第七話 あなたに笑ってほしいなんて、思うなんて
春の陽射しが柔らかくなり、学園の花壇では小さなつぼみが次々と芽を開いていた。
入学から半年余り。王子を巻き込んだ騒動以降、クラスの空気はずいぶんと落ち着いていた。
「この頃は平和よねえ、クラスの中は」
「でもね、外は結構ざわついてるみたいよ。上級生が揉めてたって話、また聞いたわ」
「例のヒロイン風の令嬢を巡って、また貴族間で揉めてるとか……」
昼休みに交わされる友人たちの話に、私はただ小さく微笑んで相槌を打つだけだった。
何かと騒がしい学園内で、私はずっと、“静かな日々”を選び続けてきた。
けれど、心の中はずっと、ざわついたままだった。
——団長に、嫌われたかもしれない。
あの氷の矢の件。咄嗟に庇ってくれたあの腕のぬくもりと、その直後の叱責の言葉。
頭では叱られて当然だと理解していても、気持ちは追いつかず、私はそれ以来ずっと落ち込んでいた。
魔法の訓練には真面目に取り組んだ。だが、体は正直だったのだろう。食が細くなり、睡眠も浅くなった。
鏡を見れば、自分でも分かる。もともと“儚げ”と言われていた顔が、より一層、色を失っていた。
そのことに気づいたのは、副団長だった。
*
「閣下。クラリス嬢、最近痩せています」
ロイド・グレイヴ副団長は、端的に報告した。
「魔力量も安定はしていますが、本人の集中がやや落ちています。理由は……言わずとも、お察しかと」
団長——イザーク・ローヴェンハーツは、その言葉に一瞬だけ視線を逸らした。
彼の脳裏には、あの日のクラリスの涙と、あの小さな声が焼き付いていた。
「……またお会いできて……とても、嬉しくて……」
心のどこかで、線を引いていたつもりだった。
三十年以上も年が離れた、ただの訓練対象の少女。魔法師団にとって貴重な全属性保持者。
それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
だから——自分でも、理由がわからなかった。
なぜ、今すぐにでも、彼女の顔を見に行きたいと思ってしまったのか。
*
再会は、学園の管理棟に設けられた面談室で行われた。
午後の陽が差し込む中、クラリスは静かに扉を開けて現れた。
そして、イザークは言葉を失った。
以前から薄い色合いの美貌だったが、その輪郭はさらに細く、肌は透けるほどに白い。
うつむき加減の姿勢が、一層儚さを増していた。
「……クラリス・フォン・エルバーデ嬢」
「……はい」
その声さえも、どこか力が抜けていた。だが、団長と目が合った次の瞬間——
彼女の目に、ふっと光が戻ったのを、イザークは見逃さなかった。
「……あの、私……あのとき、団長に叱られて……その、嫌われたと思って……」
言いかけて、言葉が詰まる。けれど、イザークは彼女の言葉を遮らなかった。
静かに、真っ直ぐに視線を向けたまま、ただ静かに彼女の声を待っていた。
「でも……今、こうして……またお会いできて……本当に、嬉しいです……」
そう言って、クラリスはふわりと笑った。
まるで蕾が花開くような笑顔が、イザークの胸に刺さった。
“ああ、私はこの子に、笑っていてほしいと思っている”
そんな感情を、自分が抱いていることに、今さらながら気づいた。
妻と婚約していた頃にも、結婚生活の中でも、子が生まれた瞬間にも、
心がこうして騒いだことなどなかった。
離婚したときでさえ、自分の中には何も残らなかった。
けれど今、目の前の少女の微笑みひとつで、
こんなにも胸の奥が揺さぶられていることに、静かに、驚いていた。
彼女はまだ十代。
自分は……人生の半ばをとうに過ぎた、魔法師団の長。
「……どうして、こんな気持ちになるんだ……」
それは、口には出さなかった。
ただ、心の内で呟かれた静かな疑問だけが、彼の胸に残された。