悪平等なランキング【小説家になろう公平性問題】
今エッセイ界隈で話題の小説化になろうの公平性に関して「悪平等」という言葉を用いて自論を述べたいと思います。
別に使わなくても説明できますが、10年以上前に某漫画で知ってから今まで一度も使ったことがない言葉なので、使える時に使っておこうの精神でがんがん活用していきたいと思います。
あまり馴染みがない言葉だと思うので、言葉の説明から入りたいと思います。
「悪平等」とは、一人ひとりの個性や能力、努力などを考慮せず、表面上だけを同じように平等に扱うことで、かえって不公平な結果を生み出すことを指します。(Google AIより引用)
学校教育において、徒競走に全員同時にゴールするなどが、典型例として挙がられる言葉で、大本のエッセイの求める結果の公平性はこうした種類の悪平等にあたるといえます。
反論エッセイではそうした公平の定義の点を指摘し、機会の公平性は担保されていると反論しています。
大本のエッセイの求める公平性がおかしいという反論のエッセイの主張には同意できます。
作品どうしを比較して順位付けをするという機能を持つランキングや評価システムに対して、全員同時のゴールを目指すような結果の公平性を求めるのはナンセンスであり、ランキングシステムを機能不全にしろと言っているのに等しい暴論(というか論外)だと思うからです。
私が反論エッセイに関して反論したい部分は機会の公平性が担保されているという点です。
全ての作品を同じように取り扱うことが、機会の公平性を担保するわけではありまん。
考慮しなければならない個性や特性を無視している場合、平等に取り扱うことが機会の公平性を奪うような悪平等となる場合があるからです、
徒競走の例でいうなれば、学年分けをせず、1年生から6年生までごちゃまぜにして速さを競うという状態であれば、悪平等といえます。
走る距離が全然ちがう人どうしをタイムだけみて順位をつけるという場合もまた悪平等といえます。
こういった状況は、競争はしていても、機会は公平とは言えません。
上級生や短距離を走る人がより上位になる機会が与えられていて、結果も公平とは言い難いものになっています。
このように本来は別階級や別種目として区別すべきものを区別せず、画一的に取り扱うことは悪平等となります。
現在のなろうのランキングポイントシステムにはこうした種類の悪平等が存在します。
作品の文字数による階級分けをせず、一律に判断している点です。
小説家になろうにおいては1作品1人12ptまでしかランキングポイントの投票を認めていません。
1万字の短編を読もうとも、100万字の大長編を読もうとも等しく12ptまでしか投票はできません。読者が投票するのに必要な時間が全然違うはずなのにもです。
なろうにおける読書量が100万字の読者を比較した場合、100万字の長編を1作品読んだ読者は12ptしか入れられないのに対し、1万字の短編を100作品読んだ読者は1200ptも入れることができるため、ランキング投票においては短編読者が投票権を多く持ち、発言力が強くなります。
現在のランキングは文字数による階級分けを実施していないため、投票権をたくさん持つ短編読者の意見が強く反映され、短い作品が上位になりやすい状況にあります。
こうした状況から、現在のなろうランキングを独占するテンプレ作品は2つの要素から決められていると言えます。
支持する読者の多さと文字数の短さです。
この両者のバランスが最も優れたものが最も投票数が多くなり、テンプレ作品としてランキング独占を達成できます。
なかなか実感しにくいかとは思いますが、なろうのポイントシステムの仕様上、作品の文字数による投票コストというものは確かに存在します。
そうした文字数による投票コストを無視して画一的に取り扱っている以上、なろうのランキングは悪平等なものであると思います。
物事をどういった基準で公平か不公平と判断するのかは難しい問題です。
今回の件にしても、誰しもが環境トップの異世界恋愛を書いたり、読んだりする権利を有するから公平だということもできます。
しかし、人気投票であるはずのランキングに、作品の文字数という余計なものが影響してしまう現在のなろうの状況が本当に良いものなのかについては疑問を感じずにはいられません。
本エッセイを最後まで読んでいただきありがとうございました。




