第四十八話 静けさの中に息づくもの
外交使節団が去った翌日――
王城の空気は、何かがふっと抜けたように穏やかだった。
それはちょうど、張りつめた弦の音が静かに収まった直後のような、どこか空虚で、けれど柔らかく安堵を孕んだ空気。
クラリスは、久しぶりに王城の別館にある政務室の窓を開けていた。
春の風が静かにカーテンを揺らし、遠くで庭師が剪定する音が響く。
無理に背を張る必要も、言葉を選びすぎる必要もない朝。
書類は相変わらず山積みだったが、今日は少しだけ、余白があるように思えた。
「……誰かがいなくなるって、こんなにも静かになるのね」
思わず、ぽつりと呟く。
その声に応えるように、机の上に伏せていたホワイトグリフォンのポンちゃんが、ひとつ小さくくちばしを鳴らした。クラリスと少しでも一緒にいたいため、自分で身体を自由に大きさを変えれる様になっていた。
「あなたも、お疲れさま。よく守ってくれたわね。……ご褒美は、あとでキッチンにお願いしてくるからね」
ポンちゃんは満足そうに羽を膨らませ、またうとうとと目を閉じた。
ここ数週間、クラリスは常に神経を尖らせていた。
歩くたび、視線を感じ、言葉の裏を読み続け、笑いながら盾になる日々だった。
それがようやく終わったのだ。
いや、“終わったように見える”というべきだろうか。
本当の意味で終わるものなど、外交の世界にはない。
ただ、ひとつの節が過ぎたにすぎない――それは、彼女自身がいちばんよく分かっていた。
それでも、朝の光がこれほど優しく差し込む日があるのなら、少しの休息を与えても、誰にも咎められはしないだろう。
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昼下がり、執務を終えて控室へ戻ると、そこにはイザークが待っていた。
いつもの黒縁眼鏡に、わずかに崩した装い。普段より少し柔らかい表情で、手に何かを持っていた。
「……書き上げた。少し早いが、君への報告だ」
差し出されたのは、一冊の記録帳だった。
外交期間中、彼がこつこつとまとめていた“クラリスの行動記録”――
詳細な動き、判断、言葉の選び方、さらには外交官たちの反応までが、まるで軍報のように整然と綴られている。
「まさか……わたしの観察日記?」
「記録だ。“君の価値”を、国として明確に記す必要があった。……だが、個人的な感情が混じってしまった部分は、あらかじめ伏せてある」
クラリスは思わず笑った。
「ふふ……ありがとう。でも、たぶんそこがいちばん気になるところよ」
そこへ、扉がノックされ、次に入ってきたのはライナルトだった。
軍務を終えたらしく、鎧を脱いだシャツ姿で、腕まくりのまま水差しを持っていた。
「書き物は喉が渇くだろう。差し入れだ」
「ふたりして……今日は、やけに優しいのね」
「優しくもなるさ。ようやく、“妻”が自分の時間を取り戻したんだから」
ライナルトの言葉に、イザークも軽く頷いた。
「この数週間、君は戦っていた。誰とも争わず、誰も責めず、自分を差し出すことで守った。……少しは、休んでいい」
その言葉に、クラリスの胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「……ほんとうに、ありがとう。ふたりとも、いつもわたしをちゃんと見てくれて」
視線が重なる。言葉はいらない。
静かで、あたたかな、たった三人の時間が流れていた。
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その夜、クラリスは自室のバルコニーから夜空を見上げていた。
空には満ちかけた月。王都の灯りがほのかに滲む。
「……しばらくは平穏が続くでしょう。けれど、きっとまた次が来るわ」
誰にともなくつぶやく。
だけど、それでいい。
平穏は“終わるからこそ価値がある”。
その刹那を抱きしめるように、クラリスは胸の前で指を組んだ。
足音がして、後ろに誰かが立った。
振り返るまでもなく、すでに分かっていた。
イザークとライナルト。
ふたりの気配は、もはや身体の一部のように染みついている。
「……お茶にしよう。今夜は眠れる気がしない」
「なら、君の好きな蜂蜜入りで」
「私が入れる。……たまには、男の腕も頼りになると証明しないとな」
クラリスは振り返って、穏やかに微笑んだ。
外交という戦が去った今、王城に残ったのは、かけがえのない静けさだった。
それは休息であり、再始動のための“息継ぎ”。
そしてまた、新たな波が訪れる日まで――
彼女たちはこの一瞬を、ただ穏やかに生きる。




