第一話:欠けた翼の再始動
菅野直というパイロットがいた天才的戦術を編み出しB29までも落とした
その彼の最期は行方知れず 遺体も最後の搭乗機も見つかっていない
昭和20年8月1日それは起こった
1945年8月1日。屋久島上空、高度6000。 視界を埋め尽くすのは、暴力的なまでに鮮やかな夏の碧だった。
海と空の境界線が溶け合い、巨大な入道雲がそびえ立つ。 その静謐を切り裂き、一機の戦闘機が喘いでいた。
「……チッ、またかよ」
紫電改の狭いコクピット内、菅野直は吐き捨てるように呟いた。 右翼から耳障りな金属音が響き、機体が激しく震える。20mm機銃の筒内爆発だ。 操縦桿を通じて伝わる手応えが、みるみるうちに死んでいく。
風防の向こうでは、銀翼を光らせるP-51ムスタングの群れが、獲物を見つけた猛禽のように旋回していた。
いつもなら、無線から耳にタコができるほど聞こえてくるはずの、あの野太い声がない。 ――杉田庄一は、もういない。
四ヶ月前、自分を逃がすために盾となって散った。最強の二番機を失ったあの日から、菅野の空には、埋めようのない穴が開いたままだった。
(……庄一。見てろよ、俺はまだ墜ちちゃいねえぞ)
血の混じった唾を計器盤に吐きかける。オイルの焼ける臭い。エンジンの断末魔。 だがその表情は、死を覚悟した「英雄」のそれではない。 自分を置いて逝った戦友への、そして自分を墜とそうとする運命への、剥き出しの叛逆だった。
「こんなところで……終わってたまるかッ!!」
叫びは爆音にかき消された。 突如、視界が真っ白な閃光に包まれる。機体がバラバラに解体される衝撃。 だが、菅野の意識は「未帰還」を断固として拒絶していた。
闇の底で、懐かしい声が響く。 かつて自分に翼を与え、最後まで戦い抜けと命じ続けた男――源田司令の声だ。
『――菅野、まだ降りるな。お前には、まだ墜とすべき「時代」がある』
「……う、あ……」
頬を撫でる湿った風。 鼻を突くのはガソリンの臭いではなく、濃い土と草の匂いだった。 遠くで蜩の鳴き声が聞こえる。
(……生きてる、のか?)
重い瞼を押し上げる。 視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど澄んだ空。そして、自分を見下ろす数人の男たちだった。
「目が覚めたか、牛若丸殿」
(……ウシワカマル?)
場違いな名前に思考が止まる。 男たちは奇妙な格好をしていた。直垂のような古臭い服に、腰には日本刀。 撮影所か何かか、と身を起こそうとして――菅野は、自分の「手」を見て凍り付いた。
白く、細く、あまりにも小さい。 二十五年の人生で作り上げた、操縦桿を握るための無骨な手ではない。 それは、まだ戦いを知らない子供の手だった。
「何だ、この身体は……」
声まで高い。 混乱する菅野の前に、一人の大男が歩み寄ってきた。 剃髪し、法衣に身を包んだ巨漢。その背には、およそ人間業とは思えない数の武器を背負っている。
「牛若様、鞍馬での修行も今日が最後。……覚悟はよろしいか?」
男が抜き放った太刀が、陽光を浴びて冷たく光る。 殺気。それも、戦場で嗅ぎ慣れた、本物の「殺し合い」の匂いだ。
菅野――いや、稚児の姿となった彼は、ふっと口角を上げた。 状況は理解できない。だが、売られた喧嘩を買わないほど、彼は物分かりの良い男ではなかった。
「……修行だか何だか知らねえが」
菅野は立ち上がり、借り物の小さな身体で、大男を真っ向から睨み据えた。 その瞳に宿るのは、数多の死線を越えてきた撃墜王の闘志。
「俺の前に立つな。……叩き落とすぞ」
黄金色の夕刻。 伝説の壊し屋が、中世の闇を切り裂くための翼を拡げる




