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第五十二話 命を抱く、その日まで

このお話は、クラリスが命を懸けて新たな命を迎えるまでの、愛と決意に満ちた一篇です。


夜会から一年――激務のなかで迎えた妊娠、そして彼女を取り巻く家族や夫たちの葛藤と祈り。

どれほど強く見える者でも、命の境界に立たされたとき、支えとなるのは“想い”の積み重ねなのだと気づかされるお話です。


――母となるということ、そして“家族”というかけがえのない絆を。


※本話はやや長文となっております。静かな時間に、じっくりと読み進めていただけたら幸いです。

季節が一巡し、夜会の喧騒からすでに一年が過ぎていた。


日々の政務に追われながらも、クラリスの歩みは止まることがなかった。王城の宰相補佐官として、諸侯や文官たちと渡り合い、外交の調整や医療体制の整備、教育制度の見直しなど、多岐にわたる案件を次々とこなしていた。


だが――その日は、突然訪れた。


午前の執務中、報告書に目を通していたクラリスの視界が、ふいにぐらりと揺れた。手元の紙が波のようにたゆたうのを見た瞬間、自分の体が椅子から滑り落ちるのがわかった。

宰相室に控えていた文官たちが駆け寄り、すぐに王城の医師が呼ばれた。


「クラリス様、少しの間、動かないでください……」


呼びかける声がやけに遠く、頭は鉛のように重い。ぼんやりとした意識の中で、クラリスは「ああ、やっぱり……」と、どこかで覚悟していたような、静かな確信を抱いていた。


診察に当たった王城付きの医師は、すぐさま魔力探査を行い、しばらく沈黙の後、告げた。


「……ご懐妊です。しかも、お腹の中に感じる魔力は、ふたつございます。双子でしょう」


その場にいた者たちの表情が一斉に強張った。


双子――それはこの国ではごく稀なこと。特に高い魔力を有する者同士の間に生まれる子となれば、母体への負担も尋常ではない。

ましてや、ライナルトの妻だった女性が、次男の出産直後に体調を崩して命を落としたことを知る者にとって、その知らせは手放しで喜べるものではなかった。


イザークは、医師の言葉を聞いた瞬間、眼鏡越しに鋭く何かを睨むような表情をしたかと思えば、すぐに無言でクラリスの手を取り、額に押し当てた。

ライナルトは、ただ拳を固く握りしめたまま何も言わなかったが、その沈黙がかえって痛々しいほどに、深い不安を物語っていた。


だが――当の本人はというと。


「大丈夫ですて。ちゃんと管理して、身体の声を聞いていれば、きっと問題ありません」


そう微笑んだクラリスの目には、不思議と曇りがなかった。

前世で培った医学的知識と、妊娠出産に関する豊富な知見が、彼女を不安から遠ざけていたのだ。


それでも、彼女を取り巻く家族や夫たちは、過保護と言っても差し支えないほどの注意を払い始めた。

マリアは一日何度も栄養のある食事を運び、レオナルドは政務の負担を減らすように働きかけ、アデルに至っては「動くな」と真顔で言い放ったほどである。


だが、クラリスはどれも柔らかく受け止めながらも、決して“止まる”ことはしなかった。

お腹が目立ち始めた頃には執務室の椅子が特別仕様の柔らかいものになっていたが、彼女は資料を抱えて各部署をまわり、医療制度の整備案に奔走していた。


そして――それは、まるで物語のような偶然でやってきた。


その日も、いつものように文官たちと案件を整理していたクラリスが、ふと腹部に波のような痛みを感じ、手を止めた。


「……あ、これ……もしかして……来たかも…」


その声が届くより早く、クラリスの身体がぐらりと傾ぎ、書類が散らばった。

最初に駆け寄ったのは宰相マークレンである。


普段、何が起きても顔色ひとつ変えない実務の鬼とも言える男が、このときばかりは声を上ずらせた。


「衛生官を呼べ!……いや、それよりも、すぐに出産用の部屋を――いや、なぜ補佐官室で産気づくのだ!!」


大混乱の中、クラリスは苦笑を浮かべながら運ばれた。

本来なら、王城内の別館にあるクラリスの私室に戻るはずだった。だが、そんな余裕はどこにもなかった。


そのまま王城内の医療室に直行した。


――

クラリスが医療室に運ばれると、すぐに産科医師団が対応にあたり、その報せは、王城中に瞬く間に広がった。

出産の報を受けて真っ先に駆けつけたのは、イザークとライナルトだった。


「……出産が、今だと?」


医療室の扉の前で、イザークは額に手を当て、低く呟いた。理知的な彼にしては珍しく、額には汗が滲み、眼鏡を拭く手が止まらなかった。


ライナルトはといえば、廊下を何度も往復し、折り返すたびに医師の詰所を睨むように見やっては、また無言で歩く。


「無事、だろうか……あいつが、痛みに顔を歪める姿なんて……耐えられない」


