第8話 記憶
ことが起きたのは、葵が5歳になったばかりの夏。
その日は記録的な暑さで昼間に行くのを諦め、夕方母親と公園で遊んだ帰り道だった。
「もっと遊びたかったなぁ」
手を繋ぐ母親を見上げ、葵が名残惜しそうに公園を振り返る。
「もう日が暮れるからまた明日ね?今日はハンバーグにしようか」
と優しく微笑む葵の母。
手を繋いだ2人の影が歩道に長く伸びている。
「やったー!ハンバーグだぁ!」
と飛び上がって喜ぶ葵。その目の前を、黒い野良猫が駆けていった。
「あ!猫さん!待ってー!」
と母の手を離れ、猫を追って走り出した葵を母親が慌てて追いかける。
すぐ目の前の曲がり角に消えた猫の後を追いかけて葵も角を曲がった。
「あれ?」
角を曲がった途端、あたりが急に暗くなり静けさが増す。
不安になった葵が振り返り母親の姿を探すが、
「ママ……?どこ?」
母親の姿はどこにもなかった。そればかりか今まであったはずの曲がり角も、十字路もない。後ろに続くのは暗く濁った闇。
「ママぁ……」
子供ながらにどこか恐ろしい場所に来てしまったと理解した葵は、その場に座り込み泣き出してしまった。
葵の泣き声だけが響く音のない世界で、葵を呼ぶ声が聞こえた。
――こっちへおいで
まるで泣いている葵の耳元で聞こえたかと思うほどはっきりした声だった。
「だぁれ?」
と涙を拭いて声の主に問いかける。
――こっちへおいで
葵の問いには答えず、また声が聞こえる。
心細さに負けそうになっていた葵は、その声のもとへと歩き始めた。
しばらく歩いていると、町のようなものが見えてきた。
「やった!お家に帰れる!」
と走り出した葵だったが、すぐに自分の知っている街ではないと知ることとなる。
町の住人たちは、人とは思えぬ姿をしていた。
あるものはツノを生やし、あるものは人の体に鳥のような頭を乗せていた。
――うわぁ……すごい
不思議と葵は恐怖を感じることはなく、町へと一直線に走り出した。
町の中に入ると、賑やかな笑い声で溢れていた。
木札に書かれた両替所の文字、店の中には猫のような見た目をした店主が金を数えている。
少し先の団子屋では角を生やした着物姿の女が忙しそうに働いていた。
葵は楽しい気持ちになり、いつのまにか町の中を探索するのに夢中になっていた。
それからどれだけの時間が過ぎただろうか。気がつくと、葵は突然元の世界へと戻された。
白く冷たい指に頬を触れられた記憶だけを微かに残して。
*
「……私が戻ると父も母も泣いて喜びました。私にとっての数日は、元の世界の1ヶ月だったんです」
遠い日を懐かしむような、それでいて嫌な記憶に蓋をするような曖昧な表情を浮かべ、葵は遠くに視線を逸らす。
「なるほど、あちらとこちらでは時の流れが違いますから、それも頷けますね」
と九条が頷く。
「で、あんたはどこに行ってたって説明したんだ?」
禅にそう問いかけられ、葵は黙り込んでしまった。
――あなたはきっと混乱してるのよ。忘れなさい。
あの日の母親の言葉が耳元で聞こえる。
記憶を振り払うように首を左右に振ると、言葉を選ぶようにゆっくりと話し出した。
「……最初は不思議な世界に迷い込んだと説明したんですが、誰も信じてくれませんでした。子供の私には大人たちの戸惑い、疑うあの視線が耐えられるわけもなく、覚えていないことにしたんです」
俯きながら答えた葵の声は震えている。
「なるほどな、あんたのルーツがわかった気がするよ」
禅は柔らかな口調で呟き、葵の肩に肘を置いて言葉を続けた。
「あんたはこっち側だ。もう信じるかどうかの話じゃねぇ、みんな同じだ」
「ええ、あなたは私たちと同じ側です。改めてお伝えしますが、一緒に働いてもらえませんか?」
禅の熱い言葉と九条の優しくも淡々とした語りに葵はどこか安心していた。
――ここにいれば特別じゃない。みんな同じ
「……はい、よろしくお願いします」
そう言って深々と頭を下げた。
「よし!バイトこれから頑張れよ!」
禅はそう言うと葵の頭をクシャッと撫でて部屋から出て行った。
――台風みたいな人……でも太陽みたいな暖かさもある……不思議
禅の後ろ姿を目で追いながら、葵はそんなことを考えていた。
「では、一ノ瀬さんには来週から弊社で働いていただきます。アルバイトではありますが、正社員になるチャンスも十分あります。詳しい話はまた今度。こちらをお渡ししますので、記入いただき来週お持ちください」
――明日会社に辞めるって連絡しないと
と張り付いた笑顔の上司だった男の顔を思い浮かべ、スカッとした気持ちになった。
「くれぐれも無理はなさらず。困ったことがあれば遠慮なく言ってください」
と九条に雇用契約書を渡され、そのまま解散となった。
帰り際、何かあったらすぐに呼ぶようにと禅に念押しをされ、慌ただしかった一日はあっという間に終わりを迎えた。




