第四十九話 光の手、癒しの響き
外交使節団の一行が王都を去ったのは数日前のこと。華やかな饗応の余韻を残しつつ、王宮はいつもの静けさを取り戻しつつあった。
だが、クラリスにとっては、ようやく落ち着いて本来の業務に集中できる環境が整った、というだけのこと。朝はまだ薄暗いうちに目を覚まし、侍女マリアの入れてくれた薬草茶で喉を潤すと、真っ先に向かうのは執務室だった。
午前中は、宰相マークレンの補佐官として、書類の確認と精査に追われる。内容は税制の調整案、地方都市の医療魔法士派遣計画、さらには軍部からの治癒魔導書改訂の要請まで、実に多岐にわたる。
「治癒魔法の効果範囲の定義が曖昧すぎます。これでは現場が混乱します」
と、時に文官たちに静かな口調で指摘を入れながら、過不足なく、しかも感情を挟まずに処理を進めていく姿は、伯爵令嬢というより、王国に仕える一人の“才女”そのものであった。
正午の鐘が鳴る頃、ようやく筆を置いたクラリスは、薄金の髪を一つにまとめ直し、白衣を羽織って医療講義室へと向かう。午後からは彼女のもうひとつの顔――“治癒の教師”としての務めが始まるのだ。
講義室には、魔法師見習いや騎士団の若手、さらに文官出身の治癒士志望者まで、多種多様な生徒たちが並んでいた。
クラリスはいつものように壇上へ立ち、瞳をゆるやかに巡らせてから、静かに口を開いた。
「今日は、傷ついた部位の“観察”と“再現”についてお話しします」
彼女が指し示したのは、魔導石に投影された人体の簡易模型。その表面には、浅い切り傷から深い損傷まで、さまざまな怪我の例が映し出されている。
「完全な治癒には、“どのように元に戻るか”を、正しく“思い描く”必要があります。ただ魔力を流すだけでは、組織の表面を塞ぐことはできても、内部の結合が不完全なままになり、再発や痺れの原因になります」
講義は理論だけにとどまらなかった。
クラリスは、自身の手で実際に“傷”を再現した小型の幻影を見せ、その筋繊維が結び直され、血管が通り、皮膚が滑らかに整っていく過程を、ひとつひとつ丁寧に説明した。
「目で見て、心に焼きつけてください。そして、あなたの魔力で、同じ道筋をたどるのです」
傷の“スキャン”――つまり、損傷部分の状態を視覚的・魔力的に把握する技術は、いまやクラリスだけが扱える高度な手法となっていた。それを少しでも多くの後進に伝えるべく、彼女は講義を実習形式へと切り替える。
実際に数名の聴講者が前に出て、小さな幻影を再生し、イメージに従って治癒魔法を試みる。
中には筋繊維の再構築が途中で途切れたり、魔力の流れが皮膚表面に滞る者もいたが、それぞれの癖や詰まりを見極めて、クラリスは的確にアドバイスを飛ばしていった。
「魔力が強すぎると、組織が拒絶反応を起こす場合もあります。柔らかく、静かに流して。あなたの手が、患部に触れていると思って」
また、クラリスの呼びかけで、騎士団からは軽傷を負った実習協力者が参加してくれた。怪我の実例を用いることで、治癒魔法の実用性と難しさを直に体感できるようにするためだった。
さらには魔法師団の研究員たちも講義に協力し、魔力の流れに無駄がないか、反応に異常がないかを、精密に測定して報告してくれる。
こうして、魔術・医学・実戦の三つの視点から成る“実践型治癒講義”は、王国内でも唯一無二の内容となりつつあった。クラリスは自身の知識と技術を惜しみなく共有しながらも、どこか淡々とした態度を崩さなかった。
ただ、講義の終わりにふと見せる、目を細めた微笑だけが、彼女の“本心”を滲ませていた。
「誰かの痛みを、あなたの手で軽くできるように――。その力を、あなた自身で信じてください」
夕暮れどき、日中預けているポンちゃんの元へ向かう。途中、クラリスは立ち止まり、魔法師団の塔を見上げた。
そこには、今日も彼女をそっと見守っていた――銀髪の、あの人の気配があったかもしれない。
けれど彼女は何も言わず、小さく呼吸を整えて歩き出す。
人知れず積み重ねるその努力が、いつか、誰かを守る力になると信じて。