呟いた声は誰にも聞こえないほどに小さかったが、その拳は震えていた。


やがて、エルバーデ伯爵家の家族たちも駆けつけた。

アデルは妹の状況に表情を強張らせ、マリアは黙ってハンカチを胸元で握りしめていた。

レオナルドは表面上は冷静を装っていたものの、やはり口数は少なく、宰相から経過を聞き出そうとしては落ち着かない様子だった。

レティシア夫人はすでに目を潤ませながらも、静かに祈るように両手を組んで、ただ扉を見つめていた。


そして、その背後に立つ一人の男――クラリスの父、カミロ・エルバーデは、家族の誰よりも静かだった。

だが、その沈黙の内側にある想いは、誰よりも深かった。


「まさか……娘が命を賭ける日が、こんなにも早く訪れるとはな……」


カミロはそう呟きながら、眼鏡の奥の瞳に小さく震えを宿していた。

普段は冷静沈着な文官として知られる彼が、今はただ一人の“父親”として、祈ることしかできなかった。


娘の決断を誰よりも尊重してきた自負がある。だが、その信頼が、今この瞬間の不安を消してくれるわけではなかった。


傍にいたレティシアが夫の手をそっと握る。

言葉はなかった。ただ、娘を信じて待つ――それだけが、二人にできるすべてだった。


医療室の中から、時折聞こえるクラリスのうめき声。

それを聞くたびに、廊下にいる全員の呼吸が止まるようだった。


時が経つほどに、その場にいる誰もが無言になり、ただ神に、魔に、命に――すべてに祈るしかできなかった。


夜が明けるころ、ようやく産声が響いた。


第一声を上げたのは、力強く泣いた男の子だった。少し眉根を寄せたような、どこか見覚えのある硬派な顔立ちに、誰もがライナルトを思い浮かべた。


そのあとに、小さく、けれど凛とした声で泣いた女の子が生まれた。知性を感じさせる面差しは、まさにイザークの面影を写したようだった。


ふたりは、まぎれもなく――彼らの子だった。


そして、医師が産声の報せとともに扉を開け、沈んだ表情をようやく和らげて告げた。


「母子ともに、無事です」


その言葉を聞いた瞬間、それまで沈黙していた全員が、文字通り息を吐いた。


「クラリス……!」


レティシアが小さく叫び、マリアはその場にしゃがみ込んで涙をこぼした。


イザークは目元を覆って肩を震わせ、ライナルトは扉に手を置いたまま、その場で動けなくなっていた。


「……入っても、いいのか」


「中へどうぞ」


医師の声に、家族たちは一斉に扉の向こうへと駆け寄った。


…医師の「母子ともに無事です」の声が響いたとき、沈黙していたカミロは、わずかに目を伏せ、胸に手を当ててそっと息をついた。


「……ありがとう……本当に、ありがとう……クラリス……」


その声は誰にも届かないほどに静かだったが、そこには、抑えきれぬ安堵と父親としての深い愛が滲んでいた。


扉が開き、皆が中に入る。

カミロは最後まで一歩を踏み出さず、家族が先に娘のもとへ駆け寄るのを見届けたあと、静かに部屋へ入った。


横たわるクラリスのそばに立ち、眠るようにぐったりとしたその顔を見つめる。

そして、ふたつの小さな命――自分の孫たちの姿を前に、彼はしばらく何も言えなかった。


やがて、カミロはそっとクラリスの手に触れ、小さく微笑んだ。


「よくやったな……私の誇りだよ、クラリス」


それは、ひとりの父が娘に贈る、何よりも静かで、強い讃辞だった。


そこには、蒼白な顔で横たわるクラリスと、小さく丸まったふたつの命。

兄のアデルが最初に声をあげた。


「よく……生きて、戻ってきてくれたな……クラリス……!」


それを皮切りに、皆の堪えていたものが溢れ出し、静かな嗚咽が部屋を満たした。

ライナルトは無言のまま跪き、クラリスの手を握って目を閉じ、イザークは揺れる手で我が子の頬にそっと触れた。


「ありがとう……生まれてきてくれて……」


クラリスはその様子を、うっすらと開いた瞼の奥で見ていた。だが、体は動かない。出し尽くした力の余韻の中で、ただ、胸に残る命の重みと、皆の温もりを感じていた。


「……おかえりなさい、クラリス様」


マリアの涙交じりの声が、耳元でそっと囁かれた。


「……名前を、どうする?」


産後、疲れの色を隠せないながらも穏やかな顔を向けたクラリスに、イザークは短く答えた。


「男の子には、僕が名をつける。“エリアス”と」


そして、沈黙を続けていたライナルトが、そっと娘の小さな手を握りながら言った。


「なら、俺が……。この子の名は“レア”。優しさと強さを持つ子に」


クラリスは目を細め、微笑んだ。


ふたりの大切な人から、それぞれ贈られた名を抱いて――生まれてきた命は、静かにこの世界を歩み始めた。

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