足をかけた。
「選ぶのは私です。アルベルトでも、ジークハルトでもない」
馬が嘶いた。
「二人とも、勝手に決めすぎです。私は自分の運命を、自分で掴みます」
手綱を引いた。馬が前に出た。ヴィルヘルムが何か叫んでいる。ヘルタが何か言っている。兵士たちが慌てて道を塞ごうとしている。
エルゼは気にしなかった。
厩舎を抜け、中庭を横切り、大門へと駆けた。門番が驚いて飛び退いた。門は半開きだった。それで十分だった。
馬蹄の音が響いた。冬の街道は、凍った土が固く、馬の足音がよく通った。北へ。北西へ。国境へ向かう道を、エルゼは知っていた。ジークハルトが出立した方向を、彼女はちゃんと見ていた。
風が顔を叩いた。冷たかった。
でも、頬が熱かった。
いつから泣いていたのか、わからなかった。泣き方を忘れたはずなのに、頬に伝わるものは確かに涙だった。怒りの涙か、哀しみの涙か、それとも別の何かか。判別のつかないまま、エルゼは馬を走らせ続けた。
アルベルト。
生きているのなら、会いたい。もう一度あなたの声を聞きたい。あなたに、伝えなければならないことがある。
ジークハルト。
死ぬな。死ぬな、死ぬな、死ぬな。
私がまだ何も伝えていないのに、勝手に決着をつけるな。私の気持ちを、私が言葉にする前に、終わりにするな。
あなたが選んでくれなくていい。あなたが決めてくれなくていい。
――選ぶのは、私だ。




