第四十六話 牙を隠す微笑
その日、王城の周辺は春の陽気に包まれ、ほんの少し気が緩むには十分な気候だった。
外交視察の一環として、各国使節団の一部には“王都文化視察”の名目で、王城外の街並みや名所の案内が組み込まれていた。
そして案内役には、当然ながらクラリス・セラフィナ女伯爵が選ばれていた。
「こちらが、王都でも最も古い噴水広場になります。石碑には、建国時の神話が刻まれておりまして……」
クラリスは、柔らかな声で由緒を説明しながら、使節たちの表情の変化をさりげなく観察していた。
だが、気配は静かに乱れ始めていた。
路地の奥、僅かに空気が張り詰める。
その違和感に気づいた時には、すでに遅かった。
「っ……!」
クラリスの足元が不意に掬われ、視界が一瞬暗転した。
だが叫び声は出さなかった。胸元で魔力の触媒が震えた瞬間――
上空から閃光のように白い影が舞い降りた。
「――ポンちゃん!」
それはホワイトグリフォン。
クラリスがかつて魔法訓練中に助けた、前世のペットの生まれ変わりであり、今では王城内でも姿を見る者は少ない“幻獣”のひとつ。
光の粒をまといながら、目にも留まらぬ速さで襲撃者の頭上をかすめ、地面に降り立ったその瞬間、鋭い鳴き声が路地に響き渡った。
襲撃者の一人が動きを止め、もう一人は反射的に後退った。
だがそれも一瞬――ポンちゃんの前足が地を鳴らした次の瞬間には、ふたりの男は逃げるように闇の中へと溶けていった。
「……ごめん、ポンちゃん。もう少しで自力で……」
クラリスは小さく笑いながら、傷ついた左手を握りしめた。血がにじんでいる。だが、それを顔に出すことはなかった。
すぐに駆けつけた護衛団がその場を制圧し、使節たちは別ルートで城へ戻された。
その夜、王城は一気に緊張を増した。
王の判断で、クラリスは“保護対象”として城内の深部、魔法師団管轄の結界付き特別居室へ移された。
王城内の警備は従来の倍に増強され、使節団関係者の出入りも一時的に制限された。
マーレン、サダール――どちらも動揺していた。
誰が仕掛けたのか、王国側は明言しなかった。だが、あの状況で偶然の犯行と受け取るほど、外交の場は甘くない。
特に、ホワイトグリフォンという“伝説級の魔獣”がクラリスに従っていると明確になったことで、両国の関心はますます高まっていた。
「……あの幻獣を手懐けているというのか? 人前に現れることすら稀な存在だぞ……」
「怪我までしたというのに、あの落ち着き……。まるで、最初から計算していたような振る舞いだ」
ささやき合う外交官たち。
その疑念の裏には、妙な焦りがあった。
そう――クラリスには、もう“交渉の余地”がないのだと気づき始めていた。
彼女は怪我を負い、保護され、表に出る機会を失った。
それは“王国としての対応”であり、もはや個人に話を持ちかける隙はなくなったという意味でもある。
それでも――何も決まっていない。
クラリスは、ただ静かに、深部に隠された部屋で、傷を癒しながら報告書に目を通していた。
「怪我をしたわたしが、もう接触できない存在になったことで、彼らがどう動くか」
声に出さずとも、その思考は冷静だった。
誰にも読まれないように、誰にも悟られないように。
この状況すべてが“作戦”であるなど、誰にも気づかせないまま。
イザークとライナルトだけは、その沈黙の奥にある“策”を理解していた。
彼女がわざと単独行動に出たこと、そしてあの路地の構造と警備の死角――
偶然があまりにも整いすぎていた。
「……あいつ、怖いくらい冷静だったな」
「でも、だからこそ……誰にも触れさせない」
ライナルトの低い声に、イザークが眼鏡の奥で瞳を光らせた。
この件以降、サダールもマーレンも、表立った交渉を持ちかけてこなくなった。
滞在はあと数日。しかしその日程の大半が、王国側の“保安上の都合”により、限定的に制限されることとなった。
交渉は、沈黙のまま終わっていく。
そして誰も知らない。
その沈黙こそが、クラリスの描いた結末だったことを――




